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津田梅子・・・維新直後、米国留学した、新しい時代の女子の全人教育の創始者

 明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団がアメリカに向けて出発したが、このとき59人の留学生一緒に横浜港を出帆している。この59人の留学生の中に、北海道開拓を目指して設立された開拓使が募集した5人の女子留学生も含まれていた。しかし、明治4年といえば、まだ一般庶民にアメリカのことは知られておらず、開拓使の募集に対しても、締切日までには一人の応募者もなかったという。そこで、再度募集し、ようやく次の5人が集まったというわけだ。

 東京府士族吉益正雄娘 亮子(15歳)
 静岡県士族永井久太郎娘 繁子(9歳)
 東京府士族津田仙弥娘 梅子(8歳)
 青森県士族山川与十郎妹 捨松(12歳)
 新潟県士族上田峻娘 悌子(15歳)

 ここで注目されるのは、彼女たちの父親および兄がいずれも士族で、幕臣ないし戊辰戦争のとき薩長を中心とした官軍に敵対した藩の藩士だったという点だ。外務省筋から強い勧めがあったのか。
 さて、海を渡った5人の少女は、それぞれアメリカの家庭にホームステイの形で預けられ学校に通ったが、年長の二人、吉益亮子と上田悌子は早々に健康を害し、途中で帰国してしまった。10年という予定の留学期間を全うしたのは残りの三人だった。ただ、彼女たちが帰国したときには開拓使そのものが廃止されて、北海道での女子教育を担うという、所期の目的そのものがなくなってしまっていた。結局、山川捨松は後、陸軍元帥となる大山巌と結婚し、永井繁子も海軍大将瓜生外吉と結婚した。純粋に教育畑を歩き続けたのは津田梅子ただ一人だった。

 梅子のホームステイ先はアメリカ東部ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅だった。彼女は足掛け12年間にわたって寄留し、ランメン夫妻は彼女を実の娘のようにかわいがったという。彼女はアーチャー・インスティチュートに在学し、10年目に帰国期限がきたとき、卒業まであと一年あったので、留学延長を申し出、結局帰国したのは明治15年(1882)のことだった。19歳になっていた。
梅子は8歳のときに渡米し、アメリカでは一切日本語をしゃべらない生活をしていたので、日本語を全く忘れてしまって、帰国後、しばらくの間は梅子の妹が通訳を務めていたというほどアメリカ人になりきってしまっていた-というエピソードがある。

 津田梅子は帰国してしばらくの間は英語教師をしていたが、明治22年(1899)、華族女学校教授在官のまま再びアメリカに渡り、ブリンマーカレッジに選科生として入り、生物学を専攻。その留学中、指導にあたったモーガン教授と共同研究を行った成果をまとめ、日本女性として初めての科学論文「蛙の卵の発生研究」を発表している。つまり、津田梅子は自然科学者として認められていたのだ。明治25年に帰国、華族女学校教授に復帰し、請われて同31年には女子高等師範学校の教授を兼ねている。ところが、同33年(1900)7月、37歳の梅子は両校の教授を突然辞めている。自分が考える新しい時代の、新しい女学校を創るためだった。

 その新しい学校は女子英学塾だ。学校といっても、塾生が10名という小さな塾だった。開校式が行われたのはその年の9月14日で、東京の麹町区一番町(東京都千代田区一番町)の借家でスタートした。アメリカ留学仲間の大山捨松が援助し、梅子が留学中キリスト教の洗礼を受けて聖公会に所属していたので、その関係者やアメリカ人の友人たちが無報酬で授業を手伝ってくれた。塾生たちはめきめきと力をつけ、その評判によってさらに塾生が集まり、同37年(1904)には専門学校に昇格した。

 ここでの教育のポイントの一つは英語教師の免状取得だが、もう一つはキリスト教精神による教育だった。語学力をつけるだけでなく、明治女学校の巌本善治や新渡戸稲造を招いて講演してもらったり、時事問答の時間を設けて、全人的な教育が試みられていたのだ。こうした個性を生かした教育を実践するためには、私立でなければ難しいと判断したのだ。

 女子英学塾創立後も彼女は何度か長い外国旅行をしている。アメリカの最新の情報を得るためだった。こうした無理がたたったのか、大正6年(1917)、病に倒れ、その後は遂に教壇に立つことはできなかった。そして、昭和4年(1929)8月、亡くなった。
 その後、昭和8年(1933)津田英学塾、同18年(1943)津田塾専門学校と改称。戦後、1948年、津田塾大学となり、今日に至っている。 
              
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

樋口一葉・・・近代以降で最初の職業女流作家

 今日ではごく当たり前の女流作家。しかし、明治初頭、どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会・環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。

一葉は、現在の東京都千代田区の長屋で男2人・女3人の5人兄妹の第五子、次女として誕生。父・樋口則義は、南町奉行配下の八丁堀同心だった。そんな士族の娘である誇りが彼女を支え、恐らく彼女を凛とした女性にしたのだ。

ただ父・則義は、本来は甲州(現在の山梨県)農民で、株を買って入り込んだのだ。父は妻あやめ(後、たき)とともに出奔同然に村を捨てて江戸に出た。下僕をしたり、旗本に中小姓として仕えたり、妻あやめは旗本屋敷の乳人奉公をしたりして蓄財をした。やがて、彼らは八丁堀同心浅井竹蔵の三十俵二人扶持の株を買って、樋口為之助と名乗った。あやめは「たき」と名を変えた。

しかし、そんなに簡単に株を買えるのか。司馬遼太郎氏は「株を買うのに二、三百両は要ったろうし、そんな金が武家奉公の蓄財でできるはずもない。借金したとすれば、樋口家の宿業(しゅくごう)ともいうべき貧乏は、これが原因だったに相違ない」と記している。

父は明治20年、一葉が16歳のとき警視庁を退職し、その翌年、事業を興そうとして失敗した。これが樋口家の借金をさらに増やすことになった。遂に明治22年、破産し、その年に父は病没した。
その結果、一葉は17歳の若さで戸主として一家を担う立場となり、生活に苦しみながら、わずか24年8カ月の生涯の中で、とくに亡くなるまでの1年2カ月の期間に作家として完全燃焼。森_外、幸田露伴はじめ明治の文壇から絶賛された「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など日本の近代文学史上に残る秀作を残し、肺結核で死去した。生没年は1872~1896年。一葉は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。

少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類を読み、7歳のときに曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1881年、上野元黒門町の私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まず退学した。これは彼女の母・多喜が女性に学業は不要だと考えていたからだという。

ただ、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。これを機に一葉は中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し歌、古典を学び、後に東京朝日新聞・小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学んだ。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。

一葉の処女小説は桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した『闇桜』。桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、一葉も次第に桃水に恋慕の感情を持つようになるが、二人の仲の醜聞が広まったため、桃水と別れる。二人とも独身だったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮が強かったためだ。この後、一葉はこれまでと全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、彼女の出世作となった。

ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い、自然主義文学に触れ合った一葉は、「文学界」で『雪の日』など複数作品を発表。1894年『大つごもり』を「文学界」に、翌年1月から『たけくらべ』を7回にわたって発表し、その合間に「太陽」に『ゆく春』、「文芸倶楽部」に『にごりえ』『十三夜』などを相次いで発表した。1896年、「文芸倶楽部」に『たけくらべ』が一括掲載されると、_外や露伴から絶賛を受け、一躍注目を浴びる存在となった。

一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、「樋口一葉」(ちくま日本文学全集)

平塚らいてう・・・日本の女性解放運動・婦人運動の指導者

 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
これは明治44年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌『青鞜』の創刊号に、平塚らいてう自身が書いた冒頭の有名な文章だ。

今日では青鞜社の結成は「女性たちの近代的自我の目覚め」と高く評価されるが、当時、世間は青鞜社に対し好意的な目で見ていたわけではない。近代になったといっても、家族制度は江戸時代までと全く同じ封建的なものだった。これまでと少し変わったことをすると、「女だてらに」「女だから」と世間の冷たい視線にさらされ、攻撃され批判を浴びる。そんな女性蔑視の、既成の家庭道徳なるものを、らいてうらは少しずつ打破しようとしていたのだ。

『青鞜』創刊号の表紙は、らいてうと日本女子大学在学中、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子(後に高村光太郎と結婚)が描いているほか、与謝野晶子(第七回で紹介)も歌を寄せている。この後、5年余り続く『青鞜』の主な執筆者をみると、田村俊子、福田英子(第五回で紹介)、岡本かの子、吉屋信子、野上弥生子、伊藤野枝、山川菊栄、山田わかなどかなり豪華なメンバーだった。

らいてうは大正3年(1914)、画学生で彼女より5歳年下の奥村博と同棲を始める。正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲だった。ここにも、らいてうの、既成の家庭道徳への挑戦があった。しかし、奥村博の発病、そして長男の誕生と家庭の重みから、編集を若い伊藤野枝に任せ、らいてうは第一線から身を退かざるを得なくなった。奥村との間にらいてうは2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

だが、らいてうが抜けてしまっては、やはり青鞜社は成り立たなかった。『青鞜』の1913年2月号に福田英子が寄せた「婦人問題の解決」という文章の中で「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりませう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁処分を受けたのだ。『青鞜』は大正5年、52号まで出したが、財政難で廃刊となり、青鞜社そのものも解体した。

しかし、らいてうはそのまま婦人運動から遠のいてしまったわけではなかった。大正8年(1919)、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、自宅を事務所として「新婦人協会」を発足させた。青鞜社がどちらかといえば上流婦人のサロン的文芸サークルの雰囲気があったのに対し、この協会は「婦人参政権」の獲得を目指すという社会運動としてスタートしたところに大きな特徴があった。
らいてうは昭和に入っても活動を続け、婦人消費組合運動を推進し、敗戦後は平和運動にも一定の役割を果たした。

平塚らいてうは東京府麹町区三番町で3人姉妹の3女として誕生。本名の平塚明(ひらつかはる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。生没年は1886~1971。父の定二郎は会計検査院の院長も務めたエリート官僚であり、彼女自身もお茶の水高等女学校、日本女子大学家政科を卒業。

ふつうならば、そのままいいところにお嫁に行くというのがお定まりのコースだったが、彼女が通っていた英語学校で、教師の森田米松と出会い、その後の人生が大きく変わった。二人は恋に堕ち、すでに妻子があった米松と悩みに悩んだ末、心中未遂事件を起こすことになった。当時の古い家庭道徳からすれば、妻子ある男に恋をし、心中に引きずり込んだのはけしからん、ということになる。既述の通り、彼女が後に青鞜社を組織し、女の自立を呼びかけるようになる原点は、ここにあったと思われる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

福田英子・・・明治から大正時代の婦人解放運動の先駆者

 福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11~12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。

 小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。

彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。

彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。

英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。

彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。

未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。

こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。

1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

紫式部・・・王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女

 紫式部は、この時代としては世界的にも稀有な王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女だ。「源氏物語」は現在、世界で20カ国を超える言語に翻訳され読まれている。その高い世界観や人間観察は、後世の文学にも大きな影響を与えたと思われる。

 本居宣長は『源氏物語』を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞したし、折口信夫はこれを怨霊およびそれへの鎮魂の小説と解した

 紫式部は越前守藤原為時の娘で、生没年は推定974~1014。22~23歳で山城守藤原宣孝と結婚。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るとき、後を追いかけそうな情を示したこと、家格、学識の高い立派な男性だったこともあって、20歳以上も年上の宣孝の愛を受け入れたといわれる。結婚して翌年、賢子が生まれ幸せなときを過ごし、どこにでもいるような平凡でかわいい若奥さんだった。

だが、その結婚生活は3年と続かなかった。夫の宣孝が死んで、運命が狂わされてしまう。それ以後、性格がガラッと変わって、物思いにふけり、他人を突き放すような女になってしまうのだ。若奥さんのときは、継子(ままこ)をわが子同様、よく面倒をみたりする優しい面もあったのに、この落差がすごい。

 夫の死後、一条帝の中宮彰子に召されて出仕した。この折の宮中内での見聞、体験を物語の中に散りばめたのが「源氏物語」の作品になったと思われるが、その高い世界観、鋭い人間観察、文明批評はその当時としては驚異的だ。

「源氏物語」は表からみれば光源氏の好色な生活を描いたものだが、裏からみれば源氏が愛した女たちへの六条御息所の怨霊の復讐と、それに対する源氏の側からの鎮魂を、物語を貫く黒い糸としていることは間違いない。

 源氏物語の哀切で美しい世界と正反対なのが「紫式部日記」。清少納言など同時代の女房たちへの底意地の悪い批評、自慢話、思わせぶりなど、ドロドロとした女性の心の内面がうかがえて興味深い。この時代の女性の心情や生活をきちんと理解するには、「源氏物語」と「紫式部日記」の両方を読み解くことが必要だ。

紫式部は教養深くて、おしとやかで、10年足らずで「源氏物語」のような傑作を書いた女性だけに、とても近寄り難いと思われる。だが半面、「紫式部日記」でホンネを吐露した格好で、かえって親近感を持たせている面があるかもしれない。

 「源氏物語」の世界観は、一口で言えば無常観だ。紫式部が無常観に取りつかれたのは、何といっても疫病の蔓延など当時の不安におののく社会情勢がその背景にある。それと最愛の夫をあっという間に失ったからではないかと考えられる。そういう周囲の変化が彼女の性格を変えさせたのだ。無常観は、当時のインテリの最先端の思想で、紫式部はそれを見事に文学に結晶させたのではないか。

(参考資料)永井路子対談集「紫式部」(永井路子vs清水好子)、清水好子「紫式部」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、梅原猛「百人一語」

                             

阿野廉子・・・わが子を後醍醐天皇の後継ぎにするために画策?

 阿野廉子は最も後醍醐天皇の寵愛を受け、3人の皇子を産んでいる。そして、この中で誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出しし、画策したと伝えられている。実際はどうだったのか。

 ところで、後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中では比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれた子が皇子17人、皇女15人になる。子を産まなかった女性はカウントされていないので、実際に性的関係を持った女性は何人に及んだのかは分からない。

 「太平記」の表現から推察すると、やはり20人の女性の中でも後醍醐のご指名ナンバーワンは阿野廉子だった。廉子は阿野公廉の娘だった。生年は正安3年(1301)説、乾元元年(1302)説、応長元年(1311)説など諸説あるが、後に後醍醐の子供たちを産んだ年齢から考えると、応長元年説は成り立たず、正安3年か乾元元年かのどちらかかと思われる。

 彼女の運命が大きく変わることになったのは、文保2年(1318)8月の、中宮禧子の入内だ。このとき、廉子が禧子について上臈として宮中に入ることになった。正安3年誕生説をとれば18歳、乾元元年説をとれば17歳のことだ。「太平記」の表現がそのままだとすれば、彼女はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになったのだろう。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子、恒良親王を産み、嘉暦元年(1326)に成良親王、同3年(1328)には義良親王を産んでいる。したがって、このころの後醍醐の寵愛を一人占めしていた観がある。

 ただ、廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だったのではないかと思われる。だからこそ、後醍醐が隠岐へ流されるときも、彼女を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行ったのではなかろうか。

 後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると、・尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良-の各親王だ。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに、中宮禧子の子はいなかった。ただ、護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって、実際の軍事行動のかなりの部分を担っており、現実に一時的にではあるが、征夷大将軍にも補任されているのだ。ある意味では後醍醐の後継者の最短距離にあったといってもいい。

 ところが、建武元年(1334)正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良ではなく、廉子の長子、恒良だった。つまり、後醍醐は実力ナンバーワンで実績のある護良ではなく、まだ10歳か11歳になったばかりの恒良を後継者として指名したのだ。そして、廉子の産んだ二人目の子、成良は鎌倉に下り、三人目の子、義良は奥州に下った。つまり、廉子が後醍醐と相談のうえか、廉子の独断かは別にしても、将来考えられる3つのコースに、それぞれ後醍醐との子を送り込んだ。つまり、恒良を後醍醐直系、成良を足利尊氏路線、義良を護良親王・北畠親房路線として、最終的にどのコースが勝っても、後醍醐と廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせる戦略だった-とする見方がある。

 才気煥発な廉子がそのくらいの画策をしたことは十分考えられる。また、護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであろう護良を除こうと考え、同じく護良を除こうと考えていた足利尊氏と目的が一致。尊氏と組んで、尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報が廉子にあり、それを聞いた後醍醐が護良を捕えた-とする「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、似た素地はあったのではないだろうか。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

春日局・・・逆賊のアバタ娘が離婚後、徳川三代将軍家光の乳母になる

 春日局といえば、徳川三代将軍家光の乳母となり、将軍の後継ぎ問題を円滑に進めるために、江戸城の“大奥”をつくり、半面、清楚な「賢婦人」のイメージを抱く。だが、彼女は現実にはひどいアバタ面で、壮烈なヤキモチ焼きで、勝ち気でしたたかな女性だった。

 春日局の本名はお福。夫の稲葉正成と先妻(死亡)の間に2人の子供がいるところへ後妻として嫁いだ。彼女の父は明智光秀の家臣で、山崎の合戦で討ち死にしている。つまり逆賊の家で世間の目が冷たく、経済的にも苦しかったからだ。しかも彼女自身、天然痘を患ってひどいアバタ面だったという。

 結婚したお福にとって我慢できなかったのは、夫が女中に次々と手をつけることだった。そんな思いが爆発するときがくる。お福が3人目の子を産んで一月ほど経ったある日、勝ち気な彼女は夫の寵愛を受けている女中の一人をいきなり殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりません」と宣言して、彼女は子供を置き去りにして家を飛び出してしまう。

 この気性の強さがお福の運命を切り開く。夫の側室を殺して家を飛び出した彼女は、そのまま京へ上る。そして町の辻に立てられた高札を目にしたことが、その後の彼女の生涯を決定した。「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」とある。子供を産んだばかりのお福は、まさに有資格者だった。

早速、申し出ると即座に採用決定。お福は新しい生活の第一歩を踏み出す。彼女は竹千代を熱愛した。報われなかった夫への愛の代わりに、狂おしいまでの愛情を竹千代に注ぎ込む。あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、遂に生涯薬を飲まなかったといわれるほどだ。

 家光への溺愛、そして独占欲の表れは、まず竹千代と弟・国松の将軍三代目の跡目相続をめぐっての、駿府に隠居している大御所・家康への直訴だ。ここで「長子相続」をタテに竹千代の跡目相続を勝ち取る。次いで、竹千代が元服して家光と名乗り、やがて父秀忠の後を継いで三代将軍になった後、お福は家光にとって危険と思われるものを用心深く周りから取り除いていく。かつての国松=忠長の存在だ。いつ周りから担がれて将軍職乗っ取りを図るかも知れないと、口実をもうけて忠長に詰め腹を切らせてしまった。

 表向きには、お福はこの事件とは全く関わりがないようにみえる。しかし、鎌倉の東慶寺に残る棟札には忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてあるという。こうしてみると、長い間、忠長を憎み続けてきた彼女が、終戦処理をしたとみられる。

 家光にはホモの趣味があって、初めは女にあまり興味を示さなかった。そこでお福は、伊勢の慶光院院主の尼僧を近づけて、巧みに女性開眼させた。普通の女性には見向きもしない家光だったが、頭を丸めた尼僧という異形の女性には少なからず興味をそそられたということらしい。これをきっかけに、家光はがぜん女性への関心を示し始め、無事に後継ぎも生まれた。

 お福のスゴ腕は朝廷に向けても発揮された。将軍秀忠時代、彼女は上洛して後水尾天皇に拝謁している。「春日局」はそのとき朝廷からもらった名前だ。この拝謁には下心があった。お福はその席で帝に「そろそろ、ご退位を…」とほのめかしたという。

このとき後水尾天皇の妃は秀忠の娘和子で、帝との間に姫宮をもうけていた。その姫宮へご譲位を!というのが幕府の魂胆で、お福はその特命全権大使だったのだ。恐るべし、夫も子供も捨てて、第二の人生に懸けた中年女のしたたかさだ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

桂昌院(徳川五代将軍綱吉の母)・・・悪法“生類憐みの令”生みの親

 桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラだが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。

 彼女の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るようになるのは少し込み入った事情がある。それは、京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。

江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになったのだ。

 腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかったろう。そういう意味では彼女には幸運が続く。

というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずだった。ところが、ツキのあるときはどこまでもうまくいくもので、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなる幸運。兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたというわけ。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。

 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。

 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。

 通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。
(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子対談集「五代将軍綱吉の母・桂昌院」(永井路子vs杉本苑子)

孝謙女帝・・・道鏡を異例の皇位に就けようとした未婚の女帝

 女性の身で二度も皇位に就いた孝謙女帝は、日本史上稀にみる栄光に包まれた女性だが、反面、史上最悪の黒い噂がつきまとっている。周知の通り、僧道鏡の献身的な奉仕ぶりに感じ入り、恋に堕ちた女帝が前代未聞の、皇族でもない道鏡を皇位に就けようと画策(?)したことだ。

 孝謙女帝は推古天皇や持統天皇などそれまで存在した女帝たちとは異なり、初めから皇位継承者として、女性では史上初の皇太子になり、やがて即位した。ただ、これにはわけがある。たった一人の弟で皇太子だった基王が早死にしたので、父の聖武天皇と別の妃の間に生まれた皇子に皇位を奪われないように、光明皇后の実家、藤原氏一族が暗躍。苦肉の策で、強引にかつ大急ぎで皇太子に立てられたのだ。阿倍内親王20歳のことだ。このプリンセスが女帝の座に就いたときは32歳、東大寺の大仏開眼には主役として晴れの盛儀に臨席している。

 聖武天皇が亡くなると、女帝の周りはにわかに慌しく黒い渦が巻き起こってくる。まず皇太子交代事件がそれだ。聖武天皇はその死にあたって、未婚で後継ぎのいない娘、孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族の一人を皇太子にせよと遺言した。ところが、この道祖王が聖武天皇の喪中に、宮中の女官と密通したことが発覚。これに憤慨、激怒した未婚の女帝は早速皇太子をやめさせてしまった。代わりに別系の皇族、大炊王(おおいのおう)を立てた。

このとき女帝の片腕として活躍したのが当時の実力者、藤原仲麻呂だ。彼は光明皇后の甥だから、女帝には従兄にあたる。ただ、仲麻呂の献身には魂胆=野心があった。皇太子に選んだ大炊王は、実は仲麻呂の家に住んでいたのだ。早死にした彼の長男の妻の再婚の相手で、いわば女婿といったところだ。ともあれ女帝と仲麻呂=恵美押勝の間は至極和やかだった。

だが、女帝が皇太子、大炊王に皇位を譲り、彼が即位し淳仁天皇となったあたりから心のズレが表面化。天皇に密着して思いのままに腕を振るい始めた仲麻呂の態度を見て、女帝は仲麻呂が自分を愛しているのではなく、権力を愛していたのだと気付く。そのうえ、頼りにしていた母の光明皇后が亡くなったことも、女帝の孤独感を深めた。そのせいか、女帝はまもなく病気になる。このとき、病気を治すまじない僧として呼ばれるのが道鏡だ。

道鏡は自分の呪術のすべてを尽くして女帝の治療に専心する。その甲斐あって女帝は健康を取り戻す。そして、その献身的な奉仕ぶりが女帝の心を深く捉えることになる。彼には仲麻呂のような野心がない。心底からの献身として映る。仲麻呂に裏切られた後だけに女帝の心は急速に道鏡に傾き、恋に堕ちる。

道鏡は一般には妖僧といわれ、彼自身が天皇になろうとしたとの非難がある。しかし、彼はそのころでは珍しくサンスクリット(梵文)も読めた、大変な勉強家だった。また、皇位に就けようと積極的に動き、画策したのは彼自身ではなく、女帝の方だったようだ。道鏡への処遇で淳仁天皇に非難された女帝は、反乱を起こした仲麻呂=恵美押勝を滅ぼし、また淳仁帝を廃し、皇位に返り咲く。称徳天皇だ。

女帝は道鏡を大臣禅師として国政に参与させ、後には法王の称号を与える。そして、政略的な理由で女性皇太子となって以来、遂に結婚の機会を与えられなかった人の、最初にして最後の愛の燃焼ともいえる道鏡への寵愛は、道鏡を皇位に就けようとする強い意志となって表れたのではないだろうか。九州の宇佐八幡にお告げを聞きに行った和気清麻呂のもたらした「ノー」により、結局は実現しなかったが、そこにみられる四十女の恥も外聞もないひたむきさは涙ぐましいほどだ。

ただ、「日本霊異記」などが生々しい艶聞として伝えているように、公人としての称徳天皇が、道鏡と密着して政治を壟断(ろうだん)したことはつとに知られるところであり、批判のそしりは免れない。ここに悪女として紹介した所以だ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

丹後局・・・夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性

 丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?
 結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。

 治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。

 以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。

 後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。

 いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。

 それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。

 歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。 (参考資料)永井路子対談集「丹後局」(永井路子vs上横手雅敬)