- 住吉祭 大神輿75年ぶり復活、盛大に神輿渡御 2016年8月3日 住吉祭 大神輿75年ぶり復活、盛大に神輿渡御 大阪・住吉大社(大阪市住吉区)の夏祭り「住吉祭」恒例の神輿渡御(みこしとぎょ)が8月1日、盛大に行われた。 今年は「大神輿」が大改修を終えて75年ぶりにお目見え、往時の姿を取り戻した。炎天下、神輿を中心に約1200人、そして馬などからなる渡御列一行が堺市の御旅所「宿院頓宮」を目指し、住吉大社境内を出発。大神輿は両市の境となる大和川を豪快に渡り、担ぎ手が大阪側から堺側に交代。無事に渡りきると、両岸で見守る関係者や見物客らから拍手が沸き起こった。
- 夜空彩るPL1万発の花火 5万8,000人の見物客を魅了 2016年8月3日 夜空彩るPL1万発の花火 5万8,000人の見物客を魅了 大阪の夏の風物詩「PL花火芸術」が8月1日、富田林市で開催された。会場を訪れた約5万8,000人の見物客を前に、約1万発の花火が打ち上げられた。花火の音と歓声があがる中、漆黒の夜空を彩る瞬時の様々なアートに見物客は魅了されていた。
- 吉村大阪市長 初の海外視察、 米サンフランシスコへ出発 2016年8月2日 吉村大阪市長 初の海外視察、 米サンフランシスコへ出発 大阪市の吉村洋文市長が8月1日、関西国際空港から初の海外視察となる米国サンフランシスコへ出発した。2017年にサンフランシスコとの姉妹提携60周年を迎えるのを機に、官民一体となった経済面での連携強化が目的。 5日までの期間中、サンフランシスコ市のエドウィン・リー市長への表敬訪問や大阪市主催の米経済団体向けセミナーでの講演、世界のイノベーションをけん引するIT産業の集積地・シリコンバレー、スタンフォード大学の視察などが予定されている。
- 17年4月から2区を230円に 地下鉄運賃再値下げへ 2016年8月1日 17年4月から2区を230円に 地下鉄運賃再値下げへ 大阪市交通局は7月29日の幹部会議で、初乗り(3㌔以内)に続く「2区」(3㌔超~7㌔以内)の運賃を2017年4月に現行の240円から230円に値下げすることを決めた。 「初乗り運賃(180円)との格差を埋め、利用客に還元したい\(吉村洋文市長)との考え方から、当初予定されていた消費増税時の実施とは切り離して断行する。これに伴う券売機などシステムの改修費用は5億円。 同局によると、2区の乗車率は全5区の中で最も高い38.7%。値下げによる減収を年間約20億円と見込む。2015年度の決算見込みによると、地下鉄事業の営業利益は過去最大の黒字となる見通し。運輸収益は約1,500億円で、1%に乗車人員増につき概算で15億円程度の増収を見込む。
- 大阪企業家ミュージアムで珠玉の名言・座右の銘76点紹介 2016年7月31日 大阪企業家ミュージアムで珠玉の名言・座右の銘76点紹介 大阪商工会議所の大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)で、創立15周年特別展示「珠玉の名言」が開かれている。9月30日まで。 同展では、明治以降に大阪で起業や活躍した様々な起業家の高い志、勇気、チャレンジャー精神、覚悟などから発せられた名言や座右の銘76点をパネルで紹介している。 例えば、倉敷紡績・クラレの大原孫三郎(1880~1943年)は、新たな事業を始めるときは「10人のうち2、3人が賛成するときに始めなければいけない。1人も賛成がないというのでは早過ぎるが、10人のうち5人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ」との指針を示している。 また、女性実業家の先駆けで、連続テレビ小説『あさが来た』のヒロインのモデルになった大同生命保険の広岡浅子は「現代が現実を重んずるだけに、夢を見る人が必要である。夢を見なければ指導者たることはできない」との言葉を遺している。
- 今夏も7/29から「ナイトZOO」実施 天王寺動物園 2016年7月30日 今夏も7/29から「ナイトZOO」実施 天王寺動物園 大阪市天王寺動物園(天王寺区)は7月29日から「ナイトZOO」を実施、夜間開園する。2015年8月に初めて実施し、好評だった。今年は事前申し込みは不要で、広く一般に開放する。これによって「子供はもちろん、仕事帰りの大人にも楽しんでほしい」と新しい客層の開拓を狙う。 夜間開放するのは8月20日までの毎週金・土曜日と、お盆期間の14、15日を含む計10日間。開園時間を午後9時まで延長する。動物の夜の生態や夜行性動物が動き回る姿が観察できる。 大阪市によると、開園100周年だった2015年は8月に計9日間実施し、年度来園者数の約1割に相当する13万人が来園した。
- 道頓堀にゴジラ!映画主演の長谷川さん、石原さんPR 2016年7月29日 道頓堀にゴジラ!映画主演の長谷川さん、石原さんPR 映画『シン・ゴジラ』(東宝配給で7月29日から全国公開)上映に先駆け7月26日、主演した長谷川博己さんと石原さとみさんが大阪・道頓堀川(大阪市中央区)で船上トークキャンペーンを行った。 集まった約8,000人のファンは、サプライズで出現した巨大なゴジラの顔に驚きの声をあげていた。 1954年公開の第1作から62年の年月を経て、新たに蘇ったゴジラは、日本では初めてフルCGで製作された。
- 大阪の起源に迫る「難波宮前夜の王権と都市」展 2016年7月28日 大阪の起源に迫る「難波宮前夜の王権と都市」展 特別企画展「都市大阪の起源をさぐる難波宮前夜の王権と都市」が大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開催されている。8月29日まで。 難波遷都(645年)が行われた大阪の上町台地は、古い時代から政治・外交施設や寺院が造られてきたと『日本書紀』に記されており、人やものが行き交う都市的な状況が難波宮以前に生まれたと考えられている。 今回は、大阪文化財研究所の協力なども得ながら行われたこれまでの発掘調査の成果として明らかになった、難波宮が誕生する以前の状況を、当時の地形・自然環境を復元した古地理図や、豊富な出土品、発掘現場の写真約200点を展示し、紹介する。 開催時間は9時30分~17時。火曜日休館。入場料は大人600円、高校・大学生400円、中学生以下無料。
- ヘイトスピーチ 条例施行後の初審査 申し立て13件 2016年7月27日 ヘイトスピーチ 条例施行後の初審査 申し立て13件 大阪市は、ヘイトスピーチ被害の申し立てがあった案件について、7月25日から具体的な審査を始めた。 第1回のヘイトスピーチ審査会には、弁護士と大学教授の5人が出席した。同審査会では在日コリアンなどの団体が7月1日、申し立てを行った、ネット上の動画など13件が審査された。審査会がヘイトスピーチに当たるかどうかを判断するまでには数カ月かかる見通し。
- 天神祭「船渡御」夜空照らす5,000発の奉納花火 2016年7月26日 天神祭「船渡御」夜空照らす5,000発の奉納花火 日本三大祭りの一つ、天神祭が7月25日、本宮を迎え、100隻余りの船が大阪中心部の大川を行き交う「船渡御」が盛大に行われた。 そして、祭のフィナーレに約5,000発の奉納花火が打ち上げられた。会場・周辺一帯には約105万人が訪れ、大阪の夏の風物詩に歓声をあげながら、魅入っていた。 約1,000年の歴史を持つ天神祭は、大阪天満宮(大阪市北区)に祀られる菅原道真公の御神霊が年に1度、外に出て周囲を巡るのに、地元の人たちがお供をしたのが始まりとされる。
- 大阪府内で救急搬送者が急増熱中症に要注意! 2016年7月25日 大阪府内で救急搬送者が急増 熱中症に要注意! 大阪府内で熱中症の疑いで救急搬送される人が急増している。猛暑日や真夏日を記録した7月4~10日の1週間の搬送者は370人に上り、前週(214人)の72%増となった。 府や消防庁などの関係機関は、体温を下げるための体の反応が弱くなっている高齢者、体温調節機能が未熟な子供らはとくに、熱中症にかかるリスクが高く、注意を呼び掛けている。 気象庁によると、大阪市内では7月1~20日に最高気温が30度以上の真夏日が計17日観測され、35度以上の猛暑日が1日あった。
- 大阪市「総合区」案提示し8月から24区で住民説明会 2016年7月24日 大阪市「総合区」案提示し8月から24区で住民説明会 大阪府と大阪市が共同設置した副首都推進本部の会合が7月22日、府庁で開かれ、行政機構改革として検討している「総合区」制度の素案が示された。市内24区を5区、8区、11区に合区する3パターンを叩き台に、大阪市から移譲する事務権限の違いに応じて計5案に分けた。 8月下旬から、吉村洋文市長、松井一郎知事が参加する住民説明会での意見を踏まえて2017年3月までに結論を出す方針。また、住民説明会では今の大阪市をなくして東京23区のような「特別区」を設置する案についても説明する予定で、両方に就いて幅広く意見を募る意向だ。住民説明会は2017年2月まで市内24区で1回ずつ開く予定。 総合区は市を残したまま区の予算や権限を拡充し、地域の実情に合わせた住民サービスの実現を目指す制度。地方自治法の改正により、2016年4月から設置が可能になった。市を解体・廃止して複数の「特別区」に再編する「大阪都構想」の対案として、市議会の一部会派が導入を主張しており、府と市は共同で行政としての制度案づくりを進めている。
- 枚方の商店街で1日限定「子ども食堂」定期化へ社会実験 2016年7月24日 枚方の商店街で1日限定「子ども食堂」定期化へ社会実験 枚方市・宮之阪中央商店街にあるコミュニティースペース「チカラのみせ処 宮ノサポ」に7月22日、「地域いきいき笑顔食堂」が1日限定で営業した。 元居酒屋の店舗を改修した同スペースは、1階・2階合わせ約18坪。地域に住む人に限らず、誰でも借りることができ、実店舗を持つためのチャレンジショップや教室、ギャラリー、会議室などとしての利用を通じ、商店街を含む地域活性化をサポートする。 今回は、同商店街が取り組みを検討している「子ども〇円食堂」の社会実験として行われた。メニューは「カレーライス」「鮭ちらし」を用意。使った食器を片付けるなど”お手伝い”した子どもには、同商店街などの加盟店で利用できる買い物チケット「宮之阪ふれi(あい)チケット」100円分を配布した。
- 関西エアポートが加入 関西国際空港全体構想促進協 2016年7月23日 関西エアポートが加入 関西国際空港全体構想促進協 関西の自治体や経済界でつくる「関西国際空港全体構想促進協議会」(会長・森詳介関西経済連合会会長)は7月20日の総会で、新関西国際空港会社から4月1日に関西空港の運営権を引き継いだ「関西エアポート」を構成団体に加える規約改正を承認した。 オリックスやフランスの空港運営会社バンシ・エアポートなどが出資する関西エアポートの加入に伴い、民間の創意工夫の戦略的経営センスが加わるなどとして、期待の声があがっている。 同協議会は、関西空港の利用促進、利便性向上を目的に87団体で構成。この日はインバウンド(訪日外国人旅行客)の急増に伴う出入国時の受け入れ環境の改善など関西空港の機能強化に向けた国への要望決議案も採択した。
- 観光、産業振興に期待 関経連と関西広域連合 2016年7月23日 観光、産業振興に期待 関経連と関西広域連合 関西広域連合と関西経済連合会は7月21日、宮田亮平文化庁長官を大阪市内に迎え、文化庁の京都移転を観光や産業振興につなげることを盛り込んだ共同宣言に署名した。 共同宣言には関西広域連合、関経連、文化庁の3者が文化と観光、産業、暮らし、まちづくりを結ぶ取り組みを展開し、「文化芸術立国」を実現させることを明記した。宮田長官は「三つの輪で大きな歴史ができていく関係ができれば」と3者連携を強調した。 関西広域連合会長の井戸敏三兵庫県知事は「関西の魅力を世界に発信できるよう努力したい」と呼び掛けた。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。