- 大阪・新梅田シティに60匹のこいのぼり 7カ国語で紹介 2016年5月2日 大阪・新梅田シティに60匹のこいのぼり 7カ国語で紹介 5月5日の「こどもの日」を控え、梅田スカイビル(大阪市北区)にある広場「新梅田シティ」に60匹のこいのぼりが登場した。60匹ものこいのぼりが空に舞い躍る姿は壮観だ。 同ビルは空中庭園などで訪日外国人観光客の人気スポットにもなっている。そのため、外国人観光客に「こいのぼりは子供たちの成長を願うシンボル」との説明を、外国人にも分かるようにタイ語、ドイツ語など含め7カ国語で電光掲示板に表示、紹介している。5月8日まで。
- 西梅田で関西初クラフトビールの祭典 14醸造所・42銘柄 2016年5月1日 西梅田で関西初クラフトビールの祭典 14醸造所・42銘柄 地ビールの祭典「ニッポンクラフトビアフェスティバル」が4月29、30の両日、西梅田の商業施設「ブリーゼブリーゼ」(大阪市北区)1階のメディアコートで関西初開催された。2006年に東京都墨田区で始まり、今回が15回目。 クラフトビールの選定には「日本の地ビールを支援する会」(東京都北区)が協力。新潟県産こしひかりを使ったスワンレイクビールの「越乃米こしひかり仕込み」や常陸野ネストビールとクラフトリカーズが共同開発した「日の丸ラガー」、ベアードビールの「帝国IPA」など、東日本を中心に14の醸造所から42銘柄が集まった。
- シャープ 16年3月期最終赤字2500億円 債務超過の恐れも 2016年4月30日 シャープ 16年3月期最終赤字2500億円 債務超過の恐れも 経営再建中のシャープが2016年3月期連結決算で、2500億円規模の最終(当期)赤字に陥ることが4月29日分かった。液晶パネルや太陽電池の販売不振に加え、不採算設備や過剰在庫の損失処理を進めることが赤字拡大の理由。これにより3月末時点で、負債が資産を上回る債務超過に陥る可能性も出てきた。
- 近畿の3月失業率6カ月ぶり悪化3.7%に 求人は堅調 2016年4月30日 近畿の3月失業率6カ月ぶり悪化3.7%に 求人は堅調 総務省が4月28日発表した近畿2府4県の3月の完全失業率(原数値)は、前年同月比0.1㌽上昇して3.7%となり、6カ月ぶりに悪化した。より良い待遇を求めて離職する人が増えたことで、一時的に悪化した可能性がある。 一方、厚生労働省が同日発表した近畿の3月の有効求人倍率(季節調整値)は、前月比0.01㌽上昇し1.21倍となった。1倍以上の状況が2年以上続き、高水準を維持している。関西を訪れる外国人旅行客の増加で飲食業などの求人が引き続き堅調だった。 府県別の有効求人倍率は大阪が1.30倍、京都が1.26倍、和歌山が1.12倍、滋賀が1.11倍、奈良、兵庫が1.08倍だった。
- 北陸新幹線の大阪延伸ルート3案に絞る 与党検討委 2016年4月29日 北陸新幹線の大阪延伸ル-ト3案に絞る 与党検討委 北陸新幹線の大阪延伸ルートを選定する与党検討委員会は4月27日、中間報告をまとめ、候補を3ルートに絞り込んだ。 敦賀(福井県)-京都間が3案となり、米原に接続するルートは最も建設距離が短く、京都までは東海道新幹線に乗り換える。福井県小浜市を経由して京都駅に直結するルート、小浜から京都府舞鶴市を経由して京都駅に結ぶルートだと新大阪まで乗り換えなしで行くことも可能だ。 与党検討委は国土交通省に各ルートの建設費などを今秋までに試算するよう要請。年末までの最終ルートの絞り込みを目指す。
- 「なんばCITY」南館 58新店舗加えリニューアルオープン 2016年4月28日 「なんばCITY」南館 58新店舗加えリニューアルオープン 南海電鉄が運営する商業施設「なんばCITY」南館(大阪市中央区)が4月27日、リニューアルオープンした。 リニューアルのコンセプトは「-REBORN-新たに生まれ変わる南館。オフタイムを充実させるリラックス・ライフスタイルをプロデュース」。20~30代のカップルやヤングファミリーをターゲットに据え、ファッションブランドだけでなく、生活雑貨店、食品専門店なども加わった。 全国初出店も含む物販店・飲食店など58店舗が新たにオープン。2階に東急ハンズの生活雑貨店「ハンズビー」が大阪初出店したほか、ハワイの人気カフェ「ブルーハワイライフスタイル」が全国初出店した。 3月18日にリニューアルした「なんばCITY」本館や隣接する「なんばパークス」とのすみ分けを明確化する一方、なんばCITY南館2階になんばパークス側の「なんばカーニバルモール」に降りるエスカレーターを新設し、施設間の回遊性を高めた。 今回のリニューアルは1980(昭和55)年の開業以来最大規模で、30億円をかけ店舗構成、館内環境などを全面的に見直した。
- 道頓堀川に期間限定で「ジャズボート」遊覧運航 2016年4月27日 道頓堀川に期間限定で「ジャズボート」遊覧運航 一本松海運(大阪市北区)が4月29日から、ジャズの生演奏を楽しみながら道頓堀川を遊覧観光する「とんぼりリバージャズボート」を、週末を中心に期間限定で運航する。 2013年に始まり、今年で4回目となる恒例企画。プロのジャズ奏者が同乗し、ジャズの生演奏を聴きながら、川面から大阪・ミナミの街並みを眺め楽しめるのが特徴。 航路は、湊町船着き場(湊町リバープレイス北側)を出航し、戎橋をくぐり日本橋で折り返して、再び湊町船着き場に戻る。乗船時間は約40分。乗船料金は大人(中学生以上)1800円、子供(小学生)500円。11月27日までの土・日曜日および祝日を中心に運航する。定員は各便20人。
- 関西の名店集結 5/3~5 大阪・堂島でフードフェスタ 2016年4月26日 関西の名店集結 5/3~5 大阪・堂島でフードフェスタ 関西の名店が集結し5月3~5日、フードフェスタ『FOOD SONIC 2016』が大阪市福島区のほたるまち(朝日放送・堂島リバーフォーラム周辺)で開催される。 夏の音楽フェスタ『SUMMER SONIC』の兄弟イベントで、初開催の昨年は大阪城ホールで入場料が必要だったが、今回は無料でパワーアップした内容となっている。 スペシャル、名店、ワールド、麺バカ、スイーツとジャンル分けされ、バリエーション豊かな約32店舗が参加する。中国料理、割烹料理、行列ができるおでん屋など、食べ歩きが好きな人にとってはたまらない店が揃っている。 また、イベントとして人気ブロガーによる座談会、注目アーティストによるライブなどが予定されている。
- 日産 大阪府に電気自動車「e-NV200」3年間無償貸与 2016年4月25日 日産 大阪府に電気自動車「e-NV200」3年間無償貸与 日産自動車は4月22日、大阪府に電気自動車(EV)「e-NV200」を3年間無償貸与すると発表した。納車式は同日、大阪府公館で大阪府の新井純副知事、日産自動車や地元販売会社の代表者らが出席して執り行われた。 大阪府では、「クリーンであること」「多量の電気が供給できること」「静粛性が高いこと」といった「e-NV200」の特長を最大限生かし、防災拠点などでの非常用電源や排出ガスが課題となるトンネル内での移動手段、環境サンプリング時や夜間工事現場で使用する機器への給電などに活用される予定。
- 司馬さんの壮年期の作品世界を紹介 没後20年記念企画展 2016年4月24日 司馬さんの壮年期の作品世界を紹介 没後20年記念企画展 没後20年を迎えた作家、司馬遼太郎さんの壮年期の作品世界を紹介する企画展「司馬遼太郎の軌跡2『竜馬がゆく』~『坂の上の雲』『花神』」が4月19日から大阪府東大阪市下小阪の司馬遼太郎記念館で開かれている。 後にベストセラー作品となる数本の骨太の連載小説を同時に抱え、精力的な仕事ぶりがクローズアップされている。企画展では『竜馬がゆく』の連載を開始した昭和37年から『坂の上の雲』『花神』の連載が終わるころまでの約10年間に焦点を当てている。 この時期には既述の作品のほかに『新選組血風録』(37~38年)、『燃えよ剣』(37~39年)、『国盗り物語』(38~41年)など、複数の連載小説をほぼ同時平行で執筆。また、短編小説、エッセー、対談などもこなし、驚くべき仕事量だったことがうかがえる。
- 東大阪市・布施の映画館で落語会月亭方正さんら高座へ 2016年4月23日 東大阪市・布施の映画館で落語会 月亭方正さんら高座へ 映画以外のイベントでも布施を盛り上げたいと、近鉄・布施駅近くの映画館「布施ラインシネマ」(東大阪市足代新町)で4月24日、落語会「方正・三幸・あおば三人会」が開かれる。同館で落語会を開くのは今回が初めて。 月亭八方さんに弟子入りし、改名して3年目を迎える月亭方正さん、桂三枝(現・六代目文枝)さんに弟子入りする前にM-1に出場したこともある桂三幸さん、桂ざこばさんの弟子、桂あおばさんの三人が出演する。午後6時30分開場、同7時開演。チケットは前売り2000円、当日2500円。
- 井山さん、囲碁で史上初 七冠の偉業達成 2016年4月22日 井山さん、囲碁で史上初 七冠の偉業達成 囲碁の七大タイトルのうち6つのタイトルを保持していた東大阪市出身の井山裕太六冠(26)が4月20日、東京で行われた対局に勝ち、「十段」のタイトルを獲得し、囲碁では史上初めてとなる七冠を達成した。 「十段」のタイトルを懸けた十段戦五番勝負の第4局が20日、東京・千代田区の日本棋院で行われ、井山さんはタイトル保持者の伊田篤史十段(22)に挑んだ。対局は午前10時から始まり一進一退の後、終盤、優位に展開を進めた井山さんが午後5時21分勝利を収めた。 この結果、井山さんが3勝1敗で十段のタイトルを獲得し、「棋聖」「名人」「本因坊」「天元」「王座」「碁聖」と合わせ、七大タイトルすべてを独占する前人未到の偉業を成し遂げた。
- 大阪府営住宅 熊本地震被災者に無償提供 大阪市も 2016年4月21日 大阪府営住宅 熊本地震被災者に無償提供 大阪市も 大阪府の松井知事は4月20日、地震で自宅が大きな被害を受けた熊本県などの被災者を対象にした府営住宅を無償で提供することを明らかにした。 府が提供するのは堺市や高槻市など13の市にある府営住宅。4月28日から90戸が入居可能で、府は最終的に300個を用意したいとしている。入居できる期間は原則1年いないで、延長も可能だという。府では20日から入居に関する相談を受け付けている。電話番号は06-6210-9779。 また、大阪市も市営住宅50戸を1年間無償で提供する。市の住宅部管理課で20日から申し込みを受け付けている。
- 大阪府・大阪市共同で新大学設置方針決まる 2016年4月21日 大阪府・大阪市共同で新大学設置方針決まる 大阪府立大学と市立大学の統合問題で、新大学は府と市で共同設置する方針が決まった。 4月19日開かれた副首都推進本部会議で大阪府の松井一郎知事は、財源の面からこれまで市立大学が主張してきた、府立大を吸収する形での単独設置に反対。市立大学側に共同設置を迫った。 これを受け、市立大の荒川哲男学長はこれまでの方針を一転、「設置団体は我々が決めることではないので、共同設置で結構」と応じ、共同設置することが決まった。この結果、6年後の新大学発足に向けてにわかに動き始めた。
- 地産地消の担い手求む! 大阪府が就農支援相談会 2016年4月20日 地産地消の担い手農家求む! 大阪府が就農支援相談会 大阪府内で就農を目指す人たちを支援する「大阪府就農ガイダンス・相談会」が4月16日、大阪市中央区のハローワークプラザ難波で開かれ、熱心な参加者たちが新人農家の体験談に耳を傾けたり、個別相談会で情報を集めて、就農実現のチャンスを探った。 地産地消志向や自然と親しむライフスタイルに関心が高まる中、都市近郊で農業を目指す人たちが増えている。 府環境農村水産部農政室推進課が主催。同課では原則毎週木曜日に就農相談に応じているが、仕事に就いている人も相談しやすいように、就農支援に直結する情報提供や、個別相談などを連動したセミナーを週末に開催することを決めた。 ガイダンスでは同課担当者が大阪農業の現状や就農の基本知識などを説明。大阪の農業産出額は近年、やや減少傾向にある半面、直売所の売上額が8年間で3.3倍に増加。府民が地元産の農産物を信頼して買い求める地産地消志向の高まりを物語っている。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。