- 天王寺30会場で4/3「なにわ人形芝居フェスティバル」 2016年3月26日 天王寺30会場で4/3「なにわ人形芝居フェスティバル」 全国20都道府県から25の人形劇団が集結し4月3日、大阪・天王寺で「第20回なにわ人形芝居フェスティバル」が開かれる。一心寺(大阪市天王寺区逢坂)界隈(かいわい)から谷町九丁目までのエリアで、寺社などで上演するほか、大道芸や紙芝居など無料で楽しめるプログラムも含めて約30会場で催される。 忍者教室などの体験プログラム、フードコーナーなども用意するほか、下寺町6カ所の寺で「てらまち手作り市」も開かれる。開催時間は10~15時30分。すべての人形劇が観覧できる1日入場券は700円。雨天決行。 同フェスティバルは1996年に始まった春恒例の地域活性化イベント。
- GWに大阪へ30店舗が集結し『全日本肉汁グランプリ』 2016年3月25日 GWに大阪へ30店舗が集結し『全日本肉汁グランプリ』 人気の食イベント『全日本肉汁グランプリ~ごちそう大集合SP~』が4月28日~5月8日、京セラドーム大阪のスカイホールで開催される。 期間が3分割され、各期間に10店ずつ登場。合計30店舗が肉汁たっぷりなメニューを掲げて参加し、来場者はそれぞれの期間中、じっくり味わうことができる。 ミディアムレアなステーキ丼、ラーメンの上にドーンとのったチャーシュー、ハンバーグとスパゲティという人気コンビも登場する。 会場内にはエンタテインメントステージも登場、イベントを華やかに盛り上げる予定。
- 3/23は大阪、京都、奈良も サクラの開花全国で続々 2016年3月24日 3/23は大阪、京都、奈良も サクラの開花全国で続々 桜(ソメイヨシノ)の開花が全国で進んでいる。気象庁によると、3月23日には大阪、京都、奈良の近畿はじめ、横浜、前橋、熊谷、甲府、広島、松江、鳥取、松山、佐賀の各都市で開花した。 今年は、24日から寒気が日本列島を覆うことから一気に気温が低下、3、4日間、気温の低い状況が続くことから、気象庁などでは見ごろの状態が例年よりは長くなるのではないかとみている。 同庁ではこれまでに福岡(3/19)、名古屋(3/19)、岐阜(3/20)、東京(3/21)、和歌山(3/22)、長崎(3/22)、熊本(3/22)の各都市で開花したと発表している。
- 阪堺電車の現役最古の復元車両「モ161号車」運行 2016年3月23日 阪堺電車の現役最古の復元車両「モ161号車」運行 大阪唯一の路面電車を運行する阪堺電気軌道(阪堺電車)は3月27~4月2日、日本で現役最古の車両「モ161形車」の復元車両「モ161号車」を通常運行する。 運行日および運行区間は3月27日・4月2日=我孫子道~恵美須町と我孫子道~天王寺駅前、3月28~4月1日=我孫子道~恵美須町。鉄道ファンの間では、レトロな雰囲気に根強い人気がある。 1928(昭和3)年製造のモ161号車は、2011年に内外装を1965(昭和40)年当時の姿に復元した車両。2015年も期間限定で通常運行が行われたが、通常は貸し切り専用となっている。
- グランフロント大阪に新感覚かき氷店 関西初出店 2016年3月22日 グランフロント大阪に新感覚かき氷店 関西初出店 グランフロント大阪南館(大阪市北区)7階に3月19日、新感覚かき氷の専門店「アイスモンスター」がオープンした。日本では東京・表参道店(東京都渋谷区)に次ぎ2カ所目、関西では初出店となる。座席は100席。運営はアイスモンスタージャパン(東京都港区)。台湾に「マンゴーかき氷ブーム」をもたらしたフランク・ロー(羅駿樺)さんがオーナー。 日本の一般的なかき氷と異なるのが、ふわふわのその食感。一見、大工が鉋(かんな)で削り出したような極薄の氷の層を、1人前で小玉スイカほど小山のように積み上げて提供。氷はふわふわの綿菓子のように柔らかい。 定番メニューはマンゴーシャーベットとパンナコッタ、マンゴーの果実にマンゴーソースをからめた「マンゴーかき氷」(1500円)、「タピオカミルクティーかき氷」(1000円)、「コーヒーかき氷」(1200円)、オープンを記念して季節限定の新フレーバー「桜ミルクかき氷」(1300円)などがある。
- 50社参加し「万博鉄道まつり」ミニSL試乗などに長い列 2016年3月21日 50社参加し「万博鉄道まつり」ミニSL試乗などに長い列 日本最大の屋外鉄道イベントとして知られる「万博鉄道まつり2016」が3月19、20日の両日、吹田市の万博記念公園で開催された。両日はJRや私鉄、地下鉄など全国の鉄道約50社が参加し、家族連れや鉄道ファンらでにぎわった。 中でも人気を集めたのがミニSLやミニ新幹線、ミニ阪急電車の体験試乗で、順番を待つ家族連れの長い列ができていた。 会場には各社のブースが並び、オリジナル鉄道グッズなどを販売。駅弁やご当地グルメが味わえるコーナーも用意され、にぎわいをみせていた。またステージでは、東日本大震災の被災地を支援するチャリティーオークションが行われた。
- 大阪市立大学で五代友厚銅像除幕式 ディーンさん登場 2016年3月20日 大阪市立大学で五代友厚銅像除幕式 ディーンさん登場 大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)で3月19日、大阪商工会議所の初代会頭、五代友厚の銅像の除幕式が行われた。銅像は高さ3.4㍍。 式にはNHK連続テレビ小説「あさが来た」で五代友厚役を演じ、一躍人気を博した俳優ディーン・フジオカさんがサプライズで姿を見せ、約500人の観衆が湧き上がった。 あいさつしたディーンさんは「五代さんとまた、こうやって向き合えて感無量です。五代さんのようにチャレンジ精神を持って、世の中の荒波に飛び込んで」と熱いメッセージを送った。
- 春の訪れ告げる若ごぼう 大阪・八尾市で出荷ピーク 2016年3月20日 春の訪れ告げる若ごぼう 大阪・八尾市で出荷ピーク 大阪・八尾市の特産品で、春の訪れを告げる野菜として大阪府民に親しまれている「八尾若ごぼう」がいま出荷ピークを迎えている。 出荷は4月中旬まで続く見込みで、府内のスーパーなどで例年並みの1束(約500~600㌘)350~450円で販売されている。 八尾若ごぼうは大正時代から栽培されるようになったといわれ、現在同市の南高安地区を中心に約100軒の農家が栽培、年間300㌧超が市内で収穫されている。 食物繊維やカルシウム、鉄分が豊富で、毛細血管を強化したり決戦を防いで血流をスムーズにする働きがあるとされ、健康食材としても人気がある。
- 泉州水なす 新たな食材としての魅力に注目集まる 2016年3月19日 泉州水なす 新たな食材としての魅力に注目集まる 大阪・泉州地域の特産品「水なす」といえば夏の漬物があまりにも有名で、地元周辺ではそれ以外考えられなかった。ところがいま、その泉州水なすがスイーツや夏季だけでなく冬季を含めた新たな食材として取り上げられ、様々なレシピに組み込まれ、その魅力に注目が集まっている。 兵庫ではスイーツ使われに、東京の百貨店では夏の販売価格の6~7倍もの売値で、漬物ではない、生ハム巻きやカルパッチョなどの食材として使われ、いま冬季の新鮮野菜の一つとして人気となっている。 とはいえ、この水なす、冬に栽培するのは難しい。ビニールハウスで25~30度に保った状態で栽培しなければならず、夏のコストの2倍はかかる。しかし、そうして育てた水なすは夏場の露地ものより皮がやわらかくて甘い。水なすがこんなに甘いとは知らなかったとの声も多い。泉州水なすの食材としても魅力は、まだまだ広がりそうだ。
- 天王寺に33通貨扱う外貨両替店「トラベレックス」 2016年3月19日 天王寺に33通貨扱う外貨両替店「トラベレックス」 JR天王寺駅中央改札前の日本旅行TiS天王寺支店(大阪市天王寺区)内に3月17日、外貨両替店「トラベレックスTiS天王寺店」がオープンした。運営はトラベレックスジャパン(東京都港区)。 主なサービスは33通貨を取り扱う外貨両替、キャッシュパスポート(海外専用プリペイドカード)やSIMカードなどの販売、ウエスタンユニオン国際送金サービス。 トラベレックスグループは世界の国際空港・主要都市に1500店舗以上の外貨両替直営店、1250台以上のATMを運営するほか、銀行、旅行会社、スーパーマーケットなどのパートナーと外貨両替で提携しており、ネットワークは現在100カ国・2万カ所以上という。天王寺店は国内75店舗目。
- USJ 3/18から世界最大の高低差のフライングコースター 2016年3月18日 USJ 3/18から世界最大の高低差のフライングコースター ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市此花区)開業15周年記念の新アトラクション『ザ・フライング・ダイナソー』が3月18日からオープンする。全長1124㍍という世界最長のコース、落下高度37.8㍍という世界最大の高低差が生み出す重力、そしてジュラシックパークの世界観が味わえるフライングコースターが3月16日、報道陣に公開された。 最初は座席型コースターのように椅子に座って乗車するが、スタート時にそのまま座席が前に90度倒れ、鳥が大空を飛ぶように顔と胸が下を向いた態勢に。恐竜・プテラノドンに掴まれたような状態で、ファーストドロップで地上50㍍から真っ逆さま、さらに360度を5回転するトルネードや、地下トンネルへ潜ったりと、普通のジェットコースターでは決して味わえない恐怖とスリルの連続に、思わず叫ばずにはいられない。
- 東大阪のラーメン店養成所に外国人観光客の予約殺到 2016年3月17日 東大阪のラーメン店養成所に外国人観光客の予約殺到 大阪府東大阪市にあるラーメン店開業を目指す人の養成所「ラーメン屋育成ジム」は、大阪を訪れる外国人観光客の人気スポットと化し、40カ国以上から予約が殺到。外国人向けの1日体験コースは、これまで欧州、アジアなどを中心に300人以上が参加した。 ラーメン好きの外国人の関心が、これまでの「日本で食べたい」から、体験型の「自分でつくってみたい」へ変化してきているのだ。通訳を通してスープのほか、麺やチャーシューなどのつくり方、ラーメンの調理技術、そして経営ノウハウまで、料金は5万円と決して安くはない。しかし、自分で「RAMENNつくりたい!」の思いは、半端なものではないようだ。
- 関空 建設中の第3ターミナル公開 国際線用に 2016年3月17日 関空 建設中の第3ターミナル公開 国際線専用に 格安航空会社(LCC)の拠点空港を目指す関西国際空港が、建設中の第3ターミナルを報道陣に公開した。関西空港で3つ目となるターミナルは手狭となったLCC専用の第2ターミナルに隣接し、コの字に拡張する形で建設が進んでいる。 建物は一部平屋建てで完成後、第2ターミナルを国内線、第3ターミナルを国際線専用として使用する予定で、引き続き増加傾向にあるLCC利用者をさらに取り込むのが狙い。 第3ターミナルにはピーチ・アビエーションと春秋航空の参入がすでに決まっている。飛行機を駐機させるスポットはすでに完成しており、完成前の3月31日に、まずスポットのみ供用を開始する予定。
- 大阪・本町で「船場フォーラム2016」船場を知りたい 2016年3月16日 大阪・本町で「船場フォーラム2016」船場を知りたい 大阪市中央区本町の北御堂・津村ホールで3月12日、「船場フォーラム2016」が開催された。主催は「船場げんきの会」。 「船場を知りたい」をテーマにした今回は、柏木陸照中央区長はじめ、地元の住民や企業・団体の関係者ら189人が参加した。今回の参加者は女性が41%(昨年30%)を占め、地元住民も昨年を上回る人数が来場した。 今回はこれまでの取り組みを紹介した後、昔の船場の様子を振り返りながら、現在の様子と比較するフォトムービーを上映した。「船場いまむかしトークショー」と題したプログラムでは、船場を古くから知る地域の店舗経営者らが、時代とともに変化してきた街の姿を語ったほか、船場を生活・労働の場とする住民らが、自身の日常と船場の関わりを紹介したうえで、タワーマンションの増加をはじめとする地域の構造変化について言及した。 参加者からは、「大阪ことばを残したい」との意見や、戦争で消失してしまった南船場の記憶など、テーマに共鳴した発言が多く寄せられた。 同フォーラムは「船場の魅力的なまちづくり」をコンセプトに活動、2005年から開いており、今年で12回目。
- 文楽の語り手と芸名を「太夫」に 60年ぶりに統一 2016年3月15日 文楽の語り手と芸名を「太夫」に 60年ぶりに統一 文楽協会などは、人形浄瑠璃「文楽」の芸名につけられる「大夫」の表記を「大きい」という漢字から「太い」という漢字に変更すると発表した。 これまで文楽の世界では「たゆう」という言葉は「一般的な語り手を指す場合は「太い」、それぞれの芸名では人間国宝の竹本住大夫さんのように「大きい」で表記されてきた。 芸名の「たゆう」の表記については、義太夫節で知られる江戸時代の竹本義太夫は「太い」を使っていた。そこで技芸員の中から、竹本義太夫にならって「太い」にそろえたいという声が挙がり、今回およそ60年ぶりに統一することになった。 大阪・日本橋の国立文楽劇場は4月2日に初日を迎える春の公演から表記を統一する予定。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。