大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 日本のコロナ感染者1,264人 1日で初の1,000人超え 岩手で初確認 2020年7月30日 日本の新型コロナウイルス感染者が全国で急増しつつある。都道府県のまとめによると7月29日、新たに発表された感染者は全国で1,264人に上り、1日の感染者が初めて1,000人を超えた。大阪府が221人と初めて200人を超えたほか、愛知県など全国の8府県で最多の感染者を確認した。また、岩手県で初めて2人の感染が発表され、全国の47都道府県すべてで感染が確認された。 この結果、国内の累計感染者は空港の検疫などを含め3万3,508人、クルーズ船の乗客・乗員712人を合わせ3万4,220人となっている。また、亡くなった人は国内で感染した人が1,006人、クルーズ船での乗船客13人の合わせて1,019人となった。 1,000人以上の感染者が確認されている都道府県は、東京都1万1,861人、大阪府3,651人、神奈川県2,354人、埼玉県2,196人、福岡県1,635人、千葉県1,562人、愛知県1,452人、北海道1,404人、兵庫県1,105人の9都道府県に上っている。
  • くら寿司 すしカバーを紫外線で殺菌 10月までに全店に導入 2020年7月29日 回転すしチェーン大手のくら寿司(本社:大阪府堺市)は7月27日、新型コロナウイルス感染防止策の一環として回転するすしを覆う透明のプラスチックカバー(ポリカーボネート製)を紫外線で殺菌するシステムを「なんば日本橋店」(所在地:大阪市中央区)に導入したと発表した。 回転レーンが一周するごとに紫外線を浴びせる仕組み。実験では98%以上殺菌することができたとしている。今後全国各地の店舗へ順次拡大し、10月までに全店に導入する予定。
  • 大阪取引所「総合取引所」で始動 東京商品取引所から大半を移管 2020年7月28日 日本取引所グループ傘下の大阪取引所(所在地:大阪市北区)は7月27日、東京商品取引所から金や銀などの貴金属やトウモロコシ、ゴムなどの14品目を移し、様々な先物を売買できる「総合取引所」として午前8時45分からスタートした。これにより、国内初の42品目の総合取引所が誕生、投資家にとっては一つの口座で様々な先物を手軽に売買できるようになり、取引規模の拡大がどこまで図られるか注目される。
  • 新型コロナ関連経営破たん 全国44都道府県で350件に 2020年7月28日 東京商工リサーチのまとめによると、新型コロナウイルス関連による負債総額1,000万円以上の経営破たんは7月22日午後4時時点で、350件(倒産283件、準備中67件)に達した。経営破たんは和歌山県、鳥取県、高知県の3件を除く全国44都道府県で発生。 東京都が89件(倒産78件、準備中11件)と突出。次いで大阪府が32件、北海道20件、愛知県と静岡県がいずれも15件と続き、以下、10件以上の発生が9都道府県となっている。業種別では飲食業が最多の53件、次いでアパレル関連が43件、宿泊業の43件と、これら3業種が突出している。
  • 近畿の新型コロナ新規感染 過去最多の215人”GoToトラベル”で 2020年7月28日 近畿2府4県で7月26日、新型コロナウイルスの新規感染者数がこれまでで最も多い215人に上った。感染が確認されたのは大阪府141人、兵庫県49人、京都府13人、和歌山県6人、奈良県5人、滋賀県1人。 近畿では24日に1日の感染者数として、これまでで最多の208人の感染者を記録したばかりだったが、あっさり更新した。政府の旅行需要喚起策の一環として実施されている”GoToトラベル”キャンペーンによる人の大幅な移動により、全国各地で過去最多の感染者数を記録する自治体が相次いでおり、当分予断を許さない状況が続きそうだ。
  • 規模縮小の「天神祭」本殿の神事を初のライブ配信 2020年7月27日 大阪夏の風物詩、大阪天満宮の「天神祭」は7月25日、無病息災を祈願して白木の神鉾を川に流す「鉾流神事」が行われたほか、天満宮の本殿での神事の様子が初めてインターネットでライブ配信された。 今年は天神祭のハイライトで、神様が年に1度、陸と船から地域を見回ったという故事を再現した「船渡御(ふなとぎょ)」や「陸渡御(りくとぎょ)」は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため中止された。大阪天満宮によると、1,000年以上の歴史がある天神祭で船渡御と陸渡御の両方が中止されるのは、戦争の影響を受けた昭和23年以来という。
  • 大阪府とNEC スマートシティ推進で協定締結 コロナ第2波に備え 2020年7月24日 大阪府と日本電気(本社:東京都港区、以下、NEC)は7月21日、新型コロナウイルス感染症の第2波に備え、スマートシティ推進を目的に同日、事業連携協定を締結したと発表した。医療・教育・商工等の行政分野において、対応力の強化を図るため、新しい生活様式の実践に向けてICT企業・団体との連携を推進していく。
  • ANA 関空発着の国内5路線の運航再開 「GoToトラベル」開始 2020年7月23日 全日本空輸(ANA)は7月22日、関西空港を発着する国内線の一部運航を再開した。観光需要の喚起策「GoToトラベル」の一環で、ANAが運航を再開したのは関西空港と札幌や沖縄県の石垣島などとを結ぶ国内線の5つの路線。ANAは新型コロナウイルスの影響で、およそ3カ月にわたって関西空港を発着するすべての便を運休していた。 関西空港では、LCC(格安航空会社)のピーチ・アビエーションも7月22日から国内線のすべての便を運航再開している。
  • 世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」堺市が最新技術で紹介する施設整備 2020年7月22日 堺市は、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」を最新のデジタル技術を駆使して紹介する展示施設を整備することになった。同展示施設は、仁徳天皇陵とされる古墳近くにあるレストハウスを改修して、デジタル機器の導入などおよそ2億2,000万円をかけて整備し、2021年3月のオープンを目指すとしている。 同市は昨年、世界遺産に登録されたときから観光振興に役立てる計画だったが、古墳を俯瞰して見学できる場所がないなど課題もあり、古墳を空から見た映像を壁に映し出すなど、最新のデジタル技術を駆使して展示する施設を整備することになった。
  • 大阪・黒門市場がワンコインイベントで地元客呼び戻し図る 2020年7月18日 大阪市中央区の黒門市場で、黒門市場商店街振興会の有志らが7月16日、地元客や日本人観光客呼び戻しへ、ワンコイン(500円、100円)で楽しめる、市場ならではの新鮮な目玉商品を揃えイベントを開いた。このイベントは18日まで開かれ、その後も8月8日までの土曜日に開かれる予定。 新型コロナウイルスの影響で外国人観光客がほぼ姿を消した黒門市場。終日にわたる外国人観光客の往来で、地元客が立ち寄りづらくなっていた同市場は、今は閑散としてシャッターが下りた店舗も少なくない。こうした状況を何とか打開しようと企画されたのが今回のイベント。イベントにはおよそ170の店舗のうち72の店舗が参加。 「がんばろう大阪」などのスローガンを掲げても、顧客はありきたりのサービスでは来てくれないとの判断から、参加各店には地元客を呼び込むため知恵を出し、採算を度外視したサービスの提供を要請した。その結果、ふぐの刺身をはじめ、採算を度外視した商品群の店頭に並べ、あちこちで人だかりができ、早々に”売り切れ完売”の札が出されていた。 増え続けた外国人観光客の消費に照準を合わせ運営されてきた市場や商店街。新型コロナがまだまだ収束しそうになく、当面インバウンド需要が望めない中、周辺を含めた地元客や日本人観光客をどう呼び込むか?生き残りを懸け、商店主らの知恵の出しどころだ。
  • 出入国検査を1万3,000人規模へ PCRセンター9月にも設置へ 2020年7月17日 新型コロナウイルスとの共生社会を見据えた、出入国制限の緩和に向け、政府が水際対策として空港や都市中心部に設置を目指すPCRセンターは、1日あたりの検査能力を出入国者9,000人規模とする方針であることが分かった。検疫所の検査能力も増強し、合わせて出入国者1万3,000人程度まで拡大する方針。 センターの名称は「ビジネス渡航者PCRセンター」(仮称)とし、早ければ9月にも羽田、成田、関西の3空港の敷地内および東京都と大阪府の中心部各1カ所に開設する方針。政府が整備し、複数の民間検査機関が検査することを想定。
  • 日本版シリコンバレー整備へベンチャー拠点に4都市圏指定 2020年7月15日 日本政府は、米国のシリコンバレーのようなベンチャー企業の活動拠点となる都市を整備するため、海外からの投資や人材の誘致などを促進する「グローバル拠点都市」に、東京、愛知、大阪、福岡を中心とする4つの都市圏を指定することになった。グローバル拠点都市指定に先立つ政府の公募に17自治体から応募があった。 選考の結果、①東京都を中心に横浜市、茨城県つくば市などの近郊を加えた首都圏②愛知県と名古屋市、浜松市を合わせた中部地域③大阪市、京都市、神戸市の関西圏④福岡市-の4つの都市圏に決まった。また政府は、スマート農業や環境技術など特定分野のベンチャー企業の集積を目指す「推進拠点都市」に、札幌市、仙台市、広島県、北九州市を指定することにしている。
  • 2025年「大阪・関西万博」プロデューサー10人決定 2020年7月15日 2025年に開催される「大阪・関西万博」の実施主体、博覧会協会は7月13日、大阪市内で記者会見を開き、万博のプロデューサー10人を正式発表した。選ばれたのは建築家の藤本壮介氏、愛知万博でチーフプロデューサー補佐を務めた石川勝氏、映画監督の河瀬直美氏、メディアアーティストの落合陽一氏、生物学者の福岡伸一氏、アニメーション監督の河森正治氏、放送作家の小山薫堂氏、慶應大学医学部の宮田裕章教授、大阪大学の石黒浩名誉教授、音楽家の中島さち子氏の10人。 会場のデザイン・運営、8つのテーマ事業ごとに各1人が担当し、総合プロデューサーは決めない。アフターコロナの次代を見据え、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとする万博が、いわば”司令塔”の10人のプロデューサーのもと開催に向けていよいよ始動する。
  • 大阪府 ミナミにコロナの臨時検査場設置へ 黄色信号で対策強化 2020年7月14日 大阪府は7月12日、対策本部会議を開き、新型コロナウイルスの感染が大阪独自の感染対策基準「大阪モデル」で、府民に警戒を呼び掛ける黄色信号が基準に達したことを受けて、繁華街のミナミに臨時の検査場を設置し、対策を強化することを決めた。 また今回、府は浪速区の通天閣と吹田市の万博記念公園の「太陽の塔」をそれぞれ黄色にライトアップするほか、①「3密」で唾液が飛び交う環境を避けること②府が定めた「感染防止宣言」のステッカーのないバー、キャバクラ、ホストクラブなどの利用の自粛を求める-などを呼び掛けている。
  • 公益社 スマホ使用の「葬儀へのリモート参列サービス」本格導入 2020年7月13日 公益社(東京本社:東京都港区、大阪本社:大阪市北区)は7月10日、スマートフォンやタブレット使用による「葬儀へのリモート参列サービス」を本格導入すると発表した。新型コロナウイルス感染症の影響や、遠方に居住するため葬儀に参列できない人が、遠方から亡くなった方を弔う気持ちを表現できるサービスとして導入する。同社は年間1万件を上回る葬儀実績を誇る葬儀業界の大手。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。