斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

 斎宮女御(さいぐうのにょうご)は、父は醍醐天皇の第四皇子・重明(しげあきら)親王、母・左大臣・藤原忠平の二女・寛子(かんし)との間に生まれ、当初、徽子女王(きしにょおう)と呼ばれた。が、8歳から10年間、伊勢神宮の斎宮を務めたため、都へ戻って3年、20歳で叔父にあたる村上天皇の女御として入内したが、後世、その前歴ゆえに「斎宮女御」と称された。また、斎宮女御は三十六歌仙の中でも5人(伊勢・小野小町・斎宮女御・小大君=こおおきみ・中務=なかつかさ)しかいない女流歌人の一人で、しかも唯一の皇族歌人だった。歌才に優れていた彼女は、絵もよくし、琴の名手でもあった。

 斎宮女御の生没年は929(延喜7)~985年(寛和元年)。936年(承平6年)、徽子女王は8歳で朱雀天皇の斎宮に卜定(ぼくじょう=吉凶を占い定めること)、母・寛子御息所の服喪で退下(たいげ)するまで10年間その任を務めた。未婚の皇女が都を遠く離れた伊勢神宮で、ひたすら神に仕える生活を送るのは、哀れを誘うことも多い。しかし彼女の場合、係累の力関係は並ではなかった。当代の権勢を誇る関白・藤原忠平の孫である徽子女王は、都へ戻って3年、20歳で村上天皇の女御として入内することができた。その住まいから承香殿(しょうきょうでん)女御とも呼ばれた。

 入内の後朝(きぬぎぬ)、村上天皇は例に従い、女御に歌を贈る。

 「思へどもなほぞあやしきあふことの なかりし昔いかで経つらむ」

 逢ってあなたを知る昨夜まで、私がどうして過ごしてきたのか。それが不思議におもわれるほど、あなたは素敵な人だ。これに対する女御の返しは

 「昔ともいまともいさや思ほへず おぼつかなさは夢にやあるらむ」

 昔なのか今なのか、いずれにしてもこの切なさは、この想いがきっと現実ではなく、夢のできごとだからなのでしょう-というものだ。こんな愛の交歓があって翌年、規子(きし)内親王が誕生している。

 しかし、そんな時期は長くは続かない。天皇の渡りが途絶えた寂しい日には、琴の名手でもあった彼女は、ひとり琴を爪弾くこともあった。ある秋の夕暮れ、妙なる琴の調べに誘われて天皇が承香殿に赴いてみると、彼女はそばに人の気配があるのにも気付かず、琴を弾きながら次の歌を吟唱していた。

 「秋の日のあやしきほどの夕暮れに 荻(おぎ)吹く風の音ぞきこゆる」

 秋の日、とりわけ人恋しい想いのする夕暮れに、お慕い申し上げる方は来てくれない。私のもとに訪れるのは、ただ荻の葉を吹く風の音だけ…。哀切なる想いがひしひしと伝わってくる。

 村上天皇崩御後、今度は規子内親王が円融天皇の斎宮として卜定、977年(貞元2年)、伊勢へ赴くことになった。わずか8歳で斎宮となった徽子女王=斎宮女御とは異なり、29歳になっての斎宮就任は、有力な後ろ楯がない薄幸を意味する。気が付けば華やかな係累は、いつの間にか遠い過去のものとなっていたのだ。そこで、斎宮女御は意を決して、一緒に伊勢へ行き、その寂しさを慰めた。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」