古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物だった。ところが、彼が生きた時代が、一時、天皇家を凌ぐ権勢を誇った蘇我本宗家が勢いを失った末期、そして滅亡時期と重なったために、悲劇的な最期を遂げることになった。蘇我本宗家という、頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退しても“魔”の手から逃れることはできず、彼は不幸にも異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのだ。

 古人大兄皇子の生年は不詳、615年(推古23年)(?)ごろともいわれる。没年は645年(大化元年)。母は蘇我氏の娘、蘇我法提郎女(ほていのいらつめ)。娘に天智天皇の皇后となった倭姫王がいる。古人皇子・古人大市皇子、吉野太子とも称された。

 皇極天皇の後継天皇に、大臣の蘇我入鹿(いるか)は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を擁立しようと考えた。そのため、入鹿は有力な皇位継承資格者だった山背大兄王の存在が邪魔になった。そこで643年、入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼした。これによって、聖徳太子一族の血脈は絶えた。山背大兄王の死によって、古人大兄皇子のライバルはいなくなり、蘇我本宗家に何事もなければ、すんなり古人大兄皇子が皇位に就くはずだった。ところが、対抗勢力の大胆な蘇我本宗家討滅計画が秘密裏に進められていた

 645年、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行われた。このとき、古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。いわゆる「乙巳(いっし)の変」だ。ショッキングな事件を目のあたりにした古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り、「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言ったとの記録がある。入鹿が殺害されたとの知らせを受けて、入鹿の父、蝦夷(えみし)も抗戦は利なしと判断。蝦夷は自邸を焼いて、自殺。こうして栄華を誇った蘇我本宗家は滅亡した。その結果、古人大兄皇子は、強力な後ろ楯を失ってしまった。

 「乙巳の変」後、古人大兄皇子には次から次に、巧妙な“魔”の手が襲い掛かる。皇極天皇の後を受けて皇位に就くことを勧められたのだ。だが、これを“罠”と見た古人大兄皇子は、それを断り、出家して吉野へ隠退した。これで危機を脱出したかにみえたが、追撃の手が緩められることはなかった。吉備笠垂が、古人大兄皇子が蘇我田口堀川などと改新政権の転覆を企てている-と密告したのだ。これを受けて645年、中大兄皇子は古人大兄皇子に追っ手を差し向けた。詮議のため捕らえるだけではなかった。皇子は中大兄皇子が差し向けた刺客により殺害された。

 この後、中大兄皇子は有間皇子(孝徳天皇の皇子)、そして改新政権の右大臣、蘇我倉山田石川麻呂らを、相次いで“謀叛”のかどで殺害あるいは自決に追い込んでいる。いずれも、きちんとした詮議もせずに、後顧の憂いを失くすために、死に追いやっているのだ。吉備笠垂の密告も謎だ。果たして本当に改新政権転覆の企てがあったのかどうか、不明だ。強引に嫌疑をでっち上げて、ターゲットの人物を罪人に仕立て上げたとみることができるのだ。

(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、遠山美都雄「中大兄皇子」、関裕二「大化の改新の謎」