大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 大阪北部地震で死者4人、負傷者376人 消防庁 2018年6月20日 大阪北部地震で死者4人、負傷者376人 消防庁 総務省消防庁は6月19日、午前6時半時点の大阪北部地震の被害状況をまとめた。死者は4人、負傷者は376人、住宅の一部損壊が252棟となった。 府県別にみると、死者は大阪府で4人。負傷者は大阪府328人、兵庫県29人、京都府10人、奈良県4人、滋賀県3人、三重県2人。住宅被害は大阪府183棟、京都府64棟、奈良県3棟、兵庫県2棟。 大阪府によると、19日午前7時半時点で346カ所に計1785人が避難している。また、大阪ガスによると19日午前9時時点で、大阪府の高槻市と茨木市を中心に計11万2000戸で供給停止が続いている。
  • 京阪バス 事業化前提に路線バスで自動運転の実証実験 2018年6月20日 京阪バス 事業化前提に路線バスで自動運転の実証実験 関西で大手のバス会社、京阪バスが大津市の協力を得て同市の中心市街地で、路線バスの自動運転の実証実験を行うことになった。 来年度をめどに、JR大津駅からびわ湖までおよそ1kmの大通りなど大津市の市街地で、自動運転のバスを運行する。運転手が同乗し、営業運転ができるかどうかを検証する。実験で安全面や収益性に問題がなければ、2020年をめどに運転手が同乗した自動運転バスの営業を始める。将来的には無人の自動運転を目指す。 京阪バスは関西2府2県で路線バスを運行するバス大手。民間のバス会社が事業化を前提に、街中で自動運転の実験を行うのは全国でも珍しいという。
  • 大阪 震度「6弱」地震は観測史上初 2018年6月19日 大阪 震度「6弱」地震は観測史上初 気象庁は6月18日朝、大阪北部で起きたマグニチュード(M)6.1、最大深度6弱の地震について、「地殻内部で起きた直下型地震」と説明した。大阪府で震度6弱以上の揺れを観測したのは、気象庁が1923年に地震観測を始めて以来、初めて。そして、余震が続発していることから、今後1週間、最大震度6弱程度の地震に注意してほしいと呼び掛けた。 震源のごく近くに活断層、有馬―高槻断層帯があり、この一部が動いたとの見立てもできるが、今後解析を進めるとしている。政府の地震調査委員会によると、有馬―高槻断層帯では1596年に慶長伏見地震(M7.5)が発生している。ただ、これまで同断層帯の長期評価では、今後30年間の地震発生確率は0.1%未満とされていた。
  • 大阪府で震度6弱の地震 近畿地方で強い揺れ 2018年6月18日 大阪府で震度6弱の地震 近畿地方で強い揺れ 大阪府で6月18日7時58分ごろ、最大震度6弱を観測する地震があった。震源地は大阪府北部、地震の規模はマグニチュード6.1(暫定値)、震源の深さ約13km(暫定値)。 大阪市北区、高槻市、枚方市、茨木市、箕面市で震度6弱、大阪市淀川区、東淀川区、都島区、豊中市、吹田市、寝屋川市、摂津市、交野市、京都府亀岡市、長岡京市、八幡市など広範な地域で震度5強をそれぞれ観測した。
  • 安売りの「スーパー玉出」事業売却へ 2018年6月17日 安売りの「スーパー玉出」事業売却へ 破格の「1円セール」など関西地域で格安店として知られる玉出ホールディングス(本社:大阪市西成区)は、食品スーパー「スーパー玉出」を大阪市内の会社に7月にも売却する方針を固めた。 売却先は、鶏卵生産大手のイセ食品(埼玉県鴻巣市)の関連会社が出資する大阪市内の企業という。屋号や雇用は当面維持される見通しだが、不採算店は順次閉鎖される見込み。
  • IR整備法案 衆院内閣委で賛成多数で可決 2018年6月16日 IR整備法案 衆院内閣委で賛成多数で可決 カジノを含むIR・統合型リゾート施設の整備法案は、衆議院内閣委員会で野党側が怒号などで抗議する中、採決が行われ、自民・公明両党と日本維新の会の賛成多数で可決された。 法案では施設の整備区域を、全国で当面3カ所までとし、最初の区域認定から7年後に見直すとしているほか、事業者に対しカジノの収益の30%を国に納付することを義務付けている。また、入場料を6000円とし、入場回数は1週間で最大3回、4週間で10回までに制限する規制や、事業免許を不正に取得した場合の罰則などを盛り込んでいる。 与党側は法案を週明け6月19日に衆議院を通過させ、6月20日までの会期を延長して今国会で成立させる方針だ。
  • 万博誘致へBIE総会で最後のプレゼン 山中教授がスピーチ 2018年6月15日 万博誘致へBIE総会で最後のプレゼン 山中教授がスピーチ フランスのパリで6月13日、BIE(博覧会国際事務局)の総会で、2025年万博開催都市に立候補している3カ国・都市による事実上最後となるプレゼンテーションが行われた。プレゼンはロシア・エカテリンブルグ、アゼルバイジャン・バクー、そして日本・大阪(関西)の順で行われた。 大阪への誘致を目指している日本は、万博のテーマとして掲げている「いのち輝く未来社会のデザイン」にふさわしい、iPS細胞の開発でノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授が、1970年の大阪万博時の体験を踏まえたスピーチ。また若い世代を代表して京大生(女性)がスピーチ、そして経済産業省の世耕弘成大臣のライバル2都市を意識したスピーチなどで構成。会場をピカチュウが案内する形で紹介し、安倍晋三首相もビデオメッセージで登場した。 また、会場には大阪府の松井知事、大阪市の吉村市長、経団連の榊原会長、関経連の松本会長らが顔をそろえ、まさしくオールジャパンの色合いが濃いプレゼンテーションとなった。最後はバイオリンと和太鼓で演出、和やかで楽しいプレゼンだった。今回のプレゼンだけの印象では日本が一歩リードの形勢だが、ライバル2都市は初めての誘致をアピールし、同情票?を集めそうなだけに予断は許さない。 総会では11月23日に開かれる次回のBIE総会で2025年の万博の開催地を決めることが発表された。BIE加盟170カ国のうち、49カ国を数えるアフリカ諸国の取り込みを巡って、今後激しいロビー活動が繰り広げられることになりそうだ。
  • 大阪市内の高層ホテル建設現場にロボット導入 清水建設 2018年6月13日 大阪市内の高層ホテル建設現場にロボット導入 清水建設 ゼネコン大手の清水建設は、大阪市内で建設中の高層ホテルの建設現場に、今秋から3種類の建設ロボット8台を導入すると発表した。 これらのロボットは同社が独自に開発したもので、壁などの建築資材の運搬、鉄骨の柱の溶接作業、天井のパネル貼りの作業を行う。ロボットは人が操作しなくても、周囲の状況を読み取って自分で判断しながら作業ができるため、1台につき7割から8割の人手を削減できるという。 日本建設業連合会によると、建設業に従事している技能労働者数は2025年までにおよそ125万人不足すると推計されている。
  • 5月の近畿の倒産2カ月ぶり減少、建設・サービス増加 2018年6月11日 5月の近畿の倒産2カ月ぶり減少、建設・サービス増加 帝国データバンクのまとめによると、近畿2府4県で5月に、1000万円以上の負債を抱えて法的整理になった企業は、前年同月と比べて5.7%(12件)減少した。倒産件数が前年同月比で減少するのは2カ月ぶり。 業種別では繊維、機械などで減少したが、建設やサービスは増加した。人手不足や、人手確保のため実施した人件費の上昇などが影響したとみられる。 一方、負債総額は155億5300万円で、前年同月と比べ10.3%(14億5000万円)増えた。
  • 万博誘致実現へ連携強化を確認 大阪府咲洲庁舎 2018年6月10日 万博誘致実現へ連携強化を確認 大阪府咲洲庁舎 自民党の万博誘致推進本部の会合が6月9日、大阪府の咲洲庁舎で開かれ、自民党の国会議員、地方議員、それに大阪府の幹部職員や経済界の代表ら100人余りが出席、誘致実現に向けて連携して取り組む方針を確認した。 推進本部長を務める二階幹事長は「どんなことでもやり抜く以外にないので、皆さんと力を合わせて頑張りたい」とあいさつした。大阪府の松井知事は「来週のBIE(博覧会国際事務局)の総会(のプレゼンテーション)では、少しでも多くの国から支持を獲得できるよう、万博の理念や大阪が開催にふさわしいことを精一杯訴えたい。開催地の決定まで、やれることはすべてやる所存だ」と述べた。
  • インテックス大阪に産業用・サービス用最新ロボット集結 2018年6月9日 インテックス大阪に産業用・サービス用最新ロボット集結 大阪・住之江区のインテックス大阪で6月7~8日の2日間、産業用・サービス用の最新のロボットを集めた展示会が開かれた。 ロボット開発技術展実行委員会が主催、経済産業省、文部科学省、大阪府、大阪市、大阪商工会議所、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)などが後援したロボット展は、①サービスロボット開発技術展②産業用ロボット開発技術展③ロボットITソリューション展-の3つのコーナーに分け行われた。 人手不足の解消や従業員の負担を軽減する、製造・物流など様々な現場で急速に需要が高まりつつあるロボット群。今回はロボット開発や導入する企業65社が産業用やサービスロボットなどを出展した。工場の製造現場でどのような作業までロボットが担えるようになるのか?、物流作業現場でロボット化はどこまで進むのか?近未来の私たちの生活の中に、ロボットがどのように関わってくるのか?来場者らは興味深そうにブースを巡り、出展者に質問する姿があちこちで見られた。
  • 大阪湾の最大規模の高潮被害は最悪100兆円超え 2018年6月8日 大阪湾の最大規模の高潮被害は最悪100兆円超え 土木学会の推計によると、大阪湾の沿岸で想定される最大規模の高潮が発生すると最悪の場合、100兆円を超える経済的被害の恐れがある。 これは土木学会が東京、名古屋、大阪の三大都市圏で国や自治体が公表している想定に基づいて大規模な高潮や洪水の経済的な被害を初めて推計したもの。 大阪湾の沿岸で昭和36年の「第2室戸台風」に匹敵する台風が接近し、想定される最大規模の高潮が発生すると最悪の場合、建物などへの直接被害は56兆円、交通の寸断や生産設備の損害によるその後14カ月間の経済への影響は65兆円となり、合わせて121兆円の被害が出る恐れがあるとしている。
  • シャープ 買収のパソコン事業を1~2年で黒字化目指す 2018年6月7日 シャープ 買収のパソコン事業を1~2年で黒字化目指す シャープの戴正呉社長は6月6日、東芝から買収するパソコン事業について1~2年で黒字化する目標を示した。 シャープは5日、東芝の子会社でパソコン事業を担っている東芝クライアントソリューションの株式の80.1%を40億円で取得し、買収することを決めている。この東芝子会社は昨年度の決算で82億円の最終赤字を計上している。
  • 大阪ガスも7月から電気料金引き下げ 関電に対抗 2018年6月6日 大阪ガスも7月から電気料金引き下げ 関電に対抗 大阪ガスは6月5日、電気料金を引き下げると発表した。電力事業で競合関係にある関西電力が先に、原子力発電所が再稼働したことを受け、7月1日から電気料金を平均で5%余り引き下げることを発表したことに対抗したもの。 大阪ガスによると、家族4人で電気とガスをセットで契約しているモデルケースの場合、電気料金はおよそ4.6%の値下げになるという。そして、使用量や契約内容によっては関西電力の料金よりも安くなると説明している。
  • 東芝 パソコン事業をシャープに売却へ 2018年6月5日 東芝 パソコン事業をシャープに売却へ 東芝とシャープは、東芝の完全子会社でパソコン事業を手掛ける東芝クライアントソリューションの株式のおよそ8割をシャープに50億円前後で売却する方向で最終調整に入った。 売却が実現すれば、「dynabook」の製品ブランドで知られ、1990年代にノートパソコン分野で世界シェアのトップに立った東芝が、パソコン事業から遂に撤退することになる。 一方、シャープは平成22年にパソコン事業から撤退しているが、AI(人工知能)やIoTなどの分野に力を入れる一環として、東芝のパソコン事業が持つ技術力や人材を取り込む狙いがあるとみられる。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。