大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪・難波宮跡公園で移動舞台で開放的な野外文楽 2015年10月18日 大阪・難波宮跡公園で移動舞台で開放的な野外文楽 人形浄瑠璃文楽の魅力を広くPRしようと移動舞台で各地を回る「にっぽん文楽」が10月17日、大阪市中央区の難波宮跡公園で始まった。日本財団によるプロジェクトで、総ヒノキ造りの組み立て式舞台を設置。今年3月に東京・六本木で初公演を行い、今回初めて文楽の本拠地、大阪で開催となった。開放的な野外で飲食も同時に楽しめるのが特徴。 演目は道頓堀川開削400年を祝う「二人三番叟(さんばそう)」と「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)奥庭狐火の段」。おにぎりやカップ酒を手にする観客もいて、ビルを背景にちょっと変わったロケーションでの古典芸能を楽しんでいた。20日まで。1日2回公演、2000円(全席自由)。同プロジェクトは2020年の東京五輪まで全国を回る予定。
  • 関空 上期旅客1198万人で過去最高 アジア路線拡充奏功 2015年10月18日 関空 上期旅客1198万人で過去最高 アジア路線拡充奏功 新関西国際空港会社が10月16日発表した2015年度上半期(4~9月)の運営概況(速報値)によると、関西国際空港の旅客数は前年同期比23%増の1198万人となり、半期として過去最高となった。 訪日観光客の増加を受け、中国などアジア路線の拡充が進んだことが貢献した。これまでの最高は2001年度上半期の1057万人だった。 国際線の旅客数は28%増の839万人。うち外国人が65%増の523万人と全体を押し上げた。日本人は6%減の298万人。国内線は12%増の359万人。 大阪(伊丹)空港の旅客数は1%減の735万人だった。 同時に発表した9月の旅客数は関西国際空港が前年同月比21%増の202万人で、9月としては最高だった。大阪空港は1%減の127万人だった。
  • 「大・大阪の創生」公約 栗原氏が原案 大阪府知事選 2015年10月17日 「大・大阪の創生」公約 栗原氏が原案 大阪府知事選 大阪府知事選に出馬する自民党の栗原貞子府議(53)の公約原案が判明した。「大・大阪の創生」を柱に据え、経済成長を最重視。実現に向けた方策として「新幹線ネットワーク構想」や「関西国際空港、阪神港の機能強化」など挙げている。再選出馬する松井一郎知事が掲げる「大阪都構想」は大阪市解体を前提とするのに対し、栗原氏は大阪市を経済成長の核にすることも盛り込んだ。来週にも発表する。
  • 近畿の上半期マンション販売2年連続で減少 2015年10月17日 近畿の上半期マンション販売2年連続で減少 不動産経済研究所が10月15日発表した近畿2府4県の2015年度上半期(4~9月)のマンション発売戸数は、前年同期比7.0%減の8889戸となり、上半期としては2年連続で減少した。人件費高騰などによる建設単価上昇を背景に、発売が控えられた。1平方㍍当たりの単価は8.7%高の57万2000円。契約率は73.9%と70%は上回った。地域別の発売戸数は大阪市が15.8%増の3509戸、神戸市は41.5%減の1039戸、京都市が43.7%減の708戸だった。 同時に発表した9月の近畿の発売戸数は前年同月比1.7%減の1798戸で3カ月連続の減少となった。
  • ドン・キホーテ 10/30大阪駅に初の駅ナカ店舗 2015年10月17日 ドン・キホーテ 10/30大阪駅に初の駅ナカ店舗 ドン・キホーテはジェイアール西日本デイリーサービスネット(兵庫県尼崎市)と組み、大阪駅構内に初の駅ナカ店舗となる「エキドンキ エキマルシェ大阪店」を10月30日、オープンする。 駅ナカの立地を意識し利便性の高い商品と、従来のディスカウントバラエティショップ型の商品を融合する。今後、同店でノウハウを蓄積し、駅ナカ出店も視野に入れていく。 売り場面積は約393平方㍍。食品、化粧品、家電製品、衣料品を扱うが、店頭には季節品のイベントグッズや旬の商品を充実し、商品政策の変化にスピード感を持たせるとしている。また、訪日外国人客の増加に対応し、免税品やお土産品も扱う。
  • 大和ハウス 500億円投じ大阪・茨木市で大型産業団地 2015年10月16日 大和ハウス 500億円投じ大阪・茨木市で大型産業団地 大和ハウス工業は10月15日、大阪府茨木市で企業の物流や製造に関する施設を集めた産業団地「茨木北ロジスティックテクノパーク」の開発を始めたと発表した。2016年春ごろの販売開始を目指す。事業費500億円を投じて茨木市内の約47万平方㍍の土地を造成する。 大阪市内まで車で30分ほどの立地を生かし、ネット通販の普及などで急速に高まる物流施設の需要を取り込む。都心近くで、民間主導で大型団地を開拓するのは珍しい。即日配送の範囲拡大で、ネット通販利用者の利便性も高まりそうだ。
  • 爆発物も透視 ボディスキャナー 関空で試験運用 2015年10月16日 爆発物も透視  ボディスキャナー 関空で試験運用 国土交通省は10月14日、航空機に搭乗する乗客の着衣の異物を短時間で探せる「ボディスキャナー」を、関西国際空港で報道陣に公開した。15~26日に関空で試験運用する。金属探知機で反応しなかった爆発物も検知できるという。 公開された装置は、一人が入れる大きさの円柱形。「ミリ波」と呼ばれる電波を乗客に照射し、異物があれば10秒程度でモニター画面の人の形の絵に表示される。金属製ではない刃物も検知できるという。 成田空港で2010年にあった導入試験では、モニター画面に体のラインがそのまま映し出される問題があったが、新しいスキャナーはその点が改良された。
  • 「商都・大阪にTTP本部設置を」アジア太平洋研究所 2015年10月16日 「商都・大阪にTTP本部設置を」アジア太平洋研究所 一般財団法人「アジア太平洋研究所」(APIR、大阪市北区)は10月14日、日本を含む12カ国が大筋合意に達した環太平洋パートナーシップ協定(TTP)の実施に向け、同市内にTTP本部を創設するよう求める提言を発表した。 本部組織の規模を年間予算100億円、職員数300人程度と想定。東京一極集中の是正が必要とする一方、「大阪は歴史的にアジアとの文化的つながりが深く、経済的にもアジア貿易への依存度が高い」と関係の深さとメリットを強調している。
  • 北陸新幹線未着工区間のルート「第4案」評価 関経連 2015年10月15日 北陸新幹線未着工区間のルート「第4案」評価 関経連 関西経済連合会の森詳介会長は10月13日、北陸新幹線の未着工区間(福井県・敦賀-大阪)のルートを巡る議論に関し、従来あった3案に加え、JR西日本が検討している福井県小浜市と京都市を経由する案も評価に値するとの認識を示した。森会長は「4案が俎上に上っている検討はスタートした段階で、まだ(どの案を支持するか)決めていない」とし、建設費や経済効果などを比較検討し、関経連としての考え方をまとめたいと語った。
  • ガ退治に黄色LED 広島県・シャープが共同開発 2015年10月15日 ガ退治に黄色LED 広島県・シャープが共同開発 広島県立総合技術研究所農業技術センターとシャープは10月13日、夜行性のガによる食害の防止を目的とし、キクなど光に敏感な農作物に使える照明を開発したと発表した。ガが嫌う黄色LED(発光ダイオード)を点滅させ、光が作物の生育に悪影響を与えないようにした。シャープが製品化し2016年春から販売しt、2017年度で売上高10億円を目指す。 シャープは広島県三原市にLED製造拠点の工場があり、06年度から県と共同開発。0.1秒点灯し、0.4秒消える点滅を繰り返すことで、キクの開花に影響せず、黄色の光を嫌うガを寄せ付けない効果を両立させた。 10㌃当たりの消費電力は黄色蛍光灯(40㍗)の約13分の1。キクのほか光に敏感なイチゴ、ホウレンソウなどにも活用できるという。シャープによると、電球タイプで1個5000程度を予定。農業だけでなく、イベント会場での活用も視野に、様々な形状の商品も検討する。
  • エキマルシェ新大阪 12/21全面開業 全36店舗に 2015年10月14日 エキマルシェ新大阪 12/21全面開業 全36店舗に JR西日本の子会社、ジェイアール西日本デイリーサービスネット(兵庫県尼崎市)は10月13日、新大阪駅の駅ナカ商業施設「エキマルシェ新大阪」を12月21日に全面開業すると発表した。神戸牛のステーキ弁当などを販売する9店がオープンし、全36店舗出そろう。地元名物や弁当などを販売する26店が、今年3月に先行開業していた。11月には新たにカフェが開業。全体の店舗面積は約2200平方㍍で、JR西日本管内の駅ナカ商業施設としては最大規模。年間約70億円の売り上げを目指す。
  • 栄養素まるごと摂取 シャープ11/5から電気無水鍋発売 2015年10月14日 栄養素まるごと摂取  シャープ11/5から電気無水鍋発売 シャープは11月5日から、水や火を使わずに肉じゃが、おでんをはじめ煮物などを自動調理する業界初の電気無水鍋「ヘルシオ ホットクック」を発売する。水を加えず調理するため、食材の栄養素を十分に摂取でき、本来のおいしさを味わえるという。想定価格は6万円前後(税別)。訪日観光客による需要も見据えて月産4000台を計画。将来は東南アジアなど海外でも販売したい考えだ。 煮物のほか、カレー、ビーフシチュー、八宝菜など約100種類のメニューを用意。食材から出る蒸気を水分に変えるため水を加える必要がないうえ、メニューに合わせて最適なタイミングで具材を自動でかき混ぜ、煮崩れを防ぎながら調理する。電気で加熱し圧力も加えて調理する炊飯器の技術を応用した。
  • 8月平均客室稼働率95%と好調続く 大阪主要ホテル 2015年10月13日 8月平均客室稼働率95%と好調続く 大阪主要ホテル 大阪市内の主要13ホテルの8月の平均客室稼働率は、前年同月比2.1%高い95%だった。12カ月連続で前年実績を上回り、比較可能な2008年度以降では2013年8月(93.6%)を上回り、単月の稼働率は最高となった。アジアを中心とする訪日外国人客が増え続けているうえ、天候が安定し国内のレジャー客の利用も好調だった。 稼働率は13ホテルのうち11カ所で前年を上回った。客室数900超の大阪新阪急ホテルは稼働率が1.1㌽上昇の99.1%に達し、ほぼ満室の状態だった。JR大阪駅に直結するホテルグランヴィア大阪の稼働率は98.3%で2.6㌽上昇した。 帝国ホテル大阪の稼働率は3.4㌽上昇し91.6%。客室単価も3割上がり、単月の売上高として過去最高を記録した。中国と韓国からの宿泊客が3倍超、台湾が7割増などとなり、外国人客の比率が44%と16㌽高まった。
  • 産業革新機構がシャープ本体に最大2000億円出資検討 2015年10月13日 産業革新機構がシャープ本体に最大2000億円出資検討 経済産業省が所管する官民ファンドの産業革新機構が、経営再建中のシャープを支援するために出資を検討していることが10月10日分かった。金額は1000億~2000億円規模が想定される。一方、台湾の鴻海精密工業もシャープの液晶企業だけに出資する方向で協議に入っている。シャープは今後、両にらみの交渉を進める。
  • 万博公園に4万人収容の新スタジアム完成 ガンバ大阪 2015年10月12日 万博公園に4万人収容の新スタジアム完成 ガンバ大阪 大阪府吹田市の万博記念公園に完成したサッカーJリーグ、ガンバ大阪の新スタジアムで10月10日、竣工イベントが開催された。建設費を寄付した企業・サポーターらを対象に、4万人収容のサッカー専用球場が公開された。イベントでは大型ビジョンで遠藤保仁選手らのコメントの放映などがあった。発光ダイオード(LED)を利用した照明も点灯された。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。