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北条高時・・・田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った執権

 鎌倉幕府最後(第十四代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った。『太平記』『増鏡』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても、執権としての自覚に乏しく、酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。高時の生没年は1303(嘉元3)~1333(元弘3年/正慶2年)。

 杉本苑子氏は、北条氏は不思議な氏族だという。鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は十六代にわたる執権家、とくに得宗と呼ばれた宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策の限りを尽くした。その結果、後世の人々には陰険な氏族として毛嫌いされているほど。それにもかかわらず、執権を務めた人物一人ひとりの生き方は、権位にありながら、珍しいほど清潔だった-と杉本氏。ただ、これには例外があった。北条氏の執権を務めた中に一人、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した人物がいた。それがここに取り上げた十四代・北条高時だ。

 北条高時は第九代執権・北条貞時の三男として生まれた。成寿丸、高時、崇鑑と改名した。日輪寺(にちりんじ)殿と呼ばれた。1316年(正和5年)、14歳で執権となった。したがって、まだ執権としての器量にも欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。ただ、飾り物としての執権職に嫌気したか、彼は成長してからも真面目に職務に就くことは少なかったようだ。

 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に国税あるいは年貢として徴収し出す始末だった。公私混同も甚だしい。また、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうなるとめちゃくちゃだ。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上するので、当時、鎌倉に4000~5000匹の犬がいたという。月に12度も「犬合わせの日」が定められていたというから、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。この高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になったと伝えられている。

 1326年(正中3年)、病のため高時は24歳で執権職を辞して出家した。後継をめぐり高時の実子、邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こった。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任。赤橋守時が就任することで収拾した。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵。ここから事態は急展開。足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増していく。

 高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが、結局6000人もの死者を出し、鎌倉幕府は滅亡、高時は東勝寺で自刃した。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」、司馬遼太郎「街道をゆく26」、杉本苑子「決断のとき」

藤原信西・・・博覧強記で、信念に沿った行動が敵視され“悪役”に

 日本人は合理的に物事を考え処理していく人物をあまり好まない。そのため頭が切れ、眼識が鋭く、決断力に富み、毀誉褒貶を意に介さず、信念に沿って行動するタイプの人間はややもすると敵視され、“悪役”に仕立て上げられるケースが少なくない。当世無双の博覧強記といわれ、「諸道に達する才人」といわれたこの藤原信西などはその代表的な例かもしれない。信西の生没年は1106(嘉祥元)~1160年(平治元年)。

 藤原信西は平安末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名。俗名は藤原通憲(みちのり)。信西の家系は曽祖父藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父藤原季綱は大学頭だった。ところが1112年(天永3年)、父藤原実兼が蔵人所で急死したため、幼少の通憲は縁戚の高階経敏の養子となった。このことが後の彼の生き方を大きく左右することになった。

 通憲の願いは曽祖父、祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会のしくみでは、高階家の戸籍に入ってしまった通憲には、その時点で実範・季綱を世襲する資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていたのだ。これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。

 鳥羽上皇はこれを宥めようとして1143年(康治2年)、正五位下、翌年には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、さらに息子・俊憲に文章博士、大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年出家して「信西」と名乗った。
 鳥羽上皇は信西の才能に注目し『本朝世紀』の選者とした。これは官選の国史『六国史』の後を受けて、宇多帝の御宇から近衛帝までおよそ250年間にわたる宮廷内でのできごとを、外記・日記をはじめ諸家の記録を参照し、年代を追いつつ整理編纂したもので、史学史上、重要な文献となっている。

 『法曹類林』の述作も、地道な業績のひとつといえよう。明法家・司法学者らの意見、実施に適用された令法上の慣例などを、古書・古文献を丹念に渉猟して、事項別に分類・収集した法律書だ。全230巻におよぶ大部なものだから、当時の官界・学界に大いに活用されたばかりでなく、現在なお、平安朝時代の法例・法理を考察するうえで貴重視されている。

 また信西自身、自分の家系が朝廷内で出世の見込みが薄いことで、傍目にはとても皇位に就く可能性が低い鳥羽上皇の第四皇子、雅仁親王に目をつけた。ただ、それは決して自暴自棄になって選択したのではなかった。成算を見込んでのものだったのだ。そして、彼は政治状況や天皇家の内紛、人間関係などを冷静に観察、分析して、雅仁親王こそ天皇になれると見抜き、接近した。

 1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた雅仁親王がその見立て通り、後白河天皇として即位。信西はその信頼厚い権力者の地位を得た。1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御すると、その葬儀の準備を行い、「保元の乱」が起こると源義朝の献策を積極採用して、“夜襲”作戦を断行。後白河天皇方に勝利をもたらした。

 信西は乱後、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、新制七カ条を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど絶大な権力を振るった。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

 しかし、強引な政治の刷新は反発を招き、二条天皇が即位し後白河上皇の院政が始まると、当時、後白河の寵臣となっていた藤原信頼と対立。徐々に歯車が狂い始める。その一方で、保元の乱をきっかけに、さらに力を持った信西は源義朝が申し入れてきた婚姻関係を断り、平氏の娘と自分の息子で婚姻血縁関係を結んだ。このことは後に大きな禍根を残すことになった。源義朝は保元の乱の時の活躍を正当に評価されなかった不満と、信西に持ち込んだ婚姻関係を断られたことに怒り、信西と対立した勢力と結んで1159年(平治元年)、「平治の乱」を起こしたのだ。

 信西は源義朝・藤原信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で切腹した。だが、後に源光保によって地中から掘り起こされ、首を切り取られ都大路に晒されたという。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

藤原純友・・・京での貴族社会から脱落し、開き直って官位を持つ海賊に

 藤原純友は平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国で反乱を起こし、同時期に関東で平将門が起こした反乱と合わせ呼称される「承平・天慶の乱」<935(承平5)~941年(天慶4年)>の首謀者として知られる。純友は将門のように神や英雄として崇められることも少ない。また、純友に関する伝説や史料は乏しい。純友は将門を語るうえで無視できない西国の「敗者」なのだ。純友の生年はよく分からないが、893年(寛平5年)ごろと推察される。没年は941年(天慶4年)。

 藤原純友は右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。当時の朝廷の権力の中心を占めていた藤原北家に生まれている。曽祖父は陽成天皇の外祖父、贈太政大臣・藤原長良であり、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。しかし、ここに異説がある。純友は伊予の豪族高橋家の生まれで、藤原良範が伊予守となっていたと思われることから、その縁で良範の養子になったというものだ。いずれにしても、近い一族に高位の有力者がいたことは間違いない。

 ところが、純友の人生を狂わせることが起こる。それは父が若くして死んでしまったのだ。そのため、様々な人脈の伝手で可能であったろう仕官の“芽”が摘まれてしまったわけだ。都での出世が望めなくなった純友は、地方官となった。当初は父の従兄弟の伊予守藤原元名に従って「伊予掾」として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。「掾」は地方官として三番目の官で、伊予は上国だから従七位上相当官だ。しかし、元名帰任後も帰京せず、伊予国(現在の愛媛県)に土着した。

 ところで、純友が活躍したのは瀬戸内海だが、このころの瀬戸内海沿岸や無数の島々はどんな状態になっていたのか。瀬戸内海に海賊が横行していたことは、紀貫之の『土佐日記』の記述でよく分かる。彼は土佐守の任期がきて帰京するのに、絶えず海賊襲来の噂に怯えつつ航行している。貫之が土佐から帰京した934年(承平4年)末から935年(承平5年)初めのことだ。『三代実録』にも、海賊が跳梁跋扈し、一向にやまない状況を嘆き、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐などの国々に海賊を追捕するよう命じた-とある。

 さらに、その後、播磨・備中・備後などの国々から相次いで、海賊を捕らえたとの報告がきているが、賊勢は一向に衰えた様子はない。噂によると、これは各国の国司らが責任逃れに汲々として、自分の管轄内だけの平穏を保つため、捕らえて退治しようというのではなく、追い払うだけだからだ-と『三代実録』にある。朝廷が海賊対策に躍起になっているのに、沿岸諸国の国司らが責任逃れだけのいいかげんなことをしていることがよく分かる。

 さて、京での出世の見込みがないと判断し土着した純友は、完全に開き直り、立場を180度変えてしまった。海賊を鎮圧する側ではなく、海賊そのものになったのだ。推定42歳ころのことだ。従七位・伊予掾の官位は盗賊の中では異色で、彼はまもなく頭角を現し、936年(承平6年)ころまでには海賊の頭領となった。伊予の日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城として1000艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を広げた。

そして、一大勢力となった彼は攻勢に出る。朝廷に対し叛乱を起こしたのだ。当初は各地で官軍を撃破し優勢だったが、次第に劣勢となり追い詰められ、941年(天慶4年)、藤原国春に敗れ、九州大宰府に敗走した。なおも追討軍の小野好古らの追撃を受け、その後、伊予・日振島に脱出するが、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)の手で逮捕された。遠保は純友を京に護送するつもりでその身を禁固したが、獄中で死亡した。その死因は不明だが、自害かも知れない。

 純友らはなぜ叛乱を起こしたのか?純友らの武装勢力は、純友と同様、元は海賊鎮圧にあたった者たちで、鎮圧後も治安維持のため土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層だ。とくに親分株の者は氏素姓のある連中だった。彼らは親の世代の早世などによって、保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者たちだった。しかし、彼らは自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのだ。こうしてみると、この叛乱は律令国家の腐朽と弱体を白日の下に晒したものだった。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

藤原仲麻呂・・・自分の栄達だけを考えた野心家の“脆さ”を露呈

 藤原仲麻呂は、温厚な兄、藤原豊成とは異なり、自身の栄達だけを考えて、次から次へと抜け目なく行動する野心家で、孝謙天皇との強いきずなを利用して、邪魔者を次々と抹殺していった。その結果、孝謙天皇からは「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、異例のスピードで出世し、重く用いられ頂点へ昇りつめたが、あっけなく滑り落ちた。藤原各家の争いと兄弟との出世争いがからみ、彼には悪役イメージが色濃い。現代風に表現すれば、出世頭のサラリーマンが最後の詰めを誤って失敗し、株主総会で罷免されてしまった人物-というイメージか。

 藤原仲麻呂は南家・藤原武智麻呂の第二子。彼が藤原京の邸に生まれたのは706年(慶雲3年)、祖父藤原不比等が48歳の大納言の頃だった。兄豊成は3歳、父武智麻呂は27歳で大学助から頭(かみ)になった年だ。そして、一家が平城京に引っ越したのが仲麻呂5歳のときだ。仲麻呂は幼い頃から頭がよく、勉強もよくしたらしい。「史書」や「漢書」など中国の史書も好きで、母方の親戚の大納言阿倍宿奈麻呂の邸に通って、算術も学び得意だったようだ。3つ違いの兄豊成に対して、常に次男としてのハンディを感じつつ育った。その感覚が兄を巻き返すエネルギーを生んでいき、自分がのし上がる手立てを模索するようになる。

 聖武天皇の死後、他の貴族たちがあたふたとしている間に、仲麻呂は光明皇后、阿倍内親王・皇太子に近づき、二人を常に激励することによって信用を得ていた。749年(天平勝宝元年)大納言となり中衛大将を兼ね、さらに光明の皇后宮職が拡大強化されて「紫微中台(しびちゅうだい)」という新しい機関が設置され、彼はその長官・紫微令に任じられた。この紫微中台は、単に孝謙天皇の後見役をするための役所ではなく、実質的に国政の中心となっていった点が重要なポイントだ。つまり、紫微令・藤原仲麻呂は、太政官の上に立つ絶対的な権限を握ることになったのだ。そして、以後ここを基盤として勢力を広げていった。

 758年(天平宝字2年)、孝謙天皇は大炊王(おおいおう)に譲位し太上天皇となった。大納言、藤原仲麻呂はこの大炊王に亡き息子、真従(まより)の未亡人、粟田諸姉(あわたのもろあね)を娶らせ、自邸の田村第に住まわせていた。その関係で、この大炊王=即位後の淳仁天皇は事実上、仲麻呂の計略によって擁立された天皇だったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。そして、仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、遂に正一位にまで昇りつめた。

 仲麻呂は淳仁天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見え始めた。琵琶湖畔の保良離宮で静養していた孝謙太上天皇は看護禅師、道鏡と次第に親密な関係になっていった。淳仁天皇がこれを見咎めると、上皇は激怒して762年(天平宝字6年)、平城京に戻ると法華寺に出家して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じたのだ。

 そうした事態の急転に驚き、仲麻呂は反乱を企てたが、まもなく発覚。上皇方から追討の兵を向けられるとともに、官位や藤原の姓、職分や功封も剥奪されることになった。すべてを失った仲麻呂は近江へと敗走、越前に入ろうとしたが、764年(天平宝字8年)、近江国高島郡で一族ともども捕えられ、妻子とともに殺害された。野心家の仲麻呂は、攻めには強かったが、いったん守勢に回ると焦りまくり、“墓穴”を掘った。そんな、あっけない転落だった。

それだけでは済まなかった。中宮院にあった淳仁天皇も捕えられ、仲麻呂との共謀を指弾されて淡路へと流された。そのため、天皇は淡路公、あるいは淡路廃帝と称される。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、黒岩重吾「弓削道鏡」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源 通親・・・権謀術数を駆使し厚顔に世渡りした汚辱の政治家

 源通親(みなもとのみちちか)は後白河天皇、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇の七朝に仕え、没後に従一位を賜るほどの働きを成し、村上源氏の全盛期を築いた、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家政治家だ。ただ、裏を返すと彼は節操もなく、七朝にもわたって仕えた変節の政治家で、収賄の大家だった。時の権力者にすり寄り、その都度、権力者の係累と婚姻関係を結んで勢力を伸ばすというやり方で、まさに権謀術数に長けた腐敗政治家だったのだ。

そして、こうした汚辱にまみれた公家政治家の印象とは対極にあるが、曹洞宗の開祖・道元禅師の父でもある。源通親は「土御門通親」、曹洞宗では久我(こが)通親と呼ばれている。彼の生没年は1149(久安5)~1202年(建仁2年)。

 源通親は村上源氏、父雅通は(まさみち)は内大臣、祖父は右大臣になっているから、まずかなりの家柄といっていい。しかし、摂政関白の座に就いて政治を左右し得る藤原氏の嫡流グループからみれば、明らかに一段劣り、たかだか伴食大臣の座にありつくといった役どころだ。10歳で叙爵、17歳で従五位上、19歳で右少将となり、ごく普通の出世ぶりだった。叙爵の2年前に保元の乱(1156年)が起こり、11歳で平治の乱(1159年)をみている。物心ついたとき、すでに争乱の時代は始まっていたのだ。乱が収束すると同時に、平清盛がめきめき頭角を現してきたのも見逃せないことだった。

 いつの時代も名門の子弟には二つのタイプがある。最初から勝負を投げて出世を諦めてしまうのと、ひどく抜け目なく立ち回って要領よく割り込んでしまうタイプだ。そして、後者の場合は小面憎いほどの技巧を駆使してみせる。通親はもちろん後者だ。公家社会のしくみも、その泣きどころも心得たうえでの、彼の巧妙な作戦は、右少将になる以前からすでに始まっていたようだ。

彼の最初の作戦計画は、大物・実力者の娘にターゲットを絞ったラブハントだ。彼がまず狙ったのは大納言花山院(藤原)忠雅の娘だが、忠雅はやがて内大臣から太政大臣へと昇進する。その意味では通親は見事に出世株の娘を手に入れたわけだ。

 既述の通り、通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。また、節操もなく恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。彼は平家が勢いを得はじめると最初の妻を簡単に捨てて、清盛の姪(清盛の弟・教盛の娘)を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばし、高倉天皇の側近の地位を築いた。そして1179年(治承3年)、蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。同年の清盛による後白河法皇幽閉と、その後の高官追放(治承三年の政変)の影響を受けて参議に昇進。以仁王の乱の追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、摂関家の九条兼実や藤原定家を代表とするその周辺と対立した。

 ところが、一転、平家が総帥・清盛の死後、落ち目になると、今度もまた二度目の妻を捨てて、高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についたのだ。彼には人としての“情”というものがなかったのか、見事というか、浅ましいというか、あきれるばかりの変わり身の早さだ。

 そして、驚くことにこの範子が高倉天皇の第四皇子、尊成(たかひら)親王の乳母だったのだ。この皇子・尊成こそ平家とともに都を離れた安徳天皇の後を襲って皇位に就いた後鳥羽天皇だった。やはり、彼には時代を見る目の鋭さがあったのか。以後、彼は後鳥羽天皇の忠実な側近として、廟堂の奥深くにじわじわと食い込んでいく。

 その後、後鳥羽天皇が譲位し、土御門天皇の御代になると、しばらくして通親は内大臣となり、後鳥羽院の別当を兼ねるのだ。これまでの廟堂のいざこざは、天皇側と上皇側の間の円滑さを欠くことから起こったものだが、彼は院と天皇と両方の権力を掌握してしまったのだ。事実上いまやすべての権力を彼が握ってしまった格好だった。

 さて、そこから次に彼がやろうとしていたことは何だったのか?残念なことに、縦横無尽の彼の活動に終止符が打たれるため、この先はない。頓死だった。53歳だった。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界 西国の権謀家たち」、永井路子「絵巻」

山城屋和助・・・維新後、名を変え陸軍省の長州人脈に暗躍した政商

 山城屋和助は明治維新後、名を変え、陸軍省の長州人脈に深く入り込み、軍需品納入で大儲けするようになってからの政商的商人としての名前だ。彼の本名は野村三千三(みちぞう)。後年、陸軍省から預かった公金で生糸相場に失敗。預かり金65万円を返済できず、陸軍省内で割腹自殺した。これが、彼が引き起こしたと一般的にいわれる山城屋事件だが、この事件の全貌については、彼の経歴・活動とともに謎に包まれた部分が多い。生没年は1837(天保8)~1872年(明治5年)。

 野村三千三は周防国(山口県)玖珂(くが)郡山城荘(やましろのしょう)本郷村で、医師、野村信高(玄達)の四男として生まれた。8~9歳のとき母、父を相次いで失った。1851年(嘉永4年)ごろ萩の浄土宗の寺、竜昌院に預けられ、その後出家、僧侶となって諸国を遍歴した。

 文久年間(1861~1864年)に帰郷。1863年(文久3年)に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した「奇兵隊」に入隊。下関砲撃事件に参加。戊辰戦争には山県有朋の部下として参戦、越後口へ出征し小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれる。ここまでが野村三千三としての人生だ。
 明治維新後、野村はどのような経緯があったのか定かではないが、山城屋和助と名を変え、志を転じて商人となる。横浜に店舗を構えて、幕末、「奇兵隊」入隊以降、親交のある山県有朋を介して長州人脈と結びつく。この人脈を活かした、軍需品納入の商売は大繁盛した。陸軍省からの預かり金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商人となった。さらには諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得たのだ。

 政商として大いに自信をつけた山城屋和助の欲望には、もう際限がなくなっていた。山城屋は1871年(明治4年)、貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年帰朝した。1872年(明治5年)、山城屋は山県ら長州系の官僚に陸軍省公金15万・を借り、生糸相場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 しかし、山城屋は不運にも、普仏戦争勃発の影響によるヨーロッパでの生糸価格の暴落で大きな損失を出してしまう。そこで山城屋は陸軍省からさらに公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとしてフランスに渡った。ところが、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使、鮫島尚信が日本の外務省に報告。これにより、山城屋への総額65万円に上る公金貸し付けが発覚したのだ。世にいう山城屋事件だ。

 陸軍省では当時、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山県有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋にはもはや借りた公金を返済する能力がないことだけが明らかになっただけだった。その結果、山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を絶った。

窮地に立たされた山城屋は、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山県への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は万策尽きたと判断し、陸軍省内部の一室、教官詰所で割腹自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。1872年(明治5年)のことだ。この自殺により山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。ただ山県への疑惑は強く、司法卿・江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年遂に山県は陸軍大輔をも辞任して責任を取った。明治初期の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件だ。

(参考資料)井上清「日本の歴史 明治維新」

柳沢吉保・・・綱吉の寵愛受け大老格に大出世、引き際鮮やかな策士

 柳沢吉保は、初めは小身の小姓だったが、徳川第五代将軍綱吉の寵愛を受けて、異例の大出世を果たし、元禄時代には大老格として幕政を主導した。その出世の裏に何かからくりがあったのか。柳沢吉保に“悪役”の世評が多いのはなぜか。

 吉保の悪役イメージの一つは、忠臣蔵ドラマで事件の黒幕・悪役として描かれることが多いためだ。事実、1701年(元禄14年)の江戸城松の廊下での吉良上野介に対する浅野長矩の刃傷事件の、幕府の裁断には綱吉はもちろん、綱吉の側用人だった吉保の意向が関係していたといわれる。また、彼には側室をめぐって、主君綱吉との間で尋常ではない噂もあったからだ。

 柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。母は安忠の側室・佐瀬氏。彼は房安、佳忠、信本、保明、吉保、そして保山と頻繁に改名を繰り返している。別名として十三郎、弥太郎(通称)とも呼ばれた。長男だったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父安忠の娘婿)、柳沢信花が養嗣子となって継いだ。吉保は館林藩主を務めていた徳川綱吉に小姓として仕えた。このことが、後の出世のきっかけになる。

 柳沢吉保が異例とも言える“出世街道”を走ることになるのは、1675年(延宝3年)、家督相続し、これを機に保明(やすあき)と改名してからのことだ。1680年(延宝8年)、徳川四代将軍家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられた。その後、綱吉の寵愛を受け頻繁に加増され、1685年(貞享2年)には従五位下出羽守に叙任。1688年(元禄元年)、将軍親政のために新設された「側用人」に就任。禄高も1万2000石とされて、遂に大名に昇ったのだ。

 そして1690年(元禄3年)に老中格、1698年(元禄11年)には大老が任ぜられる左近衛権少将に転任した。1701年(元禄14年)は彼にとって極めてエポックメーキングな年となった。主君・綱吉の諱の一字を与えられ吉保と名乗ることになったのだ。出世はまだ続く。1704年(宝永元年)、綱吉の後継に甲府藩主の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となった。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていた。それだけに甲府藩主になったということは、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど、激しく寵愛していたことを如実に物語っている。

 吉保にも誇るべき閨閥があった。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から、朝廷にも影響力を持ち、1702年(元禄15年)、将軍綱吉の生母、桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白・近衛基煕など朝廷重臣たちへ根回しをしておいたお陰だった。綱吉の“引き”と、こうした功績がものをいったか、1706年(宝永3年)には遂に大老格に昇りつめたのだ。

 しかし、“幸運児”吉保にも陽の当たらなくなるときがくる。1709年(宝永6年)、吉保の権勢の後ろ楯ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。吉保に代わって、新将軍家宣の側近、間部詮房(まなべあきふさ)、儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは急速に失われていった。こうした状況を敏感に察知して吉保は自ら幕府の役職を辞するとともに、長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。その結果、その後、吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。吉保の見事な引き際のお陰ともいえる。綱吉近臣派でも、その地位に留まろうとした松平輝貞や荻原重秀らは、新井白石らと対立して、免職のうえ減封の憂き目に遭っているだけに、極めて対照的だ。

 俗説によると、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だという。そして、一説には吉里は綱吉の隠し子だともいわれる。もちろん、真偽のほどは定かではない。ただ、幕閣で権勢を誇った重臣で、次の将軍の下で生き抜くことや、家督を継いだ子供の世代に全く減封されることもなく、務め上げられるケースは少ないだけに、その背景・仔細を勘ぐりたくなる。前将軍・綱吉の近親者なら…と納得するところだが、事実は闇の中だ。

(参考資料)池波正太郎「戦国と幕末」

弓削道鏡・・・称徳天皇の支援のもと、法王にまで登り詰めた異例の怪僧

 弓削道鏡は761年(天平宝字5年)、近江保良宮で孝謙女帝の病を治して寵を得て以後、政界に進出。764年(天平宝字8年)、恵美押勝が失脚し、女帝が重祚して称徳天皇となると仏教政治を展開。彼は僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣に相当する、太政大臣禅師という前例のない地位に就き、766年(天平神護2年)には法王にまで昇り詰めた。

法王などというのは、それ以前に聖徳太子が後世の人たちから称せられた以外に例はない。待遇としては天皇に準ぜられる地位なのだ。そして、さらに道鏡は、宇佐八幡神の神託によって、皇族以外がなったことのない天皇の地位に、あわや手が届こうとするところまでいってしまったのだ。そんな道鏡という人物が、実際にはどれほどの人物だったのか?孝謙女帝との関係の真相はどうだったのか?宇佐八幡の神託事件は誰によって仕組まれたのか?

 孝謙天皇は749年(天平勝宝元年)、31歳の、夫のない処女の身で即位した。それは父、聖武天皇に皇位を継ぐべき男子がなかったためだ。この点、皇后であったり、皇太子が幼かったり病弱だった場合、皇太子が即位し得る条件が整うまで皇位に就いた、それまでの女帝(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正)とは明らかに異なる特殊なケースだった。

 坂口安吾の作品「道鏡」によると、孝謙天皇は即位の後に、皇后職を紫微中台と改め、その長官に登用した大納言藤原仲麻呂に恋をした。50歳を過ぎた仲麻呂に対する、40歳近い女帝の初恋だった。母光明皇太后が死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。しかし、母の死後は歯止めがなくなり、仲麻呂を改名して「恵美押勝」と名乗らせ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいという、政治も恋も区別のない、でたらめな許可を与えた。すべては愛しい男、藤原仲麻呂=恵美押勝に惹かれていたからだ。

 一方、道鏡は河内国弓削郷の豪族・弓削氏の出身で、安吾によると幼時、義淵(ぎえん)について仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛城山に籠って修法錬行し、看病薬湯の霊効に名声があった。下山後は東大寺に入り、内道場に入った。

 当時の僧は宮中の高貴な女性たちがいるところまで入り込んで、病気を治す祈祷をし、マッサージや揉み治療までもして、薬の知識も持っている。つまり、医者と薬剤師と祈祷師と坊さんとを兼ねた存在だったのだ。道鏡は、初めは女帝の病気を治すために宮中へ招かれた。761年、孝謙天皇の病を治してからは、にわかに政界に進出。そんな道鏡に惹かれるのに反比例して、女帝の中での押勝像が歪んでいく。押勝は、女帝と道鏡の結びつきを怖れ、女帝を怨み、嫉妬心に苛まれ失脚を怖れ、狂っていった。その果てに企てたクーデターが失敗し、死んだ。

 女帝(孝謙上皇)は淳仁天皇の後を襲い、法体のまま重祚して称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師という前代未聞の官職に就いた。さらに翌年、太政大臣禅師となり、二年後法王となった。これに伴い、地方の中小豪族に過ぎなかった弓削一族も中央政界に進出した。道鏡と女帝との関係は単なる寵臣以上のものがあったとみられ、ここから女帝が道鏡を皇位に就けようとする事態に発展した。この計画は藤原百川らを中心とする律令貴族の暗躍と、和気清麻呂の儒教的倫理観によって失敗したが、女帝にとって道鏡はそれほどに重く、愛しい存在だった。

 しかし、770年(宝亀元年)、女帝が53歳で崩御すると道鏡の命運も尽きた。彼は罪を問われ、まもなく下野国薬師寺別当として流され没した。弓削一族も枢要な地位にあった者は土佐に流された。

(参考資料)黒岩重吾「弓削道鏡」、村松友視「悪役のふるさと」、杉本苑子「対談 にっぽん女性史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

由比正雪・・・巷にあふれた浪人救済計画が、なぜか“謀反の挙”に

 由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。

 由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)~16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。

楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。

 こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。

正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。

正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。

 正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、山本周五郎「正雪記」、 武田泰淳「油井正雪の最期」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」、小島直記「無冠の男」

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」