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源信・・・ 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧

 源信は平安時代中期、『往生要集』を書いて、浄土教の発展の基礎をつくった僧として有名だが、天台僧として『一乗要訣』という天台の中心教義「一切衆生皆成仏」の理論の完成者だった。周知の通り、彼は一条天皇から僧都の位を賜り、「恵心僧都」と尊称された。だが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。

 源信は大和国(現在の奈良県北葛城郡当麻)で生まれた。父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。950年(天暦4年)、信仰心の篤い母の影響で9歳のとき、荒廃した比叡山を再構築した中興の祖、慈慧大師良源(元三大師)に師事し、顕教、密教の奥儀を学んだ。そして、955年(天暦9年)出家、得度した。

956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。

源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。

観想念仏は浄土三部経の『観無量寿経』に説かれている方法で、阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することによって、念仏を行うというものだ。現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。これは貴族の好みと一致した。観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。

1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。道長は死に際して、法成寺の本堂に床を敷き、本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。これほど源信が勧めた観想念仏は貴族たちを虜にしたのだ。

こうした事績が認められて源信は権少僧都となった。しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退した。また比叡山の腐敗体質にも失望して、名刹を離れて、横川の恵心院へ隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んだ。臨終にあたって、源信も阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。

源信の浄土信仰の影響は法然、親鸞にも受け継がれている。源信は、浄土真宗では七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」「源信大師」と尊称される。親鸞は『高僧和讃』において七高僧を挙げており、うち2人は日本人だ。ちなみに七高僧とは龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然だ。
源信を境に、阿弥陀如来来迎図や浄土曼荼羅・仏像彫刻などの仏教芸術の最盛期を迎えることになるのだ。

 紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、この源信をモデルにしているとされる。
 このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

木戸孝允・・・“逃げの小五郎”時代を経て明治新政府の長州の代表者に

 木戸孝允は周知のとおり、西郷隆盛、大久保利通と並び称せられた「明治維新の三傑」の一人だ。確かに明治新政府における彼らの働きは群を抜いたものだった。薩・長・土・肥というが、これらの藩にはじめから統一した見解があったのではない。肥前は鍋島閑叟の態度にみられるように、完全に中立の態勢を取っていたし、土佐も山内容堂などは討幕に反対だった。坂本龍馬、中岡慎太郎ら家臣の一部が脱藩して、討幕に参加したまでのことだ。これに引き替え薩摩と長州は曲折があった後、連合し、新政府の推進力となった。この二藩が支えと成らなかったら、新政府は雲散霧消していただろう。木戸孝允の生没年は1833(天保4)~1877年(明治10年)。

 新政府で政局の中枢を握る者が、薩・長の二藩から出るのはまず妥当なことだった。長州を代表するのがこの木戸孝允だった。薩摩には西郷、大久保があるが、長州は木戸のみだった。長州藩に人材が少なかったのではない。維新後でいえば大村益次郎、もっと時代をさかのぼれば周布政之助、長井雅樂、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの人材があったが、1869年(明治2年)京都の旅宿で刺客に襲われて死んだ大村はじめ、すでにすべて亡くなっていたのだ。

 木戸孝允の比重は高まるのみだった。彼は1849年(嘉永2年)、吉田松陰の門弟となり、その後江戸に出て、志士たちの集まる斎藤弥九郎道場の師範代を務め、水戸や土佐の藩士たちとの交渉もあったほか、全国的な顔の広さを持っていた。それに江川英龍に洋式砲術を学び、蘭学を学び、西洋事情にも詳しく、名実ともに長州藩を代表し、新政府の方向付けにはなくてはならぬ人材だった。

 その木戸、以前の名で桂小五郎は剣の道でも一流を極めながら、自ら刀を抜いて勝負を争ったことは一度もなかった。用心深い彼は、常にそうした争いの場所を避けて通ったのだ。1863年(文久3年)八・一八の政変のあとの京都は、会津藩の見廻組や、新選組などが探索の目を光らせ、志士にとっては実に物騒な場所だった。木戸は絶えず住所を変えながら、警戒の目をかいくぐって働いた。だから、彼には“逃げの小五郎”というようなあだ名さえ付いていた。池田屋騒動のとき、蛤御門の戦い(禁門の変)のときもそうだった。

 木戸は開明的だったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほど、明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。

 長門国萩呉服町(現在の山口県萩市)で萩藩医、和田昌景の長男として生まれた。7歳のとき、桂家の末期養子となり長州藩の武士の身分と秩禄を得た。「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」だ。小五郎、貫治、準一郎は通称。「小五郎」は生家、和田家の由緒ある祖先の名前。「木戸」姓は第二次長・幕戦争前、1866年(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、司馬遼太郎「幕末 逃げの小五郎」、南条範夫「幾松という女」

幸徳秋水・・・田中正造の依頼で天皇への直訴状を代筆、冤罪で死刑に

 幸徳秋水は周知の通り、大逆事件で死刑になった。明治時代、政府に対し徹底的に批判した人物は、幸徳秋水の師、中江兆民をはじめ、田中正造など数多い。しかし、その死の多くは病死だ。ところが、幸徳秋水の死は死刑だ。絞首刑に処せられた。明治国家は幸徳秋水の存在を許さなかったのだ。それほどに幸徳秋水は徹底した反逆者だったのか。

 幸徳秋水は1871年(明治4年)、高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれ、1911年(明治44年)刑死した。幸徳家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家だった。本名は幸徳伝次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたものだ。生地の中村は、土佐の中では例外的に板垣退助の自由党よりも、大隈重信系改進党の力が強かったところだ。幼少の頃から神童といわれ、中学校に進んだ幸徳は、自由党熱にうかされた少年に育っていった。

幸徳が勉強を続けるために東京に出たのは1887年(明治20年)、17歳のときのことだ。林有造の書生となるが、保安条例によって東京を追放されて高知に帰った。1888年(明治21年)、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を発行していた中江兆民の学僕となり、大きな影響を受ける。ここで幸徳は初めてフランス流民権論を身につけることができた。やがて発布される大日本帝国憲法が真の人民の権利という見地からみると、全くお粗末なものであることを教えられたのも、兆民の同憲法に対する冷評によってだった。

1891年(明治24年)、再度上京し国民英学会を卒業した幸徳は、兆民の世話で『自由新聞』に入社して、経済的にどうにか一本立ちできるようになる。「秋水」という号はこのとき兆民が幸徳に譲ったものだ。秋水と名乗るようになった幸徳は、『広島新聞』『中央新聞』で論説を書いた後、1892年(明治25年)、黒岩涙香の『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社した。自信家の幸徳秋水は、存分に筆を振るう条件を与えてもらえないと、いつも不満で、勤め先を変えてしまうのだ。

黒岩涙香はスキャンダルに喰いついて離さず、『萬朝報』に徹底的に書きまくる。とりわけ政界上層部の名士たちが狙われ、庶民は大臣たちの私行暴露に拍手を送り、『萬朝報』の売れ行きはどんどん伸びていた。しかし、スキャンダルだけで売るのは限界がある。少しは理論的な筋を通さなければいけないと思っていたところへ、兆民の弟子として理論と文章力とを兼ね備えた秋水が現われた。黒岩にとっては大歓迎だし、秋水にとっては思う存分書かせてもらえるというわけだ。

 秋水が社会主義のグループと接触するのは、『萬朝報』に書くようになったお陰だ。秋水は早速「社会腐敗の原因及び其政治」という論文を載せ始めた。するとすぐに片山潜と村井知至の連名で、社会主義研究会に参加しないかという誘いのハガキがきた。秋水は喜んで入会し、毎月の例会に欠かさず出席、翌年には「現今の政治社会と社会主義」という報告を行うほどの積極的な会員となった。足尾鉱毒事件を告発した田中正造との出会いもこの頃だった。『萬朝報』は、農民を救えという論陣を張り続けた。

 衆議院議員を辞職し、天皇に直訴しようと決意した田中正造が、直訴状の代筆を秋水に頼みにきたのは、1901年(明治34年)の12月だった。なぜ秋水だったのかといえば、秋水の名文家としての名はこの頃すでに高く、とりわけ兆民の依頼で書いた「自由党を祭る文」は有名だったからだ。また、現実問題として田中が執筆を依頼した者たちが、後難を恐れて尻込みしたという側面もあった。そうした中、秋水だけが断らず書いたといわれる。

 秋水は日露戦争開戦時に社会主義新聞、週間『平民新聞』を創刊して、反戦の論陣を張った。のちクロポトキンなどの影響で無政府主義思想に傾倒。1910年(明治43年)、明治天皇暗殺計画の首謀者として権力によってでっち上げられ(大逆事件)、翌1911年(明治44年)、無実の罪(冤罪)のまま処刑された。代表的著作に『社会主義神髄』がある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「無冠の男」

紀貫之・・・ 『古今和歌集』の「仮名序」を執筆した歌人の第一人者

 紀貫之は、官人としては意外に知られていないが、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わり、恵まれず、不遇をかこった。だが、歌人としては極めて華やかな存在で、初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂にあたり、仮名による序文「仮名序」を執筆、当時、名実ともに第一人者となった。紀貫之の生年は866年(貞観8年)もしくは872年(貞観14年)などの説があり定かではない。没年は945年(天慶9年)。

 紀貫之は、紀望行の子、下野守・紀本道の孫として生まれた。幼名は阿古久曽(あこくそ)。紀友則は従兄弟にあたる。幼くして父を失ったためか、官職には恵まれなかった。宮中で位記(位階を授与する際の辞令)などを書く内記(中務省所属の官職)の職などを経て40歳半ばでようやく従五位下となり、以後、930年(延長8年)に土佐守に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭、従五位上に終わった。

 だが対照的に、貫之は歌人としては華やかな存在だった。892年(寛平4年)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目立つ存在ではなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。907年(延喜7年)の宇多法皇の大井川御幸は9題9首の歌を序文に献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠した。この間、藤原兼輔・定方の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めた。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇はすでに崩御されていたため、帰京後、序を付して手元にとどめた。

 貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したもので、日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

 貫之の最大の功績は漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある-といわれる。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。この歌の歌意は、「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。貫之の歌の中ではとくに有名な一首だ。

(参考資料)大岡信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「小倉百人一首」

児玉源太郎・・・格下げの参謀次長を引き受け、対露戦争に賭けた名参謀

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月、周防徳山藩廻役80石取りの児玉半九郎の長男として生まれた。徳山藩は萩の毛利本家の支藩で、そこでの80石という禄高は中級士族だ。幼名は百合若、のちに健、元服し源太郎と改名した。

しかし、そこまでの児玉は辛酸をなめ尽した。父親の半九郎が藩の重役に憎まれて謹慎を言い渡され、児玉が5歳の時、病死した。児玉家は半九郎の死後2年経ってから長女ヒサに養子巌之丞を迎え、名を次郎彦と改名して家督を継がせた。次郎彦は藩の助教を務めたが、元治元年(1864)京都・池田屋の変、禁門の変などを経て、尊攘派だった次郎彦は自宅前で保守派に斬殺された。児玉12歳の時のことだ。この後、児玉家は藩からわずか1人半の扶持しか与えられない身となり一家5人が親戚の家を転々とする、食うや食わずの極貧生活を送るはめになる。ただ、このローティーン時代の苦難が児玉の精神形成に大きく影響したことは間違いない。

 慶応元年(1865)7月、徳山藩の政情が一変した。本藩で高杉晋作が決起し佐幕派が一掃され、支藩の俗論党が退陣。藩政の主導権が次郎彦の属していた尊攘派の手に移り、13歳の児玉が次郎彦の跡目相続人として中小姓に取り立てられ、新知25石を賜ることになったのだ。異例の人事だった。

 児玉は明治4年8月に少尉、9月に中尉となり、熊本鎮台創設のとき大尉になった。すごいスピード昇進だが、もちろん長州出身だったからだ。以後、児玉は順調に出世した。

 明治16年、児玉は大佐に昇進し、参謀本部に入った。同18年、陸軍はドイツ陸軍からメッケル少佐を招き、近代的な戦略戦術はもとより、陸軍の軍制に至るまで教えを受けた。児玉は明治19年に陸軍大学の幹事になってから、メッケルの講義を聴き、メッケルとともに参謀旅行に同道した。参謀旅行とは机上の講義ばかりでは実戦の役に立たないと考えるメッケルが発案したもので、例えば関ケ原へ行き、東西両軍の配置などを想定し、実戦に即して、戦術を研究するやり方だ。

メッケルは、近代戦は新兵器や火力の優劣などの科学的要因と兵站能力が大きくモノをいうことは確かだが、その他に兵員の精神力という計算できないものが重要であり、参謀の想像力も精神力と同様、大切だと説いた。仮に前方に敵軍の布陣している山があるとする。参謀には目に見えない山の背後がどういう地形か、それを想像できる能力が必要だというのだ。参謀旅行に同道した陸軍大学の学生が残した記録によると、メッケルは「将来、日本の陸軍は陸軍の児玉か児玉の陸軍かというようになろう」というほどに、児玉の才能を高く評価していたという。

 児玉は後の旅順攻略戦の時、メッケルのこの時の教えを見事に実践する。彼は満州軍総参謀長として、強行しては失敗を重ね5万9000余名の死傷者を出した、乃木希典が軍司令官を務める第三軍を見るべくやってきた。乃木の司令部は最前線から遠かった。ロシア軍の砲弾の絶対に届かない安全なところにあった。そして、参謀たちは司令部を一歩も出ようとせず、最前線の状況を知ろうともしないで、死の突撃で部下を死なせたくない大隊長や中隊長が、強攻策に再考を求めると、「命が惜しいのか」と臆病者扱いしていた。この参謀たちは陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリートだったが、あくまでも机上の作戦家でしかなかったのだ。

 日露戦争が始まったとき、メッケルはすでにドイツに帰国していたが、彼はクロパトキンがロシア軍の最高指揮官になったのを知ると「児玉が勝つ」と予言した。クロパトキンは欧州各国にも名将として知られていたが、児玉は知られていなかった。しかし、児玉は下級兵士の心が分かるリーダーであり、クロパトキンはそれが分からないリーダーであることをメッケルは知っていた。メッケルにしてみれば、児玉が勝って当たり前なのだった。

 明治38年、満州での陸戦を勝利に導いた児玉は、密かに日本に戻り伊藤博文らの重臣や桂太郎首相、小村寿太郎外相らに、講和交渉を開始して一日も早くまとめるように忠告した。これは満州軍総参謀長の権限外の行為だが、日本軍がこれ以上の大規模な戦闘に耐えられないことを承知していたからだ。児玉としては、陸軍のことだけを考えればいい参謀から脱却し、いわば日本の運命を考える参謀にならざるを得なかったのだ。しかし彼は、日本国の名参謀になる前に、1年後の明治39年7月に脳出血で急死した。54歳だった。その後、神奈川県江の島に児玉神社が有志によって建立された。

(参考資料)古川薫「天辺の椅子」、三好徹「明治に名参謀ありて」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「志に生きた先師たち」

行基・・・“無私没我”の愛の行動だけが物語る高僧の事業や行為

 “行基菩薩”という呼び方がある。人間でいながら菩薩とまで尊ばれたケースは滅多にあるものではない。それだけ行基が80余年の全生涯を通じて、黙々と行った事業や行為が、人々に慕われ敬愛された証左といえよう。ただ、行基の場合、生い立ちについての記録はもとより、偉大な宗教家につきものの、誕生にまつわる奇跡譚のようなものも、さらに青・壮年期に入ってからさえ、個人的な逸話は全く残っていないのだ。人のために働き、人のために尽くし切る“無私没我”の愛の行動だけが、行基という僧の全貌を私たち後世の者に雄弁に物語っている。

 行基の体内には帰化人の血が色濃く流れている。父は高志才智(こうしさいち)といい、母は蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といった。どちらも先祖をたどると、中国系帰化人の家系だ。前漢の支配力が朝鮮半島に及んでいた当時、その出先機関に王姓の官吏が多数、赴任してきていたのは確かだから、それらのうち誰かが百済を経由する外交ルートで日本に迎えられ、文化的指導者の地位に就いたとみられる。この王氏の子孫から書(ふみ)氏なる一族が枝分かれし、さらに書氏から高志氏が分派したわけで、行基の血には生まれながらに、代々知的職能に携わってきた優秀な先進民族の血が流れていたことになる。

 行基が生まれたのは668年、天智帝の称制7年で、場所は河内の大鳥郡だ。現在の大阪府泉北郡と、堺市にまたがる辺りだ。彼は飛鳥寺の道昭について、得度剃髪した。15歳のときのことだ。道昭も、船氏の出身という来歴が物語るように、帰化人系の僧だ。造船技術に秀でていた帰化系エンジニアの集団が、船氏の俗姓を冠していたのだ。道昭は30歳のとき、留学生となって大唐国に渡り、玄奘三蔵から法相(ほっそう)の教学を学んだ。行基が弟子となったのは、帰朝後で道昭が54歳だった。

 造船だけでなく架橋や治水利水、建造物の構築などにも道昭は抜きん出た技術を持っていたといわれる。様々な土木工事によって、民衆の利益を図った実績が道昭にもある。若き日の行基はこの師について、法相宗の教学とともに、利他行(仏教でいう、他人の苦しみを救うために全能力を発揮する行為)の精神と技法を一心不乱に学んだに違いない。

 僧尼令の決まりに従って戒を保ち、勉学し続けてさえゆけば、やがていつの日か行基も寺主に補され上座に昇り、律師、僧都、僧正など僧界での僧位を次々に手にすることができたはずだった。しかし、道昭に師事し、利他の愛に目覚めた彼にとって、僧位や僧官の取得など無意味だった。未練なく行基は僧界での出世コースに背を向け、一介の在野の聖として、市井の塵の中へ入っていったのだ。

 それからの行基は、民衆の福利のために全力を挙げて働き出した。辻に立ち、路傍に座して、分かりやすく法を説き、貧しくよるべない人々の、不安におののく魂に光明を与える。一方、橋のない川には橋を架け、水利の不便さに泣く農民のためには灌漑用池の掘削を指導し、洪水の頻発する河川には堤防を造るなど、目を見張るばかり精力的に、実践活動に挺身し始めたのだ。

 仏の教えは渡来して以来、貧しい人々とは無縁だった。朝廷や政府の、仏教への対処のしかたは本質から大きく外れていた。当時の皇族、貴族らが、これこそ正しいことだと信じて躍起になったのは、堂塔伽藍の建立だった。仏像を造り、経文を写し、法会や儀式を整備し、僧尼令を公布するなど、見かけの飾りばかりだった。お陰で上っ面だけを眺めれば、仏教は未曾有の盛時を迎えたかに受け取れた。国分寺、国分尼寺が全国に建ち、教界の体制は確立して、日本も先進国並みの仏教国家になったのだが、形ばかりで心が伴わない、民衆からは極めて遠い存在だった。行基の偉大さは、様々な行動を通して仏教と民衆を初めてしっかり結び付けた点にある。
(参考資料)杉本苑子「決断のとき」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「美貌の大帝」

後藤新平・・・総理大臣を目前に、請われて東京市長に就任した真の政治家

 江戸時代後期の蘭学者、高野長英を大叔父に持つ後藤新平は、明治~大正時代の政治家で逓信大臣、外務大臣、内務大臣、鉄道院総裁などを歴任、総理大臣をも嘱望される存在だった。それにもかかわらず、請われて東京市長に就任し、国家の首都・東京のあるべき姿を、大きなスケールでグランドデザインした人物だ。

それだけではない。長年にわたって東京都政に手腕を発揮し、首都東京にふさわしい様々な事業を成し遂げた。政治家を志した後藤だっただけに、もし彼がその頂点である総理大臣の椅子にだけこだわる人間なら、どれだけ請われたとしても、東京市長に就くわけはない。後藤新平という人物の真骨頂はここにあるといっていい。後藤の生没年は1857(安政4)~1929年(昭和4年)。

 後藤新平は陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)の水沢藩士の後藤実崇の長男として生まれた。胆沢県大参事だった安場保和に認められ、後の海軍大将、斎藤実とともに13歳で書生として引き取られ、県庁に勤務。後に15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になった。

 後藤は政治家を志していたが、母方の大叔父の高野長英が弾圧された影響もあって、医者を奨められ、恩師、安場の勧めもあって17歳で福島の須賀川(すかがわ)医学校に気のすすまないまま入学した。

ただ、同校では後藤の成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして、愛知県の愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となった。後藤にとっては志とは違う進路だったが、ここで彼は目覚しく昇進し、24歳で学校長兼病院長となった。この間、岐阜で遊説中、暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。

 医師として、それなりに名を成した後藤だが、ここから彼は幼少時から志していた政治家への道に舵を切る。まず目指したのは官僚だ。1883年(明治16年)、後藤は内務省衛生局に入る。2年間のドイツ留学の後、1892年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。この間、相馬家の財産騒動に巻き込まれ、入獄も経験した。さらに1898年から8年間、児玉源太郎総督の下で、台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。その実績を買われて1906年(明治39年)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した。

 そして後藤は、いよいよ政治家への道に踏み出す。貴族院議員に勅選され、1908年第二次桂太郎内閣に入閣、逓信大臣兼鉄道院総裁に就任する。1912年(大正1年)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、1916年寺内正毅内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、後に外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。1920年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、1922年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923年)後の復興にあたっては、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に尽力した。

(参考資料)郷 仙太郎「後藤新平」、小島直記「無冠の男」、小島直記「志に生きた先師たち」、古河薫「天辺の椅子」

井原西鶴・・・1日で2万句を詠み10年で30作を著した元禄の鬼才

 井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。

 ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。

 西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。

 俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。

 西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。

(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」

島津斉彬・・・幕末・維新に活躍する人材を育て薩摩藩の地位を固める

 島津斉彬は幕末の開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材も育てた。そして、彼が積極的かつ強力に推進した薩摩藩の様々な近代化政策こそが、西南雄藩の中でも薩摩藩が主導的な立場を保つことができた遠因かもしれない。斉彬の生没年は1809(文化6)~1858年(安政5年)。

 薩摩藩の第十一代藩主(島津氏第二十八代当主)島津斉彬は第十代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれた。幼名は邦丸、元服後は又三郎。号は惟敬、麟洲。斉彬は、開明的藩主で中国、オランダの文物にも目を向け、洋学に造詣の深かった曽祖父、第八代藩主・重豪(しげひで)の影響を強く受けて育った。そのため、彼は洋学に強い興味を示した。

 オランダ医、シーボルトが長崎から江戸を訪れたときは、重豪は82歳の高齢ながら、自ら18歳の斉彬を伴って出迎えに行き、シーボルトと会見している。25歳で曽祖父の死を迎えるまで、斉彬はその向学心に大きな影響を受け、緒方洪庵、渡辺崋山、高野長英、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、戸塚静海、松木弘庵など当代一流の蘭学者やオランダ通詞、幕府天文方とも交流。洋書の翻訳、化学の実験なども行い、彼自身もオランダ語を学んだ。

そして、斉彬はまだ世子(後継ぎ)の身分でありながら、藩主の斉興とは別に、幕府老中・阿部正弘、水戸藩・水戸斉昭、越前福井藩・松平春嶽、尾張藩・徳川慶勝、土佐藩・山内容堂、伊予宇和島藩・伊達宗城ら開明派の諸大名とも親交を結んでいた

このことが周囲の目に蘭癖(オランダ・外国かぶれ)と映り、皮肉にも後の薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。「お由羅騒動」あるいは「高崎崩れ」と呼ばれる一連のお家騒動がそれだ。嫡男・斉彬派と、父・斉興の側室、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策する一派との抗争だ。

 事態は重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長薄の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)、らによって収拾され、斉興がようやく隠居し、1851年(嘉永4年)斉彬が藩主の座に就いた。斉彬43歳のことだ。周知の通り、まもなくペリーが浦賀に来航した。

しかし、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀前から起こった産業革命にあると見抜き、「日本はわずかに遅れているに過ぎぬ。奮起すれば追いつけぬことはない」として、薩摩藩を産業国家に改造すべく手をつけ始めた。まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そのうちの一隻、昇平丸を幕府に献上した。長さ11間、15馬力の機関を付けた蒸気船で、これが江戸湾品川沖に回航された安政2年、芝浦の田町屋敷で幕府の顕官、有志の諸侯その他が見学し、さらに芝浦海岸には数万人の江戸市民が押し寄せ、非常な評判になった。

 また、斉彬は藩政を刷新し、殖産興業を推進した。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った近代的工場「集成館」を設置した。集成館では大小砲銃はじめ弾丸、火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造。また製紙、搾油、アルコール、金銀分析、メッキ、硫酸など多岐にわたる品目の製造を行った。これらに携わった職工、人夫は1カ月に1200人を超えたという。このほか、写真研究もしている。幕府に対して日章旗(日の丸)を日本の総船章とすることを建議して、採用された。これらはいずれも当時、日本をめぐる国際情勢について、とりわけ外交問題についても斉彬が明確な認識を持っていたからだ。

 薩摩藩は表高77万石、日本最南端の僻地藩といっても、支配下の琉球を手始めに清国との密貿易、奄美大島ほかの砂糖きびを独占して大坂で売買することなどで莫大な利益を挙げ、蓄積していたといわれる。

(参考資料)加藤 _「島津斉彬」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、綱淵謙錠「島津斉彬」、司馬遼太郎「きつね馬」

最澄・・・天台宗の開祖だが、信念のため妥協許さない姿勢が孤立招く

 平安仏教の双璧といえば、いうまでもなく天台宗と真言宗だ。そして、それぞれの開創者がここに取り上げる最澄と、後に仲違いし、決別することになる空海だ。最澄は桓武天皇の信任を得て、804年(延暦23年)、遣唐使派遣の際、還学生(げんがくしょう)として入唐。空海もこのとき、留学生(るがくしょう)に選ばれ渡航した。二人は偶然、同時期に渡航することになったが、還学生と留学生であり、二人の待遇・立場は全く違っていた。最澄がはるかに上だったのだ。最澄は天台を学び、帰朝後、天台宗を開いた。

 最澄は近江国滋賀郡古市郷で三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた。幼名は広野。彼は12歳で同国の国師(諸国に置かれた僧官)行表(ぎょうひょう)について出家した。783年(延暦2年)、この俊敏な少年は得度し、15歳で法華経以下数巻の経典を読みこなしている。2年後に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて一人前の僧になったが、ほどなく比叡山に入った。彼は、先に帰化した唐僧鑑真がもたらした典籍の中の天台宗に関するものに導かれて、新しい宗派への関心を深めていった。15~18歳までの間に沙弥としての修行は十分積んでしまったと考えられる。彼は都に行って、大安寺でさらに高度の勉学に励んだとみられる。

 最澄の存在は仏家の間で注目されるところとなり、内供奉(宮中に勤仕する僧)の寿興との交際が始まり、797年(延暦16年)、彼は内供奉十禅師の列に加えられた。そのころから彼は一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助を得て、その業を完成させている。また、798年(延暦17年)に、初めて山上で法華十講をおこし、801年(延暦20年)には南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山に招いて、天台の根本の経、法華経についての講莚(こうえん)を開いた。日本における天台法華宗の樹立という彼の事業が法華講莚という最澄らしいスタイルで始まったのだ。

 最澄はこのころ、すでに和気広世(清麻呂の子)というパトロンを持っていた。広世は和気氏の寺、高雄山寺に最澄を招いて法華の大講莚を開いた。こうして和気氏は最澄を広く世間に売り出した。ただ、最澄自身は独自に天台法華宗の樹立への志向を胸に秘め、桓武天皇への接近を周到に準備していた。その意味で、桓武天皇の恩顧を受けていた和気氏は、最澄にとって天皇への有力な橋渡し役となった。最澄には前途洋々たる未来が拓かれていたはずだった。

 ところで、唐に渡った最澄は、還学生という立場から滞在期間わずか8カ月半という短さのため、直ちに天台山のある台州に向かい、そこの国清寺の行満から正統天台の付法と大乗戒を受けている。多数の経典を書写するなどして目的を達した一方、最澄は唐において密教が盛んになっていることに驚き、にわかに密教を学んでいるが、これは時間的に短すぎて成果を得られなかった。最澄が帰国後、唐で恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待って、接近していくのはそのためだった。

 最澄は空海より7歳年上で、仏教界でも先輩にあたる。だが、唐で密教を十分に学ぶことができなかったことを後悔し、自分よりはるかに地位が低い空海に対し、教えを乞うたのだ。というのも最澄自身、密教を学ばなければならない立場に置かれていたのからだ。

空海は最澄に、自分が恵果から学んだことを教えた。そして、最澄は改めて空海から金剛・胎蔵両界の灌頂を受けているのだ。空海、最澄の親密な関係は、こうしてしばらくは続いた。ところが、その後、弟子の一人、泰範をめぐるトラブルなどから二人の関係は険悪化、やがて決別する。

 また、最澄は高い理想を掲げながら相次ぐ挫折を強いられる。信任を得ていた桓武天皇が亡くなって後、平城天皇、そして嵯峨天皇の御世となった。最澄にとっては厳しい時代を迎えていた。詩文を愛好した教養人、嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変遷から置き去りにされた。それでも、最澄はひるむことなく、あくまでも気高く道を求めて止まなかった。空海が包容力に富んだ弾力性を持った生き方をしたのに対し、最澄はどちらかといえば、信念のためには一点の妥協も許さないといった態度を貫き通した。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したといえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、永井路子「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」、司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、北山茂夫「日本の歴史 平安京」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」