大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、大津皇子の同母姉だ。673年から伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)を務めていたが、天武天皇崩御がこの大伯皇女はもとより、大津皇子を含めた姉弟の不幸を呼ぶ引き金となった。天武天皇病没後の政情不穏な中で、天武の皇后・持統天皇が仕掛けた策謀にかかり、弟・大津皇子が謀反の罪で処断されると、大伯皇女も斎宮を解かれ、表舞台から姿を消した。大伯皇女の生没年は661年(斉明天皇7年)~702年(大宝元年)。

 大伯皇女は斉明天皇の時代、中大兄皇子が実質上、指揮し、百済救援軍を派遣するため天皇家一族が筑紫へ向けて西下した際、その途中、備前国大伯(おおく)(岡山県邑久郡、おくぐん)の海上で生まれたため、そこからこの名が付けられた。「大伯」は「大来」で表記されることもある。大伯皇女・大津皇子の姉弟が、なぜ持統天皇に嫌われ、排除されるのかといえば、二人はいまは亡き、持統天皇の同母姉・大田皇女の子だからだ。

    とりわけ、弟の大津皇子は眉目秀麗で文武両道に優れていたのに対し、持統天皇の息子、草壁皇子は虚弱体質で凡庸だったと伝えられる。そのため、持統天皇にとって大津は息子を脅かす存在だったため、実子・草壁を皇位に就けたいと願う持統天皇の、排除のターゲットとなったのだ。

   歴史に「たら」「れば」をいっても仕方がないのを承知で、あえていえば、成り行きに任せれば、持統天皇誕生の目はなかった。大伯皇女・大津皇子の姉弟の母・大田皇女は二人の幼少時亡くなっているが、もし健在なら当然、大田皇女が皇后となっているはずで、大津が皇太子となり、天武天皇の後継となっていただろう。

 大伯皇女は673年(天武天皇2年)、父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)と定められ、翌674年、伊勢国に下向した。わずか13歳のときのことだ。これにも皇后・持統の意向が働いているとみられる。厄介払いされたのだ。都にとどまり、結婚し子をもうけられると、実子・草壁皇子の子の時代にライバルが増えてしまうからだ。以来、彼女は12年間にわたって斎宮を務めた。

686年(朱鳥元年)自分の運命を予感した大津皇子は、伊勢神宮・斎宮のたった一人の姉、大伯皇女に会いに行く。姉弟は久しぶりの、そして最後の別れを惜しんだ。幼くして母を失った二人きりの同母きょうだいの心の結びつきはよほど強かったのだろう。伊勢から都へ帰る大津皇子を見送るときに詠んだ、大伯皇女の歌が次の一句だ。

「わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」

10月3日、大津皇子が謀反人として死を賜った後、大伯皇女は11月17日に伊勢神宮・斎宮の任を解かれ退下し、都に帰った。都に戻った大伯皇女が詠んだ歌2首を紹介する。

 「神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君あらなくに」

 歌意は、神様がいる伊勢にいれば良かった。あなたがいない所に帰ったと

て、何になりましょう。

 「現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは 二上山を同母弟(いろせ)と

我が見む」

 歌意は、もはや生きているとはいえない私です。明日からはあなたが眠る

二上山をあなただと思って眺める暮らしになります。

 『万葉集』には大伯皇女の短歌6首が収められている。いずれも無残な死を遂げた弟・大津皇子に対する深い愛情を歌いこんだ秀歌だ。これ以後、大伯皇女がどうなったか、分かっていない。結婚もしなかったとみられる。正史には41歳で亡くなったことだけが記録されている。天武朝から持統朝へ移行した途端、手の平を返したように、謀反人に仕立てられた皇子・大津、そしてその姉・大伯皇女の無念さが伝わってくる。

(参考資料)黒岩重吾「天翔る白日 小説 大津皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」