- 「天神祭月間」七夕神事で19日間の幕開け 浪速の夏佳境 2016年7月8日 「天神祭月間」七夕神事で19日間の幕開け 浪速の夏佳境 天神祭の幕開けを告げる七夕の神事が7月7日、大阪市北区の天満宮で執り行われ19日間に及ぶ「天神祭月間」がスタートした。いよいよ浪速の夏は佳境を迎える。 宵宮(7月24日)、本宮(同25日)までの主な行事は、7月7日から大阪アメニティパーク(OAP、大阪市北区)で「お祭ちょうちん」の展示、9日午後2時から大阪天満宮(同)で「青葦(あおよし)」奉納式、22日午後7時半から北新地地区(同)で「天神祭北新地巡行」、23日正午ごろから天神橋商店街(同)でギャルみこし巡行、23日午後5時から大阪ビジネスパーク(OBP、中央区)で「OBP天神祭前夜祭」など多彩な恒例行事が繰り広げられ、暑い・熱い浪速の夏を盛り上げる。
- 45万人超が投票 大阪府選管 期日前・不在者 2016年7月7日 45万人超が投票 大阪府選管 期日前・不在者 大阪府選管は7月4日、6月23~7月3日の11日間の期日前投票者と不在者投票者が計45万8,608人だったと発表した。前回の2,013年の参院選の同時点(7月5日~14日の10日間)に比べ10万2,404人増えた。
- 「金メダル目指し頑張ります」リオ五輪卓球団体 伊藤美誠 2016年7月7日 「金メダル目指し頑張ります」リオ五輪卓球団体 伊藤美誠 リオデジャネイロ五輪の卓球女子団体に出場する昇陽高校(大阪市此花区)の伊藤美誠さん(15)を激励、活躍を祈念する壮行会が大阪市北区のホテルで開かれた。 あいさつに立った、五輪初出場となる伊藤さんは「最低でも銀、最高で金を持って帰れるように頑張りたい」と健闘を誓っていた。この壮行会には生徒や協会関係者ら約250人が出席し、花束などを手渡しエールを送った。会場にはロンドン五輪女子団体銀メダリストで、今年4月に現役を引退した平野早矢香さんも駆け付け、伊藤さんを激励していた。
- 「道頓堀万灯祭2016」始まる 1,300の提灯で彩る 2016年7月6日 「道頓堀万灯祭2016」始まる 1,300の提灯で彩る 道頓堀川遊歩道「とんぼりリバーウォーク」で7月1日、1,300の提灯で彩るライトアップイベント「道頓堀万灯祭2016」の点灯式が行われた。堺筋~四ツ橋筋の道頓堀川沿いを8月31日までの62日間にわたり続けられる。点灯時間は19時~翌2時まで。 道頓堀川は401年前、安井道頓によって開削された。期間限定ながらミナミの暑い夏、その川沿いを夜間、涼を取りながらそぞろ歩きが楽しめる。 同イベントは、大阪・ミナミの地元商店街で構成する「いっとこミナミ実行委員会」が企画・運営。夏の風物詩として行われているもので、ミナミ周辺の企業や店舗が提灯を献灯している。
- 大阪・淀川区で「あさがお市」にぎわう 3,500鉢用意 2016年7月5日 大阪・淀川区で「あさがお市」にぎわう 3,500鉢用意 大阪市淀川区の新大阪センイシティー一帯で7月2、3の両日、色とりどりのアサガオ約3,500鉢を用意した「あさがお市」が開かれた。 1995年から協同組合「新大阪センイシティー」が地域の協力を得ながら開催。当初1,000鉢からスタートし、回を重ねるごとに認知度も高まり、近年は4,000鉢を完売し、2万人を超える来場者でにぎわうイベントに成長した。 老朽化などに伴う建て替え工事を経て昨年4年ぶりに復活した。協同組合では、新大阪の夏の風物詩として地域の活性化につなげていきたいとしている。
- 7/12の大阪・生國魂祭、初の平日「渡御」実施へ 2016年7月4日 7/12の大阪・生國魂祭、初の平日「渡御」実施へ 7月12日に行われる生國魂(いくくにたま)神社(大阪市天王寺区)の「生國祭」の中心神事で、氏子約500人が大通りを練り歩く「渡御(とぎょ)」が、平成26年に往時の形に復活させて以降、初めて平日に実施されることになった。 26年、27年はいずれも休日に行われていたが、今年は12日が平日にあたるため警備上の問題から、大阪府警が大通りの交通規制に難色を示し、実施が危ぶまれていた。府警側の意向を受け、神社側も独自に警備員を配置することなどで実施の運びとなった。 生國魂神社は「いくたまさん」の愛称で知られる大阪最古の神社。
- 大阪市がヘイトスピーチ条例施行 受け付け始まる 2016年7月3日 大阪市がヘイトスピーチ条例施行 受け付け始まる ヘイトスピーチと呼ばれる民族差別的な言動への対策を盛り込んだ大阪市の条例が7月1日施行され、ヘイトスピーチによる被害の申し出の受け付けが始まった。 条例施行の初日は、在日韓国・朝鮮人などでつくる団体が大阪市役所を訪れ、以前、市内で行われたデモの動画などがインターネットに投稿されていて、ヘイトスピーチの被害を受けていると申し出た。 大阪市の条例については、憲法で保障された「表現の自由」との兼ね合いから、どのような言動がヘイトスピーチにあたるのか、慎重に判断すべきだとの指摘もあり、今後の市の対応が注目される。
- シャープ本社 大阪・阿倍野区から堺へ移転 2016年7月2日 シャープ本社 大阪・阿倍野区から堺へ移転 経営再建中のシャープが7月1日、本社を大阪市阿倍野区から堺市堺区へ移転した。同社は1924年、関東大震災の影響などを受け、阿倍野区長池町に本社を移転。以来、長年にわたり同所を本拠とし、ユニークな商品づくりとともに親しまれてきた。
- 「愛染まつり」盛大な「宝恵かごパレード」で幕開け 2016年7月1日 「愛染まつり」盛大な「宝恵かごパレード」で幕開け 大阪の夏祭りの幕開けとなる四天王寺の支院、愛染堂・勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)(大阪市天王寺区)の「愛染まつり」が6月30日、初日恒例の「宝恵かごパレード」で始まった。 浴衣まつりともいわれる愛染まつりは、天神祭や住吉祭と並ぶ大阪三大夏祭りの一つともされる。十数年前までは芸妓が宝恵かごに乗っていたが、現在は公募で集まった280人から選ばれた10人と外国人枠2人の計12人の「愛染娘」が交替で乗る。同パレードはあべのキューズモールを出発、その後、谷町筋を進み、同寺まで掛け声を上げながら練り歩いた。
- 今年は一段と「五代友厚」企画に力点 天神祭・船渡御 2016年6月30日 今年は一段と「五代友厚」企画に力点 天神祭・船渡御 今年の天神祭の船渡御で、関係者の間で五代友厚に関連した企画に力が入っており、昨年を上回る盛り上がりとなりそうだ。 当日は源八橋東詰の大川沿いに停船。五代と血縁関係のある人やゆかりのある企業関係者を招くほか、出身地の鹿児島県にちなんだ食事や酒を振る舞い、彼をテーマにした講談やパネル展示なども予定されている。 NHK連続テレビ小説「あさが来た」で脚光を浴び全国的にフィーバー状態となった大阪商工会議所初代会頭・五代友厚だが、天神祭・船渡御には実は1昨年から「五代友厚船」が登場している。ただ、今年は一段と企画の幅が広がり、盛り上がりそうだ。
- ライフサイエンス産業振興へ京阪神が連携し規制緩和を 2016年6月29日 ライフサイエンス産業振興へ京阪神が連携し規制緩和を 国家戦略特区に指定された大阪、京都、兵庫3府県の各商工団体が、医療や製薬のライフサイエンス産業振興に向けた規制緩和の要望書を国に共同提出した。 大阪、京都、神戸の3商工会議所は各副会頭で構成するライフサイエンス振興懇談会を2015年11月に設置。京阪神は歴史的にそれぞれ独立心が強いため、常にバラバラという負のイメージがあるのを覆し、協働しているところを政府にアピールする狙いがある。 リニア中央新幹線の大阪延伸時期の最大8年の前倒し方針が示され、世界規模のスーパー・メガリージョン(巨大都市圏)形成が具現化しつつあるだけに、京阪神の特性を発揮する相互連携は欠かせない。
- 観光客誘致へ9月に東南アでトップセールス 吉村市長 2016年6月28日 観光客誘致へ9月に東南アでトップセールス 吉村市長 大阪市は6月24日、吉村洋文市長が9月にシンガポールと、ベトナムのホーチミン市を訪れ、トップセールスを行うと発表した。 大阪をPRし観光客を呼び込むほか、都市開発の事例などの視察を予定している。 日程は9月1~8日。吉村市長自ら大阪に観光客を呼び込むためプロモーションを行うほか、大阪のものづくり中小企業も現地に入り、技術力などをアピールする。市はベトナムやホーチミン市とビジネスパートナー都市提携しており、連携も強化する。 吉村市長は8月にも米国サンフランシスコ市などを訪問し、大阪をPRする予定で、都市間外交やトップセールスに力を入れる。
- 7/9から177校が熱い戦い 全国高校野球大阪大会 2016年6月27日 7/9から177校が熱い戦い 全国高校野球大阪大会 7月9日に開幕する「第98回全国高校野球選手権大会」の組み合わせ抽選会が6月24日、大阪市天王寺区のたかつガーデンで行われ、3回戦までの対戦カードが決まった。甲子園の切符をかけ、177校(連合3チームを含む)が出場し、炎天下、文字通り熱い戦いを繰り広げる。 今春の近畿大会を制した履正社は7月16日の1回戦で関大一と対戦し、昨秋の近畿大会で優勝した大阪桐蔭は17日の2回戦で扇町総合-東の勝者と対戦する。また、今夏限りで休部が決まっているPL学園は15日の2回戦で東大阪大柏原と顔を合わせる。 開会式は7月9日に大阪市西区の京セラドーム大阪で行われる。
- JR西日本 大阪環状線新型車両「323系」へ 順次切り替え 2016年6月26日 JR西日本 大阪環状線新型車両「323系」へ順次切り替え 発の大阪環状線・JRゆめ咲線専用新型車両「323系」が6月24日、近畿車輛(東大阪市)で公開された。 大阪環状線の車両として長年親しまれてきたオレンジ色を基調とし、3枚扉、ロングシートを採用。シートの両端の袖仕切りは肩が当たりにくいよう斜めに設置し、優先座席には立ち上がりやすいよう個別の肘掛けを付けた。 全車両に車いす・ベビーカースペースを設置。車内案内表示は日本語・英語・中国語・韓国語の4カ国語に対応している。訪日外国人旅行者向けに無料公衆無線LANサービスを提供する。 投入車輛は168両。2016年から18年にかけ順次投入し、国鉄時代に製造された大阪環状線内の103系・201系通勤系電車をすべて置き換える。
- 大阪府の有権者731万7331人 18、19歳は17万1638人 2016年6月25日 大阪府の有権者731万7331人 18、19歳は17万1638人 大阪府選挙管理委員会は、大阪選挙区の選挙人名簿登録者数(6月21日現在)を発表した。登録者数は731万7331人(男性350万2642人、女性381万4689人)。このうち、今回の参院選から有権者となる18、19歳は合わせて17万1638人となった。 在外選挙人名簿登録者数は5022人(男性2245人、女性2777人)。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。