月別アーカイブ: 2013年12月

お龍 日本で最初の新婚旅行をした坂本龍馬の妻

 坂本龍馬の妻、お龍は、正確には楢崎龍(ならさきりょう)といい、この時代の女性としては珍しいくらい自由奔放な性格だった。そんな女性を気に入り坂本龍馬は妻とした。二人は薩摩藩の重臣、小松帯刀の誘いで、薩摩藩の温泉に湯治を兼ねて旅行を楽しんでおり、これが日本で最初の新婚旅行だったといわれている。お龍の生没年は1841(天保12)~1906年(明治39年)。

 お龍は京都の町医師の楢崎将作の長女として生まれた。一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。父の将作は青蓮院の侍医で、漢学を貫名海屋に学び、梁川星厳らの同門だった。また頼三樹三郎や池内大学らとも親密で、お龍が幼いときから行き来があり、彼女自身にも勤皇の思想が備わっていたと思われる。そんな父だっただけに、不幸なことに井伊直弼による安政の大獄に連座して捕らえられ、獄死している。

このため、お龍と母、そして幼い弟妹は生活に困窮。長女のお龍は家族を養うため旅館、扇岩で働いた。しかし、まもなく旅館を辞めて天誅組残党の賄いとなった。その後、天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった

 このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することになった。1866年(慶応2年)、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる。

その直後に、中岡慎太郎の仲人、西郷隆盛の媒酌で二人は結婚し、小松帯刀の誘いで新婚旅行を楽しんだというわけだ。
 1867年(慶応3年)、夫の龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、お龍は下関の豪商・伊藤助太夫のもとにいたため、難を逃れた。龍馬の死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、1868年(慶応4年)にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄せたが、まもなくそこを立ち去る。このとき龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係のない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

 その後、お龍は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また西郷隆盛や海援隊士を頼り東京に出たりした。転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人、西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬、松兵衛いずれの夫との間にも子供はなかった。

 ただお龍は、信じ難いことだが、これだけ思いの深かった龍馬が何をしていたのか、ほとんど知らなかったという。龍馬は無条件に大好きだが、彼の業績には全く興味がなかったのだ。すべてを知るのは、明治政府から伝えられたときだったという。細かいことに捉われない、こんな女性だったからこそ、龍馬は気に入ったのだろうが、ここまでいくと同じときを過ごした男(龍馬)の立場からみると、少し寂しい思いがするのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「竜馬が行く」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

和泉式部・・・為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人

 和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。

 和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。

 『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。

その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。

 一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。

 『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。

 和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 1008~1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

 1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

(参考資料)鳥越碧「後朝(きぬぎぬ)-和泉式部日記抄」、梅原猛「百人一語」

お市の方・・・二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母

 戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。

また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
 お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。

18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。

 さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
 越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。

戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。

 ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。

(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)、司馬遼太郎「巧名が辻」

今川寿桂尼・・・今川義元を育てた女戦国大名

 今川寿桂尼は今川氏の七代目、今川氏親の妻だった。これはもちろん、夫氏親が大永6年(1526)に病没してしまった後、髪をおろし出家してからの名前だ。残念ながら、それ以前の彼女の名前は分からない。

 今川氏は足利氏からの分かれだ。足利氏から吉良氏が出、吉良氏から今川氏が出ている。初代今川範国が南北朝内乱の時代、足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げ、しかもその過程で兄弟5人中、出家していた1人を除き、範国以外全員討ち死にしてしまったため、兄たちの恩賞も全部含まれて、駿河・遠江二カ国の守護に任命され、引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門だ。

 寿桂尼は、京都の公家中御門宣胤の娘だった。中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つで、鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたもの。寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言になっており、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだというわけだ。

とはいえ、京都の公家が応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではなかった。落ちぶれたとはいえ、京都の公家もそれなりの家格はみていたのだ。その点、今川氏は代々、京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物も輩出した、教養の高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこうした点を踏まえたうえでのことだったのだろう。

彼女が氏親といつ結婚したのか分からない。永正10年(1513)に長男氏輝を産み、同16年(1519)には五男の義元を産んでいる。氏親には、はっきりしているだけで6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で、何人が側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして、一つのアクシデントに見舞われる。氏親が中風になってしまったのだ。大永元年(1521)頃のことだ。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のこと。これは、結果的に彼女にプラスになることだった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからだ。

戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名だ。これについても重要な役割を果たしたようだ。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたのではないかとみられる。この「今川仮名目録」が制定された大永6年(1526)4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死んでいるのだ。そして、氏親の死後、形の上では後を子の氏輝が継いだことになっているが、それから2年間、実質的に今川家の当主は寿桂尼だったという。

氏輝にやっと政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死んでしまったのだ。氏輝は結婚していなかったらしく、子供もいなかった。そこで、夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退け、義元を第九代当主の座に就けるのだ。京都の公家のお姫様だった彼女が、さながら“女戦国大名”として見事に力を発揮したわけだ。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

お江与・・・3度目の嫁ぎ先で徳川二代将軍秀忠の正室の座射止める

 お江与は、度々女としての不幸に出くわしながら、幸運にも3度目の嫁ぎ先で後世に広く知られる存在となった。徳川二代将軍秀忠夫人、正室の座を射止めたのだ。とはいえ、この結婚、全くのシンデレラ・ストーリーというものではない。それは彼女自身の血筋が良かったから可能だったといえる。彼女は、豊臣秀吉の側室となり、権勢を誇った淀君の二人目の妹なのだ。

 お江与は1573年、近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹、お市の方との間に生まれた。上に兄・万福丸、姉・茶々、初の二人がいた。彼女は江(幼名=ごう)、達子(みちこ)、徳子、小督(こごう)など、多くの名で呼ばれている。母お市の方は、当時のミス日本ともいうべき美貌の持ち主だったほか、姉の茶々もそれに劣らぬ美人だったようだ。だが、お江与には美人だったという言い伝えも史料も全く残っていない。

 冒頭でお江与は度々不幸に出くわしたと述べたが、それはもう尋常なものではない。父の死、母の死、夫の死なのだ。既述の通り、父は小谷城の主、浅井長政、母はお市の方だ。彼女の悲劇は物心つくかつかないうちに始まった。父の居城・小谷城が、母の兄織田信長に攻められて落城。父は自刃、母とともに彼女は信長に引き取られた。ところが、その信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺され、庇護者を失った母は柴田勝家と再婚。それに従って越前へ行くが、今度はその勝家が豊臣秀吉に攻められて敗死し、母も世の無常を感じ遂に勝家に従って自害してしまったのだ。

父も母も失い孤児となった三姉妹のうち、初めに縁談がまとまったのが、姉茶々に比べると器量のよくなかったお江与だった。16歳のときのことだ。彼女の最初の夫は尾張の小大名、佐治与九郎一成だった。彼女の伯母、お犬(お市の姉)が佐治家に嫁いでもうけた子だから、従兄にあたる。この縁組をまとめたのは羽柴秀吉だ。彼はこの後、お江与のすぐ上の姉のお初と京極高次の縁談もまとめている。つまり、秀吉の狙いは茶々を手に入れることで、茶々の周りの妹たちが邪魔だったのだ。

 そんな秀吉の魂胆はさておき、お江与は大名の格としては三流でも、マイホーム型の良き亭主、与九郎との間で愛を育み、幸せなときを過ごし、見違えるような「女」に成熟したようだ。だが、皮肉にもその変貌した美しさのために、彼女の不幸が始まる。その頃、姉の茶々は秀吉夫人となって秀頼を産んでいる。そのお祝いも兼ね、茶々を訪ねたお江与は、秀吉にも久しぶりに対面した。その道にかけては抜け目のない秀吉は、どうにかしたいものと考え、密かに佐治与九郎に離婚を命じる。しかし茶々の手前、自分の側室にすることは無理と判断した秀吉は、甥の羽柴秀勝の妻にしてしまう。この強引な離婚は、お江与本人の知らぬ間に進められ、有無をいわさず秀勝の妻にされてしまったというのが実態だったようだ。ともあれ、彼女はいまや関白さまの甥の妻となったのだ。ただ、この結婚は彼女に幸せをもたらしはしなかった。新しい夫の秀勝が朝鮮戦役に出陣して1592年、彼の地で亡くなったのだ。20歳ぐらいの年齢で、二度目の夫にも死別するという夫運の悪さだ。

 そこで、またも秀吉は彼女の嫁入り口を探し出す。今度の相手はライバル徳川家康の嫡男・秀忠だった。秀勝の死後3年経った1595年(文禄4年)お江与は秀忠に嫁した。この結婚は茶々(=淀君)の妹という身分を最大に政治的に利用した、実力者・徳川家との婚姻政策だったことは間違いない。
それにしてもこの結婚は世にも奇妙な組み合わせだった。新婦のお江与は23歳で二回離別の身だったのに、新郎は初婚の、それもたった17歳の少年だった。一見、不似合いな結婚は彼女に幸せをもたらした。関ケ原、大坂の陣での豊臣方の敗北と徳川方の勝利。姉の茶々(=淀君)の無残な死と引き換えに、彼女はトップレディーにのしあがるのだ。そして、いま一つ幸運だったのは夫の秀忠が、徳川歴代将軍の中で異例ともいえるカタブツだったことだ。

 徳川家に嫁してからお江与は千姫(豊臣秀頼夫人)、子々(ねね)姫(または珠姫)、勝姫、初姫と女子ばかり産んだが、1604年(慶長9年)、結婚10年目にしてようやく嫡子を産む。これが三代将軍家光だ。その後もお江与は秀忠との間に次男忠長、五女和子を産んでいる。この和子が後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を産み、徳川家と天皇家を結ぶ絆になっている。お江与は出家した後、崇源院となり、1626年(寛永3年)江戸城で没。54歳だった。

(参考資料)永井路子「乱紋」、永井路子「歴史をさわがせた女たち 日本篇」

右京大夫 私家集で二人の男性との恋を公表した文学者

 正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。

 右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。

 傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。

 彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。

それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 

源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
 現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

大浦 慶・・・亀山社中の面倒をみた女商人,前・後半生で明暗を分けた人生

 大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。

 文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。

 当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。

 3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。

 この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。

 維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。

 若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
 明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。

(参考資料)白石一郎「江戸人物伝 女丈夫大浦お慶の商才」

加賀千代女・・・芭蕉門下の各務支考に認められ全国に名が知れ渡る

 加賀千代女(かがのちよじょ)は、江戸時代中期の女流俳人だ。代表的な句の一つ、「朝顔に つるべ取られて もらい水」など、朝顔の句を多く詠んだことで知られている。
千代女の出身地の松任市(現在の白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。千代女の生没年は1703(元禄16)~1775年(安永4年)。

 加賀千代女は加賀国松任で、表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。号は草風。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭だったと推察される。白山市中町の聖興寺に遺品などを納めた遺芳館がある。

 千代女は幼いころから、一般の庶民にもかかわらず、俳諧を嗜んでいたという。石川郡誌によると、12歳のころには本吉町(現在の美川町)の町方肝煎を務めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられている。

17歳のころ諸国行脚をしていた人に、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が諸国行脚して、ちょうどここにきていると聞き、各務支考がいる宿を訪ねた。このことが、その後の彼女の生き方を決めることになる。

千代女はそこで、弟子にさせてくださいと頼むと「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。彼女は、俳句を夜通し詠み続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で、遂に各務支考に才能を認められた。そのことから、千代女の名を一気に全国に広めることになり、彼女は生涯にわたり句作に励むことになった。

 1720年(享保5年)、18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽、福岡弥八に嫁いだ。このとき「しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり」という句を残した。しかし20歳のとき、不運にも夫に死別し、松任の実家に戻った。
30歳のとき京都で中川乙由(なかがわおつゆう)に会った。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳のときに剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いた。1775年(安永4年)、73歳で没したが、そのとき「月も見て 我はこの世を かしく哉」の辞世の句を詠んでいる。
 生涯で1700余の句を残したといわれ、句集『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。代表的な句に

○朝顔に つるべ取られて もらい水
 (35歳のとき、「朝顔や」と詠み直されている)
○月も見て 我はこの世を かしく哉
○蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
○起きて見つ 寝て見つかやの 広さかな
などがある。

 千代女の郷里、白山市では今も俳句が盛んで、同市で開催される「全国俳句セミナー」や「千代女全国俳句大会」には日本中から多くの俳句愛好者が訪れる。

(参考資料)ホームページ「千代の里 俳句館(石川県白山市殿町)」ほか

元正天皇・・・独身で即位した初の女性天皇 中継ぎ以上の務めを全う

 第四十四代・元正天皇は日本の5人目の女帝だが、あまりにも“中継ぎ”の天皇が強調されて、最も知名度は低いかも知れない。だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、彼女には結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある。但し、父親は男系男子の皇族、草壁皇子のため、男系の血統は維持されている。元正天皇の生没年は680(天武天皇9)~748年(天平20年)。

 元正天皇の父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇。25歳の若さで亡くなった文武天皇(第四十二代天皇)の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
歴史に「たら」「れば」をいってみても仕方がないのだが、それを承知で敢えていわせてもらうなら、文武天皇があと15~20年健在だったら、後を継いだ母・元明天皇、そして姉・元正天皇、両天皇の時代は完全に存在しなかっただろう。文武天皇は25歳で亡くなっているから、あと20年生きていてもまだ45歳。だから、十分あり得る推論なのだ。

 ところが、氷高皇女は弟、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がまだ幼かったため、母・元明天皇から譲位を受け、即位し元正天皇となったのだ。皇室が求める「不改常典(ふかいのじょうてん)」の論理と藤原不比等らの政治的思惑とが相互に作用して、一見強引とも思える母から娘への皇位継承が円滑に行われたようだ。

 中継ぎの天皇といっても、この元正天皇は19年間の在任期間に、朝廷の中核的存在だった藤原不比等と折り合いをつけ、大過なく務めている。717年(養老元年)、藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始め、翌年編纂業務を完了している。720年(養老4年)に『日本書紀』が完成。また、この年に藤原不比等が亡くなっている。

そこで翌721年(養老5年)、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任され、長屋王政権を成立させている。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫だった。それだけに、元正天皇にとって心強い政権の誕生だった。それも、朝廷の中核、藤原不比等がなくなったからこそ、遂に実現したのだ。ちなみに、不比等亡き後、藤原氏の朝廷内の布陣は長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言、次男房前(ふささき)はまだ参議だった。

 豪族の土地所有を否定した律令制度の導入によって「公地公民制」へ転換、実現されるはずだったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しをみせ始めていた。723年(養老7年)制定された「三世一身法(さんぜいっしんほう)」がそれだ。これは田地不足を解消するため、新しい灌漑施設を伴う開墾地は3代、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代のみ私有を認める-というものだった。これによって開墾は進んだが、いずれは国に土地を返さなければならないため、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。

 724年(神亀元年)元正天皇は皇太子・首皇子(聖武天皇)に譲位し、上皇となった。中継ぎ天皇ならここで務めは終わるはずだった。ところが、元正上皇の場合、退位後、20年近くも経ってから、その役割を果たさなければならない時期が到来した。聖武天皇が病気勝ちで職務を行えなくなったこと、あるいは平城京から、恭仁京(くにきょう)、紫香楽京(しがらききょう)、難波京(なにわきょう)と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返すなど、情緒不安定だったためで、上皇は聖武天皇に代わり橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたとみられる。

(参考資料)永井路子「美貌の大帝」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」

川上貞奴・・・明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)~1946年(昭和21年)。

 川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。

 そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。

 日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。

 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。

 8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。

 福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。

(参考資料)小島直記「まかり通る」、小島直記「人材水脈」