大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 住吉市民病院の廃止再編計画 国が同意 2年後開院目指す 2016年3月4日 住吉市民病院の廃止再編計画 国が同意 2年後開院目指す 大阪府と大阪市は、住吉市民病院を廃止して急性期・総合医療センターと再編する計画について、国の同意を受け、2年後の開院を目指し建設を進めることになった。 大阪府は大阪市立住吉市民病院を廃止し、1.5㌔㍍離れた府立急性期総合医療センターと再編して、小児周産期に特化した新病院を建設する計画が厚生労働省から認められたと発表した。大阪府は、来年度予算で府市合わせて23億円計上し、2年後の開院を目指す。
  • あべのハルカス近鉄本店に東北6県のグルメ集結 2016年3月3日 あべのハルカス近鉄本店に東北6県のグルメ集結 あべのハルカス近鉄本店(大阪市阿倍野区)ウイング館9階催し会場で3月2日、物産展「東北六県今物語 味と技めぐり」が始まった。東北の今を紹介するのを目的にグルメ約50店、工芸約15店が出展。東日本大震災から5年目を迎えるのに合わせ開催する。 会場には海鮮品、スイーツなど様々な特産品が並ぶ。東北6県の10酒蔵30銘柄以上の地酒が用意され「地酒Barとうほく」も登場する。開催時間は10時~20時(最終日は17時閉場)。フードコートは10時30分~19時15分(最終日は15時45分でオーダーストップ)。3月8日まで。
  • 大阪市議会「副首都推進局」設置 府議会も月内可決へ 2016年3月3日 大阪市議会「副首都推進局」設置 府議会も月内可決へ 大阪市議会は3月1日、本会議で副首都化推進の中核を担う府市共同組織「副首都推進局」の設置条例案を大阪維新の会と公明党の賛成多数で可決した。大阪府議会でも3月中に可決され、4月に設置される見通し。副首都推進局が設置されれば、大阪維新の会は「大阪都構想」の設計図の修正に向けた議論も同局で進めたい考えだ。 吉村洋文市長は同日、「環境科学研究センター」を市が新設する条例案を市議会に提出。府立と市立の研究所統合に向けた駆け引きも本格化する。
  • 関西の音楽支えたライブハウス「難波ロケッツ」2/29閉店 2016年3月2日 関西の音楽支えたライブハウス「難波ロケッツ」2/29閉店 1991年のオープンから25年にわたって歴史を重ねてきた大阪・難波エリアを代表するライブハウス「難波ロケッツ」が2月29日閉店した。 90年代には、オープン当初からロケッツを拠点としていたラルク・アン・シエルを筆頭とする当時のヴィジュアル系バンドの”聖地”というイメージが強いが、深夜はクラブとして田中フミヤや石野卓球など、もっと他の”顔”を持ち合わせていたハコだった。それだけに、あらゆるジャンルの音楽ファンから閉店を惜しむ声が絶えないという。
  • 大阪府15年の宿泊施設稼働率85.2%で2年連続1位 2016年3月1日 大阪府15年の宿泊施設稼働率85.2%で2年連続1位 大阪府観光局によると、2015年1年間の大阪府の宿泊施設稼働率は85.2%で東京を押さえて、2年連続の全国1位となった。また、大阪府の宿泊者数は934万人に上った。 全国平均の宿泊施設稼働率も前年より3%以上高くなったが、3位の京都で71.4%、4位の愛知で70.9%であり、大阪と東京が突出して高い稼働率となっている。 ハリー・ポッターをはじめとしたユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)人気などで、中国を中心とした訪日外国人観光客の需要が引き続き好調なことがこの要因だが、関係者の間ではこれ以上増えると、予約が取れず料金が高騰するなど敬遠されるようになる-との指摘もあるほど。 なお、インバウンド効果は周辺部にも及んでいて、滋賀県と奈良県では外国人の「延べ宿泊者数」が前年の約2倍に増えている。
  • 斉藤和義、トータス松本ら66年生まれ4/3大阪に集結 2016年3月1日 斉藤和義、トータス松本ら66年生まれ4/3大阪に集結 1966年生まれ=「丙午(ひのえうま)」生まれのミュージシャンたちが集結するイベント『ROOTS66-Naughty50-』が4月3日、大阪城ホールで10年ぶりに開催される。 2006年に『ROOTS66-DON’T TRUST OVER40-』と題して東京、大阪で行われたこのイベント。その時に出演した宮田和弥、田島貴男、斉藤和義、スガシカオ、トータス松本に加え、今回は大槻ケンヂ、渡辺美里、吉井和哉、谷中敦らが初参戦。ゲストにはメンバー4人中3人が66年生まれというエレファントカシマシも登場、個性派ぞろいの66年生まれのミュージシャンたちが一堂に会する。
  • 西梅田で3月中旬ラーメンフェス 全国から著名20店集結 2016年2月29日 西梅田で3月中旬ラーメンフェス 全国から著名20店集結 大阪・西梅田スクエア(大阪市北区)で3月10~21日、全国の著名ラーメン店20店が集結し、「天下統一ラーメンバトル」が開催される。期間中の来場者10万人を見込む。 前半(3月10~15日)、後半(3月16~21日)で各10店ずつ出店し、東軍と西軍に分かれて、食べられた杯の数を競う。ラーメンチケット制で1杯800円。塩、しょうゆ、みそ、豚骨、魚介など日本全国の多種多様な人気ラーメンを味わうことができる。3月20日に最終審査でグランプリを決定する。
  • シャープ「偶発債務」で交渉延長 契約締結は3月上旬 2016年2月28日 シャープ「偶発債務」で交渉延長 契約締結は3月上旬 シャープの高橋興三社長は2月26日、中国で鴻海精密工業の郭台銘会長と会談した。これはシャープの、将来返済義務が発生する恐れのある「偶発債務」を巡って、鴻海が支援契約の締結を巡って締結を保留しているもの。 鴻海がリスクを精査する時間が必要になったため、両社は2月29日としていた交渉期限を延長することで合意した。契約締結は3月上旬にずれ込む見通しとなった。
  • シャープ 鴻海傘下に 臨時取締役会で決議 2016年2月26日 シャープ 鴻海傘下に 臨時取締役会で決議 経営再建中のシャープは2月25日、臨時取締役会で台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業による支援を受け入れることを決議した。鴻海が6500億円を投じてシャープを買収する内容で、月内の合意を目指して最終調整を進める。 鴻海が提示した案が、官民ファンドの産業革新機構の支援策を上回ると判断した。これにより、国内大手家電の一角を占めるシャープが外資傘下に入ることになった。
  • 東大阪市役所で「下町ロケット」企画展 佃製部品も展示 2016年2月26日 東大阪市役所で「下町ロケット」企画展 佃製部品も展示 東大阪市役所本庁舎1階ロビーで2月24日、2015年放送されたTBSドラマ「下町ロケット」の特別展示が始まった。池井戸潤さん原作の同名小説をドラマ化した同作品は、阿部寛さん主演で10月18~12月20日まで放送された。国産ロケットエンジンや心臓人工弁の開発をめぐる町工場、佃製作所の姿を描き、視聴者の共感を呼び高視聴率を記録した。 同展では、ドラマで使用したバルブや人工弁、佃製作所・帝国重工の制服など約30点を展示。ドラマの制作で、撮影協力したフジキン(大阪市北区)の大阪工場(東大阪市)で開発・製造され、実際に宇宙関連施設やロケットに使われている部品なども展示されている。 3月16日まで。展示時間は9時~17時30分。
  • 大阪府の人口883万人で68年ぶり減少 世帯数は増加 2016年2月25日 大阪府の人口883万人で68年ぶり減少 世帯数は増加 大阪府が2月22日発表した国勢調査の速報値(2015年10月1日現在)によると、68年ぶりに人口が減少する見通しだ。前回5年前の調査から2万6337人(0.3%)減の883万8908人だった。 大阪市など10市町で増えたが、門真市など33市町で減少した。府は少子高齢化で2040年には750万人に減ると予測している。男性が前回調査から3万485人減の425万5081人、女性が同4148人増の458万3827人だった。世帯数は同約9万世帯増の392万1923世帯。高齢者の単身世帯の増加や核家族化が影響しているとみられる。 市町村別で最も減ったのは門真市(7474人減)で、東大阪市(6928人減)がこれに次ぐ。一方、最も増えたのは大阪市(2万6428人増)、2番目が吹田市(1万8728人増)だった。
  • 関西国際空港で国内流行回避へジカ熱の水際対策強化 2016年2月24日 関西国際空港で国内流行回避へジカ熱の水際対策強化 関西国際空港で、ジカ熱の国内流行を防ぐため、検査体制を整えるなど水際対策が取られている。関空の入国審査場では、サーモグラフィーによる検査を強化したり、ポスターを掲示するなどして、同空港を離発着する利用者にジカ熱への注意を促している。 ジカ熱は中南米で大流行し、妊婦がウイルス感染すると、脳の発育が不十分な「小頭症」の子供が生まれる可能性があると指摘されている。
  • 北大阪急行8000形 最初の編成が3月に引退 2016年2月23日 北大阪急行8000形 最初の編成が3月に引退 大阪北部、江坂~千里中央間を結び地下鉄御堂筋線と直通運転を行っている北大阪急行は2月22日、8000形電車「POLESTAR」で最初に登場した編成(8001号車)を3月8日に引退させると発表した。 8000形電車は1986(昭和61)年に登場。「北極星」を意味するPOLESTAR(ポールスター)という愛称で約30年にわたり走行してきた。 北大阪急行ではこの8000形「POLESTAR」の後継として2014年から9000形「POLESTARⅡ」の導入を進めている。
  • 柿谷選手らJ1昇格誓う セレッソが開幕記念イベント 2016年2月22日 柿谷選手らJ1昇格誓う セレッソが開幕記念イベント サッカーJリーグセレッソ大阪の2016年開幕記念イベントが2月21日、あべのキューズモール(大阪市阿倍野区)で開かれた。28日のサッカーJ2開幕を前に、多くのファンが見守る中、柿谷曜一朗、玉田圭司、酒本憲幸の3選手が登場。トークショーや握手会などが行われた。3選手らは「来年ここで、J1に昇格しましたと報告できるように、全力で戦う」などと意気込みを語った。 セレッソ大阪は3月12日、キンチョウスタジアム(東住吉区)でザスパクサツ群馬とのホーム開幕戦が組まれている。
  • 「閉店セール」で約40年、西天満の靴店が遂に店じまい 2016年2月21日 「閉店セール」で約40年、西天満の靴店が遂に店じまい 長年「店じまい、売りつくし」のビラや垂れ幕を掲げながら、なかなか閉店しなかった大阪市内の靴店が2月20日、店じまいし常連客らが別れを惜しんだ。 大阪市北区西天満の交差点にある靴店「靴のオットー」。店に掲げられた「もうあかん、やめます!」の個性的なキャッチコピーが評判を呼んだ。ただ、「やめる、やめる」と言いながら約40年間、営業を続けてきた。 しかし、店主が体調を崩したり、店の老朽化が進んだことなどから20日、遂に最後の日を迎えた。店主は「これ以上は無理です。だますつもりはなかったけど…。ほんまに雨の中ありがとうございました」とあいさつ。午後3時、本当に店じまいした。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。