- 大阪本町「丼池繊維会館」リノベーション 活性化に期待 2016年4月6日 大阪本町「丼池繊維会館」リノベーション 活性化に期待 浪速のかつての繊維問屋街の一角、大阪・本町の「丼池(どぶいけ)繊維会館」(大阪市中央区)がリノベーション改装を終え3月30日、内覧会を行った。 同ビルは1922(大正11)年に「愛国貯蓄銀行」の店舗として建設された。その後、様々な経緯を経て、丼池筋に携わる人たちが出資して会館として運営してきた、地域の人たちにとっては愛着深い同ビル。 地域活動の中でビルの活用方法について話題が持ち上がり、今回のリノベーションに至ったという。今回、これまで鋼製サイディングで覆われていた外壁が約20年ぶりに懐かしい元のタイル張りの姿を取り戻した。 これを機に、新たなクリエイターやデザイナーが出入りすることで、服飾雑貨の街・丼池に新風を吹き込み活性化を図っていきたい-と関係者は期待を込め話している。
- 関西大「なにわ大阪研究センター」設立 記念展開催 2016年4月5日 関西大「なにわ大阪研究センター」設立 記念展開催 関西大学(大阪府吹田市)は4月3日、「なにわ大阪研究センター」の開所式を行った。同センターは、「大阪」に生まれ育まれてきた大学としての社会的使命と期待に応えるため、長年にわたって蓄積してきた豊富な地域研究と地域連携の実績を結集し、次世代に継承する拠点として4月1日に設立された。 これを記念して同センター(千里山キャンパス内)で、センター設立までの10年の歩みを振り返るとともに、芝居町道頓堀-中村儀右衛門と山田伸吉展など、これまでの研究成果や所蔵資料の一部を特別に公開している。期間は4月3日から5月15日(月曜~金曜日のみ)。
- 世界自閉症啓発デーで通天閣がブルーにライトアップ 2016年4月4日 世界自閉症啓発デーで通天閣がブルーにライトアップ 大阪・通天閣(大阪市浪速区)が世界自閉症啓発デーの4月2日、1日限定でシンボルカラーのブルーにライトアップされた。大阪自閉症協会などが主催。 世界自閉症啓発デーは生まれつき自閉症などの発達障害について広く啓発する活動。国連が2007年に制定した。世界各地のランドマークでブルーのライトアップが広まっている。4月2~8日は厚生労働省が「発達障害啓発週間」と位置付けている。
- 「あさが来た 最終回を見る会」朝ドラ史上異例の熱狂ぶり 2016年4月3日 「あさが来た 最終回を見る会」朝ドラ史上異例の熱狂ぶり NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が4月2日、最終回を迎え、ヒロイン役を務めた女優・波瑠さん(24)が大阪市のNHK大阪ホールで午後の放送をファンと鑑賞する「あさが来た 最終回を見る会」に参加した。終了後、ファン約200~300人が波瑠さんを見送ろうと”出待ち”し、朝ドラでは異例の熱狂ぶりで、「あさが来た」人気にふさわしい”閉幕”となった。 上映後、約1100人の満員のファンの喝采を受けながら迎えられ、波瑠さんは「クランクアップの時には感じなかった不思議な寂しさがあります」と心境を明かし、いまは「走り切った満足感と寂しさがあります」などと語った。
- 江戸前の立ち食い寿司 大阪・中之島に初進出 2016年4月3日 江戸前の立ち食い寿司 大阪・中之島に初進出 東京都内を中心に立ち食い寿司店を22店舗展開する「魚がし日本一」が3月30日、大阪・中之島のフェスティバルプラザ(大阪市北区)に関西1号店をオープンした。 魚がし日本一の創業以来のこだわりは、「とれたて」「おろしたて」「煮立て」「焼きたて」「揚げたて」「炊きたて」「握りたて」の”七たて”。良質な食材20種以上を1貫75円から(注文は2貫から)というリーズナブルな価格で提供する。 東京の築地市場や大田市場から直接新鮮なネタを仕入れる。魚介はもちろん、コメも国産にこだわり、立ち食い寿司チェーンとしては最も店舗数が多い。
- 大阪・難波に女性メインのカプセルホテルがオープン 2016年4月2日 大阪・難波に女性メインのカプセルホテルがオープン 大阪・難波に4月9日、女性をメインターゲットにしたカプセルホテル「シェネルなんば」(大阪市中央区)がオープンする。 畳一畳分よりも少し大きく、ゆったりと寝ることができる広さのカプセルで、テレビ付きの客室、友人と一緒に利用できるツインタイプの客室もある。5種類から選べるシャンプーバーを設置したシャワールーム、部屋着、アメニティ、ヘアアイロン、化粧水などが揃っている。 男性が1階、女性が2階と2フロアに分かれ、入室の際はICカードが必要でセキュリティー面に力を入れている。 地下鉄なんば駅、日本橋駅から徒歩6分の至近にあり、すでに週末を中心に海外観光客や女性客の予約が入っているという。 北海道と沖縄でビジネスホテルやリゾートホテルを運営するホワイト・ベアーファミリーが運営。今後、大阪・ミナミを中心にスモールラグジュアリーホテル、ビジネスホテルなど10数件の出店を予定。
- 北大阪急行 箕面延伸の基本協定締結 秋から着工 2016年4月1日 北大阪急行 箕面延伸の基本協定締結 秋から着工 北大阪急行電鉄など関係4者は3月30日、千里中央駅(大阪府豊中市)から新箕面駅(仮称)までの延伸について、基本協定を締結したと発表した。 計画では、箕面市と北大阪急行電鉄が整備主体になり、現在の終点である千里中央駅から箕面船場駅(仮称)を経て新箕面駅(仮称)まで約2.5㌔を延伸。箕面船場駅は箕面市船場東3丁目付近、新箕面駅は同西宿1丁目付近にそれぞれ設置される。 4月から工事着手に向けた手続きが進められ、秋ごろ鉄道整備について本格的に着工される予定。開業目標は2020年度。概算の整備費は車両費50億円、建設費600億円の計650億円とされている。
- 自転車保険加入義務付け 大阪府と損保6社が事業連携 2016年3月31日 自転車保険加入義務付け 大阪府と損保6社が事業連携 大阪府では7月から、自転車の利用者に保険の加入が義務付けられるのを前に、府は3月30日、損害保険会社など6社と事業連携することを発表した。 大阪府では交通事故の死亡者のうち、自転車事故が占める割合が全国ワースト1位で、府民アンケートでは保険の加入率が4割にとどまっている。こうした状況を受け大阪府では先の府議会で、自転車利用者が歩行者などにけがを負わせた時に補償する損害保険への加入を義務付ける条例案が可決されている。
- 「ニュートラム」に26年ぶり新型車両 初公開 2016年3月31日 「ニュートラム」に26年ぶり新型車両導入 初公開 大阪市営地下鉄「南港ポートタウン」線(「ニュートラム」)に26年ぶりに新型車両が導入されることになり3月28日、報道陣に公開された。 新型車両は、従来車両に比べ消費電力を4割削減できるのが大きな特徴で、車体はブルー、ピンク、イエローなど7色ある。来年度中に順次運行を開始する予定。
- 自転車事故全国ワースト1位返上へNMB48起用 大阪府 2016年3月30日 自転車事故全国ワースト1位返上へNMB48起用 大阪府 2015年の自転車事故件数が1万2000件を突破、全国ワースト1位となった大阪府。そんな不名誉な記録を返上すべく、NHK放送局が「STOP!危ない自転車キャンペーン」を3月28日からスタートした。 この自転車の安全運転を呼び掛けるキャンペーンの目玉としてアイドルグループ、NMB48のメンバー、加藤夕夏、岸野里香、城恵理子、三田麻央、山尾梨奈、山口夕輝、吉田朱里らを起用した。メンバーらはラジオミニドラマなどに登場、自転車の安全運転を呼び掛ける。 大阪府警察本部の協力のもと、春の全国交通安全運動期間に合わせて、事態の改善を目指す。
- 大阪・湊町リバープレイスで日本酒飲み比べイベント 2016年3月29日 大阪・湊町リバープレイスで日本酒飲み比べイベント 「大阪酒蚤(飲み)の市」をテーマに、全国の15の蔵元が集結する日本酒飲み比べイベント「OSAKA SAKE FLEA(オオサカ サケ フリー)」が4月3日、大阪JR難波駅近くの「湊町リバープレイス」(大阪市浪速区)屋外スペース「プラザ1」で開催される。 各蔵元が新酒や絞りたてなど自慢の日本酒約80種を提供する。参加者は、まず「MYおちょこ」を200円で購入したうえで、日本酒1杯につき200円で注いでもらう仕組み。チケット制。 青森、宮城山形、福島、群馬、富山、石川、奈良、兵庫、和歌山、高知、大分などの各県の蔵元が集結する。開催時間は午前11時~午後7時30分。雨天決行。
- 大阪・八軒家浜で川開き 水都の「春」幕開け 2016年3月28日 大阪・八軒家浜で川開き 水都の「春」幕開け 水上から春の訪れを祝う「水都大阪川開き2016」が3月26日、大川・八軒家浜(大阪市中央区)で行われた。大阪水上安全協会の久ノ坪宏司会長と北浜東振興町会の森田芳充会長が、川の安全を祈る長さ約1.6㍍の金色の鍵を大川に投げ入れて川開きを宣言した。 この日は、八軒家浜船着場8周年を記念して、公募で招待された市民・府民ら188人が8隻の観光船に乗り込み、同船着場から中之島間をパレードした。 川開きに合わせて「はちけんやお花見フェスタ」も開幕した。4月10日まで多彩なイベントが企画されている。また、「大川さくらクルーズ」(有料)も4月14日まで期間限定で運航される。
- 大阪・八尾市が26の幼稚園と保育所を5つに再編 2016年3月28日 大阪・八尾市が26の幼稚園と保育所を5つに再編 大阪府八尾市が3年後から現在26ある航路つの幼稚園と保育所を廃止し、5つの認定こども園に再編する計画の予算が3月25日、市議会で賛成多数で可決された。 同市は再編によって一学年の人数が増え、教育の充実につながるなどとして、用地取得費など18億円の予算案を上程していた。
- 天王寺動物園で「春のナイトZOO」動物の夜の姿を観察 2016年3月27日 天王寺動物園で「春のナイトZOO」動物の夜の姿を観察 天王寺動物園(大阪市天王寺区)で3月25日、夜の動物の姿が観察できるイベント「春のナイトZOO~Blossom Night ZOO~」が始まった。ナイトZOOは午後8時まで。27日までの期間中、事前に応募した先着1日5000人が訪れる予定。 初日は子供連れなど多くの人が訪れアジアゾウ、キリン、トラ、ライオン、ホッキョクグマ、レッサーパンダなど動物たちの姿を観察した。 ナイトZOOは2015年8月に、開園100周年記念イベントとして企画、初開催された。今夏も開催する予定。
- 『あさが来た』ラッピング地下鉄&バス運行GWまで延長 2016年3月27日 『あさが来た』ラッピング地下鉄&バス運行GWまで延長 大阪市交通局は3月24日、連続テレビ小説『あさが来た』のラッピング地下鉄・バスについて、好評を受け運行期間を当初予定していた、ドラマが終了する4月2日から5月7日まで延長すると発表した。 このラッピング地下鉄・バスは、登場人物のモデル「広岡浅子」(ドラマでは「白岡あさ」)や「五代友厚」らが活躍した舞台が肥後橋・北浜・淀屋橋などであることから、ゆかりの場所として実施されたもの。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。