月別アーカイブ: 2013年12月

私説 小倉百人一首 No.4 山部赤人

山部赤人

田子の浦に打ち出でて見れば白妙の
       富士の高嶺に雪はふりつつ

【歌の背景】万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ不尽の高値に雪は降りける」とある。第三句の「ま白にぞ」には「しろたへの」という表現よりも、白さの実感が強く、結句も「雪は降りける」の方が描写が自然で感動も強い。「新古今和歌集」に収録するときか、あるいはそれ以前に、滑らかな口調になってしまったようだ。

【歌意】田子の浦に出て見ると、真っ白な富士の高い峰に雪が積もっている。実にすばらしい眺めだ。

【作者のプロフィル】生没は不明。宮廷歌人。赤人の作歌年代は神亀元年(724)から天平8年(736)までであり、聖武天皇の天平年間まで生存したようだ。赤人の歌は叙景に特徴があり、その整然とした端正な自然描写に秀でている。
この歌は万葉集の中でも最も有名な長歌「天地の 分れし時ゆ 神さびて高く貴き 駿河なる 不尽の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 不尽の高嶺は」の反歌。

私説 小倉百人一首 No.5 猿丸大夫

猿丸大夫
※伝説の人で生涯は不明。

おくやまに紅葉踏み分け鳴く鹿の
       声聞く時ぞ秋はかなしき

【歌の背景】この歌は『古今和歌集』で「詠み人知らず」とある。なぜ百人一首で猿丸大夫の作となったのか?それは平安中期、第一級の知識人であった藤原公任が猿丸大夫として『三十六撰』に選んだからだ。

【歌 意】人里離れた寂しい山で、散った一面の紅葉を踏み分けるように、山奥に入っていく牡鹿の妻恋いの声を聞くとき、もの悲しい秋がとりわけ悲しく思われる。

【作者のプロフィル】伝説の人で、その生涯は不明。奈良朝末期か平安初期の人と思われる。個人歌集として『猿丸大夫集』があるが、内容は『万葉集』抄出と『古今和歌集』読み人知らずの歌で、これが猿丸大夫と特定できるものは一首もない。

私説 小倉百人一首 No.6 中納言家持

中納言家持
※大伴家持

かささぎの渡せる橋におく霜の
       白さを見れば夜ぞふけにける

【歌の背景】7月7日、七夕の夜、鵲(かささぎ)という鳥が翼を広げて天の川に橋を作り、牽牛・織女の両星を合わせるという伝説がある。寒い冬の夜に仰ぎ見る天の川の寒々とした光と、宮中御殿の階の上の真っ白な霜とが重なり合って、凍りつくような冬の深夜を感じさせる。

【歌意】鵲が天の川に渡すという橋に例えられる宮中の階。そこに降っている霜の真っ白いさまを見ていると、本当に夜も更けてしまったことだ。

【作者のプロフィル】大伴家持。父は旅人。日本古代を代表する名族の嫡流でありながら、奈良後期の大伴・藤原両氏の対立の中で政争に巻き込まれ不遇を繰り返した。それは、とりわけ天平勝宝8年(756)に左大臣橘諸兄が引退し、聖武天皇が崩御後、急速に権勢拡大した藤原氏に抗しきれず顕著になった。止めは早良親王の廃太子事件に巻き込まれたことで、持節征東将軍として陸奥の多賀城の政庁で没した後には、官位剥奪、遺骨の埋葬さえ許されぬ屈辱を受けている。官位は従三位中納言まで進んだ。
  万葉集の最後を飾る代表的歌人。万葉集が幅広い層から、また反政府的な歌を含めて様々な秀歌が収録されているのは、編纂者の家持の存在が大きかったようだ。

私説 小倉百人一首 No.7 安倍仲麿

安倍仲麿

あまの原ふりさけ見れば春日なる
       みかさの山に出でし月かも

【歌の背景】仲麿は唐へ留学生として派遣され、長く唐朝に仕え高位に出世した。しかし、望郷の思いが強くなりしばしば帰国を願い出たが、唐朝の許可が下りなかった。35年後、遣唐使が行ったとき、その一行と一緒に帰朝しようとして明州(寧波)の海辺で唐の友人たちと別れの宴を催した。夜になり、月が非常に美しかったのを見て詠んだのがこの歌。

【歌 意】大空をはるかに眺めやると月が昇っているが、あれは故国の都の春日にある三笠山に出た月と同じ月なのだなあ。

【作者のプロフィル】父の名は安倍船守。元正天皇の霊亀2年(716)、吉備真備、丹治比県守らとともに、玄宗皇帝時代の唐へ16歳で遣唐留学生として入唐。唐に学んだ後、名を仲満また、朝衡と改め玄宗に仕えた。孝謙天皇の天平勝宝4年(752)、遣唐使の藤原清河らが入唐した時、翌年一緒に帰朝しようとして安南に漂流。再び唐に戻り、粛宗皇帝に仕え、安南都護その他の大官に任じられ、代崇皇帝の大暦5年(770、称徳天皇の神護景雲4年)、正月唐で死んだ。70歳。わずか16歳で日本を離れ人生の大半、54年にわたり唐代の中国で過ごした。

私説 小倉百人一首 No.8 喜撰法師

喜撰法師

わが庵は都のたつみしかぞ住む
       世をうじ山とひとはいふなり

【歌の背景】宇治山に庵を結んで閉居している作者が、恐らく庵の場所を尋ねられて、答えて詠んだものと思われる。法師の洒脱な精神が感じられる。

【歌 意】私の庵は都の東南の宇治山にあって、鹿が棲んでいる。そこに濁りのない心境で暮らしている。ところが、口さがない世間の人々は私が世の中を住みづらく思って、隠れ住んでいるなどと噂しているらしい。

【作者のプロフィル】伝記は不明。六歌仙の一人。仁明天皇(840ごろ)から宇多天皇(890ごろ)の人で、京都の東南宇治山に隠遁生活をしていた僧と思われる。

私説 小倉百人一首 No.9 小野小町

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらに
       わが身世にふるながめせしまに

【歌の背景】桜の花の盛り、降り続く長雨に、家に引きこもり物思いにふけっているうちに、花の色のあせてしまったことに気づき、同時にわが容色の衰えを嘆いた歌。

【歌意】桜の花はすっかり色あせてしまったことだ。降り続いた長雨のために、家に引きこもって、物思いにふけっているうちに。そして、私の容色も衰えてしまった。恋の物思いに虚しく人生を過ごしていた間に。

【作者のプロフィル】小野小町といえば美人の代名詞として使われるが。その確かな伝記はない。出羽国の郡司小野良真のむすめで、小野篁の孫と伝えられる。
  歌風は情熱的であり奔放。恋に生涯を懸けた美人として、多くの伝説が伝えられている。六歌仙の一人に数えられており、在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、凡河内躬恒らと歌を贈答した。

私説 小倉百人一首 No.10 蝉 丸

蝉 丸
※伝説中の人物。

これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

【歌の背景】逢坂の関は山城国から近江国へ出る道にある関所で、美濃国の不破の関、伊勢国の鈴鹿の関、越前国の愛発(あらち)の関の、いわゆる三関のうち愛発の関に代わって三関の一つになった。のち「関」といえば逢坂を指すほど名高くなった。したがって交通量も多く、都から地方へ、地方から都への人の行き来は激しかったことであろう。ここを往来する人たちの姿を捉えて対句と、掛詞を使い、調子よく歌い上げている。

【歌 意】これがすなわち、都から地方へ行くものも、地方から都へ帰るものも互いに別れては逢い、また知っているものも知らないものも逢うという逢坂の関ですよ。 

【作者のプロフィル】伝説中の人物で、その生涯の確かなことはほとんど分からない。「今昔物語集」では逢坂の関に住む盲人で雑色として式部卿の宮に仕えていた間に聞き覚えた琵琶の秘曲を源博雅に伝授したと語られ、鴨長明の「無名抄」には出家前の遍昭が和琴を習いに関の蝉丸のもとに通ったと伝えるが、博雅と遍昭では時代に隔たりがありすぎ信憑性に欠ける。ただ、それだけに蝉丸が古くから伝承的人物だったことをうかがわせる。

私説 小倉百人一首 No.11 参議 篁

参議 篁
※小野 篁

わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと
       人には告げよあまのつりぶね

【歌の背景】仁明天皇の承和年間に乗船のことについて、遣唐大使と争ったため、嵯峨天皇の怒りを受け、官位を剥奪され隠岐島へ流された。これは、その島流しのため、難波から船で出発するとき詠んだもの。

【歌 意】広い大海原を多くの島々の間を通り過ぎながら、(私の舟が)沖へ漕ぎ出していったと、(都にいる)あの人にだけは伝えてくれよ、波に浮かぶ海人の釣り舟よ。

【作者のプロフィル】参議小野峯守の長男。淳和天皇の承和元年、遣唐副使として出発したが、暴風に遭って引き返し、その後再三の出発も果たさなかった。彼は病気と称して役を辞し、同5年「西道謡」という詩を作り、遣唐使のことを批判したので嵯峨上皇の咎めを受け、隠岐に流された。承和7年、文才を惜しまれて召し返され、14年参議になる。仁寿2年(852)12月没。51歳。

私説 小倉百人一首 No.12 僧正遍昭

僧正遍昭

天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
       乙女の姿しばしとどめむ

【歌の背景】毎年11月、宮中で催される豊明節会の折り、公卿や国司の未婚の美女を召して舞を舞わせた。その舞姫をみて天女を連想して詠んだもの。

【歌 意】空を吹く風よ、(天女が往来するという)雲の中の通り道を、雲を吹き寄せて閉じてくれ。あの天女たちの華やかな姿をいましばらく地上にとどめておきたいから。

【作者のプロフィル】大納言良岑安世の八男。素性の父。安世は桓武天皇の皇子で、良岑の姓を賜った。遍昭は出家してからの名で、それ以前は良岑宗貞と称していた。仁明天皇の恩顧のもとに蔵人頭にまで至ったが、35歳で帝の崩御に遭い出家した。以後各地で修行の後、叡山の慈覚大師(円仁)、智証大師(円珍)に師事して伝法灌頂を受け、権僧正、僧正に至り、元慶寺座主、花山僧正と呼ばれた。75歳で没。

私説 小倉百人一首 No.13 陽成院

陽成院
※第57代天皇

筑波嶺のみねより落つるみなの川
       恋ぞつもりて淵となりぬる

【歌の背景】光孝天皇の第一皇女綏子内親王に宛てて詠んだ恋の歌。光孝天皇は55歳の高齢で陽成天皇に代わった人。綏子内親王はのち陽成妃になっているから、この恋は成就している。

【歌 意】古来、男が歌いかけ女が答えられなかった時は、女が男の一夜妻にならなければならなかったという歌垣の山、筑波山。その筑波山の峰から落ちる男女川は、その水が積もり積もって深い淵となってしまうが、そのように私のあなたへの激しい恋の思いも積もり積もって深い淵のようなものになってしまったことだ。

【作者のプロフィル】第57代の天皇。名は貞明。清和天皇の第一皇子。貞観10年(868)12月生まれ。生母は藤原長良のむすめ高子すなわち二条の后で、藤原基経の妹。元慶元年、9歳で即位。外戚の基経が摂政となって政治を執った。病気のため同8年、光孝天皇に譲位し、陽成院に住む。太上天皇の尊号を贈られた。基経をはじめ藤原総領家に疎まれ8年の在位だったが、結局、退位後60数年を生き、82歳という前例のない長寿を生きた。