月別アーカイブ: 2013年12月

徳川家康・・・ケタ外れの忍耐強さと用心深さ・賢明さが天下人の要因

 徳川家康は周知の通り、江戸に幕府を開いた開祖だ。だが、3歳で母と生き別れ、6歳の幼さで人質として駿府へ送られた家康(当時は竹千代)。そして信長、秀吉の時代を耐え忍び、1600年(慶長5年)9月の「関ケ原の戦い」で勝利を収めるまでの苦難の道のりは、「長くて遠い道」だった。関ケ原後も即、徳川政権へ道が開かれたわけではなかった。通常、よく引き合いに出される織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ている。天下を取ったのは家康62歳のときのことだ。現代の62歳ではない。とても、尋常な生命力ではない。家康の生没年は1542(天文10)~1616年(元和2年)。

 関ケ原の戦いで家康が勝ったといっても、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の、筆頭であっても、地位はそのままだった。ところが、1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し、秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって、幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という、二つの政権が併存するという変則的な形となった。それでも大坂方には、家康が征夷大将軍になったのは当座のこと。秀頼様が成人した暁には、政権を戻すはず-という楽観論があった。

 ところが、その2年後、そんな大坂方の楽観論が無残に打ち砕かれる。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲ってしまったからだ。家康は、将軍職は徳川家が世襲すると内外に宣言したわけで、大坂方にはショックだった。

さらに追い打ちをかけるように家康は、天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越え、諸大名より一段上に立つための手を打つ。1606年(慶長11年)、家康は宮中に参内したとき、朝廷に対し「武家の官位は以後、家康の推挙なしには与えないように」と申し入れているのだ。すなわち直奏(大名家と朝廷との官位の直接取引)の禁止だ。戦国期のように、大名が金を積んで官位を買い取ることをできなくするとともに、大坂の秀頼が官位を左右することを防ぐためだ。これは、官位授与権の独占であり、このことによって、秀頼と家康の立場は完全に逆転したわけだ。

この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権の官僚・石田三成に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込む。秀吉が全国を統一してから、まだわずか25年後のことだった。周知の通り、徳川家15人の将軍による治世は265年を数えたことを思えば、極めて短命だったといわざるを得ない。

 また家康は、朝廷側にとって一言も弁明できない不祥事=朝廷の弱味を握ることで、対朝廷工作を有利に、主導権を持って進めることができたのだ。朝廷側の不祥事とは1609年(慶長14年)の宮中の「官女密通事件」だ。「宮中乱交事件」などともいわれているもので、後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで、やはり数人の中下級の青年公家たちとフリーセックスを楽しんでいたというものだ。この事件を家康は巧みに政治的に利用したのだ。

 この密通事件に対する家康の内意は、処罰は天皇の叡慮次第としたのに対し、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべし-との判断が下ったのだ。幕府や京都所司代が予想していなかった厳刑だ。古来、官女の密通事件は珍しいことではない。確かにこのときほど大掛かりな事件は未曾有のことだったが、処罰が斬罪にまでなった例はなかった。官位授与にあたって、強引な家康の申し入れを飲まざるを得ない、朝廷として弁解の余地がない不祥事を起こされたことに対する、天皇の怒りの激しさが窺われる。

 朝廷の劣勢は続き、この処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾数人に裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被ったわけだ。
 こうして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功。1615年、大名の力を抑える、巧妙な大名統制システムをつくり上げる前提となった武家諸法度に加え、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷の統制を図ったのだ。これは、天皇の行動まで規定した厳しいものだった。豊臣政権時代にはまず考えられなかったことだ。これによって、徳川の長期安定政権が実現されたといえよう。

 ここまで関ケ原の戦いに勝利した以後の家康の動きを見てきたが、そもそも戦国時代から安土・桃山(織豊政権)時代を経て、天下人・徳川家康が誕生するにあたって、家康のどのような点が優れていたのだろうか。
第一は忠誠無二で、最も良質な兵を持っていたことだ。戦国時代、最も良質な兵は武田氏の甲信兵と上杉氏の越後兵だが、家康の配下、三河兵も決してこれらに劣らず、あるいは優っていたとまでいわれる。

第二は家康の用心深い性格だ。幼いとき継母の父に裏切られ、長く他家の人質になっていたという悲しい経験がつくり上げたのだろう。彼は何度か、石橋を二度も三度も叩いて確実に安全であることを確かめてからでなければ渡らないことがあった。・それまで桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川勢が守っていた岡崎城に帰還したとき、主家の今川氏の許可なしには入城できないと、今川勢が引き揚げ、空き城になるまで待った・信長から同盟の申し込みがあったとき、・小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に帰服したときもそうだった。焦れた秀吉から、その妹と母とを人質に取ったうえで、やっと腰を上げて京へ赴き帰服したのだ。

 第三は、彼が真に勇気ある武将だったことだ。決断するまでは用心深く、臆病なくらいなのだが、いったん決心し戦場に臨むと、勇猛果敢に戦うのだ。その端的な例が「三方ヶ原の戦い」だ。京に上ることを決心した武田信玄が、家康の居城の近くを通ろうとしたとき、彼は一矢も射掛けないまま通したのでは、後世、徳川家は腰抜けと悪口をいわれるぞ-と配下に命じ、信玄に遮二無二、戦を仕掛けたのだ。結局、この戦いに彼の生涯に一度という惨敗を喫して、一命も危ういほどの目に遭うが、それでもこの戦いは、徳川家の武士の誇りと体面を保つ、彼の輝かしい戦歴の一つになった。
 第四は、家康が賢明さを持ち合わせた人物だったことだ。彼が小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍と対峙したときのことだ。秀吉軍約11万に対し、家康軍はわずか約1万8000だった。ところが、家康軍は局地戦では奇襲戦術で応じ、散々撃破したが、決して深追いせず、その後は素早く兵を引き揚げ、相手にならず、挑発にも決して乗ることはなかった。この合戦で実質上、天下人だった秀吉と休戦・講和に持ち込んだことが、その後どれほど家康を利したことか。

秀吉が終世、家康を憚ったのは主としてこのためだ。秀吉は合戦の場で、家康を破り、屈服させることができなかったことで、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道を閉ざされたわけだ。そして、家康のこの戦歴が後年、諸大名に対する無言の圧力となって効いてくるのだ。

合戦であの天下人となった太閤殿下(秀吉)に負けたことがなかった武将として、徳川家康は同列の武将から一歩抜きん出た存在として誰もが一目置かざるを得ない人物として、強烈に意識されクローズアップされるとともに、ついて従っていかざるを得ない状況がつくり出されることになるのだ

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」、司馬遼太郎「関ヶ原」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、今谷明「武家と天皇」

武田信玄・・・上杉謙信と武名を二分し、織田信長が恐れた武将

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第十九代当主で、戦国時代、越後の上杉謙信と武名を二分した名将だ。歴史に「…たら」「…れば」と仮定の話をしても仕方ないのは十分承知しているが、敢えて信玄があと10年健在だったら、歴史はかなり変わっていたのではないか-と考えざるを得ない。

果たして、織田信長の「天下布武」があったかどうか?そうなると、豊臣秀吉の天下は?とその後の歴史に?をつけてみたくなる。織田信長が、上杉謙信とともに最も恐れていた戦国大名、それが武田信玄だ。

信玄が人生の総決算として、戦国時代、とくに良質で屈強といわれた甲斐兵の大軍団を率い、満を持しての上洛の途上、病に倒れただけに、なおさらその可能性を膨らませてしまう。何しろ徳川家康は無謀な戦を仕掛け、惨敗して武田軍の強さに脅えているし、織田信長は初めから戦うことを放棄し、信玄の上洛を黙って見ているほかなかったのだから。

 武田信玄は甲斐国・躑躅ヶ崎館で第十八代当主・武田信虎の嫡男として生まれた。幼名は勝千代。諱は晴信。信玄は出家後の法名。信玄の生没年は1521(大永元)~1573年(元亀4年)。
 信玄は8歳のとき長禅寺という寺で手習いや学問を習った。上達が早く、一を聞いて十を知るというような利発な子供だった。玄恵法師が著したとされる『庭訓往来』を2、3日で内容をすべて学び取ってしまったといわれる。

 ただ、信玄が武田家の家督を継ぐまでには今日、信玄にとって理不尽で筆舌に尽くし難いほどの労苦が伝えられている。戦国武将の生い立ちをみると、本来、家督を継ぐはずの長子でありながら幼少期、様々な理由から意識的に疑問符を付けられ、その資格を剥奪され、廃嫡されかけた人物は少なくない。著名な例を挙げれば、織田信長がそうだし、伊達政宗もそうだった。ここに取り上げる武田信玄は、その極端な例といえる。

信玄の父、武田信虎は甲斐一国を統一したほど、戦(いくさ)上手だったが、最悪な性質で家来にも民にも忌み嫌われたと伝えられ、信玄を愛さなかった。信虎は弟の信繁を愛した。信玄にはことごとく辛く当たり、信玄が何かを言い返せば、言い返すほど叱責、罵倒の繰り返しとなった。信長の父、織田信秀や、政宗の父、伊達輝宗の場合は、まだ彼らを愛していた。それだけに救いがあったが、信玄の場合は救われようがなかった。

 このため、武田家の家臣団の動向もはっきりしていた。大部分の家臣が弟の信繁に傾き、信玄は子供の頃からバカにされていた。そこで信玄はそういう空気を察し、自ら“道化者”を装った。青少年時代の彼は、事あるごとに道化者の晴信として終始した。だから、武田家の家臣の多くは当然のことながら信繁に忠誠心がいった。

ところが、信玄にも忠臣がいた。甘利虎泰、板垣信方、飯富虎昌らだ。彼らは信玄の道化ぶりを信じなかった。むしろ、そういう道化者を自己演出している信玄の深慮ぶりに舌を巻いていた。そこで、彼らは陰となく日向となく信玄を支えた。

 やがて武田家臣団は、当主の信虎が能力の有無に関わりなく、私情の面で信玄を嫌っていると判断するようになった。その結果、家臣団の気持ちは信虎から離反、細心の注意と万全の準備をもって進められた、信玄による父、信虎の駿河追放は何の混乱もなく達成された。

 名実ともに甲斐国の国主となった信玄は隣国、信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と五回にわたる「川中島の合戦」を戦いつつ、信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有するまで、武田氏の領国を拡大した。

 信玄は戦争が上手だっただけでなく、政治的手腕も卓抜だった。彼は新しく占領した土地は、決して武士たちの行賞の対象にせず、自分の直轄領として民政に熟練した者を代官として治めさせた。そのため、新付の土地でも彼が生きていた間は決して離反しなかったという。晩年、上洛の途上に三河で病を発症し信濃で病没した。死因は労咳(肺結核)、肺炎、あるいは『甲陽軍艦』では胃がん、もしくは食道がんによる病死説が有力だ。

 江戸時代から近代にかけて『甲陽軍艦』に描かれた信玄の伝説的な人物像が広く浸透。“風林火山”の軍旗を用い、甲斐の虎または、彼が龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、謙信の好敵手としてのイメージが形成されたのだ。したがって、今日私たちが抱く信玄像には虚像の部分もあるのだろうが、信玄は立派な事績を残している。

 山梨県にはいまでも「信玄堤」と呼ばれる堤防がある。信玄は領国経営にも優れた力を発揮していた。治山、治水には「信玄工法」と呼ばれる技術を駆使した。甲州には釜無(かまなし)、御勅使(みだい)、荒川、笛吹などの暴れ川があって、しばしば氾濫した。信玄は国主になると、この暴れ川の鎮圧に乗り出したのだ。

 信玄の「座右の銘」がある。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」。この意味は、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる-というものだ。

 「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という言葉がある。これは良く知られている米沢藩主、上杉鷹山の言葉だ。だが、信玄はこれよりかなり前、鷹山とよく似た名言を残している。それは「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」だ。
 信玄の弟、信繁の分をわきまえた人物像にも少し触れておく。既述の通り、信繁は父に深い愛情を注がれて育ったが、それに乗らなかった。それが武田家を安泰にし、武田軍団を混乱させることなく、甲斐武田を戦国の雄たらしめたのだ。彼は学問が深く、有名な「武田信繁の家訓」九十九ヵ条を書いた。これは、元々信繁が自分の子供に宛てた戒めの書だが、実際には「信玄家法」あるいは「甲州法度」の下巻として扱われている。

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、童門冬二「武田信玄の人間学」、井上靖「風林火山」、新田次郎「武田信玄」、井沢元彦「逆説の日本史」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

徳川光圀・・・善政、数々の文化事業で評価高い半面、藩財政の重荷に

 徳川光圀は、徳川御三家の一つ、水戸藩二代藩主として善政を行い、30年の長きにわたりその座にあり、幕政にも影響力を持った時代もあったため、天下の副将軍、「水戸黄門」のモデルとして知られる。ただ、『大日本史』の修史事業に着手したことや、古典研究や文化財の保護など数々の文化事業を行ったことで、評価が高い半面、為政者としては膨大な資金を要する文化事業を行ったことで、光圀以降の代々の藩財政悪化の遠因をつくったと指摘する見方もある。徳川光圀の生没年は、1628(寛永5)~1701年(元禄13年)。

 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の十一男・十五女の第七子に生まれた。母は側室で、家臣谷重則の娘、久子。徳川家康の孫にあたる。諡号は「義公」、字は「子龍(しりゅう)」、号は「梅里」。三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀と改名した。

 1633年(寛永10年)、光圀は後に讃岐国高松藩主になる兄の頼重を超えて継嗣に決まった。名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に上り、当時の徳川三代将軍家光に拝謁。1636年(寛永13年)、9歳のとき将軍家光立ち会いの下、元服し家光の「光」の一字をもらい「光国」と名乗るようになった。1661年(寛文元年)父、頼房が亡くなり、34歳で第二代藩主の座に就いた。

 光圀は藩主として寺社改革や殉死の禁止、巨船「快風丸」の建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、民政にも力を入れ、勧農政策の実施、藩職制の整備、教育の振興などの善政も特筆される。殉死の禁止などは幕府に先駆けて行ったほか、藩士の規律、士風の高揚を図るなどの施策を講じた。とりわけ、五代将軍綱吉の時代には徳川一門の長老として幕政にも影響力を持った。

 光圀は藩主になる前、1657年(明暦3年)、江戸駒込の中屋敷の史局(後の彰考館)を置き、『大日本史』の編纂に着手したほか、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
 1690年(元禄元年)、家督を兄・頼重の子供の綱条(つなえだ)に譲った後、久慈郡新宿村(現在の常陸太田市)に西山荘を建てて隠居した。ただ、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持った。

 光圀は『大日本史』の編纂に必要な資料収集のため家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから、テレビ番組でお馴染みの「水戸黄門」の諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録がない。

 光圀は学者肌で好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本で最初にこの光圀が食べたとされるものも少なくない。ラーメンはじめ餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがそうだ。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍綱吉が制定した「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。鮭も好物でカマとハラスと皮をとくに好んだといわれる。吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

 晩年、光圀は子孫のために九カ条の訓戒『徳川光圀壁書』を残している。
一.苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
一.主人と親は無理(をいう)なるものと思え、下人は(頭の働きの)足らぬものと知るべし
一.掟に怯(お)じよ(法令を恐れよ)、火におじよ、分別がなきものにおじよ、恩をわする事なかれ
一.欲と色と酒をかたきと知るべし
一.朝寝をすべからず。咄の長座すべからず
一.(ものごとは)九分(どおりしてのけても)にたらず、十分はこぼるる
(やりすぎてもいけない)と知るべし
一.子ほど親を思え、子なきものは身にたくらべ(くらべ)て、ちかき手本と知るべし
一.小さき事は分別せよ、大なる事に驚くべからず(小さいと思える事でも、よく考えて処理せよ、大きな事であっても慌ててはならぬ)
一.(思慮)分別(する)は堪忍あるべし(堪忍に勝るものはない)と知るべし

(参考資料)尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三    
      郎「徳川吉宗とその時代」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

高野長英・・・鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。

翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。

長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。

当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。

長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。

しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。

天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。

というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。

その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。

長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学ぶ」、
      山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

竹本義太夫・・・人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。

 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。

 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。

 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。

 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。 
 
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。

 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津太夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀長・・・人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。

 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。

 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。

秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。

 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180・を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。

 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。

 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。

 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

高橋是清・・・波乱万丈・七転び八起きの「ダルマ蔵相」紙幣にも

 高橋是清は明治・大正・昭和期の政治家・財政家で、第二十代内閣総理大臣(在任期間7カ月)を務めた。だが、“高橋財政”とも呼ばれる積極的な財政政策が特徴の、歴代内閣で何度も務めた大蔵大臣としての評価が高い。そのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」「だるまさん」と呼ばれて親しまれた高橋の人生は波乱万丈、まさに「七転び八起き」の表現がピッタリの人生だった。そして不幸なことに、蔵相として軍事費抑制方針を打ち出したことで軍部と対立し、1936年(昭和11年)、「二・二六事件」で暗殺された。高橋是清の生没年は1854(嘉永7)~1936年(昭和11年)。

 高橋是清は幕府の御用絵師、川村庄右衛門の庶子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれたが、生後まもなく仙台藩士高橋是忠の養子となった。その後、成長して横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現在の明治学院高校)で学んだ。だが1867年(慶応3年)仙台藩命で海外留学することになって、彼の人生は波乱に満ちたものとなる。

不幸のスタートは、渡航費・学費を騙し取られた13歳のときだ。その後の暗転の主なものを挙げると1.騙されてアメリカでの奴隷同然の生活を経験 2.芸妓の“ヒモ”同然の生活3.相場詐欺に遭う4.鉱山開発の詐欺に遭う-という具合。それでもその都度、立て直したり、そのうち手を差し伸べる人物が現れる。例えば、苦労を重ねてアメリカから帰国(1868年)後、その後の人生の出発点となる誘いがかかる。1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となったのだ。

それだけではない。高橋は英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した海軍中将、秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現在の経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍。農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整備している。1887年(明治20年)のことだ。

 高橋が財政家となるスタートは40歳直前のことだ。1892年(明治25年)、日本銀行に入行。そして1899年(明治32年)、日本銀行副総裁になった。46歳のときのことだ。それから5年して、彼は日露戦争(1904~1905年)の外債募集の大任を担ってロンドンに渡った。この難題に見事な手腕を発揮、13億円の調達に成功したのだ。その後、横浜正金銀行頭取などを経て、1911年(明治44年)には遂に日本銀行総裁に就任した。

 後に高橋が、「ダルマ蔵相」の愛称で慕われ、財政のプロフェッショナルとして“高橋財政”と呼ばれる積極的な財政政策を断行するのは、何度も歴代内閣で蔵相を務めるからだ。第一次山本権兵衛、原敬、田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田裕介の各内閣で蔵相を歴任している。加藤高明内閣では農商務相、そして立憲政友会総裁、さらに1921年(大正10年)には内閣総理大臣を務めている。
 高橋は歴代日銀総裁の中で唯一、その肖像が日本銀行券に使用された人物でもある。1951~1958年にかけて発行された五十円券がそれだ。それだけ、国民の間で人気が高かったからだ。

 1936年(昭和11年)、二・ニ六事件で高橋は暗殺された。彼を殺害すべく高橋邸を襲ったのは、近衛歩兵第三連隊の陸軍中尉中橋基明だった。邸内に兵数十人を率いて押し入った中橋を、高橋は「馬鹿者!」と言ったとも、「何をするか!」と怒鳴ったともいわれている。83歳の老人に対し、中橋は拳銃七発を浴びせて即死させた。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 天運の人」、三好徹「明治に名参謀ありて」、小島直記「志に生きた先師たち」、小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

近松門左衛門・・・竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)

 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。

 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。

 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。

 近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。

 1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。

 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。
(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」

高橋泥舟・・・鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。

 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。

 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。

以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。

 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。

 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。

 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸無血開城」