月別アーカイブ: 2013年12月

日野富子・・・将軍義政の失政に拍車をかけた日本史上稀にみる“悪妻”

室町幕府八代将軍、足利義政は無責任と優柔不断さで「応仁の乱」(応仁元年=1467~文明9年=1477)を引き起こしたことは衆知の通り。飢饉のために都に餓死者があふれる中、あちこち物見遊山にでかけ、為政者の責任は放棄して、連夜の酒宴を催すなど数々の失政にまみれた人物だ。そして、この失政・悪政に拍車をかけたのが、義政の正夫人(御台所)日野富子だ。日本史上稀にみる“悪妻”と呼ばれ最も「カネ」にも汚い女といわれた。

 冨子は、足利将軍家の夫人を代々送り出している裏松日野家の出身だ。したがって、血筋からすれば後世の彼女に対する悪評は決してふさわしいものではなく、人生の歯車が大きく狂ったのは夫・義政にその大半の責任があるといっていい。

義政は、内大臣日野政光の娘でまだ16歳の冨子を妻に迎えた。結婚後、冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだまだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、早々と弟・義視を口説き還俗させて後継者とし引退の準備を整えた。そして「万一、これから冨子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。出家させる」という確約もした。そのために幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これほど用意周到に準備したのは、義政自身が早く政界から引退したくて仕方がなかったのだ。ただただ為政者の責任を放棄し、気楽な立場で遊んで暮らしたかったからだ。決して年を取ったからでも、体を悪くしたからでもない。

 ところが、この決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟が後継者に決まって1年も経たないうちに、冨子は懐妊し翌年男子を産む。これが義尚だ。当然、冨子はわが子・義尚を跡継ぎにと夫・義政に迫ることになる。そこで、義政はどう動いたか。現代流に表現すれば“問題先送り”し、どちらにも決められず、将軍の座にとどまり続けたのだ。優柔不断そのものだ。その結果、細川勝元が後見する義視派と、冨子が山名宗全を味方に引き入れた義尚派との間で争いとなり、これが応仁の乱の導火線となった。

 都を荒廃させたこの大乱の前後を通じて義政は全く政治を省みなかったため、冨子はこれ以後、異常なほど「カネ」に執着するようになる。兄・勝光とともに政治に口を出すばかりでなく、内裏の修理だとか、関所の通行税だと称してはカネを集め、そのカネを諸大名に貸して利殖を図った。

とくに信じられないのは、東軍側の冨子が敵方、西軍の武将、畠山義就に戦費を融通していることだ。息子義尚を将軍にしたいがために、戦争まで引き起こしてしまったというのに、敵方の武将にカネを貸して戦乱を助長しているのだ。諸大名が戦費に困っているなら、融資などやめればいいのだ。それで戦争は終結に向かうはずだ。

冨子は1474年、義政と別居。その後義尚を指揮下に政治を行う。そして1489年、25歳の若さで義尚が死に、翌年義政を失った冨子は、慣例的に尼になる。普通ならここで念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずなのだが、彼女は全く違う。世の無常を感じるどころか、次の将軍義稙(よしたね)にまで口出しするのだ。義稙は義視の子だ。権勢に対する執念の深さはいままでの歴史上の女性にはみられないものだ。応仁の乱を機に幕府の実際の生命は絶えたような状況だったが、それでもなお、その座を捨てきれない。エネルギッシュな行動力を持った女性だったといえよう。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史8 中世混沌編」、永井路子対談集「日野富子」(永井路子vs永原慶二)、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

北条政子・・・愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす

北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。

政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。

夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。

そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。

母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。

一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない-との見方が有力だ。

こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。

(参考資料)永井路子「北条政子」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

道綱の母・・・当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム

 『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧(ともやす)の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935~995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、摂政・藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。

 彼女自身語っている。現代風に意訳すると「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と。

 道綱の母は、ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴いている。しかし、暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。それにしても、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。

 今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。

 天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。それは、ひとえに両家の格の違いによるものだった。

 『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領-中級官吏だから、願ってもない縁談だった。

 それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか-と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?-という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。

 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。

 『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。

 これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子らの母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を手駒に使って、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを理解して、黙々と夫の後についていくタイプだった。したがって、家庭内に波風は立たず、子供らは存分に、それぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。

 だが時姫は、夫が独走態勢に入り、これから頂点(=摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして、時姫の他界から10年後、勝者の満足をかみ締めながら、兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなるわけで、三人の中では最も長生きしたことになる。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「私家版 かげろふ日記」

村山加寿江・・・井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動

村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。

加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。

加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。

これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

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淀君・・・息子秀頼への“教育ママ”ぶりと権勢欲が豊臣氏を滅ぼす

歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。

淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。

まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。

やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。

淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」

県犬養橘三千代・・・藤原不比等を支えた後宮の実力者

 県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。生年は定かではない。665年(天智4年)ごろ?か。没年は733年(天平5年)。

三千代は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
 697年(持統11年)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位、文武天皇となった。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そして美努王が大宰帥として筑紫に赴任したこの頃、三千代は美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(後の光明皇后)を産んだ。

707年(慶雲4年)、不運にも25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼。即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、「橘宿禰」の氏称を賜与した。したがって、三千代は橘氏の実質上の祖というわけだ。715年に三千代は尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。

 不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。

 不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
 三千代は721年(養老5年)、正三位に叙せられ、同年の元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5ねん)死去。死後、同年従一位、760年(天平宝字4年)正一位と大夫人の称号を贈られた。
 持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の徳川三代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切った春日局のような後宮の実力者だったのだろう。

(参考資料)黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、神一行「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」、梅原猛「海人と天皇」

大奥大年寄・絵島・・・江戸城内の幕閣の権力争いのスケープゴートに

 江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか?

 今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。

 だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか?

 結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。

 事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと-などだ。

 相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。

(参考資料)杉本苑子「絵島疑獄」、平岩弓枝「絵島の恋」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、安部龍太郎「血の日本史」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

小野小町・・・六歌仙の一人で平安前期を代表する女流歌人

 小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ~901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。

 「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。

 小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。

 この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。
 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

などの歌はよく知られているところだ。
 生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養等がある。

米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものだ。

(参考資料)井沢元彦「歴史不思議物語」、井沢元彦「逆説の日本史」

幾松・・・幕末、桂小五郎を庇護し、体を張って支えた木戸孝允の妻

 幾松(いくまつ)は芸妓時代の名で、明治維新後、木戸孝允の妻となり「木戸松子」となった。幾松は文久年間以降、京都にあって桂小五郎が命の危険に晒されていた、最も困難な時代の彼を庇護し、文字通り体を張って必死に支え続けた。新選組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。幾松の生没年は1843(天保14)~1886年(明治19年)。

 幾松は京都三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓として知られ、桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。幼少時の名は計(かず)もしくは計子(かずこ)。幾松=木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説あり、定かではない。父は若狭小浜藩士、木崎(生咲)市兵衛(きざきいちべい)、母は三方郡神子浦の医師、細川益庵(ほそかわえきあん)の娘、末子。兄弟姉妹に関しても諸説あるが、磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)あり、計は長女と思われる。

 嘉永元年ごろ、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、市兵衛もその際、職を辞し行方知れずとなった。母の末子は、男子は親戚に預け、計と里を連れ実家細川家を頼るが、5年後に京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り、ともに藩邸で暮らすことになった。市兵衛は生咲と改名していた。細川家に残されていた計は、魚行商人の助けにより独りで京へ向かい父母の元に無事たどり着き、一家四人で京都市中に借り住まいを始めた。しかし、まもなく市兵衛が病に伏し生活苦のため、計は口減らしに公家九条家諸太夫の次男、難波恒次郎のところに養女に出された。

 恒次郎は定職も持たず放蕩三昧で三本木の芸妓幾松を落籍して妻としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底をつくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松を名乗らせた。
 嘉永7年、ペリー来航以来、尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇志士たちが京に集まり、盛んに遊里を使うようになっていた。御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂小五郎もいた。そのころ幾松は笛と舞の名手で、美しく頭もいい名妓として評判になっており、桂と出会ったころにはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と武力で奪い取ったという話もある。
二人の出会いは文久元年または2年ごろといわれる。幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが、長州の伊藤博文の働きがあったようだ。このとき幾松20歳、桂は30歳だった。木屋町御池上る-に一戸を構え、桂の隠れ家としても使い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集に努めた。幾松のこうした同志的活動と内助の功があって、桂の長州藩におけるポジションも優位なものになっていったともいえよう。

 桂小五郎は長州藩主毛利敬親の命により、木戸貫治と改名し、その後、木戸準一、さらに維新後、孝允となった。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後、木戸が明治政府の要人となるために明治2年、東京に移り住んだ。

(参考資料)南条範夫「幾松という女」、司馬遼太郎「幕末」

恵信尼・・・苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠の妻

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻。越後の豪族、三善氏の出。寿永元年(1182)誕生。建仁元年(1201)、親鸞との結婚生活に入る。確実な文献・記録はないが、残されている恵信尼の手紙などからみると、越後のような交通不便で文化の低いところでは不可能なほど高い教養を身につけていたのは、越後に九条家の荘園があって、それを管理していたのが三善氏という関係から考えて、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、その結婚生活は苦難の連続だったと想像される。親鸞はおのれを語らなかった人で、史料は極めて少ない。その死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまでは恵信尼はもちろん、親鸞の存在さえ長い間、疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。

 親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが京都か越後か?ここでは流罪以前の京都説を取ったが、不詳だ。承元元年(1207)親鸞は越後の国府に流罪とされる。恵信尼は越後で一子をもうけ以後、流罪がとけた親鸞とともに、建保2年(1214)常陸国に移住、さらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をはじめ、印信、明信、道性、覚信尼、小黒女房、高野禅尼の四男三女の七人までは確認されているが、それ以外にもいたという説もある。親鸞が寺を持たない主義だったから、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏で使用人が逃げ出すほどの生活だった。

 最後に許されて京に戻ってからも、食えなくて何人かの子供が越後に移り、続いて恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後・国府に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地の管理などの問題もあるからではなかったか。ただ越後に帰ってからも、着るものもろくになかったようだ。

とはいえ、恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもない。京にいる覚信尼から着物を送ってもらって大変喜んで、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない、とてもかわいい女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。そのうえ健康で、最後の子供を産んだのは42~43歳というバイタリティーのある人だったのだ。

 悲しみを誘うのは食べていけなくて、京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったという点だ。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な、心に響きわたるような文面だ。

 恵信尼は晩年14~15年を越後で過ごし、親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、かくしゃくとした女性だった。

(参考資料)永井路子対談集「恵信尼」(永井路子vs丹羽文雄)、早島鏡正「親鸞入門」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」