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安田善次郎・・・日本最初の民間銀行の発足など安田財閥の創始者

 天保9年(1838)10月、富山藩の下級武士、安田善悦の家に、長男岩次郎が誕生した。後の安田財閥の創始者、安田善次郎である。父は武士とはいえ、先祖伝来の武家ではなく、士分の株を金で買ったもので、それも御長柄と呼ぶ最下位の身分だった。 安田岩次郎は、上級武士と出くわして雪の中に土下座する父の姿と、上級武士を駕籠脇に従えた、大名貸ししている大阪の両替商の店員の姿をみて、金を儲けて何が何でも千両分限(資産家)になるぞと決意。そして、商人として成功するにはやはり江戸へ出る必要がある-と密かに決心した。

 彼は跡取り息子なので、とても親の許しが得られまいと考え、こっそり家を抜け出した。しかし一度目は失敗してすごすごと帰ってきた。だが2年間、岩のように黙って働いたが、やはり江戸へ出たいという思いは募る一方だった。しかしいくら頼んでも許されないので、二度目の家出を敢行した。安政3年(1856)、江戸市中に入った岩次郎は、その巨大さに目をみはった。想像を絶する家数の多さと人口の巨大さと驚くほどの繁盛ぶりに圧倒された。しかし、それだけにここなら稼げるという思いも深まった。彼はかねてから目をつけていた富山出身の銭湯主を訪ねて、手伝いをさせてほしいと頼み込んだ。銭湯を手伝っているうちに、日本橋の乾物屋の小僧に就職した。ところが、富山出身者を頼ったため、郷里の父にたちまち居所が知れてまたもや連れ戻されてしまった。

しかし三度目の正直で、安政5年(1858)、今度は父を説き伏せて、ようやく晴れて江戸へ旅立った。今度は玩具問屋に奉公した。毎日、岩次郎は天秤棒を担いで得意先へ玩具を卸して回った。足掛け3年勤めてやっと慣れたところで、主人夫婦に娘婿に望まれ、自分が跡取り息子なのでこれを断り、日本橋小舟町の広田屋に再就職した。広田屋は両替と海産物の販売を兼ねていた。両替といっても金銀貨を銅貨や鉄銭と引き替えて手数料をもらうという、いわゆる銭両替商で細かい商売だった。ここでもよく働いたが、3年経つと彼は考えた。このまま奉公していたのでは千両分限はおろか、十両の金も貯まらない。といって、手元にある3両の金では資本金になりそうになかった。

そこで彼は煙草をやめ、これまで趣味で集めていた煙草入れを売り払った。広田屋の退職金と持ち金合わせた25両で、横浜の町で見かけたスルメの山に賭けた。博打のようなものだったが、これを江戸へ運び売り、17両儲けた。その結果、42両の資本金となった。ここで彼は三つの誓いを立てた。
その一、他人を頼らず、一日も早く独立して商人として身を立てること。

その二、虚言を排し、正直に世渡りすること。
その三、生活費は収入の八割をもって充て、残金は貯蓄すること。

彼は日本橋の表通りに露店を出すと、戸板の上に小銭を並べて、道行く人の両替を引き受けた。元治元年(1864)3月、ようやく乗物町に間口三間半、奥行き五間半の小店をみつけて一カ月二分一朱の家賃で借り受けた。いよいよ一軒の店を持つ身になったので、父の名を一字もらって善次郎と改名した。安田善次郎の誕生だ。

慶応2年(1866)、彼は年間4000両の利益を上げ、その2年後には番頭と手代7人、下女3人を雇う江戸有数の両替商にのしあがって、2000両の資産家となっていた。当時、多くの富商・名家が明治維新の“大波”に足許をすくわれ、回収不能のため業績を落とし、どんどん脱落していった。これに対し、善次郎は巧みに変動期を利用し、財を成した。

明治12年(1879)3月、大蔵省出納局収税預り人となり、明治13年1月には安田商店を改組、国立銀行条例によらぬ日本最初の民間銀行、安田銀行を発足させた。先にスタートさせた第三銀行とは組織が違うが、その違いを巧みに使い分けて伸びていく。

安田はまた、朝野新聞主筆の成島柳北らとともに共済五百名社をつくった。日本での生命保険会社だ。銀行と保険会社を揃え、いよいよ金融資本としての体制を固めた。そして、これを機に東京商法会議所(いまの商工会議所)議員と府会議員をやめた。このとき安田は43歳。普通ならそろそろ名誉職や公的なポストがほしくなる頃だが、安田は仕事師として徹するために社外の役職から降りたのだった。明治12年11月、日本最初の貿易金融機関である横浜正金銀行(後の東京銀行、いまの三菱東京UFJ銀行)を発足させた。

 こうして一流実業家の仲間入りをすると、築き上げた財産をいかに子孫に遺すべきか考え、明治45年、資本金1000万円の合名会社“安田保善社”を設立して、全関係事業の統括機関とした。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、邦光史郎「剛腕の経営学」

秋山真之・・・日露戦争でロシア艦隊を全滅させた天才・参謀

 明治37~38年(1904~1905)の日露戦争、日本の連合艦隊司令官は東郷平八郎、この海戦に完勝したことによって、アドミラル・トーゴーの名は世界中に喧伝され、イギリスの名将ネルソンと並んで東郷は海戦の歴史を語るうえで欠かすことのできない英雄になった。東郷は確かに傑出した提督だった。ただ、彼を司令長官に任命したのは海相山本権兵衛で、実際の作戦を立案指導したのは、一参謀だった秋山真之だった。

極言すれば司令長官が別人でも、その人が秋山に作戦を委ねていれば、ほぼ同じ結果を得たのではないだろうか。何故ならこの日本海海戦でロシア艦隊を全滅させ、日本海軍の損害は小さな水雷艇三隻のみという、奇跡的な圧勝をもたらしたのだから。昭和20年までの軍部の歴史の中で、これほどの先見性と洞察力を持った軍人は、秋山一人だった。

 秋山家は子だくさんで、男5人女1人に恵まれた。二男と四男は他家へ養子に行き、三男の好古は陸軍に入り、日露戦争のときは騎兵部隊の指揮官として大いに活躍した。海軍に入った真之は明治元年(1868)3月20日、松山藩士秋山久敬の五男として生まれ、大正7年(1918)2月に病死した。享年50歳。武士は明治維新後の廃藩置県で、いわば失業したようなものであり、秋山家も生活は苦しかった。

 陸軍士官学校に入って軍人となった好古が卒業後に任官し、15歳の真之を呼び寄せ、大学予備門に入れた。この学校は後の第一高等学校だ。つまり東京帝国大学へ入ろうとするものは、予備門に入ることが多かった。真之は松山以来の友達の正岡子規と一緒に下宿して予備門に通ったが、19歳のときに海軍兵学校を受験して、55人の合格者のうち15番目の成績で入校した。大学へ行くには学資が必要で、それを好古に負担させまいとしたのだ。軍隊の学校なら、衣食住の全部が支給されるし、少額でも給与がつく。真之は明治22年に海軍兵学校をトップで卒業した。入校したときは15番だったが、それ以外は毎学年、彼は常にトップだった。

 明治36年6月、秋山真之はアメリカ留学の辞令をもらい渡米する。学校での授業は退屈で、得るものは少ない。そこで彼は戦術の大家として知られたマハン提督を訪ね個人的にレッスンを受ける。この中で海戦だけでなく、陸戦も含め古今の実戦を詳しく調べ徹底的に研究することを教えられた。また海図に将棋の駒のような軍艦の模型を配置して行う兵棋演習で、実戦の疑似体験を積む方法があることを知った。さらに、アメリカとスペインがキューバの独立をめぐって戦争を始め、幸運にも秋山は観戦武官として従軍した。この戦争のあとイギリス出張を経て帰国し、海軍大学の教官になった。

 明治37年2月10日、ロシアに対し宣戦布告。秋山は東郷司令長官の下で作戦主任参謀だった。彼の上に参謀長がいるが、作戦の立案は彼に任されていた。旅順のロシア艦隊は戦力的には日本とほぼ対等だったが、本国のバルチック海に旅順艦隊と同程度の艦隊を持っていた。当面は旅順艦隊対連合艦隊の戦闘になるが、もしバルチック艦隊が極東へ回航してくれば、ロシアの戦力は日本の2倍ということになる。したがって、日本としては同等戦力のうちに旅順の敵艦隊を全滅させ、やがて到着するはずのバルチック艦隊に備えておく必要があった。それも、旅順艦隊とは損害ゼロで完勝することが求められた。

 味方が砲撃される機会を減らし、相手を砲撃する時間を増やす。このテーマに答えて考え出されたのが、山屋他人中佐の半円戦法だった。一列に進んでくる敵に対し、こちらは右へ半円形を描いて展開する。秋山はこの半円戦法を改良して「丁字」戦法を考え出した。丁の字、あるいはカタカナの「イ」の字でもよい。一列に進んでくる敵に対して、その進行方向を遮るように進むのだ。丁字戦法は敵の行く手を遮るから、双方が遠ざかるということはない。その代償として、味方の先頭艦が一列になった敵艦から集中砲火を浴びる危険があった。ただ、それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の各艦から、敵の旗艦に砲火を集中できる。ある意味で皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る戦法だった。

(参考資料)吉村昭「海の史劇」、生出寿「知将 秋山真之」、三好徹「明治に名参謀ありて」、加来耕三「日本補佐役列伝」                    

小林一茶・・・ “不幸の塊”52歳で初めて妻帯した忍従の俳人

 俳人・小林一茶は“不幸の塊”のような人物だった。3歳で実母に死に別れ、8歳のときやってきた継母にいじめ抜かれ、この母に子供が生まれてからは、ますます折り合いが悪くなった。そのため、15歳のとき江戸に奉公に出された。江戸では「わたり奉公」して食いつなぐ生活の連続で、暮らしが楽であるはずがない。父が病気になったので見舞いに帰郷するが、継母や義弟とはうまくゆかず、父の死後は遺産のことでゴタゴタし、この問題は長く尾を引いた。やっと遺産問題が決着し、一茶が故郷へ戻るのは50歳のときだ。妻を初めて迎えたのはその2年後、52歳のときのことだ。

生涯、一つの考え方にこだわって妻帯することなく過ごした英傑は少なくない。だが一茶の場合、そうではない。世間一般の親子揃っての、慎ましやかな暮らしさえできず、故郷でようやく落ち着いた暮らしができると思い、初めて妻を迎えたとき、世間的に表現すれば人生の大半を終わっていたということなのだ。

 小林一茶は信濃北部の北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生まれた。本名は小林弥太郎。生没年は1763(宝暦13)~1828年(文政10年)。3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えた。この継母に馴染めず、15歳のとき江戸へ奉公に出された。江戸では「わたり奉公」で食いつなぐ、苦難の生活を続けた。25歳のとき、二六庵小林竹阿に師事して、俳諧を学んだといわれる。ただ、この点については確かな史料は全くない。
 29歳のとき、故郷に帰り、翌年から36歳まで俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが、1カ月ほど後に父は死去。以後、遺産相続の件で、継母と12年間争った。この間、一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつ、遺産相続権を主張し続けた。

 50歳で再度、故郷に帰り、その2年後28歳の妻「きく」を娶り3男1女をもうけるが、悲しいことにいずれも幼くして亡くなっている。その妻「きく」も痛風がもとで、37歳の生涯を閉じている。2番目の妻、田中雪を迎えるが、老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうけた。ただ、「やた」は一茶の死後に生まれたもので、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。

 1827年(文政10年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活するようになり、同年その土蔵の中で、“不幸の塊”のような、65年の生涯を閉じた。
 一茶の俳諧俳文集『おらが春』は1819年(文化2年)、一茶が57歳のときの一年間、故郷での折々のできごとに寄せて詠んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものだ。『おらが春』は時系列に沿って書き記された日記ではなく、刊行を意図して構成されたものだ。さらに一茶自身、改訂や推敲を重ねたが、未刊のままに留まっていたものだ。表題の『おらが春』は白井一之が本文の第一話の中に出てくる「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)から採って名付けたものだ。一茶の代表的な句として、よく知られている

・我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやのないすずめ)
・名月を取ってくれろとなく子哉(めいげつを とってくれろとなくこかな)
などはこの作品の中に収められている。

(参考資料)藤沢周平「一茶」

大隈重信・・・政治的力量・人間的魅力を備えた実力派の政治家

 大隈重信は政治家と教育者の2つの顔を持っている。政治家としては大久保利通没後、参議筆頭となって殖産興業政策を推進、いわゆる大隈財政を展開し、第八代および第十七代内閣総理大臣を務めた。また彼は周知の通り、早稲田大学(当時の東京専門学校)の創設をはじめ終生、教育事業に力を尽くした。国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述など広く明治文明の推進者としての功績を持っている。大隈の生没年は1838(天保9)~1922年(大正11年)。

 大隈重信は肥前国・佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子(みいこ)夫妻の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は知行400石の砲術長を務める上士の家柄だった。大隈は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色の『葉隠』に基づく儒教教育を受けた。だが、これに反発し、1854年(安政元年)同志とともに藩校の改革を訴えた。1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮に転じた。のち1861年(文久元年)鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

 1865年(慶応元年)、佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣とともに教頭格となって指導にあたった。また、フルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受けた。そして、京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

薩長土肥、明治維新に功績があった4つの藩だ。このうち、薩摩と長州は武力討幕を打ち出し、そのための政治活動をした。だが、土佐と肥前は違う。土佐は、戊辰戦争が始まる直前まで徳川氏擁護で動いていたし、肥前藩は政治的な動きは全くしていなかった。その土佐と肥前が、薩長と並び称されるようになったのは、戊辰戦争になってからの役割が大きかったからだ。

明治政府が本格的な仕事を開始すると、土佐藩の比重はまたあやしくなってくるが、肥前は出身者個々人の政治的力量によって、新政権の中で次第に重きを成していった。ここに取り上げる大隈重信はじめ、江藤新平、副島種臣らはみな抜群の政治的力量の持ち主だ。とりわけ大隈重信は財政や外交手腕と政治的包容力とで、薩長出身者をも配下に抱え込むほどの一大勢力を形成した。

大隈がその存在感を発揮したのがキリスト教処分問題だった。彼はこの問題で、英公使パークスと堂々とわたり合い談判したのだ。パークスは41歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、パークスは倒幕派にかけた天下のバクチで勝ったうえに、列国に先んじて明治政府を承認した功労者だ。半面、このことを恩に着せて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車を押そうとするところがあった。ところが、フルベッキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食抜きで6時間もの大激論をやり抜いた。

このとき通訳を務めたシーボルトが、後に三条実美や岩倉具視に「パークスもきょうの談判には大いに愕いて、これまで日本で大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官に少し尊敬の気持ちを加えたようです」と語ったのだ。そこで、大隈の評価が高まり、その後抜擢され出世していったというわけだ。

また、「築地梁山泊」とも呼ばれた大隈邸には井上馨、五代友厚、山県有朋、中井弘、大江卓、土居通夫、山口尚芳、前田正名、古沢滋など、ひと癖もふた癖もある豪傑たちが集まっていた。木戸孝允や大久保利通なども、ここに集まる連中の動向を大いに気に病んでいたという。ともかく、これほど癖のある人物たちをも引き付けるだけの人間的魅力が、大隈にあったということだ。
 大隈は、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場を取り、次いで大久保利通の下で財政を担当しつつ秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 葉隠嫌い」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

折口信夫・・・「折口学」で、「あの世」を明らかにしようとした巨人

 折口信夫は「あの世」とは何か?を考え、明らかにしようとした異様な人物であり、巨人だった。彼は「折口信夫」の名で国文学、民俗学、宗教学の論文を書き、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で詩や歌や小説を書いた。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称される。芸能史、国文学を主な研究分野としてはいるものの、折口の研究領域は既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。したがって、折口の研究および思想を一つの学問体系とみなしたものが「折口学」なのだ。折口の生没年は1887(明治20)~1953年(昭和28年)。

 彼は書くものにより、折口信夫と釈迢空の二つを使い分けた。漠然と学問的な著述には折口を、文学上の創作には釈を用いた。だが、彼の仕事の二つの方面が明解に分かれているわけではなかった。この二つを区別し難いところに、彼の発想の特異さがあった。学問において、彼の詩人的な想像力が実証の方法の届かない隅にまで浸透して、不思議なまでにまざまざと古代的世界を再現してみせる。だから、その学問といえども、彼の豊かな想像力の産物に違いなかった。

 折口信夫は大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。生家は医者と生薬(きぐすり)、雑貨を売る商家を兼ねていた。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉らとともに、短歌創作に励んだ。1905年(明治38年)、天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。国学院では国学者、三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京。国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。歌人島木赤彦を知って「アララギ」に入会。また、民俗学者柳田国男を知って深い影響を受け、進むべき道を見い出した。

 折口は1919年(大正8年)、国学院大学講師となり、のち教授として終生、国学院の教職にあった。1920年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行。1921年「アララギ」を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行した。折口の古代研究はこの時期の採訪旅行によって開眼した。1923年、慶應義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤めた。

折口は1924年、前年亡くなった三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講。またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋らの短歌雑誌「日光」に同人として参加した。1926年、長野県、愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5年)とその翌年、東北地方各地を旅した。1932年、文学博士となった。1948年(昭和23年)、第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌年歌会始選者となった。

 「常世」「貴種流離譚」「宮廷歌人」など、折口によって初めて提唱され、定着した概念は多い。しかし、折口学において最も重要かつ広く知られる概念は「客人(まれびと)」と「依代(よりしろ)」だ。冒頭に述べた「あの世」とは何かを解き明かすため、折口は語っている。ただ、難解で非常に理解しにくい。梅原猛氏によると、「あの世」の人は依代を目印に天からこの地上に降りてくる。その依代は「まとい」であり、「のぼり」だった。「あの世」の人はどういう形で「この世」にやってくるのか。それは「まれびと」すなわち客人としてやってくる。「まれびと」は遠い遠い彼方の「あの世」からやってきて、「この世」の人に恩恵を与えて、また「あの世」へ帰っていく。「あの世」とは地下の黄泉(よみ)の国であり、あるいは海の彼方の「ニライカナイ」だった。

 そして梅原氏は、折口自身が少なくとも「まれびと」が乗り移る依代であり、「まれびと」の言葉を語る能力を持っていた人ではないか-としている。折口の小説「死者の書」の中に出てくる。主人公・大津皇子が殺されて二上山に葬られ、その肉体は腐っていくのに、その霊は目覚めて、“言葉”を語る。大津皇子の霊にとって、それは“声”だったが、普通の人には聞こえない。そういう普通の人には聞こえない、声でない言葉がいつまでも続いている-とある。

「死者の書」は奈良・当麻寺の曼陀羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説だ。大津皇子が死んで神となり、次いで仏となり、恋人・耳面刀自(みみものとじ)の生まれ変わりである中将姫を二上山へ呼び寄せ、死霊としての阿弥陀仏と生霊である中将姫との交わりによって、あの有名な「当麻曼陀羅(たいままんだら)」という芸術を生み出すという物語だ。難解だが、折口の異様さの一端が分かるのではないか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小島直記「逆境を愛する男たち」、「日本の詩歌/釈迢空」

安積艮斎・・・学派を超え自由な学風を貫き、多くの著名な門人を輩出

 安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。

艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
 安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。

 艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。

 1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。

 艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

 艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

 このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
 艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
 著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

(参考資料)

石田三成・・・外征めぐり豊臣政権下、No.2同士の抗争で千利休に勝利

 豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?

 石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。

三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。

 正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。

 尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。

利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。

 朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。

 秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。

(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」

安倍晴明・・・「式神」を自在に操り、闇の世界を制した希代の陰陽師

 安倍晴明の生涯は謎に包まれている。『尊卑分脈』所収の安倍氏系図によると、右大臣安倍御主人(みうし)から九代目の大膳大夫益材(ますき)の子という。『公卿補任』大宝3年(703)の項に、閏4月1日、右大臣阿倍御主人が69歳をもって_じたことが記され、「安倍氏陰陽先祖也」と記されている。また、『続日本紀』巻三・大宝3年閏4月1日の条に、「この日、右大臣従二位阿倍朝臣御主人が_じた」と記されている。「阿倍」と「安倍」の表記の違いはあるが、阿倍御主人を安倍晴明の祖と考えてよい。

 晴明がどこで生まれたのか、実は全くわからない。ただ、没年と享年は分かっている。そこから逆算すると、生年は延喜21年(921)、没年は寛弘2年(1005)。享年は、当時としては驚異的な長寿といえる84歳。生地には3つの説がある。讃岐国(香川県)由佐、常陸国(茨城県)猫島、摂津国(大阪府)阿倍野の3カ所だ。この中では阿倍野説が有力視されている。

 後世の伝承によると、晴明は「式神」と呼ばれる精霊や神々を自在に操り、京の都に災いをなす悪鬼や悪霊を次々に退治したという。また時の権力者だった御堂関白、藤原道長にかけられた呪詛を打ち破り、自らも並ぶ者がないほど強い呪術力を持っていた。さらに「反魂(はんごん)の秘術」「生活続命(しょうかつぞくめい)の法」を操り死者を蘇らせ、あるいは「式占(ちょくせん)」を用いて都に起こる数々の異変を予言したとされている。

 『今昔物語集』巻第二十四「安倍晴明随忠行習道語」第十六は、天才陰陽師、晴明の並々ならぬ力のほどを見せてくれる。この説話は・少年時に鬼と出会った話・晴明の力を試そうとした老僧の話・蛙を殺した話・式神を使役していた話-の四話から構成されている。また、『宇治拾遺物語』も晴明の異能ぶりを伝えている。

 生前に彼が築いた権威は子孫に受け継がれ、後にそこから土御門家という一族が生まれた。土御門家はやがて従来、朝廷に仕える陰陽師の頂点に立っていた一族、賀茂家を圧倒し、陰陽道の宗家として君臨する。さらには、陰陽道と神道を習合させた土御門神道=安倍神道も成立した。そして晴明は、こうした後の信仰の象徴として神格化されていくのだ。

 陰陽道は古代中国で起こった「陰陽五行説」を土台にしている。陰陽五行説とは、対立する陰と陽の2つの気、そして木・火・土・金・水の五行によって、森羅万象を説明する思想のことだ。日本へは、古代律令国家が建設された時に中国の知識や技術とともに移入された。7世紀後半にはすでに「陰陽寮」と呼ばれる機関が設置され、陰陽五行説の研究、教育が行われていたらしい。

(参考資料)志村有弘「陰陽師 安倍晴明」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」