- 足でボール蹴るビリヤード「ビリッカー」関西大会 2016年1月15日 足でボール蹴るビリヤード「ビリッカー」関西大会 大阪・アメリカ村の「スポタカ心斎橋ビッグステップWEST」(大阪市中央区)で2月21日、足やヘディングでプレーするビリヤード「ビリッカー」の関西大会「BillicceR Kansai Area CUP」が開かれる。 ビリッカーはフランスで生まれた新しいゲーム。ビリヤード台をそのまま大きくしたような競技場で、3号球のサッカーボール15個と手球1個で行う。手球はキューで弾くのではなく、足で蹴ったり、頭でヘディングしたりする。蹴り方により手球をジャンプさせたり、カーブをかけたりする。ゲーム自体のルールはビリヤードを踏襲する。 関西で公式大会が行われるのは今回が初めて。全15チームが3つのリーグに分かれ、「ナインボーr」を総当たり戦で競う。参加料金は1チーム(3人)=1万2000円で、優勝チームには賞金3万円と、全国大会への出場権が与えられる。
- 松井府知事「副首都」化などで公明党に協力呼びかけ 2016年1月14日 松井府知事 「副首都」化などで公明党に協力呼びかけ 大阪府の松井一郎知事は1月13日、フィリピン訪問中の強行日程の中、繰り上げ帰国し、公明党の新春年賀会に出席、関係修復に着手した。公明党は山口那津男代表が出席。昨年の大阪都構想の住民投票で離反した関係にある維新・公明の両代表者が握手を交わし、エールを交歓し合った。松井氏は「維新・公明で過半数が取れれば」とし選挙協力はじめ、大阪の「副首都」化など維新が掲げる政策への協力を呼びかけた。
- 「民泊」条例案など 大阪市議会で継続審議か 2016年1月14日 「民泊」条例案など 大阪市議会で継続審議か 大阪市が年初の市議会で条例成立を目指していた「民泊」条例案および大阪市立大と大阪府立大の統合案が、継続審議になる見通しとなった。 昨年、大阪府議会が国家戦略特区の指定を受けて「民泊」条例を成立させたことを受け、増え続ける外国人観光客に伴い、ホテルや宿泊施設の大幅な不足が伝えられる中、マンションなどの空き室を宿泊施設に活用できるように規制緩和する「民泊」条例案。 だが、大阪市内ではマンション居住者の暮らしや、マンションごとの様々なルールとの兼ね合いはじめ、治安面での不安の声があり、受け入れ態勢の整備は予想以上に難しい部分もあるようだ。 また、市立大と府立大の統合案については、公明党が吉村市長の考え方をしっかりと聞いたうえで判断したいなどとしており、いずれも継続審議になる見通しだ
- 東海大仰星が4度目V 全国高校ラグビー 桐蔭学園退ける 2016年1月13日 東海大仰星が4度目V 全国高校ラグビー 桐蔭学園退ける 東大阪市・花園ラグビー場で1月11日、「第95回全国高等学校ラグビーフットボール大会」の決勝戦が行われた。東海大仰星(大阪第1)が猛追した桐蔭学園(神奈川)を37-31で退け、4度目の栄冠に輝いた。 東海大仰星は今季38戦全勝で、全国選抜大会、全国7人制大会と合わせ高校3冠を達成した。また、今大会7日間で12万7123人が入場し、総入場者数の新記録をつくった。
- シャープに2000億円出資 産業革新機構が再建主導 2016年1月12日 シャープに2000億円出資 産業革新機構が再建主導 官民ファンドの産業革新気候が1月11日、経営再建中のシャープに対し2000億円規模の出資を軸とする支援案をまとめたことが分かった。 みずほ銀行など主力取引行には債務を優先株などの資本に振り替える「債務の株式化」を中心に、計1500億円規模の金融支援を要請。国と革新気候がシャープの再建を主導する態勢を整える。 支援案では、革新機構がシャープ本体に出資したうえで、液晶事業を分社化。新会社の過半数を取得し、将来的には機構が約36%出資して筆頭株主となっている中小型液晶パネル国内最大手のジャパンディスプレイとの統合を目指す。
- 南海「なんば」駅に赤備え「真田丸」の階段出現 2016年1月11日 南海「なんば」駅に赤備え「真田丸」の階段出現 南海電鉄「なんば」駅に1月10日、真田氏の赤備えにちなみ赤い「真田丸」の階段が設けられた。これは同日、今年のNHKの大河ドラマ「真田丸」の放送開始に合わせたもので、家紋・六文銭も記されている。 居合わせた通行人らも、真田丸の主役・堺雅人演じる真田信繁(幸村)や、個性的な真田氏の生きざまへの思いなど期待を込めて語っていた。
- 西宮神社 福男めざし過去最高の6000人が参加 2016年1月11日 西宮神社 福男めざし過去最高の6000人が参加 兵庫県西宮市の西宮神社で1月10日早朝、新年恒例の福男選びが行われた。今回は過去最高の約6000人が参加。抽選の結果、一部女性の参加者も含め約260人が”一番福”を目指し、赤門~本殿間の230㍍を疾走した。一番福は、3度目の挑戦という水田道成さん(16、明石市)だった。
- 大阪湾に関西2館目となる新「Zepp」17年2月に誕生 2016年1月10日 大阪湾に関西2館目となる新「Zepp」17年2月に誕生 様々なイベントを開催してきたライブハウス「Zepp」。その「Zepp Namba(OSAKA)」に続く関西2館目となる「Zepp Osaka Bayside」が2017年2月、大阪・桜島のユニバーサル・スタジオ・ジャパン近くに誕生する。 収容人員は2800人超(スタンディング時、以下同)を予定しており、2513人収容の「Zepp Namba」だけでなく、2709人収容の「Zepp Tokyo」をも上回る国内最大級の規模。場所は安治川に面したウォーターフロントを予定。
- 平成27年度大阪府内の新成人は2.2%減の8万6398人 2016年1月9日 平成27年度大阪府内の新成人は2.2%減の8万6398人 大阪府が発表した平成27年度の新成人は前年度比2.2%減の8万6398人(男子4万4153人、女性4万2245人)だった。市町村別にみると、東大阪市4969人、枚方市4202人、豊中市3738人、吹田市3557人、高槻市3359人などとなり、最少は千早赤阪村の42人だった。
- 大阪・今宮戎神社「十日戎」に先立ち福娘13人が餅まき 2016年1月8日 大阪・今宮戎神社「十日戎」に先立ち福娘13人が餅まき 大阪・今宮戎神社で1月7日、「十日戎」(1月9~11日)に先立ち、福娘13人による餅まき行事が行われた。 3123人の応募者の中から書類審査や面接で選ばれた福娘たちが、お揃いの装束に金の烏帽子を着用して登場。餅には硬貨や金券(1万、5千、3千、千円の紙幣と交換できる)、さらには金像が付いているものもあり、縁起物の福餅を手に入れるため、境内に詰めかけた大勢の人々が、”福よこい”と、それぞれに手招きしてアピールしていた。 新年の風物詩「十日戎」には商売や1年の福を求めて毎年100万人が参拝する。
- 松井知事1/12比訪問 継続的な経済交流関係の構築へ 2016年1月7日 松井知事1/12比訪問 継続的な経済交流関係の構築へ 大阪府は1月6日、フィリピンとの今後の継続的な経済交流関係の構築を図るため、松井一郎知事らが現地を訪問、トッププロモーションを行うと発表した。 期間は1月12~14日、マニラ首都圏で経済産業大臣、経済区庁長官、現地大手企業などを訪問する。 目的は①大阪のものづくり企業のフィリピンにおける販路開拓のため、フィリピン政府機関や経済団体との協力関係の構築と経済交流強化の要請②フィリピンに進出する大阪企業に対するサポートのための覚書(MOU)を経済区庁および工業団地とそれぞれ締結する-など。なお、松井知事は公務のため13日に帰国する。
- 15年交通事故死 大阪は196人で全国ワースト2位に 2016年1月5日 15年交通事故死 大阪は196人で全国ワースト2位に 警視庁のまとめによると、2015年の全国の交通事故死者数で大阪府は196人で、13年連続で1位だった愛知県(213人)に続くワースト2位だった。以下、千葉県(180人)、神奈川県(178人)、北海道・埼玉県(177人)と続いた。最少は島根県と徳島県(27人)だった。 15年1年間の全国の交通事故死者数は4117人で、2000年以来15年ぶりにわずかながら増加した。
- 駅そば食べて運試し 南海6店で「箸タワー」おみくじ 2016年1月4日 駅そば食べて運試し 南海6店で「箸タワー」おみくじ 南海電鉄沿線などの駅にある「南海そば」全6店で、1月4日からおみくじサービスが始まる。ぎっしりと割り箸を詰め込んだ名物「箸(はし)タワー」に当たりの帯付き箸が混じっているのだ。 高さ約60㌢のタワー状に詰め込まれた箸はざっと500本ほどで、このうち当たりは25~30本程度。「大吉」はお好みのメニュー無料券、中吉は肉、小吉はあげのトッピングといった具合。ただし、二度引きは禁止だ。 このおみくじサービスは15日まで。南海電車利用者は、ぜひのぞいてみては…。
- 地上300㍍「あべのハルカス」で初日の出を拝む 2016年1月1日 地上300㍍「あべのハルカス」で初日の出を拝む 日本一の超高層ビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)の展望台「ハルカス300」で2016年1月1日、最上部のヘリポートと展望台から初日の出を鑑賞する早朝特別営業を行った。 昨年に続いて実施された特別営業で、地上300㍍の同ビル最上部に位置するヘリポートから初日の出を眺めるコースには約50人が参加。天候に恵まれたことで、参加者らはくっきりとした初日の出を拝むことができ、晴れやかな笑顔で感動していた。また、展望台から初日の出を眺めるコースも前売りで450枚の入場券が完売、元旦から賑わっていた。
- 大丸心斎橋本館、建て替えで閉館 19年秋開業 2015年12月31日 大丸心斎橋本館、建て替えで閉館 19年秋開業 大丸心斎橋本館が12月30日を最後に閉館された。最後となった30日には朝から別れを惜しむ買い物客が数多く訪れた。建て替えは、日本で多くの著名建築物のを設計したヴォーリズが手掛けた外観を残すため外壁部分を保存する形で2016年2月から工事が始まる予定。 新店舗は地上11階、地下3階で、売り場面積は約4万平方㍍とこれまでより9000平方㍍広くなる。総投資額は約380億円。2019年秋ごろ開業する計画。
大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。
生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。
繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。
中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。
栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。
市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。
初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。
三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。
江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。
蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。
こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。
今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。
このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。
明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。
大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです
1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。
東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。
大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。
大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。
ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。
戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。
関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。
地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。
地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。
戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。