大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 近畿の7月の景況感4カ月ぶりに改善 民間調べ 2014年8月8日 近畿の7月の景況感4カ月ぶりに改善 民間調べ  帝国データバンク大阪支社が発表した7月の近畿2府4県の景気動向調査は、企業の景況感を示す指数(DI)が45.4と前月比0.8ポイント改善した。前月を上回るのは4カ月ぶり。全国10地域でみると、台風8号の影響を受けた四国を除き、14カ月ぶりに最下位から脱した。全国(46.9)との差は前月比0.4ポイント縮まった。
  • 大阪の陣400年 特命応援隊に片岡愛之助・和田アキ子さん 2014年8月7日 大阪の陣400年 特命応援隊に片岡愛之助・和田アキ子さん   「大坂の陣400年天下一祭」の特命応援隊に歌舞伎俳優の片岡愛之助さん、歌手の和田アキ子さんが、10月から始まるイベント「大坂の陣400年天下一祭」の特命応援隊に選ばれた。徳川家康が宿敵・豊臣氏を滅亡に追い込み、文字通り徳川政権を確立した大坂の陣(冬・夏)から400年になるのを記念して、大阪府などでつくる実行委員会が主催する2015年夏にかけて、国内外に大阪の魅力を発信するという。
  • 「くまモン」「ふなっしー」の認知率80%超え 2014年8月7日 「くまモン」「ふなっしー」の認知率80%超え  東京リサーチセンター(東京都中央区)の調査によると、地元をアピールする全国各地の「ゆるキャラ」のうち、熊本県の「くまモン」など4体は全国規模の認知率50%を超えることが分かった。中でもくまモンと千葉県船橋市の「ふなっしー」は80%を超え、全国区の知名度を誇り2強の様相を呈した。他に5割を超えたのは奈良県の「せんとくん」74%、滋賀県彦根市の「ひこにゃん」51%だけで、15体は10%未満だった  調査は6月4~16日に行われ、男女1200人から回答を得た。地方公共団体などが着ぐるみをつくった公認、非公認のキャラクターから主な27体を選び、知っているかどうかを複数回答で尋ねた。 
  • 大阪3商工会議所がモノづくり支援組織で連携 2014年8月7日 大阪3商工会議所がモノづくり支援組織で連携  大阪商工会議所、東大阪商工会議所、北大阪商工会議所は8月5日「3大阪(Three OSAKA)ものづくり相談所」を開設したと発表した。3会議所のものづくり会員企業を対象に、3会議所が一元窓口となり、新製品の技術ニーズ発表企業とシーズ提案企業を募集してマッチングを図る。公募は年3回程度行う。利用料は無料。大阪府内の複数の商工会議所がものづくりの支援で常設の組織を設置するのは初めて。  第1号案件として8月5日から約1カ月かけて医療機器総合商社のジャスト・メディカル・コーポレーション(大阪市北区)に対するシーズ提案企業を募集。自社製のカテーテルトレーニングシミュレーターの製造の協力企業を求める。
  • ハリ・ポタで独走するUSJに挑む?ひらかたパーク 2014年8月5日 ハリ・ポタで独走するUSJに挑む?ひらかたパーク  「ハリー・ポッター」エリアの開業で、独走状態を呈しつつあるUSJ(大阪市此花区)の周辺で善戦、健闘しているのが老舗遊園地「ひらかたパーク」(大阪府枚方市、ひらパー)だ。USJのハリ・ポタエリアへの投資額450億円に対し、ひらパーの今年度の投資額はわずか1億円強。ひらパーの運営会社の親会社は京阪電気鉄道で、設備投資には“慎重”というより、“渋ちん”だ。それでもひらパーの7月の入園者数は前年同月比2割増で、USJのハリ・ポタエリア開業後も好調を維持している  ひらパーの集客アップの立役者は4月に園長に就いた、V6のメンバーで俳優の岡田准一さんだ。枚方市出身の岡田さんと組むことで、少ない予算でも話題提供できるとの、したたかな“読み”からだ。しかも、岡田さんの園長就任は“お飾り”ではない。与えられた使命は年間入場者数の100万人超え(13年度は95万人)で、達成できなければ解任だという。NHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」で主役を張る俳優でも加減しない。ひらパーの覚悟のほどが感じれらる。
  • なんばCITYに9月末にムスリム向け祈とう室設置 2014年8月4日 なんばCITYに9月末にムスリム向け祈とう室設置  南海電鉄(大阪市)は9月30日、難波駅直結の商業施設「なんばCITY」(大阪市中央区)にイスラム教徒(ムスリム)向けの祈とう室を設置する。南海電鉄によると、関西の鉄道会社が祈とう室を設けるのは初めて。祈とう室内にはメッカの方向を示す印を設け、男女別にし切って約10人が同時にお祈りできるようにするという。  ビザ要件の緩和などでイスラム教徒の多いインドネシア、マレーシアなど東南アジア4カ国から昨年、関西国際空港経由で入国した外国人は約24万人で、前年比55%も増えている。
  • 大阪は15件で2位 危険ドラッグの1~7月交通事故 2014年8月1日 大阪は15件で2位 危険ドラッグの1~7月交通事故  危険ドラッグの吸引が原因とみられる交通事故が今年1~7月で、全国で少なくとも80件を超え、昨年1年間の67件をすでに上回っていることが分かった。このままのペースなら倍増となる可能性もある。  都道府県別では、最多は愛知県の21件、次いで大阪の15件、以下、東京11件、神奈川9件、千葉、兵庫、香川各4県の順。
  • 7月87万人 ハリポタ効果で入場者最多に 関西圏以外6割 2014年8月1日 7月87万人 ハリポタ効果で入場者最多に 関西圏以外6割  ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)の運営会社は7月31日、7月の入場者数が87万人(速報値)となり、7月としては2001年の開業以来、最多になったと発表した。15日にオープンした「ハリー・ポッター」エリアを目指して多くのファンが訪れたためだ。  新エリア開業後はとくに遠方からの客が多く、前年の2倍以上に達した。従来は3、4割だった関西圏以外からの客は6割に達し、比率が逆転。外国人旅行客も大幅に増えているという。売上高も7月としては過去最高。8月は01年8月に記録した単月過去最多の132万人超えを目指す。14年度は1100万人。ハリポタエリア開業日からの1年間では1200万人の入場を見込む。
  • 大阪府警 08~12年で犯罪8万件報告せず 280人処分 2014年7月31日 大阪府警 08~12年で犯罪8万件報告せず 280人処分  大阪府警は7月30日、警察庁に報告した刑法犯の認知件数を、2008~12年の5年間で計8万1307件少なくしていたと発表した。全65署が関わっていた。都道府県別の街頭犯罪の認知件数で、全国ワースト1位が続いた大阪府は10~12年、東京都を下回ったとされたが、実際は最悪のままだった。府警は同日、内規などに基づいて幹部を含む280人の処分を決めた。
  • 13年度の国の新規融資は6年ぶりに減少 近畿財務局 2014年7月29日 13年度の国の新規融資は6年ぶりに減少 近畿財務局  近畿財務局は7月28日、2013年度に国が近畿2府4県の自治体に対して新規に貸し付けた財政融資資金が12年度比4.9%減の46438億円になったと発表した。減少は6年ぶり。12年度は、11年9月の台風で被害を受けた和歌山県が復旧事業に取り組み、同県への貸し付けが膨らんでいた。したがって、13年度は和歌山県への新規融資は252億円(30.7%)減の570億円に減少した。   4府県で12年度を下回ったが、兵庫県向けは耐震工事などの緊急防災・減災事業を中心に108億円(9.2%)増の1288億円、奈良県向けは13億円(4.1%)増の332億円とそれぞれ増えた。
  • 大阪・沖縄など候補 カジノ20年までに3カ所 2014年7月28日 大阪・沖縄など候補   カジノ20年までに3カ所  政府は東京五輪を開催する2020年までに全国3カ所前後で、カジノの開設を認める検討に入った。大阪、沖縄などが候補となる見通しだ。外国人の入場料は無料とし、誘客効果の大きいカジノをテコに訪日外国人の増加につなげる。日本人の入場は、数千円程度を徴収するなど制限を加える方向だが、ギャンブル依存症や治安の悪化などマイナス面への対策が求められる。  政府関係者によると、カジノ誘致に関心を示している自治体は、大阪、沖縄、宮崎、長崎、神奈川、東京、千葉、北海道など約20ある。このうち、候補地を3カ所前後に絞る方針だ。  政府がモデルにするのは、数多くのカジノが乱立するラスベガスやマカオではなく、ホテルや会議場、ショッピング施設など大型リゾート施設の一角に、少数のカジノを併設するシンガポールだ。
  • 16年に新エリア第2弾、USJ 20年までに年間1500万人 2014年7月28日 16年に新エリア第2弾、USJ 20年までに年間1500万人  ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)を運営するUSJ社長兼最高経営責任者(CEO)のグレン・ガンペル氏(66)はこのほど、2016年にも「ハリー・ポッター」エリアに次ぐ大型アトラクションを導入し、5、6年後に年間来場者数1500万人に拡大する計画を明らかにした。  大阪以外のテーマパーク建設では沖縄県名護市を含め国内外で検討中だ。インドネシアのテーマパーク会社など複数の企業と協議しており、アジア進出に意欲を示した。  
  • 夏の夜空彩る4000発 天神祭の奉納花火 2014年7月26日 夏の夜空彩る4000発 天神祭の奉納花火  大阪の夏を彩る大阪天満宮(大阪市北区)の天神祭は7月25日夜、クライマックスの「船渡御(ふなとぎょ)」が行われ、かがり火をたいた約100隻の船が市中心部を流れる大川を行き交った。  大阪市内はこの日、最高気温が37度を超える猛暑日で、うちわを片手に集った家族連れや若者らは、約4000発の奉納花火に大きな歓声を上げていた。菅原道真の護神霊を乗せた御鳳れん船や氏子らを乗せた奉拝船などがすれ違うたびに、船上から威勢のいい「大阪締め」が響き、祭りを盛り上げた。
  • 期間限定で阪神タイガースのグリコランナー 2014年7月26日 期間限定で阪神タイガースのグリコランナー  江崎グリコは7月28日から江崎記念館(大阪市西淀川区)で、2003年に期間限定で大阪・道頓堀の電光看板に貼り付けた阪神タイガースのユニフォーム姿の「グリコランナー」を展示する。この年、阪神が18年ぶりにリーグ優勝。チームの躍進と景気回復を応援するため、通常は陸上選手姿の看板にかぶせていたという。
  • 大阪府警が危険ドラッグ店へ一斉立ち入り実施 2014年7月26日 大阪府警が危険ドラッグ店へ一斉立ち入り実施  危険ドラッグ(脱法ドラッグ)の影響による交通事故や事件が相次いでいることを受け、大阪府警は7月23日、大阪府や近畿厚生局と合同で、危険ドラッグを販売しているとみられる府内の30店への一斉立ち入りを実施した。全店で今後の販売自粛を促す「警告書」を店員に手渡した。  大阪市の販売店には府警の捜査員ら約10人が立ち入り、店内や商品の写真撮影をした後、警告書を店員に手渡した。    
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。