月別アーカイブ: 2013年12月

宮本武蔵・・・ 『五輪書』の書き出し、武蔵複数説など数多い謎

数多い剣豪の中でも、二刀流の使い手といえば宮本武蔵をおいてほかにない。二刀流の祖といわれるのも十分うなずける。生涯で60数回の決闘はすべて勝った。佐々木小次郎との巌流島での対決は伝説化された武芸伝としても有名だ。ただ、本人の伝記には不明な点が多い。文武両道で天才肌といわれる武蔵の行動には常に謎がつきまとっている。果たして武蔵は本当に二刀流で戦ったのだろうか。そして、彼は伝えられるような剣豪だったのだろうか。

そもそも宮本武蔵という人物が、我々の脳裏に強く印象づけられているのは、作家の吉川英治氏が書いた不朽の名作「宮本武蔵」の影響が大きい。小説は関ケ原の合戦後から始まり、巌流島の決闘をクライマックスとして終わっている。だが、吉川氏本人が語っているように、これは史実を明らかにするのが目的ではなく、剣の道に己を求めていく一人の男をテーマにした歴史小説であって、明らかにフィクションだった。

では、本当の武蔵はどのような人物だったのか。これまで多くの歴史家が重視してきたのは武蔵自身が著した兵法書「五輪書」だ。しかし実は、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、直筆のものは存在しないのだ。さらに、「五輪書」の書き出し部分に、本当に武蔵自身が書いたのか信じ難い部分がある。「自分は13歳の時から29歳までの間に60数回の決闘をしたが、一度も負けたことがない。これは自分が兵法を究めたのではなく、天才だったからだ」とあるのだ。剣術指南として大名に仕官するチャンスを意識して、自分の腕を誇張してこのように表現したと取れなくもない。だが、果たして自分で自分のことを天才と表現するだろうか。まずここに疑問を投げかけざるを得ない。

さらに古文書をもとに武蔵の人物像に迫ろうとすると、いくつも違う名前の武蔵が出てくるのだ。「新免武蔵(しんめんたけぞう)」というのが本名だが、彼をよく知る旗本の渡辺幸庵は、彼のことを「竹村武蔵」と書き残しているのが代表的な例だ。

疑問はまだある。武蔵の墓が熊本に5つもあるのだ。熊本は彼が最後の人生を過ごした細川家のあるところで、現存している「五輪書」もここで書き写されていることを考えれば、武蔵が相当手厚いもてなしを受けていた場所と見て間違いはないはずだ、だから、死後に供養される墓もきちんと作られているに違いない、と見ていい。しかし滝田町弓削には「新免武蔵居士」の名前が刻まれた石塔があり、島崎町には武蔵のことを指す「貞岳玄信居士」の名前の入った墓が、また細川家歴代の墓のある場所にも「武蔵の供養塔」が建っているのだ。このほか、小倉手向山、宮本村の平田家の墓地にも武蔵が眠っているといわれているのだ。こうなると、複数の武蔵がいたのではないかと考えざるを得ない。

武蔵複数説はまだある。彼が自らの刀さばきを二天一流(にてんいちりゅう)と呼び、二刀流という言葉も含めて自らが考案したものとしているが、歴史家によると、この二天一流の呼び方は晩年になってからで、それ以前に二刀流で円明流という技があったのだ。それなら円明流のルーツをたどれば武蔵に行き着くはずだ。ところが、この流派の創始者をたどってみると2人の武蔵が登場する。1人は宮本武蔵守吉元で、もう1人は宮本武蔵守義貞だ。どちらも実在の人物なら、武蔵という名の2人の二刀流の達人がいたことになる。

謎の列挙はこのくらいにして、限られた史料に基づいて終盤の武蔵の人生をたどってみよう。彼が藩主・細川忠利の客分として熊本にきたのは1640年(寛永17年)、57歳のとき。剣を通して人生を探求し続けた武蔵は、晩年までの5年を熊本で過ごしている。

「五輪書」は1643年(寛永20年)、武蔵60歳のとき熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」に籠って、書き綴ったもので、完成は1645年(正保2年)春。武蔵の死は同年5月。「五輪書」は死の間際まで筆を執り続けた武蔵執念の書だ。地・水・火・風・空の5巻から成り、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」は駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を書いたもので、「兵法を究めることが善の道」と説いている。
武蔵は「兵法の道」の極意を究めたほか、「詩歌」「茶道」「彫刻」「文章」「碁」「将棋」などにも秀でた才能を発揮している。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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山田長政 ・・・徳川二代将軍秀忠の時代、シャムで老中並み地位に

山田長政は江戸初期、17世紀に東南アジアへ渡った貿易商人。史料では山田仁左衛門。シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝から官位を授けられ、リゴールの長官に任じられたとされる。ただ、その実像は不明で、太平洋戦争時、親・東南アジア政策の下、作り上げられた「英雄的日本人」との評も厳然としてあり、詳細は定かではない。

山田仁左衛門長政は1590年(天正18年)頃、駿府国(現在の静岡県)馬場町の染物屋の子として生まれた。少年時代の長政はよく学問を好む半面、はなはだ乱暴な子供で、周囲からは疎んじられたといくつかの伝記に書かれているが、日本国内での事跡を裏付ける確実な史料は残されていない。徳川家康の側近、金地院崇伝が幕府の公文書を写した「異国日記」には、長政は1607年(慶長12年)頃には沼津藩主・大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の六尺(駕籠かき)をしていたと記されている。これが長政の前歴を語る唯一の史料だ。

鎖国以前の日本は、豊臣秀吉の時代に始まった朱印船貿易が盛んで、それに伴い多くの日本人が海外に出奔し、東南アジア各地の日本人町を拠点に活躍していた。若き長政も海外で名を成そうと考え、長崎から旅立っていった。彼が目指したのはシャムに栄えたアユタヤ王朝の国都、アユタヤだ。1612年(慶長17年)頃、長政23歳頃のことだ。やがて才能を認められ、日本人町の頭領の座に就いた。そして、織田信長以来の熾烈な戦乱を体験した“関ケ原浪人”や“大坂浪人”などで構成された日本人傭兵隊を率いて、数々の戦果を挙げた。彼はアユタヤ近くまで攻め込んできたスペインの艦隊を撃退してしまう。こうした武勲が国王ソンタムの知るところとなり、彼は「オムプラ」という貴族の官位を授かった。

シャム側の文献には長政の官位について「オークプラ・セーナピモック」、さらにその上の「オークヤー・セーナピモック」になっている。オークヤーは大臣級である。そして、セーナピモックというのは「軍神」の意味だった。つまり、長政は日本人町の頭領として、また王宮の親衛隊長として大臣級の扱いを受けていたのだ。このことは先にも触れた金地院崇伝の日記「異国日記」で裏付けられる。1621年(元和7年)4月11日付で、長政が幕府の老中、土井利勝と本多正純に書簡を出していたことが分かる。「異国日記」にその全文が写しとたれているので間違いない。内容は「シャム国王が日本の将軍に国書を贈ったので、そのとりなしを頼む」というものだった。その頃の書簡のやり取りには書札礼(しょさつれい)という厳しい決まりがあり、書簡を出すときは対等の人間に出すのがしきたりだった。シャム国王は二代将軍・徳川秀忠に国書を出し、長政が土井利勝・本多正純に書簡を出していることが、見事にそのルールに則っている。ということは、長政はシャム王朝では日本の老中と対等の地位にあったことを示している。

このあと長政はシャムの王位争いに巻き込まれ、体よくシャムの中では南のはずれのリゴールという国の王に任命されてしまった。分かりやすくいえば、幕府の老中職にあった人物が、都から遠く離れた地方の藩主に左遷されてしまったようなものだった。そして、任地に赴いて少し経過した1630年(寛永7年)、対抗勢力の手の者によって毒殺されてしまったのだ。

17世紀の初頭、東南アジア各地に日本人移住者の集団居住地、「日本人町」が形成されていた。これは、徳川家康の貿易奨励策の下に展開された朱印船貿易によって日本商船で東南アジア各地に渡航する者が激増したためで、渡航した朱印船は1603年(寛永13年)の鎖国令発布に至るまでの30余年間に延べ350~360隻にも上った。これらの船には貿易商人はもとより、牢人あるいはキリシタンなども乗り込み、海外に赴いた。

日本人町は交趾(こうち)(中部ベトナム)のフェフォとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、シャムのアユタヤ、呂宋(ルソン)島(フィリピン)マニラ城外のサン・ミゲルとディラオの7カ所に建設された。その盛時には呂宋の3000人を筆頭に、アユタヤ1500~1600人のほか、各地に300~350人ほどの日本人が在住し、その総数も5000人以上に達した。これらの日本人町は自治制を敷き治外法権を認められ、在住日本人の有力者が選ばれ行政を担当していた。フェフォの林喜右衛門、ピニヤールの森嘉兵衛、アユタヤの山田長政らはその代表的人物だ。鎖国下で徐々に衰退していったが、17世紀半ばから18世紀初頭まで存続した日本人町もあった。

(参考資料)城山三郎「黄金の日日」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、
早乙女貢「山田長政」

足利義政・・・応仁の乱で都を荒廃させ、浪費に明け暮れた政治家失格者

 日本史において15世紀後半は「暗黒の時代」といわれている。足利幕府の統治力が緩み、管領はじめ有力大名の内輪もめを抑えるどころか、家督争いのゴタゴタは将軍家にまで波及し、それがエスカレートした結果、遂に10年余にわたる「応仁の乱」が勃発。都は荒れ果て、一揆・暴動が洛中洛外に蜂起して、さながら無政府状態に似た状況となった。それにもかかわらず、総責任を負う立場にある将軍足利義政は、浪費に明け暮れる政治家失格者で、幕僚・側近に人材なく、幕府の威令はいよいよその重みを失って、戦国乱世の様相へのめり込んでいった。すべて“無責任”将軍義政が招いたものだ。確かに義政の政治に対する無策・無関心には目を覆うものがあるが、そんな気質を育んだ環境にも原因はあったようだ…。足利義政の生没年は1436(永享8)~1490年(延徳2年)。

 足利義政は、六代将軍・足利義教の子として生まれた。とはいえ、すでに兄に二歳年長の義勝がいたから、義政の立場は暢気なものだった。足利宗家では嫡流の惣領以外は、男女を問わず子供は門跡寺院などに入室させて、僧尼にさせてしまう慣例があり、義政の場合もそんなレールが敷かれていたはずだった。 
 
ところが、運命は彼の人生コースを大きく変えた。彼が6歳の時、父の義教が赤松満祐に暗殺されたのだ。「嘉吉の乱」だ。青蓮院門跡から還俗して将軍位に就いた義教が幕府権威の伸張を急ぐあまり苛烈な独裁政治を断行した反動だった。その赤松一族は誅滅させられ、七代将軍の位は義勝が継いで、乱の収拾もついたかにみえた2年目だった。今度は少年将軍義勝が病気であっけなく亡くなってしまったのだ。本来なら仏門に入っておとなしくのんびりと、好きな庭造りや香・華・能など遊びの道を楽しみつつ一生を終わるべく運命付けられていた次男坊の義政が、幸か不幸か8歳の若さで八代将軍の座に座らされ、いやおうなく歴史の表面に引きずり出されることになったのだ。

 将軍義政に対する閣僚・諸大名らの目は、二代続いての不幸に懲りて、将軍は幕威をシンボライズする旗であればそれで足りる。適当に骨を抜いておいた方が牛耳り易い。変に政務に欲など出してくださるなと、幼少の義政に“無能”教育を施したきらいがあるのだ。それにしては、青年期の義政は頑張った。側近・重臣の思惑通りに操られる傀儡ばかりで過ごしたわけではない。

 そんな義政も後半生は最高権力者としての責任を放棄、何もしない無責任で怠惰そのものの、優柔不断で自堕落な将軍に成り下がっている。そして、妻の日野富子には全く相談もせずに、義政は自分の弟で出家して義尋(ぎじん)と名乗っていた僧を口説いて、自分の後継者にしようとしたのだ。このとき義政はまだ30歳そこそこだ。妻の富子は25歳で当時としては若くはないが、まだまだ子供を産める年齢だ。側室をもうければ男の子が生まれないとは限らない。むしろこれから生まれる可能性の方が高い。それなのに、なぜ義政は引退など考えたのか?趣味に生きたい義政は、将軍の座を引退することによって、面倒な儀式や将軍として最低限果たさなければならない義務を放棄し、その代わり大御所として気ままに生きようと考えたのだ。

 義政に今後男の子が生まれても、それは出家させ決して跡継ぎにしない、という条件を義政が確約したため、当初、兄義政の申し出を断っていた義尋は、結局その申し出を受けた。還俗して義視と名乗り屋敷を京の今出川に構えた。

 ところが1年後、妻富子が男の子を出産したため、義政の軽率な決定が大きな問題となってしまった。富子は何が何でも自分の腹を痛めた子を将軍にしたい。そこで、彼女は気の弱い亭主の義政を何度も攻め立てたというわけだ。義政も弟よりは自分の子供の方を将軍にしたいと思ったに違いないが、自分が楽隠居するために、弟を無理矢理、還俗させ養子にしたという負い目があった。そう簡単に約束事をほごにできない。結局、義政は将軍を辞めるに辞められなくなった。

 こうして義政の、政治などしたくないというわがままと、富子の自分の子を何が何でも将軍にするというわがままが、10年余の長きにわたり国内を二分する、日本未曾有の大乱「応仁の乱」の種を蒔いたのだ。全く人騒がせな夫婦だが、それにしてもその大元の責任はやはり義政の優柔不断で、軽率な行動にあった。引退するなら、それに伴うルールと約束をきちんと守る覚悟が必要なのだ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史・中世混沌編」、杉本苑子「決断のとき」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

足利義満・・・大胆不敵な皇位簒奪計画が成就する直前、急死した将軍

 室町幕府の第三代将軍・足利義満は皇位簒奪を計画していたといわれる。その計画が成就する直前、義満は急死。その空前の恥ずべき所業は後世に残ることはなかったが、その大胆不敵とも思われる計画の証拠のいくつかを今日、私たちは目にすることができる。義満の生没年はユリウス暦1358(延文3)~1408年(応永15年)。

義満の幼名は春王、のち義満、道有、道義。封号は日本国王、諡号は鹿苑院太上天皇。父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘、日野業子。またその後、業子の姪、日野康子が2番目の正室となった。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

父の第二代将軍・足利義詮が38歳で思い半ばで病没。1368年(応安元年)、義満は征夷大将軍に任じられた。わずか11歳の将軍に、さしあたり何もできるはずはない。乱世の余燼さめやらぬそのころ、一つ間違えば天下の大乱が起こりかねない情勢だったにもかかわらず、何事もなく推移したのは父が残していってくれた補佐役・細川頼之のお陰だ。政務のすべてをこの細川頼之に任せていた義満が、初めて書類に花押を据えたのは15歳のときのことだ。

この時期から目立つのが義満の官位の昇進だ。義満の邸宅「室町殿」が落成、彼は後円融天皇を招いて大掛かりな宴を催した。この後、彼は内大臣に、そして25歳になったときは左大臣に任じられているのだ。三代目将軍が公家になって出世するというパターンは鎌倉幕府の源実朝と似ているが、その意味は全く違う。実朝の場合は、朝廷からの“お恵み”によって与えられた称号だった。右大臣になったからといって、実朝はその下にいる大納言以下ににらみを利かせることはできなかった。

だが、義満の場合は正真正銘の実力者として、彼は公家社会に割り込み、まもなく公家の叙位・任官へも大きな発言力を持つようになったのだ。公家社会はいまや完全に義満に制覇されて、その下風に立つことになった。これは鎌倉時代にはなかったことだ。義満による公家社会の制覇といっていい。
こうして権力者・義満は、次は強大な権威の象徴=天皇をも膝下に置くことを目指す。皇位簒奪計画がそれだ。皇位簒奪とは義満自らが天皇に即位するわけではなく、治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって、王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。義満は寵愛していた次男・義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしたのだ。

 義満は1406年(応永13年)、2番目の妻康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)とし女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に後小松天皇が北山第へ行幸したが、この際、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。4月には宮中において、次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためで、義嗣の践祚が近づいていることは公然の秘密だった。これより少し前のことになるが、1402年(応永9年)の明による日本国王冊封も、当時の明の外圧を利用しての義満の簒奪計画の一環と推測される。

 ところが、皇位簒奪のゴール直前、義嗣元服のわずか3日後、義満は急病を発して死の床につく。こうして空前の簒奪劇は未遂に終わったのだ。あっけない幕切れだった。義満の死因には多くの様々な謎がある。海音寺潮五郎氏や井沢元彦氏らは暗殺されたとの見方をしている。

 義満の死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、四代将軍となった子の義持は、斯波義将らの反対もあり辞退している。義満の法名は鹿苑院天山道義。遺骨は相国寺鹿苑院に葬られた。そして相国寺には「鹿苑院太上天皇」と記された過去帳が残っており、以後、相国寺は足利歴代将軍の位牌を祀る牌所となった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、今谷明「武家と天皇-王権をめぐる相剋」、永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

井伊直弼・・・ 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17~32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。
井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」

石川五右衛門 ・・・2人の外国人によって裏付けられた五右衛門の実在

 安土・桃山時代の盗賊の怪盗、石川五右衛門は、太閤秀吉を暗殺しようとして伏見城に侵入するが、あえなく御用となり、釜ゆでの刑に処せられたといわれる。数々の伝説に彩られ、その正体は不明で、歌舞伎や浄瑠璃などでよく演じられるが、果たして架空の「義賊」か、実在の「悪党」だったのか?結論をいえば、実在したことは確かなようだが、確かな経歴は不明で、俗説と伝承が混在して、その実体はよく分かっていない。

 五右衛門と思われる人物について記述された最も古い史料は、公家の山科言経(やましな・ことつね)の日記「言経縁記」だ。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子1人を釜にて煮る」と書かれている。次に登場するのが1642年(寛永19年)に儒学者、林羅山が幕府の命を受けて編纂した秀吉の伝記「豊臣秀吉譜」だ。ここには文禄の時代に石川五右衛門という強盗を捕え母親と同類20人を煮殺したと記されているが、仮に山科言経の日記が正しければ、この記録は1594年に処刑された日からすでに50年も経過している。沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを執筆しているが、「豊臣秀吉譜」よりさらに年代を経ている。そのため、これらの史料はいまひとつ信憑性に欠けると見做す研究者もいるようだ。

 ただ、山科言経の日記「言経縁記」には五右衛門の名前こそ出ていないが、記載されている盗人が彼のことであることはほぼ100%間違いないと研究者たちはみている。なぜなら「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が発見されたからだ。それは国内ではなく、意外にもローマのイエズス会文書館に所蔵されている。

 日本訳「日本王国記」というタイトルのその本の著者はスペイン人、アビラ・ヒロン。アビラは16世紀から17世紀にかけて、約20年、日本に滞在した貿易商で、1615年(元和元年)、長崎でこの本を書き上げた。内容は、1549年(天文18年)、三好長慶が十二代将軍足利義晴を京都から追放し占領したことから徳川家康の晩年まで、要するに戦国時代から安土・桃山時代まで、日本に起こった出来事や社会情勢が克明に著されているのだ。その中に、石川五右衛門の処刑についての記述が残されている。記述によると、都を中心に荒し回る盗賊の集団がいて、彼らは普段は町民の格好をして働き、夜になると盗みを働いたという。

 集団の中から15人の頭目が捕えられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔(はりつけ)に処せられた。頭目1人当たり30人から40人の手下がいて、彼らも同じ刑に処せられたという。京都で起きたこの事件は、当時としてはすこぶる早いスピードで長崎まで伝わったというが、それはいかにこの処刑が前代未聞の大事件であったかを物語っている。

 しかし、実はこのアビラの記述には石川五右衛門という名は登場しないのだ。では、なぜこの記述が石川五右衛門を指していると分かったのか。「日本王国記」の原本は現在、所在が不明だが、その写しが残されており、そこには400カ所以上にわたって注釈が書かれていたのだ。書いたのは日本にやってきた宣教師ペドロ・モレホンという人物だ。彼の注釈は盗賊処刑の記述にも付されていた。「この事件は1594年(文禄3年)の夏のことである。油で煮られたのは<Ixicavagoyemon=石川五右衛門>とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時、京都の修道院の院長をしていたという。つまり、処刑を見物し、あまりに印象が強かったために、わざわざ注釈を入れたというのだ。石川五右衛門実在説は、こうして2人の外国人によって裏付けられたのだ。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

吉良上野介・・・刃傷事件の片手落ちの処置が招いた“悪役”のレッテル

 吉良上野介というと、誰もがまず「忠臣蔵」の中での赤穂浪士の敵役で、極め付けの悪役のイメージが浮かぶ。吉良上野介=吉良義央(よしひさ、よしなか)は幕府高家の家柄で、父は足利一族の名門義冬、母は大老酒井忠勝の弟忠吉の娘、妻は米沢藩主上杉定勝の娘だ。権門と姻戚関係にあるうえ、儀典の職にあたって、有職故実の指南を請う諸大名に尊大の風をもって接したといわれる。こうしたところが一般に毛嫌いされ、稀代の“悪役”あるいは“愚君”のレッテルを張られた要因なのだろうが、果たしてどうだったのか?

 義央の官位は従四位上左近衛権少将、上野介。生没年は1641年(寛永18年)~1703年(元禄15年)。1659年(万治2年)から父とともに幕府に出仕。1662年(寛文2年)、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西(ごさい)天皇の謁見を賜った。以降、義央は生涯を通じて年賀使として15回、幕府の使者として9回、計24回上洛している。この24回もの上洛は高家の中でも群を抜いて多く、まだ吉良家の家督を継いでいない部屋住みの身でありながら、使者職を行っていたことは、22歳で従四位上に昇進しているように、義央の高家としての技量が卓越していたことを表している。また、その優秀な技量を五代将軍綱吉が寵愛したためとも伝えられている。

 高家としての技量に優れていただけに、京都の朝廷にも受けが良く、その家格を鼻にかけていた側面があることは容易に想像がつく。では、領主としての義央はどうだったのだろう。領地の三河国幡豆郡吉良荘では、彼が1686年(貞享3年)に築いた黄金堤による治水事業や、富好新田をはじめとする新田開拓などに力を入れるなど善政を敷いて、領民から名君として敬われ、現在でも地元では非常に慕われているのだ。江戸城内でのあの“刃傷”事件がなければ、決して飛びぬけてということではないが後世、善政を敷いた名君の一人と呼ばれていたかも知れない。

だが、現実には1701年(元禄14年)、江戸城内・松の廊下で播州赤穂藩主・勅使饗応役の浅野長矩に刃傷を受け、御役御免、隠居。「喧嘩両成敗」が通り相場の時代に、義央は重い処罰を免れ、徳川五代将軍綱吉の指示で赤穂藩主・浅野長矩だけが即日切腹、お家(赤穂藩)断絶に処せられた。こうした片手落ちの処罰に、江戸の一般庶民は旧赤穂藩士に同情的になり、対照的に義央は敵役=悪役に仕立て上げられた形だ。

 将軍綱吉も、一般庶民の気持ち=世論がここまで赤穂藩士に傾くことは想定外だったに違いない。それなら、もっと打つ手はあったと…。播州赤穂藩と比較して、幕府内における様々な人脈、吉良家の家格を重視した上での綱吉の判断だったはずだが、ものの見事に外れてしまったのだ。

そして不幸にも吉良上野介は、翌年12月14日夜半、吉良邸への、大石内蔵助に率いられた赤穂浪士四十七士の討ち入りに遭い、首級を挙げられるという屈辱的な最期を遂げた。この壮挙に江戸の一般庶民は喝采の声を挙げ、赤穂浪士たちは本懐を遂げた。一方、吉良家は後世にも容易に払拭できない、吉良=稀代の悪役という“汚点”を残す破目になった。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、菊池寛「吉良上野の立場、」井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

後醍醐天皇・・・天皇親政めざし倒幕へ策謀をめぐらし続けた君主

 後醍醐天皇は、時の政治の中で策謀をめぐらし続けた人物だ。醍醐・村上両天皇の治世を理想の時代として追慕して後醍醐と名乗り、律令国家最盛時に匹敵する政治を実現しようとした。そのため、天皇の絶対的権威を確立しようとする志や姿勢は、武士にとっては相容れない、対立する“悪役”と映っても仕方のないものだったのだ。

 天皇親政による政治の刷新、これが後醍醐天皇の目的だったから、それを実現するためには鎌倉幕府の存在が障害となっていた。そこで倒幕の計画を練るために、無礼講や朱子学の講習会を開き、同志を糾合した。このあたり天皇というより幕末の志士といったやり方だが、この計画は事前に漏れて頓挫する。これが1324年(正中元年)の「正中の変」だ。しかし、この後も後醍醐天皇は倒幕の意志を変えず、吉田定房、北畠親房、万里小路宣房ら「後の三房」や日野資朝、日野俊基らを腹心として重用、倒幕の機会を探っていた。

 1331年(元徳3年)、吉田定房の密告によって後醍醐天皇の計画を知った鎌倉幕府は、直ちに日野俊基や円観・文観らを逮捕した。後醍醐天皇は辛うじて京都を脱出、笠置に布陣して近隣の土豪・野伏らに参戦を呼びかけた。しかし、鎌倉幕府の大軍によって笠置は陥落。楠木正成の河内・ 赤坂城も幕府軍に蹂躙されてしまい、1332年、後醍醐天皇は隠岐へと流された(元弘の乱)。

 ところが元弘2年、吉野で護良親王が再挙し、さらに河内・千早城で楠木正成が再挙して、諸国の反幕府運動が急速に展開し始めるムードが出てきた。こうした戦局の変化に応じて、1333年(元弘3年)、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、出雲で在地豪族の名和長年に迎えられ、船上山に立て籠もって朝敵追討の宣旨を諸国に発したのだ。
このとき、幕府の将として西上していた足利高氏が、後醍醐天皇に応じて反幕府の旗幟を鮮明にすると形勢は一気に逆転した。高氏は赤松氏と協力して六波羅軍を壊滅させてしまった。また、東国において新田義貞が上野生品神社に挙兵し、長躯して鎌倉を攻略。遂に鎌倉幕府崩壊、「建武新政」の実現に至るわけだ。

 しかしその「建武新政」は、記録所や恩賞方、雑訴決断所などを整備するとともに、各地に国司、守護を置いて治安の維持に努めるなど後醍醐天皇の精力的な推進にもかかわらず、公家、武家、荘園の農民などの期待に応えることができなかった。そのため、後醍醐天皇の建武の新政に失望した武士は、次第に足利尊氏の方へ結集。この後、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が時代の構図となり、建武新政の瓦解、花山院御所への幽閉、吉野での朝廷の再建、北朝に対する南朝の劣勢。こうした中で後醍醐天皇は後村上天皇に譲位の翌日、52歳の生涯を閉じた。

 後醍醐天皇の執念で鎌倉幕府は滅亡したが、理想としたその「建武新政」は、武士社会の法「年紀法」(持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できない)を無視したことで、武士の不満が噴出してわずか3年で崩壊した。また、後醍醐天皇は自己の子孫に皇位を世襲させることに執念を燃やしたために、この後60年の長期にわたる内乱の時代=南北朝時代をつくってしまった。

 司馬遼太郎氏も、後醍醐天皇がやった「建武新政」は、ことごとく歴史の現実や進歩に合わなかった-と酷評している。自分が理想とする平安期の「延喜・天暦の治」の断行に固執するあまり、武士階層のニーズが全く読めず、時代を戻そうとしただけの後醍醐天皇の治世は、成立するはずがなかった。やはり、暗愚の帝王と呼ばれても仕方がない。
(参考資料)徳永真一郎「後醍醐天皇」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、井沢元彦「逆説の日本史」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

玄ホウ・・・橘諸兄政権の担い手として出世したが、やがて排除、左遷される

 玄ホウは奈良時代の法相宗の僧で、聖武天皇の信頼が篤く吉備真備とともに、橘諸兄政権の担い手として出世した。だが、彼の人格に対して人々の批判が多く、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、“君側の奸”として排除され、筑紫に左遷され、任地で没した。玄ホウの生年は不詳、没年は746年(天平18年)。

 玄ホウの俗姓は阿刀氏で阿刀阿加布の子。出家して義淵(ぎえん)に師事。717年(養老元年)、遣唐使に留学僧として随行。入唐して智周に法相を学んだ。在唐は18年に及び、その間当時の皇帝だった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。18年後の735年(天平7年)、遣唐使に随って経論5000余巻の一切経、仏像などをもって吉備真備らと帰国。

 玄ホウは736年(天平8年)、封戸を与えられた。737年(天平9年)、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し、仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母=皇太夫人・藤原宮子の病気を祈祷により回復させることに成功、賜物を受けた。これを機に聖武天皇の篤い信頼を得て、幸運にも吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世した。まさに異例のスピード出世だ。ただ、こんな玄ホウも人格的には問題があったようで、人々の批判も強かった。

そのため、740年(天平12年)には大宰少弐・藤原広嗣が上表して、時の政治の得失を論じ、この玄ホウと吉備真備の追放を言上した。そして翌年には反乱の兵を挙げた。「藤原広嗣の乱」だ。これにより西海道はにわかに戦場と化したが、ほどなく平定され、広嗣は捕らわれて処刑された。これによって、世情の批判をいったんはかわした形だった。玄ホウは741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養している。玄ホウが得意の絶頂にあったのは、このころまでだった。

聖武天皇はこの頃、平城京を発ち恭仁京、紫香楽京、難波京と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返した。また、玄ホウの意見により諸国の国分寺の建立や、盧舎那仏の造顕の詔を発して、鎮護国家思想を体現したとされるが、天皇の情緒不安定は大きく、政治の方向を見失わせた。

 藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、玄ホウも天皇の側から徐々に遠ざけられるようになった。そして玄_にとって黙ってみていられない事態が起こる。745年(天平17年)、行基が前例のない大僧正に任じられたのだ。僧正である玄_の上位に、文字通り仏教界の最高職が設けられ、そこに行基が就いたわけだ。玄ホウのプライドは完全に潰されたてしまった。

そんな心穏やかではない玄ホウだったが、さらに追い討ちをかけられるように彼は、遂に筑紫観世音寺別当に左遷された。観世音寺とは、天智天皇が筑前で亡くなった母の斉明天皇のために飛鳥時代に造り始めた寺だが、80年経過したこのときでも、まだ完成のメドも立たない寺だった。左遷に伴って、玄ホウは朝廷から賜っていた封物も没収された。そして746年(天平18年)、任地で没した。亡くなったとき、741年(天平13年)、玄ホウと吉備真備を朝政から排除するよう言上し、大宰府で乱を起こしたが失敗し、失意のうちに処刑された藤原広嗣の怨霊に殺されたのではとの噂が立った。
 玄ホウの弟子に慈訓(じきん)、善珠(ぜんじゅ)らがいる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」

高 師直・・・足利尊氏の弟、直義と対立、引退に追い込み、幕政の実権握る

 高氏(こうし)はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあった。師直(もろなお)はこのような名家の一族であり、後年、足利尊氏が幕府を開いてからは、並みいる守護大名も畏怖するような権勢を振るった。そして、こうした権勢をやっかんだ氏族たちが流布したものなのか、古典「太平記」や後世の創作などにより、師直は“悪逆非道”の烙印を押された人物として記されている。また、とくに天皇家の権威・権力を軽んじる傍若無人な人物としても記されたものがある。果たして、師直の実像は?

 高氏は公家の高階氏(たかしなし)の分かれで、成佐(なりすけ)という者の代に下野に土着して、武士への道をたどった。成佐の子は惟章(これあき)といったが、子供に恵まれず、八幡太郎義家の孫、惟頼(これより)を養子に迎え、家を継がせた。惟頼には何人かの兄弟がおり、そのうち義重は新田氏の、義康は足利氏のそれぞれ祖となっている。つまり、高氏はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあったわけだ。
 鎌倉時代の高氏の動向ははっきりしないが、あるいは足利家と同格の御家人ではなかったかとも考えられている。足利家に臣従していたとしても、その地位は極めて高く、足利家の家宰(家老)職を占めていたようだ。いまひとつ足利家との近い関係を裏付けるものがある。足利家では尊氏の祖父家時が、子孫三代の間に天下が取れることを願い、置文(おきぶみ=遺言状)を残して自殺するという事件が起きており、その置文は師直の祖父師氏(もろうじ)に宛てられていたのだ。このことからみて、足利氏と高氏がかなり早い時期から単に親密であるという以上の特別な関係で結ばれていたことは、まず確実といっていい。

 高師直の生年不詳、没年は1351年(正平6年/観応2年)一般的に名字の「高」と諱の「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。高師重(もろしげ)の子として生まれた。別名は五郎右衛門尉(通称)、道常(号)。兄弟に高師泰がいる。足利尊氏の側近として鎌倉(幕府)討幕戦争に参加。1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くと将軍家の初代執事として絶大な権勢を振るった。

 室町幕府内部は将軍尊氏と、政務を取り仕切る直義(ただよし)の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき幕府を二分する権力闘争に発展していく。やがて直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって、執事職を解任された師直は師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。そして、直義の出家後、師直は将軍尊氏の嫡子、義詮を補佐して幕政の実権を握った。実質上、No.2に昇りつめたのだ。

 1350年(正平5年/観応元年)師直は直義の養子の足利直冬討伐のため尊氏とともに播磨へ出陣する。この際、直義は出家した身ながらウルトラCの奇策に出る。京を脱出して南朝に降参、南朝・直冬とともに師直誅伐を掲げて挙兵したのだ。あくまでも兄、尊氏・師直(北朝)に対抗する策だ。

そして1351年(正平6年/観応2年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦する。これで師直vs直義の対決も収拾されたかにみえた。ところが、師直は摂津から京への護送中、待ち受けていた上杉能憲によって武庫川畔(現在の兵庫県伊丹市)において、師泰ら一族とともに処刑された。直義方に謀られたのだ。尊氏と直義兄弟の仲に割って入り、室町幕府の実権を握り、まさに権勢を振るった高師直も、源氏の貴種という“血”には勝てず、権勢をほしいままにし過ぎたためか、“悪逆非道”の人物というレッテルを張られ、あっけない末路となった。

(参考資料)百瀬明治「軍師の研究」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」