穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」