大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • “おもてなし”の拠点に 大阪迎賓館がグランドオープン 2016年5月15日 “おもてなし”の拠点に 大阪迎賓館がグランドオープン 大阪城西の丸庭園内の大阪迎賓館(大阪市中央区)が園内初の予約制レストラン「大阪城西の丸庭園 大阪迎賓館」として5月13日、グランドオープンした。近年増え続ける海外からの顧客にも、日本の”おもてなし”の拠点とし、食を通して大阪文化の魅力を発信していく。 同館は1995年に開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の国際会議場として建てられ、その後は休憩所として利用されていた。
  • 保育士確保へ特別給付 大阪市5月補正予算で 2016年5月14日 保育士確保へ特別給付 大阪市5月補正予算で 大阪市の吉村洋文市長は5月13日、保育士確保のため新規採用保育士への特別給付など3事業総額5億3,400万円を含む2016年度5月補正予算を同日開会した本会議に上程した。 今回の補正予算の総額は143億8,391万円。そのうち市内の民間保育所を対象とした保育士確保策として、①新規採用の常勤保育士へ2年目まで毎年10万円を給付(500万円)②常勤保育士宿舎の家賃を月額8万2,000円を上限に支給(900万円)③保育士の事務効率化のため、指導計画や保育日誌などのICT化(5億2,000万円)など。 新規採用保育士への特別給付は本年度から4年間で総額2億9,400万円、宿舎家賃支援は2年間で総額1億1,200万円を見込む。ICT化は市内の認可園、認定こども園、地域型保育所全520カ所が対象。宿舎家賃補助とICT化は国の補助制度を活用する。
  • シャープ 純損失2,559億円 2期連続の赤字で債務超過 2016年5月14日 シャープ 純損失2,559億円 2期連続の赤字で債務超過 台湾の鴻海精密工業の傘下に入ることが決まっているシャープは5月12日、2015年度通期の連結業績(2015年4月~2016年3月)を発表した。売上高は前年比11.7%減の2兆4,615億8,900万円。純損失は2,559億7,200万円となり、前年の2,223億4,700万円から赤字が拡大した。2期連続の赤字で負債が資産を上回る債務超過に陥った。
  • 松井知事 7日→3日へ「民泊」の要件緩和求める 2016年5月13日 松井知事 7日→3日へ「民泊」の要件緩和求める 大阪府の松井一郎知事は、国家戦略特区の会議に出席し、石破茂・地方創生担当大臣に民泊事業の滞在日数を現在の7日以上から3日以上とするよう要望した。 大阪府では4月1日からマンションなどの空き室をホテルとして活用する、いわゆる民泊事業をスタートさせたが、事業開始から1カ月以上経過しても、申請はわずか1件にとどまっている。民泊第1号として認めた大東市の物件の利用もいまだ〇件だという。事業者にとってネックとなっている「滞在日数7日以上」が大きく立ちはだかっているのだ。 松井知事によると、石破大臣からは「せっかくつくったルールなら、ニーズに合うものにしないと、という発言があった」という。
  • 大阪・京橋で歴史ウオーキング 近松の作品世界など巡る 2016年5月12日 大阪・京橋で歴史ウオーキング 近松の作品世界など巡る 歴史を探索するウオーキングイベントが5月15日、大阪・京橋で開催される。主催は関西不動産情報センター青年部幹事会。同団体は関西不動産企業の任意団体。自分たちの住んでいる街の歴史を知ろうと企画した。一般の人も参加できる。 当日は京橋周辺の大坂の陣や、近松門左衛門にゆかりのスポットなどをガイドする。若宮八幡大神宮を出発し、蒲生墓地、近松の名作『心中天網島』の舞台となった大長寺、太閤園などを巡る。そして、ツアーの最後にはOBPアカデミア(大阪市中央区)で講談師の旭堂南海さんが巡ったコースを、より深く理解できるように歴史講談を行う。
  • 渡辺喜美氏 おおさか維新から立候補へ 参院選比例区 2016年5月11日 渡辺喜美氏 おおさか維新から立候補へ 参院選比例区 おおさか維新の会代表の松井一郎・大阪府知事と旧みんなの党代表の渡辺喜美前衆院議員が5月9日、大阪市内で会談し、渡辺氏が7月の参院選でおおさか維新から立候補することで合意した。比例区から立候補する見通し。 おおさか維新は14日に常任役員会を開き、正式に承認する。会談の中で、渡辺氏は「一兵卒でいいから一緒に改革をやらしてほしい」と伝え、松井氏も「改革マインドは同じ。気持ちは伝わった」と応じた。
  • 5/10から大阪~鹿児島線に小型機「エイブラル190」導入 2016年5月10日 5/10から大阪~鹿児島線に小型機「エイブラル190」導入 日本航空は5月9日、国内線に初めて小型の新仕様機「エイブラル190」を導入、就航させると発表した。10日から大阪(伊丹)~鹿児島線に運航、7月1日からは大阪(伊丹)~福岡・仙台線にも導入する。 エイブラル190は、小型機としては天井が高く設計され圧迫感が少なく、最大級の客室空間を実現している。
  • 大型連休JR5社は概ね前年並み 九州新幹線は地震で55% 2016年5月10日 大型連休JR5社は概ね前年並み 九州新幹線は地震で55% JR旅客各社は5月9日、2016年の大型連休(4月28~5月8日)の利用状況を発表した。JR九州(九州旅客鉄道)を除く旅客5社は概ね前年並みとなり、JR九州も在来線特急は前年並みとなった。 JR西日本(西日本旅客鉄道)は山陽新幹線の期間中の利用者が154万4,000人で前年比101%、北陸新幹線は31万7,000人で同96%、在来線特急は71万人で同102%、新幹線と在来線特急の合計で257万1,000人で同101%となった。利用は連休の前半(4月28~5月1日)に偏っている。 なお、地震の影響を受けた九州新幹線は前年比55%と大幅に利用者を減らした。
  • USJ サミット中 全入場者の手荷物検査を実施 2016年5月9日 USJ サミット中 全入場者の手荷物検査を実施 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市此花区)は三重県で5月26日、27の両日開催される主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の期間中、テロ対策として、全入場者への手荷物検査を実施する。 2001年のオープン以来、全入場者を対象にした手荷物検査は初めて。係員が手荷物の中身を直接確認する方法や金属探知機の使用などが検討されている。 USJの2015年度の来場者数は約1390万人となり、2年連続で過去最多を更新しており、海外からの来場者も増加している。
  • 関西初 NYで話題のラーメンバーガー 阪急催事に登場 2016年5月8日 関西初 NYで話題のラーメンバーガー 阪急催事に登場 阪急百貨店うめだ本店(大阪市北区)で5月11日から開催される『ニューヨークフェア2016』に、ニューヨークで行列ができる屋台ラーメンバーガーが初登場する。 このラーメンバーガーは日系アメリカ人ケイゾウ・シマモト氏が、ラーメン修業で来日した際にインスパイアされ、帰国後独自に生み出したもの。ラーメンの麺をバンズ型に固めて、ソウルフード的存在のバーガーを組み合わせた結果、ブルックリンのベンダー(屋台)名物になった。 ごま油で香ばしく焼かれたラーメンに、ジューシーなアンガス牛のパテ、醤油、ネギ、ルッコラを挟はんで秘伝の甘辛ソースを絡めたバーガーだ。同フェアでは、オリジナルラーメンバーガーは1個981円で実演販売される。催事は17日まで。ジャズピアノ、ゴスペルなど現地で活躍するアーティストのライブも連日開催される予定。
  • 枚方・山田池公園「花しょうぶ園」5/25から一般開放 2016年5月7日 枚方・山田池公園「花しょうぶ園」5/25から一般開放 大阪府枚方市の山田池公園が5月25日から「花しょうぶ園」を一般開放する。同園では2380平方㍍の敷地に、江戸系や肥後系などの約130種8000株のハナショウブが咲く。 毎年見ごろを迎える時期に合わせ、無料で一般開放する。今年は例年より早く、見ごろは5月下旬から6月上旬の予想だ。開園時間は9時30分~19時。見ごろの6月4~12日はライトアップされ、20時30分まで開園時間が延長される予定。一般開放は6月26日まで。
  • シャープ 本社を堺工場に 東京支社は規模半減 2016年5月6日 シャープ 本社を堺工場に 東京支社は規模半減 経営再建中のシャープは、移転先を検討中だった本社を、太陽光パネルの生産拠点がある堺工場(大阪府堺市)とするほか、東京支社の一部を千葉市へ移す方向で検討に入ったことが分かった。経費削減策の一環で、台湾の鴻海精密工業からの出資と合わせ、早期の黒字回復を目指す。 東京支社は現在、オフィスビル「シーバスS館」(東京都港区)に入居し、社員数は千数百人に上る。今後、営業部門の一部を含む500人以上を自社保有の幕張ビル(千葉市)に移し、拠点としての規模を半減させ、賃料の削減を図る。
  • 天王寺公園「関西アカペラジャンボリー」に4,600人来場 2016年5月5日 天王寺公園「関西アカペラジャンボリー」に4,600人来場 大阪・天王寺公園(大阪市天王寺区)エントランスエリア「てんしば」で5月3日、アカペラの祭典「第19回関西アカペラジャンボリー(KAJa!2016)」が開かれた。 今回はアマチュアグループ11組、プロアーティスト4組の計15組が出演。当日は途中から雨に降られるあいにくの天候だったが、約6時間にわたって行われた同イベントに約4600人(主催者発表)が来場して盛り上がりをみせた。 関西地区の大学アカペラサークル有志が中心となり、年1回開催される同イベント。今回は「アベノ・天王寺エリア アカペラタウン化計画」を推進してきたWelcomingアベノ・天王寺キャンペーン事務局(近鉄不動産、東急不動産、JR西日本)と共催した。
  • 忘れられた大阪の近代工芸 大阪歴史博物館で特別展 2016年5月4日 忘れられた大阪の近代工芸  大阪歴史博物館で特別展 十分に世に知られないまま、忘れられた大阪の職人らによる「近代大阪職人(アルチザン)図鑑-ものづくりのものがたり」が、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で現在、開館15周年記念特別展として開催されている。 前身の大阪市立博物館の40年を加えた55年間の調査・収集で明らかになった大阪の職人や工芸家の作品約170点が、テーマを3章に分けて展示されている。 名工でありながら惜しくも名を残せなかった大阪の職人「アルチザン」が残した近代工芸作品に、その気概や息吹を感じることができる。中には、今回初公開となる作品もある。6月20日まで。
  • 春の大空泳ぐ1,000匹のこいのぼり 大阪・高槻市 2016年5月3日 春の大空泳ぐ1,000匹のこいのぼり 大阪・高槻市 大阪府高槻市の芥川沿いの芥川堤公園で大型連休に合わせ「こいのぼりフェスタ1000」が始まっており、約1,000匹の色とりどりのこいのぼりが春の大空泳いでいる。 芥川の環境保全などを目的に毎年開催されているもので、こいのぼりは地元園児らの手作りや市民からの寄贈で集められた。今年で25回目。5月6日まで行われる。 5日までの午後6~9時にはライトアップされ、1,000匹のこいのぼりが夜空に舞う姿は圧巻で、昼とはまた違った趣がある。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。