- 近畿の7月有効求人倍率1.60倍でバブル後の最高更新 2018年9月2日 近畿の7月有効求人倍率1.60倍でバブル後の最高更新 厚生労働省によると、7月の近畿2府4県の有効求人倍率(季節調整値)は、前月比0.02㌽上昇して1.60倍だった。新規求人数は1年9カ月連続で前年同月を上回っており、企業の採用意欲は強い。その結果、有効求人倍率はバブル崩壊後の最高水準を更新した。 府県別では大阪府の1.76倍を筆頭に、京都府1.56倍、奈良県1.48倍、兵庫県1.45倍、滋賀県1.42倍、和歌山県1.33倍となり、京都府を除く5府県で上昇した。住宅リフォームなどの建設業、保育所職員や看護師などの医療・福祉が2ケタ増となった。
- パナソニック 欧州本社をオランダに移す 英のEU離脱で 2018年9月1日 パナソニック 欧州本社をオランダに移す 英のEU離脱で パナソニック(本社:大阪府門真市)は、欧州本社を10月に英国からオランダのアムステルダムに移すことを明らかにした。英国の欧州連合(EU)離脱に対応した措置。 パナソニック欧州事業の実質的な本拠は、ドイツ・フランクフルト近郊のヘッセン州ウィースバーデンにあるが、組織上、事業を統括する「パナソニックヨーロッパ」の所在地は、英国ロンドン近郊のバークシャー州ブラックネルとなっている。同地には数十人が在籍しているが、本拠移転に伴い半分以上をオランダに移すとしている。
- 児童虐待件数 大阪府が全国最多の1万8412件 2018年8月31日 児童虐待件数 大阪府が全国最多の1万8412件 厚生労働省のまとめによると、大阪府内で昨年度、子どもが親などから虐待を受けたとして児童相談所が対応した件数は1万8412件と前年度を700件近く上回り、全国の都道府県で最多となったことが分かった。 このほか近畿では兵庫県が1098件増の5190件、京都府が150件増の2856件、奈良県が14件増の1481件、滋賀県が117件増の1400件、和歌山県が2件増の1142件となり、いずれも前年度より増加している。 なお、全国の虐待件数は13万3778件で、前年度より1万1000件余り増え過去最多を更新した。
- 大阪府「宿泊税」対象を1泊7000円以上に拡大 2018年8月30日 大阪府「宿泊税」対象を1泊7000円以上に拡大 大阪府の有識者会議はこのほど、府が2017年1月から1泊1万円以上のホテルなどに泊まった人を対象に、1泊当たり100円から300円を徴収している「宿泊税」について、課税対象を1泊7000円以上の宿泊者に拡大することが望ましいとする答申案をまとめた。 これは民泊の急増などで宿泊料が下落傾向にあり、訪日外国人旅行者に向けた、受け入れ環境整備に必要な税収を確保できない状況となったため。1泊7000円以上の宿泊者に対象者を広げることで、税収は昨年度見込みの7億7000万円から12億円余り増えて19億8000万円に増える見通し。 大阪府はこの宿泊税の条例の改正案を9月から始まる定例府議会に提出することにしている。
- お盆の関空国際線利用者4.3%増の71万人余りに 2018年8月27日 お盆の関空国際線利用者4.3%増の71万人余りに 大阪入国管理局関西空港支局によると、8月10~19日までのお盆を中心とする期間中に関西空港の国際線を利用した人は、昨年比4.3%増の71万5410人に上った。 内訳は出国者が36万3600人、入国者が35万1810人。このうち大幅に増えたのが日本人の出国者で、15万3860人と昨年より13.5%増えた。 日本人、外国人を問わず関西空港からの行き先として最も多かったのは、韓国で全体の26%にあたる9万6490人、次いで中国が22%にあたる8万2010人だった。
- 大阪ガス 千葉県で国内最大級のバイオマス発電所建設 2018年8月23日 大阪ガス 千葉県で国内最大級のバイオマス発電所建設 大阪ガス(本社:大阪市中央区)は、首都圏での電力事業を強化するため、千葉県袖ケ浦市に国内最大規模のバイオマス発電所を建設する。2019年夏に着工し、早ければ4年後に運転を開始する予定。総事業費は数百億円規模で、出力7万5000KWで、発電した電力は東京電力に販売する。 大阪ガスは2016年4月の電力の小売り自由化以降、72万件の電力の契約を獲得しており、今回のバイオマス発電所建設を通じて、多様な発電方法のノウハウを蓄積するほか、首都圏での電力事業の強化を図りたい考え。
- 大阪桐蔭が史上初2回目の春夏連覇達成 2018年8月22日 大阪桐蔭が史上初2回目の春夏連覇達成 100回の記念大会の夏の全国高校野球は8月21日、満員の甲子園球場で決勝戦が行われ、北大阪代表の大阪桐蔭が秋田代表の金足農に13対2で勝ち、史上初となる2回目の春夏連覇の偉業を成し遂げた。 今大会屈指のエースの吉田輝星投手を擁し粘り強い打撃で、秋田県勢として第1回大会の秋田中学以来、103年ぶりに決勝戦に駒を進めた金足農による悲願達成は成らなかった。大阪桐蔭は、高校生としては別格の強力打線がこの日も爆発、連投、連投で疲労の残る金足農の吉田投手を打ち崩し、圧勝した。
- 大阪北部地震から2カ月「みなし仮設」提供始まる 2018年8月19日 大阪北部地震から2カ月「みなし仮設」提供始まる 震度6弱の揺れを観測した大阪府北部地震(6月18日)から2カ月が経過した。死者5人、負傷者435人、そして4万7000棟近くの住宅が被害を受けた同地震で、ピーク時には府内で2400人が身を寄せた避難所も8月4日までにすべて閉鎖された。ただ、損壊の程度、損壊箇所により、個々の事情は様々だが、これで元の日常生活に戻れたわけではない。 今回の地震で被害を受けた住宅の多くは「一部損壊」の判定だった。しかし、この一部損壊でも自宅に帰ることが困難な世帯が意外に多いのだ。大阪府や地元自治体は、こうした世帯には民間の賃貸住宅などを利用した、いわゆる「みなし仮設」を提供しており、これまでに50世帯余りの入居が決まったという。順番待ちの一部損壊の自宅の修理が終わり、元の生活を取り戻すにはまだ時間がかかりそうだ。
- 大阪府 万博誘致へ健康増進条例案提出、姿勢アピール 2018年8月18日 大阪府 万博誘致へ健康増進条例提出、姿勢アピール 大阪府は、府民の健康増進に向けた取り組みを強化するため、健康教育の促進やがん検診などの受診を促すことなどを盛り込んだ条例案を9月から始まる定例府議会に提出することになった。 大阪府は健康や長寿などをテーマに2025年の万博の誘致を目指しているが、大阪府民の平均寿命は47都道府県の中で男女ともに38位となっていて、平均を下回っている。こうした状況を受け、大阪府は府民の健康増進に向けた取り組みを強化するための条例案を取りまとめたもの。 条例案には①学校や職場、地域などで健康教育を促進する②栄養バランスの良い食事メニューの普及・啓発③特定健診、いわゆる”メタボ健診”や、がん検診などの受診を促す-などを盛り込んでいる。 大阪府は万博の開催地を決める11月のBIE(博覧会国際事務局)の総会の前には可決させて、万博のテーマ通り、健康づくりに取り組む大阪の姿勢を広くアピールしたい考え。
- 「世界で最も住みやすい都市」で大阪3位に躍進 英誌調査 2018年8月17日 「世界で最も住みやすい都市」で大阪3位に躍進 英誌調査 英誌エコノミストの調査部門がまとめた「世界で最も住みやすい都市」ランキングで大阪が3位に躍進した。前年はトップ10圏外だった。東京もカナダのトロント並んで7位に入った。 大阪躍進の理由について、同誌は「公共交通機関の利便性向上や犯罪発生率の減少」を挙げている。 首位はオーストリアの首都ウィーン。前年まで7年連続でトップの座を守ってきたオーストラリアのメルボルンを退けた。4位はカナダのカルガリー、5位はオーストラリアのシドニーだった。一方、最も住みにくい都市は前年に続き、内戦が続くシリアの首都ダマスカスだった。 同誌は世界の140都市を治安や医療、文化と環境、教育、インフラの各分野で採点、総合比較している。
- 寝屋川流域の防災計画「タイムライン」完成 2018年8月16日 寝屋川流域の防災計画「タイムライン」完成 大阪府を流れる寝屋川の大規模水害に備えて、流域の自治体などが被害が起きる前から、堤防決壊、復旧までの対尾をあらかじめ決めておく「タイムライン」と呼ばれる防災計画が完成し、運用が始まることになった。 このタイムラインは大阪府や、およそ270万人が居住する流域の自治体、それに公共交通などの関係機関が参加して策定を進めていたもの。完成したタイムラインは、台風の接近の可能性が高まった数日前から、堤防の決壊で被害が起きた後の復旧までを8つの段階に分けて、それぞれの取るべき行動計画を時系列でまとめている。 この中で、流域自治体による避難所の開設準備や高齢者などへの避難支援の準備、鉄道会社の利用者に対するダイヤの乱れ、運休の可能性についての情報発信などが盛り込まれている。
- 関西電力 英国洋上風力発電事業に電力会社で初参画 2018年8月15日 関西電力 英国洋上風力発電事業に電力会社で初参画 関西電力(本社:大阪市北区)は、日本の電力会社として初めて海外の洋上風力発電事業に出資すると発表した。出資するのはJパワーと関西電力。出資額は非公表だが、両社で1000億円程度とみられる。 英国における洋上風力発電所建設および運営のため、ドイツの電力大手イノジーSEの子会社が100%出資するトライトンノール社の株式をJパワーが25%、関西電力が16%取得する。 トライトンノール社は今後、英国東海岸の北海洋上に大型洋上風力発電機を90機(総発電容量約86万KW)設置し、2021年に運転開始する予定。これにより海外事業における関西電力の持分容量は合計271.2万KWとなる。
- 近畿の7月企業倒産件数は今年最少に 2018年8月14日 近畿の7月企業倒産件数は今年最少に 帝国データバンクのまとめによると、近畿2府4県で7月、1000万円以上の負債を抱えて法的整理になった企業は153件で、前年同月比11.0%(19件)減少した。 前年同月比で倒産件数が減少するのは3カ月連続で、今年に入ってから最も少ない件数となった。 業種別では建設やサービスなど6業種で減少したが、機械と不動産ではそれぞれ1件増加した。
- トモニHD 徳島・大正2行の合併基本合意書締結 2018年8月13日 トモニHD 徳島・大正2行の合併基本合意書締結 トモニホールディングス(本社:香川県高松市、以下、トモニHD)は8月10日、完全子会社の徳島銀行(本店:徳島市)および大正銀行(本店:大阪市中央区)の2行間で既定方針通り、合併基本合意書を締結したと発表した。 合併効力発生日は2020年1月1日。合併後の商号は徳島大正銀行。本店所在地は徳島市(現 徳島銀行の本店所在地)。資本金は110億3600万円。
- 関西空港国際線の出国ラッシュがピークに 2018年8月12日 関西空港国際線の出国ラッシュがピークに 関西空港は8月11日、お盆休みを海外で過ごそうという家族連れ、グループ、カップルらの出国ラッシュがピークを迎え、国際線の出発ロビーは朝早くから混雑し、航空会社のカウンターには長い列ができていた 関西空港では、8月10日から19日までの期間中に約35万人が出国する予定で、11日がそのピーク。なお、関西空港の帰国ラッシュのピークは8月16日の見通し。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。