月別アーカイブ: 2013年12月

建礼門院徳子・・・安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う

 建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。

 保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。

 清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。

 1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。

 その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。

 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。

(参考資料)対談集 永井路子vs 福田善之 

川島芳子・・・清朝皇族の血ひく、日中双方で人気の“男装の麗人”

 川島芳子(本名・愛新覚羅顯●<王偏に子、以下同>)は清朝の皇族・粛親王の第十四王女だが、日本人の養女となった。日本では“男装の麗人”としてマスコミに取り上げられ、新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。日本軍の工作員として諜報活動にも従事し、第一次上海事変を勃発させたともいわれたため、戦後まもなく中華民国政府によって「漢奸」として逮捕され、銃殺刑に処された。だが、処刑された遺体が実際に芳子だったのか、謎や疑問点も少なくない。そのため、日中双方での根強い人気を反映して、現在でも生存説が流布されている。

 川島芳子の字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。川島芳子の生没年は1907~1948年。愛新覚羅氏は満州(中国東北部)に存在した建州女真族の一部族名で、中国を統一し清朝を打ち立てた家系。アイシンとは彼らの言葉で「金」を意味する。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。清朝建国にあたってとくに功績の大きかった八家が他の皇族とは別格とされ、八大王家(のちに四家が加わり十二家に)と呼ばれた。川島芳子もこの八大王家の中から出た女性だ。

 中国で1911年、辛亥革命が起こり、1912年、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位。袁世凱を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が建国されたのに伴い、袁世凱の政敵でもあった粛親王が北京を脱出。日本の租借地だった関東州旅順に、家族とともに亡命した。旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯●も日本に養女にいく前の一時期をそこで過ごした。この際、一家亡命の橋渡し役を務めたのが、粛親王の顧問だった川島浪速だ。

粛親王が復辟運動のために、日本政府との交渉人として川島浪速を指定すると、川島の身分を補完し、両者の親密な関係を示す目的で、顯●は川島浪速の養女となり芳子という日本名が付けられた。
 1915年に来日した芳子は当初、東京・赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居に伴い、長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父、粛親王が死去し、葬儀参列のため長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。

 芳子は17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。断髪の原因は、山家亨少尉との恋愛問題とも、養父・浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。断髪した直後に女を捨てるという決意文書を認め、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとに取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像となり、昭和初期の大衆文化の中に形成される大きな要因となった。

 芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は、世間で高い関心を呼び、芳子のマネをして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を起こしていた。

 1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが、3年ほどで離婚した。その後、上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。だが、実際に諜報活動をしたのかどうか、その実態は謎に包まれている。

(参考資料)西沢教夫「上海に渡った女たち」、園本琴音「孤独の王女 川島芳子」

光明皇后・・・皇族以外で初めて皇后位に就いた女性

 光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。

 彼女の生没年は701~760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749~757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。

これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。

しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。

幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。

光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。

その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。

 (参考資料)梅原猛「海人と天皇」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子対談集「光明皇后」(永井路子vs竹内理三)

吉備内親王・・・冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃

 吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。

 吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。

 ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている-との密告があった。

そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。

 繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。

 ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか-との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、永井路子「美貌の大帝」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」

後深草院二条・・・「蜻蛉日記」と双璧の、「とはずがたり」を著す

 後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は後深草上皇に仕えた女房二条
のことで、彼女は鎌倉時代の中後期に五巻五冊からなる「とはずがたり」を著した。

 この作品は、誰に問われるでもなく、自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深 れている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれるとみる研究者もいる。1313年ごろまでに成立したとみられる。

 二条は出家するにあたり五部の大乗経を写経しようと決意、発願する。「華厳経」60巻、「大集経」26巻、「大品般若経」27巻、「涅槃経」36巻、「法華経」8巻など。有職故実書をみると、合計190巻、料紙4220枚となっており、これ全部を写経するとなると大変な作業だ。

 この写経、「とはずがたり」を綴り終わるまでには全部を書写しきれなかったようだが、様々な文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。不屈の意志で、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁を繰り返すというやり方だ。

例えば、「大品般若経」の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して、残りは熊野詣で写経。「華厳経」の残りは熱田神宮で書写して収め、「大集経」は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まり込んで書写するという具合だ。出家して尼になった二条が、まさに“女西行”になったような趣だ。

 ここで、二条が著した傑作「とはずがたり」のあらすじを紹介しておこう。第1巻は、二条が2歳のときに母を亡くし、4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に慕っている「雪の曙」がいるにもかかわらず、父とも慕ってきた後深草院の寵愛を受ける。後深草院の子を懐妊、ほどなく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。

 第2巻は二条が18歳になっている。粥杖騒動と贖い。後深草院の弟の亀山院から好意を示される。さらに御室・仁和寺門跡の阿闍梨「有明の月」に迫られ、契りを結ぶ。女樂で祖父の兵部卿・四条隆親と衝突。「近衛大殿」と心ならずも契る。

 第3巻では、有明の月の男児を産むが、他所へやる。有明の月が急死。有明の月の第二子を産み、今度は自らも世話をする。御所を退出する。
 第4巻はすでに尼になって、出家修行の旅に出ている場面から再開。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇に再会。伊勢へ。
 第5巻は45歳以降のこと。安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらに土佐の足摺岬。後深草法皇死去。

 登場人物のうち、「二条」は久我雅忠の娘、「雪の曙」は西園寺実兼、「有明の月」の阿闍梨は性助法親王、「近衛大殿」は鷹司兼平とみられる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

楠本いね・・・シーボルトの娘で、明治の日本最初の西洋女医

 楠本いねは、日本に医術開業試験制度が導入される前、1859年(安政6年)長崎西坂の刑場でオランダ医師ポンペによって行われた罪囚の死体解剖に立ち会った46人の医師のうちただ一人の女医師だった。また、1870年(明治3年)東京築地一番町で産科医を開業した日本最初の西洋女医だった。だが、いねは周知の通り、長崎オランダ商館医、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘だっただけに、当時の世間の眼は冷たく、いわれのない差別も受け育った。いねの生没年は1827(文政10)~1903年(明治36年。)

 日本人で初めて女性で西洋医学を学んだ産科医・楠本いねは母瀧(お滝)とドイツ人医師シーボルトの間に生まれた。母の瀧は商家の娘だったが、当時長崎・出島へ入ることができたのは遊女だけだったので、「其扇(そのぎ)」と名乗り、遊女を装って出島に出入りしていてシーボルトと恋に堕ち、結婚したとする説、もともと長崎の遊郭、丸山の遊女、「其扇」としか記されていない史料もあり定かではない。いねの出生地は長崎で、出島で生まれ出島で居を持ったという。「楠本」は母、楠本瀧の姓。

 シーボルトは1828年(文政11年)、いねが2歳のときスパイ容疑で国外追放された。そこで瀧はやむなく俵屋時次郎という商人と結婚し、いねが14歳のときシーボルトの弟子で宇和島藩開業医、二宮敬作に娘を預けた。いねは外科の医術を二宮に学び、18歳になると備前岡山の石井宗謙のもとで産科医の学問、技術を学んだ。石井には妻子があったが、彼はいねに娘高子(たか)を産ませている。

 また、いねは村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からオランダ軍医ポンペから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任、ボードウィンに学んだ。後年、大村益次郎が襲撃され、重傷を負った際には、ボードウィンの治療のもと彼女は大村を看護し、その最期を看取っている。

 1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって追放処分が取り消され、いねは1859年(安政6年)再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学んだ。シーボルトは長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘いねと交流し、日本研究を続けた。1861年、シーボルトは幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

 いねはドイツ人と日本人という当時では稀な混血児ということで、特別な眼で見られ差別を受けながらも、宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で、東京築地一番町で産科医を開業した後、宮内省御用掛となり、明治天皇の女官、権典侍・葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。

 その後、日本にもようやく医術開業試験制度が導入された。ただ、これはいねにとっては不幸なことだった。というのは、女性には受験資格がなかったからだ。すでに産科医として実績を積んできているのに、この制度がスタートしたことで、理不尽にもいねはその埒外に置かれることになってしまったのだ。勝気な性格で、負けず嫌いだったいねにとってはたまらないことだったろう。そのため、いねは断腸の思いで東京の医院を閉鎖、長崎に帰郷する。

1884年(明治17年)、医術開業試験制度の門戸が女性にも開かれるが、いねにとっては遅すぎた。すでに57歳になっていたため、合格の望みは薄いと判断し、以後は産婆として開業した。62歳のとき、娘(石井宗謙との間にできた高子)一家と同居のために、長崎の産院も閉鎖し再上京。医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話になり、余生を送った。いねは生涯独身だったが、1903年、食中毒のため東京麻布で亡くなった。

(参考資料)司馬遼太郎「花神」、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「日本医科伝」、杉本苑子「埠頭の風」

斉明天皇・・・土木工事が好きだった、史上初の譲位と重祚を行った女帝

 少子化時代の現代では出産以前に、結婚相手を見つけることすら自然にではなく、“婚活”に励む人たちがいる。こうしたことを考え合わせれば、古代社会は男女の仲も、恋愛も、現代社会よりもっと奔放で、さばけていたのではないだろうか。そんな事例が少なくないのだ。ただ、それが皇族、とりわけ女帝となると、さらに驚きだ。むろん、それは政略結婚に違いないのだが…。史上初の、譲位(第三十六代孝徳天皇へ)と重祚を行った斉明天皇は、そんな稀有なケースの女性だ。

 第三十五代とされる皇極天皇(在位642~645年)が重祚して、第三十七代斉明天皇(在位655~661年)と謚(おくりな)された。諱は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は吉備姫王(きびのひめのおおきみ)。第三十六代孝徳天皇の同母姉。

彼女は、最初に用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢(あや)皇子を産み、その後、田村皇子(後の第三十四代舒明天皇)との間に葛城皇子(後の第三十八代天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第四十代天武天皇)を産んだ。つまり、再婚して皇后となり、後に天皇となる2人の皇子を産んだわけだ。

 斉明天皇は女帝ながら、一般的なイメージとは異なり、各地の土木工事を推進した。また東北の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送るなど、蝦夷征伐も積極的に行ったことは特筆される。水工に溝を掘らせ、水路は香具山の西から石上山にまで及んだ。舟200隻に石を積み、流れにしたがって下り、宮の東側の山にその石を積み上げて垣を築いた。渠(みぞ)の工事に動員された人夫は3万人を超え、垣の工事にも7万余の人夫が使役された。2000年に奈良・飛鳥の地から亀石形の流水施設を含む宮廷施設などが発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。

対外政策では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、斉明天皇、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子らは百済救援のため九州へ赴いた。大宰府から奥へ入った朝倉の地に、「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という仮宮を建造し、斉明天皇が指揮にあたった。女帝ながら、したたかで男勝りな性格が顔をのぞかせる。だが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退。また、朝倉神社の木を勝手に伐採して宮の造営に充てたことから、雷神が怒り建物は崩壊した。宮殿の中にも鬼火が出現し、多くの人々が病に倒れた。そして遂に天皇自身もこの朝倉宮で崩御した。

 「大化の改新」の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。この2年前、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅亡に追い込むなど政治の実権を握っていた蘇我入鹿暗殺という古代史上最大のクライマックスともいえる、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。645年(皇極4年)のことだ。大化の改新の幕開きとなるこの事件の、実質上の首謀者は明らかに中臣鎌足(後の藤原鎌足)だ。鎌足31歳、中大兄皇子19歳のときだ。この年齢差から判断すれば鎌足が首謀者だろう。

ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。また、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったともいわれる。だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

坂本乙女・・・龍馬を育て力づけ励まし続けた、文武両道の女丈夫

 坂本乙女は坂本龍馬の三番目の姉で、幼いときに病気で母をなくした龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術など様々なことを教え、後の龍馬を育てた女丈夫だ。坂本乙女の生没年は1832(天保3)~1879年(明治12年)。

 坂本乙女は豪商・才谷屋の分家の、土佐藩郷士、坂本八平と幸の三女だ。城下でも屈指の富豪だから、乙女は家事などは手伝わず、気ままに遊芸を習うことができた。17、18歳のころは義太夫では玄人はだしの腕になり寄席を買い切って高座に上ったこともある。三味線、一弦琴、謡曲、舞踊、琵琶歌まで習い、そのいずれもが素人離れしていた。

 とくに自慢は剣術と馬術で土佐藩の恒例行事の正月の「乗初(のりぞめ)」式に女ながらも藩に無断で出場し、栗毛の肥馬に乗り男袴をはき、十尺の薙刀(なぎなた)を振り回して人を驚かせた。このほか弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったといわれる。

乙女は、身長五尺八寸(約174cm)・体重三十貫(約112kg)という当時はもちろん、現代的にみてもかなり大柄な女性だった。そのため力が強く、米俵を二表らくらくと両手に提げて歩くことができた。城下では「坂本のお仁王さま」と異名された。それだけに1846年、病弱だった母親、幸が亡くなった後、乙女は龍馬の母親代わりを務めた。龍馬に書道・和歌・剣術などを教え、当時龍馬が患っていた夜尿症を治したともいわれている。

それほど諸芸に堪能な彼女が、炊事と裁縫だけはできなかった。ただ彼女の場合、できないというより、その種の仕事を嘲弄していたふしさえあった。龍馬の盟友だった武市半平太の夫人は富子といい、小柄で温和で貞淑という点では典型的な武家家庭の主婦だった。乙女はこの富子に「あなたも家事以外のことで夢中になってみてはいかがですか。例えば薙刀や馬術などに」と、女仕事からの謀反を勧めている。

 乙女は晩婚で1856年、兄の友人の典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赫太郎・菊栄)をもうけた。岡上は長崎で蘭学を修めた人物だったが、身長が五尺そこそこしかなかった。そして、10年余の結婚生活の後、乙女は岡上と話し合い、二人の子供を置いて坂本家に戻った。家風の相違や夫の暴力、浮気などが原因で、姑の経済観念と、乙女の大らか過ぎる家計のやりくりとが合わないといったことも、その理由だったらしい。1867年のことだ。ただ、その後も息子や娘が坂本家に遊びにきているところをみれば、乙女はごくさわやかに、この離婚問題を処理していたと思われる。

 坂本家に戻った乙女はその後、龍馬の良き理解者として、龍馬が国事に奔走するのを力づけ相談に乗ったり、励ましたという。乙女は自分も国事に尽くそうと上洛を望み、龍馬の迎えの便りを待っていたが、頼みの龍馬が暗殺され、志を果たせなかったという話がある。

 ただ、龍馬の妻、おりょうとは不仲だったようだ。これは、乙女に対するおりょうの接し方にも問題があったのかも知れないが、しっくり行っていなかったことは確かだ。龍馬が京都で暗殺された後、おりょうは坂本家の乙女のもとに身を寄せたのだが、程なくしてここを去り、身寄りのないおりょうは各地を放浪したという経緯がある。

 晩年は独と改名し、養嗣子の坂本直寛とともに暮らした。1879年、コレラが流行した際、感染を恐れて野菜を食べなかったためか、壊血病に罹り死去した。享年48。

(参考資料)司馬遼太郎「歴史の中の日本」

天璋院篤姫・・・勝海舟とともに江戸無血開城の際の幕府側の立役者

 徳川家康が江戸幕府を開いて以来260年余、威光を誇った徳川政権が、その終焉を迎えたとき、江戸城開城をめぐって華麗なドラマが繰り広げられた。主役を演じたのは周知の通り、勝海舟と西郷隆盛だが、その舞台の陰にはこの天璋院篤姫の活躍があった。

東征大総督府参謀の西郷に江戸城総攻撃中止、戦争の回避、慶喜の助命、徳川宗家の存続-を決断させたものは何だったのか?この点については今もなお謎が多いのだが、近年西郷の譲歩を引き出した要因として、西郷に宛てた天璋院の切々たる嘆願書ではないかとの見方がクローズアップされている。

長い手紙だが、願いの筋は「徳川家の安堵」という一点に絞られている。自分は御父上(島津斉彬)の深い思慮によって徳川家に輿入れしたが、「嫁したからには、生命ある限り徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいて他にいません」と、天璋院は繰り返し西郷の心情に訴えかけている。

慶喜のことについても、「当人(慶喜)はどのように天罰を仰せ付けられてもしようのないこと」と突き放しながら、それでも慶喜本人が大罪を悔いて恭順している今、徳川宗家存続を許すことこそが、西郷自身の武徳や仁心にとってもこの上ないことと主張、西郷に大いなる義の心を求めているのだ。

東征軍が江戸城へ刻々と迫る中、天璋院の瀬戸際でのこの懸命の努力が、江戸無血開城という形で実現、新旧の国家権力の交代劇につながった。

天璋院篤姫は1835年(天保6年)、鹿児島城下の今和泉島津家に生まれ、一(かつ)と名付けられた今和泉家は島津本家の一門、石高1万3800余と小藩並みだ。実父の忠剛(ただたけ)は島津斉宣の子で、斉彬の叔父にあたる。したがって、斉彬と篤姫はいとこ同士だった。島津本家当主斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛忠煕の娘として1856年(安政3年)、徳川13代将軍家定の正室に、そして大奥の御台所となった。これ以降、彼女は生涯を通して再び故郷の鹿児島に戻ることはなかった。

1858年(安政5年)、夫の将軍家定が急死し、これに続き父斉彬までも亡くなってしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9カ月だった。家定の死により篤姫は落飾、天璋院と号した。その後は和宮に代わり、大御台所として江戸開城に至るまで大奥を統率した。

名を東京と改められた明治時代。天璋院は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家には頼らず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。大奥とは違った、自由気ままで庶民的な生活を楽しみ、旧幕臣の勝海舟や静寛院宮(和宮)ともたびたび会っていた。また、田安亀之助(徳川宗家16代・徳川家達)を教育し、海外に留学させるなどしていた。ペリー提督が持ってきたといわれるミシンを、日本人として初めて使ったのも天璋院といわれている。1883年(明治16年)、脳出血で48年の生涯を閉じた。死後、新政府から剥奪されていた官位、従三位を再び贈られた。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」、「新説 戦乱の日本史 江戸城無血開城」
     宮尾登美子「天璋院篤姫」

檀林皇后・・・橘氏出身で唯一の皇后、仁明天皇、淳和天皇の皇后の生母

 檀林(だんりん)皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、もともと嵯峨天皇の十指にも余る妃の一人に過ぎなかった。ところが、皇后の桓武天皇の皇女の高津内親王が早く逝去したことで、彼女の運命が大きく変わることになった。姻戚の藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は、冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后。橘氏出身としては最初で最後の皇后となった。嵯峨天皇薨去の後、京都嵯峨野に檀林寺というわが国最初の禅院を営んだので、その寺名にちなみ檀林皇后と呼ばれた。

 橘嘉智子(たちばなのかちこ)は橘奈良麻呂の孫、橘清友の娘。母は贈正一位田口氏。生没年は786年(延暦5年)~850年(嘉祥3年)。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)ほか二男五女をもうけた。嵯峨上皇の崩御後も太皇太后として隠然たる勢力を持ち、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために「承和の変」も深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母の娘の正子内親王は、嘉智子を深く恨んだといわれる。

 彼女の父の橘清友は橘諸兄の孫という歴とした血筋だ。諸兄は敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄、初め、葛城王と称したが、臣籍に降って橘の家を興こした。藤原四兄弟が相次いで死亡した後、左大臣として国政にあたり、花の天平時代を築いた。その子、奈良麻呂は藤原仲麻呂(恵美押勝)を除かんとして破れ獄死したが、橘氏は藤原氏と並び称せられる家柄だった。橘逸勢は嘉智子のいとこ。

 嘉智子は稀に見る美人だった。奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものといわれているが、一説では嘉智子=檀林皇后をモデルにしたものともいう。嘉智子は、朝廷に対する罪人との烙印を押された祖父・奈良麻呂の汚名返上と繁栄を願う、橘氏一族の期待の星だったのだ。それだけに、嘉智子の人生は輝かしい栄華の一方で、周辺を巻き込みつつ、血塗られた政略に満ちあふれたものでもあった。

檀林寺は現在の野々宮から天竜寺に及ぶ一帯を占めた広大な寺院だったというが、消失してしまい現在、嵯峨野の祇王寺に近い東側に再建されている。昭和40年代の初めに造られたもので、新しいものだが檀林皇后時代の遺物がよく保存されている。

 奈良朝から中世へかけて天皇家の権威の下に、その門流が繁栄を極めた名族として「源平藤橘」が挙げられる。源氏、平氏はかなり後の平安時代後期に登場する氏族。藤橘の藤は周知の通り、南家、北家、式家、京家の四家に分かれて勢力を競い合った藤原氏であり、橘は檀林皇后すなわち嘉智子の出自の橘氏だ。橘氏は周知の通り藤原氏北家と結び、奈良時代末期から平安時代前期をリードして、人臣その位を極めるエリートとなった。

(参考資料)杉本苑子「檀林皇后私譜」