松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

 桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は、1864年(元治元年)、京都所司代に任命された。このとき彼は、まだ19歳だった。その若さでこういう重要なポストに就けられたのは、何といっても実兄の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職を務めていたことによる。しかし、確かに兄の縁と、出自が名門だったからこそ、用意された試練だったかも知れないが、このポストに就いたことによって、彼はその後、過酷な、あるいは悲劇的な体験を余儀なくされることになった。定敬は、兄・容保とともに最後まで徳川家のために戦おうとしたが、戦意喪失した前将軍・徳川慶喜につき従ったが故に、“敵前逃亡”という不名誉な敗軍の将として、後世に記憶されることになった。

 松平定敬は美濃国高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがいる。江戸市谷の高須藩江戸屋敷で生まれた。幼名は銈之助。定敬の生没年は1847(弘化3)~1908年(明治41年)。

 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こった。このとき、慶喜は風邪をひいて大坂城で寝ていた。後に彼が語ったところによると、「自分はあのとき風邪をひいて熱を出していた。部下を止めようと思ったが、いくら言っても聞かないので、うっちゃらかしておいた」という。これが徳川軍団のトップの言葉だった。無責任極まりないものだ。そして、1月5日、慶喜は決断した。彼は松平容保・定敬兄弟、板倉勝静(いたくらかつきよ、老中首座)、永井尚志(ながいなおむね、大目付)など数人の大名に供を命じ、夜、密かに城を抜け出し大阪湾に停泊していた幕府艦隊の一軍艦「開陽」に乗り込み、江戸に向かった。旧幕府首脳部の敵前逃亡だった

 定敬はこのとき何度も後ろを振り返った。戦線に残す部下が心配だったからだ。兄容保に「我々は残るべきではないでしょうか。部下を見捨てて江戸に戻るのは、気が引けます」といった。容保も「ひとまず江戸に行こう。江戸城で上様(慶喜)に、徹底抗戦の決断をお願いしよう。江戸城は無傷だし、榎本武揚率いる幕府艦隊も無傷だ。必ず勝てる」といった。定敬はその言葉を信じ、従ったのだ。

 定敬は、兄の容保とともに1月12日江戸城で、「江戸城で薩長軍を迎え撃ち、徹底的に殲滅いたしましょう」と慶喜に迫った。前勘定奉行・小栗上野介も同じだった。海軍総裁榎本武揚も同じ主戦論だった。小栗は戦略を立てた。「残った陸軍を至急、小田原に集結させる。無傷な榎本武揚の艦隊を、駿河湾に向ける。東下してくる薩長軍を、箱根の山と駿河湾から挟み撃ちにして、砲撃を加えれば殲滅できる」というものだ。榎本は賛成した。

 しかし、肝心の慶喜には、もうそんな気はなかった。主戦論者が次々とまくし立てると、慶喜は露骨に嫌な顔をした。そして、会議の場から去ろうとした。定敬や小栗はそれをとどめて、「上様、ご決断を」と迫った。会議では、勝海舟のような恭順論者もいた。「小栗殿や、あるいは松平様方(容保・定敬兄弟)のおっしゃることは、確かに一理はあります。が、肝心の天のときは、すでに新しい潮をこの江戸に押し寄せさせようとしております。これに逆らうことはできません。この際は、上様のご意向を尊重して恭順謝罪すべきです。ただし、それにはこちら側の言い分が通るような条件を出すべきでしょう」

 勝のこの発言を聞いて、主戦派は激昂した。もともと、主戦派は勝が嫌いだ。中には、「勝は薩摩に通じて、徳川幕府を滅ぼした」と裏切り者視している者もたくさんいた。定敬も怒った。「貴様如きが何をいうか!薩長に通じて、幕府を売り、上様を今日の窮境に押しやったのはその方ではないか!」と息巻いた。勝は黙って定敬を見返し、それ以上、何もいわなかった。

 後に福沢諭吉が書いたものによれば、このころの会議で議論をしているのはごく一部で、大半の武士は大広間の隅に転がって酒を飲むような不謹慎なものもいたという。全体に徳川武士団はやる気を失っていた。それほど堕落していたのだ。その中で、松平容保・定敬兄弟は「あくまでも徳川家に殉ずる」という純粋な考えを持っていた。徳川家に殉ずるのであって、徳川幕府に殉ずるのではない。このへんのけじめのつけ方が、幕府の役人たちにとっては、多少距離を置くものだったろう。

 2月12日、慶喜は「私は謝罪恭順の証を立てるために、江戸城を出て謹慎する」と宣言した。謹慎場所は、東叡山上野寛永寺と定めた。そして、主戦派に対し、「城を出るように」と命じた。たちまち抗議する容保や定敬、小栗、榎本たちには、慶喜は冷たい目を向けた。「松平容保は会津に戻って謹慎せよ。松平定敬は桑名に戻って謹慎せよ。小栗上野介は領地に戻って謹慎せよ。榎本は艦隊が動揺しないようにこれを鎮め、やがてくる政府軍の指示を待つように」とこと細かく指示した。君命だ。不満だったが、定敬もハッと平伏した。しかし、彼には桑名に戻る気はなかった。

 定敬は桑名藩の飛び地がある越後柏崎へ行くことに決めた。幕府から預かっている領地を合わせると10万石ぐらいになった。「至急資金を調え、藩兵を動員して徹底抗戦を貫きます」と兄・容保に告げた。「分かった。私も会津に戻って、至急軍備を固める。ともに徳川家のために戦おう」と改めて誓い合った。

 ただ、この時点の徳川家は決して慶喜のことではなかった。徳川三代将軍・家光の異母弟、保科正之を会津松平家の始祖とし、「会津保科家は、他の大名家とは違う。とりわけ将軍家に忠節を尽くす精神を養わなければならない」との訓戒を遺した正之の精神が、この兄弟にはまだ根強く息づいていた。

 柏崎での抗戦は決めたが、定敬は鳥羽伏見の戦いで藩士を置き去りにしたまま大坂城から脱出したことが、ずっと心のわだかまりになっていた。藩のトップとして部下を置き捨てにしたことを、自分なりに実に見苦しく卑怯だと自身を責めていた。この後の松平定敬の行動は流浪のひと言に尽きる。桑名軍は柏崎では家老・河井継之助が率いる長岡軍と協同して政府軍とよく戦ったが、敗れた。定敬は兄が籠もる会津城に向かった。そして、ここでも攻防戦に参加した。が、城が落ちる寸前に兄の口から発せられた「お前はここで死ぬことはない。城から逃れろ」の言葉に、「それでは、北の果てまで薩長と戦い抜きます」と宣言して会津戦から離脱した。

 仙台に着くと、たまたま榎本武揚の艦隊がいた。榎本は定敬を歓迎した。「これからエゾへ向かうところです」と榎本は言った。前老中の板倉勝静、肥前唐津藩主の世子・小笠原長行など多くの旧幕勢力が乗船していた。新しく定敬一行を加えて、榎本艦隊は仙台の港を離れ、一路、箱館に向かった。ここに上陸し、五稜郭に入った。明治2年4月、五稜郭に対する攻撃が始まった。定敬は一軍を率いて戦った。しかし、1カ月余り経つと劣勢になり、落城は時間の問題となった。このとき、松平定敬は何を思ったのか、城が落ちる寸前に、失礼するといって五稜郭を出た。そのまま横浜に向かった。ここで自首し、新政府から「長預け」の処分を受けた。彼の領地、桑名藩も11万石から6万石に半減された。明治5年まで、彼は禁固された。そして、罪を許された。

 明治10年の西南戦争には、旧桑名藩士によって編成された征伐軍が、意気軒昂と九州に向かっていった。松平定敬の、薩摩藩に対するせめてもの報復だった。定敬はその後、日光東照宮の宮司などを務めて明治41年に死んだ。

(参考資料)童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「王城の護衛者」