- 一億総活躍社会の実現に向け大阪市で対話集会 政府 2016年3月14日 一億総活躍社会の実現に向け大阪市で対話集会 政府 政府は大阪市で、一億総活躍社会の実現に向けた対話集会を開いた。参加者からは保育の受け皿のさらなる拡大や、長時間労働を是正するため、より強制力のある法整備を求める意見などが出された。 具体的には、「妊娠・出産を機に退職した女性が再就職するには、仕事を探す段階から子供を預けられる保育所が必要だ」という意見や、「介護施設では利用者の状態が改善し、要介護度が下がると介護報酬が減る。頑張れば頑張るほど、介護施設の収入は減るという矛盾がある」などの指摘が出された。 政府は一億総活躍社会の実現に向けた工程表「ニッポン一億総活躍プラン」を5月にも取りまとめる予定。
- ペット樹脂を生物分解する細菌に「堺」の名を採用 2016年3月13日 ペット樹脂を生物分解する細菌に「堺」の名を採用 京都工芸繊維大学や慶応大学などの研究グループは、PET(ポリエチレンテレフタレート)ボトルや衣服の素材として利用されているPET樹脂を分解する微生物=細菌を発見した。今回、PET樹脂を分解する細菌が、大阪府堺市で採取したサンプルから見つかったため、「イデオネラサカイエンシス」と堺の地名を入れた名前が付けられた。 PET樹脂はこれまで、微生物などでの分解はできないとされていた。そのためリサイクルには、膨大な熱エネルギーが必要でコストがかかりすぎ、「環境にやさしい」などの理念とは裏腹に、実際には回収されたPET樹脂の一部しかリサイクルされていなかった。 だが、今回の細菌発見により今後、微生物分解による、環境にやさしいリサイクルが推進されると期待される。
- アンチ串カツ、大阪新世界に3/12屋台村オープン 2016年3月12日 アンチ串カツ、大阪新世界に3/12屋台村オープン 大阪新世界に3月12日、「アンチ串カツ」を掲げ、串カツ以外の串料理はじめ握り寿司、焼き物、揚げ物などの”うまいもん”を集めた屋台村「大阪新世界横丁」が、ジャンジャン横丁の近くの路地裏にオープンする。 店舗は、炭火牛串焼きや焼き鳥スタンド、立ち呑みなどの6店舗で、入った店でドリンクを注文すれば各店の料理が自由に注文できるスタイル。この道40年のベテラン職人が握る寿司があれば、女の子が焼いてくれる浜焼きもある。そして、アンチ串カツといいながら、実は串揚げ店も入店している。そんな大阪の”ごちゃまぜ感”もウリだ。
- なんばパークスにDIY女子対象に「DIYスクール」 2016年3月11日 なんばパークスにDIY女子対象に「DIYスクール」 なんばパークス(大阪市浪速区)5階に3月12日、DIYライフスタイルスクール「DIY FOCTORY STUDIY」がオープンする。運営するのは大都(同生野区)。店舗面積は25坪。 DIYに関心がある女性が約6割いるという調査結果にもかかわらず、実践できていない女性が多い現状を踏まえ、「DIYをやってみたいけど、何から始めればよいか分からない」という層に向けて、同スクールを企画した。 20~30歳前後の住まいに関心がある女性がターゲット。受講料はポイント制で、自分の気になるレッスンを自由に選べる。電動工具や木材加工などの基本を学ぶレッスンや、キッチンやリビングなどのシーン別にモデルコースを提案するレッスンも用意する。1レッスン当たりの所要時間は約2時間。入会金5400円。1ポイント1250円(3ポイントで1レッスン受講可能)。
- 大阪狭山市「ため池水素発電」事業化 全2.5万世帯へ供給 2016年3月10日 大阪狭山市「ため池水素発電」事業化 全2.5万世帯へ供給 大阪府大阪狭山市が100%出資する事業会社「メルシー for SAYAMA」が、4月からの新年度、国内最古のダム式ため池「狭山池」の水から生成した水素で発電する事業を始める。 池の水を電気分解し、水素を発生させる。水素発電は再生可能エネルギーとして注目されているが、自治体が出資する企業が取り組むのは異例。平成32年度にも事業を本格化させ、同市内の全戸約2万5000世帯への供給を目指す。 国の補助金や民間企業からの出資、融資などで事業を進める方針で、メルシーと民間企業6社は事業化に向けた研究会を立ち上げた。3月の会合では新たに5社が加わり、今後も合流する企業があることが報告されている。 28年度は大阪狭山市内にあるため池「大鳥池」の近くに池の水を使って、水素生成と発電を行う施設を設計、建設に着手。メルシーや協力企業が建設費を賄う。電気の地産地消を目指し、当初は公共施設で使用し、出力をアップさせ、32年度にも市内全域に広げ、全世帯分を賄う計画。
- 大阪城天守閣の年間入館者212万人 32年ぶり最多更新 2016年3月10日 大阪城天守閣の年間入館者212万人 32年ぶり最多更新 大阪城天守閣(大阪市中央区)の平成27年度の年間入館者数は212万4790人を突破し、32年ぶりに過去最高記録を更新したことが3月7日、分かった。 「大坂夏の陣」(1615年)から400年の関連イベントに加え、訪日外国人観光客の増加が寄与したという。記録更新を記念して3月19日から入館者にオリジナルグッズをプレゼントすることを企画している。 天守閣の入館者数は昭和58年度に「大阪築城400年まつり」を開催した際、最高記録を樹立。その後は年間150万人前後で推移していた。だが、中国を中心とした外国人観光客の増加に伴って、平成26年度には184万人を数え、27年度はさらに約30万人も上乗せした。
- 藤原紀香さんが消防イベントの広報大使に 通天閣で任命式 2016年3月9日 藤原紀香さんが消防イベントの広報大使に 通天閣で任命式 大阪南港で6月に開催される「IFCAA(イフカ)2016 OSAKA」のPRアンバサダー(広報大使)に起用された藤原紀香さんの任命式が3月2日、通天閣(大阪市浪速区)で行われた。 IFCAAは6月8~11日、日本とアジア地域の消防の交流を図ることを目的に行われるイベント・会議の総称。ATC(アジア太平洋トレードセンター)ホールで「大阪国際消防防災展」(6月10・11日)、「消防防災・国際救助隊合同訓練」(同10日)などに一般来場者向けイベントのほか、「第29回アジア消防長協会総会」「第68回全国消防長会総会」などが予定されている。10日のオープニングセレモニーに藤原さんも来場する。 この日は大阪市の吉村洋文市長が藤原さんにPRアンバサダーの任命書を贈ったほか、大阪市消防局の打明茂樹局長がタスキを掛けた。 藤原さんは大阪市消防局が協力した、2014年にNHKで放送されたドラマ「ボーダーライン」の救急救命士役を演じている。当時のことに触れ、消防局の業務に「生半可なことではできない。消防のスピリッツに感動しました」と語っていた。
- USJ入場者数 1270万人超え2年連続最多更新 2016年3月9日 USJ入場者数 1270万人超え2年連続最多更新 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)の2015年度の入場者数が3月7日、これまで最多だった14年度(約1270万人)を上回り、過去最多を更新した。 2014年7月オープンした人気映画「ハリー・ポッター」エリアが引き続き高い集客力を発揮したほか、ハロウィンなどの期間限定イベントも好調で、2年連続の記録更新となった。 3月18日には映画「ジュラシック・パーク」をモチーフにした新型ジェットコースター「ザ・フライング・ダイナソー」も開業予定。USJの運営会社ユー・エス・ジェイは2015年度の入場者数について、最終的に前年度に比べて100万人以上多い1370万人程度に達すると見込んでいる。
- 万博記念公園で初『カレーEXPO 2016』関西の名店集結 2016年3月9日 万博記念公園で初『カレーEXPO 2016』関西の名店集結 万博記念公園(大阪府吹田市)で3月19~21日、初めてカレーの祭典『カレーEXPO 2016』が開催される。関西で話題の30店が集結、インド、スリランカ、ネパール、欧風、和風など多種多様なカレーを食べ比べ、堪能できる。 関西で活躍するグルメライター、ブロガー、カレー通からの推薦を受けた店舗のみが出店する。また、子供向けのカレーやスイーツの販売もあり、3月19、20日には『第5回万博鉄道まつり2016』、21日には『古本EXPO』が同時開催とあって、家族で楽しめそうだ。
- 「あべのハルカス」2周年 来館者は想定上回る3924万人 2016年3月8日 「あべのハルカス」2周年 来館者は想定上回る3924万人 日本一の超高層ビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)が3月7日、グランドオープンから2周年を迎えた。 同ビルを運営する近鉄不動産(同天王寺区)によると、この1年間(2015年3月7~16年3月6日)の来館者数は、展望台約195万人、百貨店約3280万人、オフィス約228万人、ホテル約65万人、美術館約32万人、その他約124万人で計約3924万人。この結果、全体の来館者数は開業日から1年間の4273万人を下回ったが、想定は3800万人だったので、これを上回った。
- 大阪・泉南市が近畿大の技術協力受けアナゴの養殖事業 2016年3月8日 大阪・泉南市が近畿大の技術協力受けアナゴの養殖事業 大阪府泉南市がアナゴの養殖プロジェクトを開始した。近畿大学の水産研究所の技術協力を受けて、地元の漁協が養殖事業を担う。 3月6日のセレモニーでは近畿大学の養殖アナゴが水槽に放されて、試食会も行われた。3月中旬から養殖事業を開始し、今後、「泉南アナゴ」のブランド化を目指す。 大阪府下でアナゴの漁獲高1位を誇る泉南市。しかし、水質や水温の変化で漁獲高は10年前の5分の1にまで減少しているという。そこで今回、泉南市では養殖技術者の育成や施設の整備に着手。養殖プロジェクトを立ち上げることになったもの。
- USJ 新アトラクション「マリオ」に400億円の大型投資 2016年3月7日 USJ 新アトラクション「マリオ」に400億円の大型投資 「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」(大阪市此花区)の運営会社ユー・エス・ジェイが任天堂との提携で事業展開を進める新アトラクションについて、400億円規模を投資して正面ゲート左側に設置する方針を固めたことが分かった。 東京オリンピック・パラリンピックが開催される平成32年までのオープンを目指す。任天堂の人気キャラクター「マリオ」を使用するもので、平成26年7月に登場した人気映画「ハリー・ポッター」をテーマとしたエリアと同規模の大型投資となる見込み。
- 大阪府立視覚支援学校・高等部音楽科 70年の歴史に幕 2016年3月6日 大阪府立視覚支援学校・高等部音楽科 70年の歴史に幕 約70年にわたる歴史を持つ大阪府立視覚支援学校高等部(大阪市住吉区)の音楽科が3月9日、3年の辻本実里(みさと)さん(18)の卒業を最後に幕を閉じる。 同科は視覚障害がある生徒のための音楽教育機関として、これまで100人以上送り出してきた。だが、少子化や就職難から同科への入学者は減少。過去6年間でわずか2人にとどまり、大阪府は来年度の募集を取りやめた。 同校の募集停止により、28年度から視覚障害がある生徒のための特別支援学校高等部で音楽科を設置するのは、全国で京都府立盲学校(京都市)と筑波大学付属視覚特別支援学校(東京都)の2校のみとなる。このうち京都府立盲学校は21年度から入学者はおらず、28年度の入学予定者もいない。
- 「宿泊税」を御堂筋イルミネーションに投入 2016年3月5日 「宿泊税」を御堂筋イルミネーションに投入 大阪府の松井一郎知事は、2017年1月導入を目指す「宿泊税」を、8年前にスタートした御堂筋イルミネーションに投入する方針を示した。 大阪府が来年から導入し見込む宿泊税は、ホテルや旅館に泊まった人から100~300円を徴収するもの。年間約10億円程度の税収が見込まれ、府はこれまで英語・中国語・韓国語など多言語の案内板設置や無線LANの整備など、急増する訪日外国人観光客を念頭に置いた施設整備に使うとしてきた。 ところが、今回「御堂筋イルミネーションは、冬の大阪の風物詩になっている。宿泊税の使途として合致するものだ」との考え方を示し、宿泊税の収入を御堂筋イルミネーションの事業費に充てるという。 2008年に始まった御堂筋イルミネーションの費用は、基本的に府の財源と企業や個人からの寄付を折半する形で賄われてきたが、ピーク時に年間1億6000万円だった寄付が年々減少してきて、その残高は約1億円に減少している。このままでは次回の開催で使い切ってしまうため、財源不足を宿泊税の収入で賄おうというものだ。
- IR誘致の経済効果は年間7600億円、9.8万人の雇用創出 2016年3月4日 IR誘致の経済効果は年間7600億円、9.8万人の雇用創出 関西経済同友会は3月2日、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)の夢洲(ゆめしま、大阪市此花区)への誘致が実現した場合、経済効果は年間約7600億円、雇用創出効果は約9万8000人とする試算を取りまとめ発表した。 同友会は「アジアの人々を引き寄せるキラーコンテンツとなるIRの整備は急務」と訴え、国や大阪府、大阪市に提言する。海外のIR運営企業などから聞き取りした結果などを参考に、施設の年間収入が約5500億円になるとの前提で試算した。 投資規模は約6800億円、鉄道などインフラ基盤整備で約1000億円とした。開業までの3~4年間でも建設などに伴う経済効果が約1兆4700億円、約9万3000人の雇用創出効果があるとしている。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。