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後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」
 幕末、1840年代から1850年代、幕閣にあって幕府の民主的改革と開国政策
を推し進めようとした老中・阿部正弘が、急逝することなく健在なら、幕末
の様相はかなり変わったものになっていたでしょう。

老中・阿部正弘が健在なら条約調印、安政の大獄はなかった?
安政の大獄が起きる前、阿部伊勢守政権時代、大久保一翁ら幕府の一部の
官僚の中で、実は近代政治への芽が生まれていました。もし、老中阿部が
急逝していなかったら、恐らく井伊直弼が幕閣に名を連ねることはなく、
したがって大老・井伊直弼よる独断での日米修好通商条約の調印、そして
これに反対した武士、公家に対する大規模な弾圧、安政の大獄もなかった
のです。

開明派の阿部は当時の薩長より進歩的で欧州の近代政治に理解
阿部は備後福山藩主として男女共学などいろいろと新しい試みを手掛けた
人で、構想では日本を全国統一の郡県制度にして、国軍を設置し、開国政
策を進めようとしていました。大久保一翁もこのころ、議会民主制国家に
しようといったことを上申しています。
 つまり、この時期は薩摩や長州などの在野の人よりも、阿部をはじめとす
る幕府の官僚たちの方がヨーロッパの近代政治に理解があったということで
す。そのため、薩長側が安政年間あたりは、ペリー来航以来の外圧に対応で
きるような新しい政治体制はどうあるべきか、アイデアを持っていなかった
のに対し、大久保一翁や勝海舟といった人たちはいろいろな知恵を持ち出し
ていました。それも、幕府中心の社会ではなく、もっと大きな日本国という
観点に立った国づくりをしなければダメだと最初に言い出したのは、むしろ
幕府側の人たちでした。

当時は西南雄藩より幕府に人材が豊富だった
私たちが今日、正史として学んだ日本史を、明治維新からさかのぼって考
えると、実に意外なことなのですが…。今日では西南雄藩、とりわけ薩・
長・土・肥の諸藩では優れた人材を数多く輩出し、幕府には人材がいなか
ったかのように表現されることが多いだけに、このあたり実態を正確に把
握しておきたいも。のです。“勤続疲労”や“マンネリ”で酷評されるこ
とが多かった幕府も、案外捨てたものではなかったということでしょう。
 明治維新後、ジャーナリストになって「幕府衰亡論」を書いた福地源一郎
が、もし阿部伊勢守があと何年か生きていれば、ああいうことにはならなか
っただろうといっています。老中・阿部正弘が亡くなった後、日本という国
の、きちんとした責任と展望をもって決断できるリーダーが幕府にいなくな
ったのです。

安政の大獄が開明派に幕府重臣を失脚させたことが幕府崩壊に
 徳川幕府の存続をのみ願う井伊直弼が、安政の大獄で橋本左内、吉田松陰、
さらには薩長をはじめとする西南雄藩の開国・勤皇派の志士たちを粛清。ま
た、大老・直弼が指揮した幕政に批判的だった多くの開国・開明派の幕府の
重臣たちを失脚させたことが、やがて幕府を崩壊に導いた一因といえるでし
ょう。

 

 

 

 

 

 

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」
 徳川幕府の三代将軍家光の時代、後水尾天皇が幕府に無断で退位し、女性
の明正に皇位を譲りました。一般には徳川幕府の基盤が磐石なものとなった
のが家光の時代といわれます。武家諸法度に続いて、禁中並びに公家諸法度、
天皇の叙任権、そして紫衣(しえ)事件などで公家や天皇・朝廷にも干渉。
そのため精神的に屈辱を味あわされた天皇が追い詰められて退位、二代将軍
徳川秀忠の娘、中宮・和子(まさこ)が後水尾との間でもうけた明正(めいし
ょう)天皇に譲位させられたと考えがちです。

後水尾天皇の退位・譲位は幕府の専横に対する反撃・嫌がらせ
 しかし、これは実は後水尾天皇が退位も譲位も、本来、幕府に事前に相談
し、形としては幕府の了承を得たうえで実行するはずのところを、いきなり
幕府には無断で推し進めたことでした。後水尾天皇の幕府に対する反撃とい
うか、強烈な嫌がらせだったのです。
 改めてこの「にわかの譲位」事件を記すと、1629年(寛永6年)11月8日早
朝、異例の参内命令が出され、困惑する公卿たちを尻目に、皇位継承という
重大事が、前関白・近衛信尋すら知らされないまま、ごく一部を除いて秘密
裡に運ばれたのです。このとき退位したのは後水尾天皇ですが、新たに践祚
(せんそ)したのは年齢わずかに7歳という少女、興子(おきこ)内親王(=明正
天皇)でした。異例中の異例な天皇交替劇だったのです。

武家政権の下での初の女帝は驚天動地の事態
 「承久の乱」(1221年)に武家が天皇廃立を行ったのを最初に、幕府に無
断で行った皇位継承は事実上無効、との慣例が定着していました。それを無
視した退位強行でした。また、武家の世になって以来、例をみない女性の天
皇の出現は、男性原理・家父長制の権化というべき徳川幕府にとって、驚天
動地の事態でした。
 興子内親王は大御所・秀忠の孫にあたり、この践祚によって徳川将軍家は
外戚となるわけですが、和子の入内は決して女帝の登場を期待して行われた
わけではありませんでした。“首謀者”後水尾天皇はまんまと幕府を出し抜
いて譲位を敢行したのでした。
 江戸時代の天皇は、非常に気の毒な存在でした。石高はわずか4万石です。
「士農工商」の農民に対する年貢ではないですが、“生かさぬように、殺さ
ぬように”という、家康以来の精神が、天皇・朝廷に対しても及んでいまし
た。

 

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」
 「大化の改新」(645年)は果たして本当にあったのか?日本史学者、考古
学者が著した文献によると、大化の改新以後の政策は蘇我氏によって準備さ
れていたもののようです。天皇家の外戚となり、権勢を飛躍的に強化した蘇
我氏独裁のなかで、その大臣・蘇我馬子が構想していた政治路線を入鹿が断
行していくのです。

大化の改新以後の政策は蘇我氏が立案したもの
が、その専横ぶりに嫌気した中大兄皇子、中臣鎌足、軽皇子らが、軍事ク
ーデターを起こして入鹿を殺害し、その政策を横取りしたのです。正確に
いえば、蘇我氏の本家が滅んだ後、皇極朝を継いだ孝徳天皇(軽皇子)が実
権を握って蘇我氏の政治路線を実行していったのです。これが実態なら、
真に政治改革「大化の改新」と呼べるものは存在したのかどうか、いささ
か怪しくなってきます。

中大兄皇子、皇極・斉明天皇は保守派、だから孝徳天皇と対立した
 従来は、実際の推進者は中大兄皇子(後の天智天皇)というのが通説のよ
うです。ただ、中大兄皇子も母親の皇極・斉明天皇も保守的な、反動的な人
物だったと思われます。その点、孝徳天皇は新しい官僚制をつくるなど、蘇
我氏の路線に乗って非常に進歩的です。皇極・斉明天皇とは同母姉弟関係、
中大兄皇子とは甥・叔父関係にありながら、こうした対立があったからこそ
孝徳は、中大兄と斉明の一種のクーデターに遭い、難波宮にひとり残されて
失意のうちに亡くなったのです。

大化の改新で政治方針の変更はなかった
だから、今日「大化の改新」と呼称していますが、正確には政治方針の変
更はなかったようなのです。となると、「大化の改新」の実態は、軍事ク
ーデター「乙巳(いっし)の変」で、為政者が蘇我蝦夷・入鹿から中大兄
皇子一派に代わっただけで、外交を含め政治方針は継続されたままだった
ということです。

 

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」
 いささか唐突に受け止められるかも知れませんが、天武天皇(当時は大海人
皇子)が天智天皇の同母弟なら、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)は
起こらなかったでしょう。

天武天皇は天智天皇の同母弟ではなかったから「壬申の乱」が起こった
 読者の方には、「何を言っているんだ。現実に天武天皇は天智天皇の同母
弟ではないか」といわれそうですが、私たちが教科書で学んだ、いわゆる
“正史”ではその通りですが、真実は恐らく違うと思います。違うから、同
母弟ではなかったから「壬申の乱」という戦乱が起こったのだと思います。
作家の井沢元彦氏ら何人かの人が指摘していることですが、天武天皇と天
智天皇は同母兄弟ではなく、天武の方が天智より年上だったのでしょう。
しかも、天武は大和朝廷の実力者だったが、天智の正統な後継者ではなか
ったということです。

天武は正当な後継者でも「年下」でもなかったから戦乱になった
 天武が正統な後継者で「年下」なら、「年上」の天智が自然死するのを待
って、それから皇位奪取にかかればいいわけです。さらには『日本書紀』が
伝えるような、天武(当時は大海人皇子)が急ぎ出家し間一髪、吉野に逃れ
るという切迫した場面に遭遇することはなかったはずです。だが、天武が年
上で、正統な後継者でもないとしたらどうでしょう。悠長に構えてはいられ
ません。

天武は天智が4人の娘を嫁がせても味方につけておきたい実力者
 また、天武は天智がぜひとも味方につけておきたい実力者でした。だから
こそ、天智は自分の娘を4人も次々と天武(当時は大海人皇子)に嫁がせて
いるのです。この中で最も有名なのが鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持
統天皇)です。この時代、近親結婚は珍しくなく、叔父と姪の結婚も決して
タブーではありません。しかし、どう考えても4人も「兄」の娘をもらうと
いうのは尋常ではありません。極めて異例です。むしろ、これは天武と天智
の二人が兄弟ではなかったことの有力な傍証といえるでしょう。

『日本書紀』が天武の年齢を明記していないのは年上を隠すため
 ご存知の方は多いと思いますが、実は歴代天皇の中で天武天皇だけが『日
本書紀』に年齢が明記されていません。これは、天智と天武が本当の兄弟で
はないことを隠すためと、天武のほうが年上だということを隠さなければな
らなかったからなのです。
 後に整理し再構築されたものとは明らかに異なる、このような様々な裏事
情があったからこそ、天智の子、大友皇子と大海人皇子との間で平和的な協
議で決着をつけることはできず、皇位継承をめぐる戦乱「壬申の乱」が必要
だったということです。

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」
 幕末、日本に開国を迫り、アメリカの総領事ハリスが連れてきた通訳ヒュ
ースケンが、特別な野心も持たない、普通の通訳官だったら、“唐人お吉”
の悲劇は起こらなかったでしょう。

野心家の通訳ヒュースケンが起こした”唐人お吉”の悲劇
 お吉は、伊豆下田の船大工・市兵衛とおきわの二女として1841年(天保12
年)に生まれました。お吉のもとに下田奉行所の役人から「アメリカの総領
事として下田に赴任しているハリスの看病をしてほしい」という話が持ち込
まれたのはお吉が17歳のときのことです。ハリスは病気がちなので、看護婦
を提供してほしいというのが、その依頼の主旨だったようです。
 ただ、ここで言葉の壁が立ち塞がりました。ハリスは日本語がしゃべれま
せん。そのため、通訳としてヒュースケンという当時25歳の青年を連れてき
ていました。実はこのヒュースケンが曲者(くせもの)でした。このとき
ハリスの要求を通訳した言葉に大きな問題があったのです。当時、日本には
看護婦という言葉もないし、もちろんそういった職業の女性もいません。
 ヒュースケンはある意図を持って「看病」ではなく、「身の回りの世話を
する女性」を提供してほしいと下田奉行所の役人に伝えたようです。その結
果、ハリスにお吉、そしてヒュースケンにもお福という15歳の娘がつけられ
たのです。若いヒュースケンは、自分が夜の相手に日本女性を欲しいものだ
から、わざと「身の回りの世話をする女性」と通訳したのでしょう。

通訳の要求どおり慰安婦として送り込まれた二人の女性
 とはいえ、日本側も簡単に了承したわけではありません。当時、下田奉行
所は「そのような先例がない」と断っています。ところが、ハリスは持病の
胃病が悪化し、吐血するまでになり、「この要求が受け容れられないならば、
これまでの条約交渉は破談にする」と厳しい対応で迫ってきたのです。結局、
この強硬なハリスの要求に負けてハリスとヒュースケンに、それぞれ若い女
性を差し出すことになったというわけです。

お吉に与えられた給金は破格の月10両、支度金25両
 お吉とお福、この二人の女性に与えられた給金と支度金をみると、その大
金に驚かされます。お吉の手当ては、何と月10両です。支度金も25両与えら
れています。仮に1両をいまの金額にして8万円と換算しても月給が80万円と
いうわけです。いかに外国人相手の看護婦といっても、月給80万円は破格の
待遇といわざるを得ません。

下田市役所所蔵の史料に残る役人たちの苦慮のあと
 しかも、下田市役所所蔵の関係史料の中に、「もし彼女たちの生理がとま
ったらどうするか」といった内容の文書もあったといいます。つまり、奉行
所の役人たちは、彼女たちが妊娠したときのことを心配していたのです。
こうしてみると、本人たちに細かい説明があったかどうかは別にして、お吉
とお福はそれぞれ、ハリスとヒュースケンの侍妾として送り込まれたことは
確実です。

浜辺に残る石塚が、生まれた混血児を闇に葬った墓-の記録も
こうして、“唐人お吉”の悲劇が現実のものとなったのです。お吉の菩提
寺の下田の宝福寺住職・竹岡範男氏が著した『唐人お吉物語』には、米国
総領事館が置かれていた玉泉寺の近くの柿崎の浜辺には小さな石塚がいく
つもあり、それが外国人と下田の女性との間に生まれた混血児を闇から闇
に葬った墓だという古老の話が掲載されています。
記録によると、ハリスおよびヒュースケンの相手をした女性として、お吉
・お福・おさよ・おつる・お松らの名前が挙がっています。では、なぜ
お吉だけが「唐人お吉」などと蔑視され続けたのでしょうか。それは、お
吉が別格の米国総領事ハリスに提供された女性だったことや、その後の
生き方の違いにあったのでしょう。

”総領事ハリスの女”のレッテルがついてまわったお吉は投身自殺
お吉に与えられた給金は圧倒的に多かったようです。また、お福は、ヒュ
ースケンに抱かれたことなどきれいに忘れて普通の結婚をしています。こ
れに対し、お吉は“総領事ハリスの女”というレッテルがずっとついてま
わり、明治になって女髪結いや小料理屋を営み、男と同棲したこともあり
ましたが、1890年(明治23年)稲生沢川に身を投げ亡くなりました。日本
の開国の裏にこうした女性の悲劇があったのです。

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」
 新井白石は江戸中期、第六代将軍家宣(いえのぶ)、七代将軍家継(いえつ
ぐ)に仕えた学者政治家ですが、この出世の経緯をみると、実は初めに師の
木下順庵が推薦してくれた加賀藩への仕官の途を、同門の加賀出身の岡島
仲道に懇願されて譲ったことによって、彼の道が開けたのでした。

出世のきっかけは甲府藩主・徳川綱豊に仕えた37歳のとき
 白石の出世のきっかけは、彼が37歳になったときのことです。師の木下
順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊に仕えるようになりました。ところが、
この綱豊が子供のなかった五代将軍綱吉の養子になり、家宣と名を改めて
六代将軍に納まったので、自然と彼も横滑りして幕臣に昇格、1000石取り
にのしあがったのです。全く人間の運は分からないものです。

初めに師に推挙され譲った仕官の口は加賀100万石の大藩
白石が、師の順庵に初めに推挙された加賀藩(100万石超)に仕えていれば、
一生、地方の藩儒で終わっていたでしょう。加賀藩前田家の城下では知ら
れる存在になっていたとしても、幕府政治に影響を及ぼす器量の人物にま
でなることは絶対になかったはずです。それが、たまたま同門で加賀出身
の人物に懇願されて、最初、師に推挙された仕官の途を譲った結果、後に
めぐり巡って天下の将軍家の政治相談役にまでなってしまったのですから
…。
 ところで、白石が断った最初の仕官の途、加賀藩といえば地方とはいえ、
学者として身を立てるには、大藩だけに好待遇が期待できる、いわば一流会
社のポストです。これを他人に譲ろうというのですから、自分本位の現代人
にはちょっとマネのできないことだったといえるでしょう。

同門の人物に懇願されて譲った白石を師・順庵は賞賛
当時としても、これは珍しいことだったようで、師の順庵も、白石のこの
所業に涙を流して感心したといわれています。事実、当時も学者としての
就職は、喉から手の出るほど魅力のあることだったはずです。そこを、じ
っと我慢したのは見事です。その代償として、後の甲府藩主への仕官につ
ながったとすれば、利己心を抑えた初めの白石の判断は十分報われたとい
えるでしょう。

 

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」
 徳川十一代将軍家斉といえば、在位50年間に1妻40妾を抱え50数人の子供
をつくりました。だが、将軍として求められる治世能力はほとんどなかった
といわれます。世継ぎを設けることは将軍の重要な役割の一つでしょうが、
本来彼は、将軍位に就ける立場ではなかったのです。

十代家治の世継・家基急死で転がり込んだ将軍の座
 それは、彼にとっては思わぬ幸運に恵まれた故のものでした。十代将軍・
家治の世嗣・家基が急死したため、八代将軍吉宗の孫で一橋徳川家二代当主
の父・一橋治済(はるさだ/はるなり)と老中・田沼意次(おきつぐ)の画策で
将軍の座が転がり込んだというわけです。
 世嗣・家基は、幼年期より聡明で文武両道に才能を見せ、成長するにつれ
政治にも関心を深めていました。それだけに父・家治の期待も大きかったの
です。そんな家基が1779年、鷹狩りの帰り、立ち寄った品川の東海寺で突然
体の不調を訴え、そのわずか3日後に急死してしまったのです。享年18(満
16歳没)。それまで元気に鷹狩りしていたわけですから、いかにもその死は
不自然で、不可解です。

家基の不可解な死に流れた毒殺説
そのため当時、毒殺説が囁かれました。首謀者として、家斉の父・一橋治
済や、家基が老中・田沼意次の幕政に批判的だったことから、田沼意次一
派の名も挙げられました。しかし、家治にほかに男子の子がいなかったた
め、父と田沼の裏工作通り家斉の世継ぎが決定。1781年、家斉は家治の養
子になって江戸城西の丸に入り、1786年の家治の急死を受け、1787年、15
歳で十一代将軍に就任したのです。徳川歴代将軍の中でも傑出した絶倫、
記録男・将軍家斉の誕生でした。

 

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」
 尾張藩第七代藩主・徳川宗春は、八代将軍徳川吉宗の政治を批判、反逆し
た人物というのが定説となっています。

吉宗を上回る部分も少なくなかった宗春の目指した政治理念
 確かにそういう側面はありましたが、宗春の目指した政治理念は、吉宗の
それを上回る部分も少なくなかったのです。それだけに、宗春がもう少しう
まくPRし、周囲を十分納得させたうえで、理想を具体化していくという手
順を踏んでいたら、あれほど完全に浮き上がった存在になってしまうことは
なかったと思います。また、あれほど吉宗側の思い通りの“反逆児”に仕立
て上げられていくことはなかったのではないか-と惜しまれます。
 宗春が吉宗に対して抵抗し続けた理由は、尾張徳川家という家格に対する
誇りです。いわゆる御三家は、徳川家康が自分の九男・義直、十男・頼宣、
十一男・頼房にそれぞれ分家を起こさせたことに端を発しています。尾張徳
川家、紀州徳川家、水戸徳川家がそれです。しかし、水戸徳川家は、三代将
軍家光のころから「副将軍」という非公式な職名が与えられ、同時に江戸定
府を命ぜられました。参勤交代を免ぜられたのです。

尾張徳川家口伝の御三家は本家・尾張徳川家・紀州徳川家を指した
そんなこともあって、尾張初代の藩主義直は自分の子や家臣団に、「御三
家は徳川本家と尾張徳川家並びに紀州徳川家をいい、水戸は入らない。父
の家康公が、徳川家に何かあった時は御三家でよく相談するようにといわ
れたのは、徳川本家と尾張徳川家と紀州徳川家の三家で相談しろというこ
とだ。その意味では、尾張徳川家と紀州徳川家は徳川本家と同格である」
と告げていたのです。

宗春は政治の根源に「慈」「忍」に二文字を掲げた
 宗春は藩祖・義直の精神に則(のっと)って、藩政を執り行おうと考えて
いました。彼は政治の根源に「慈」と「忍」の二文字を掲げ、領民の立場で
政治を考える、いわば「安民」の思想で尾張藩を治めようとしたのです。彼の
政治理念を書いた『温知政要』によると、「治める側の立場に立つのではな
く、治められる民の立場に立ってものを考えよう」という精神が一貫して流
れているのです。そのため、役人のあり方としては、「民の身になって政治
を考える」ことを求めました。そして、『温知政要』の内容をみると、明ら
かに「吉宗政治批判」あるいは「反吉宗」の項目が随所にみられます。

「倹約」と「法律」偏重の吉宗政治を批判
 吉宗の政治の根本は、「倹約」と「法律」に集約されます。これに対し、
宗春は①倹約一辺倒では人間の心が狭く小さくなってしまう。確かに倹約は
大切だが、度が過ぎると世の中が暗くなる。人間も生きがいを失う②法律は
少ないほど、よく守られる。やたらにこれをしてはいけない、あれもしては
いけないなどと法律を多くすれば、窮屈で民は守らなくなる③治者は下情に
通じていなければいけないことはいうまでもないが、下情に通じ過ぎて細か
い物の値段まであれこれ口を出すようになるのは、かえって民が迷惑する-
といった具合に、吉宗政治を批判しているのです。倹約一辺倒の吉宗、ある
いは法律を次から次と新しく出す吉宗に対し、真っ向から「あなたの政治は
間違っている」と宣言したのです。
 さらに、宗春は「質素・倹約」の吉宗を挑発するように、町に賑わいを取
り戻すべく、芝居見物の禁令を解いたり、触れ(法律)の壁書きを撤去、質
素に行うことされていた祭礼を元に戻すなど、服装、髪の結い方まで含め細
かな禁令をすべて解いてしまいました。これでは、吉宗側も黙って見過ごし
てはいられません。こうして、究極的には吉宗側に「尾張宗春には謀反心あ
り」のレッテルを貼らせてしまったのです。

賢君・吉宗には正論は通らず、「謀反心」ありのレッテル
 客観的に判断すれば、為政者としてみれば宗春に理があるのは明らかで
す。しかし、相手によってその判断基準は大きく異なってきます。宗春にと
ってはターゲットとした相手が悪かったということです。徳川十五代将軍の
中でも吉宗は賢君で、「享保の改革」など善政を行った人物として記されて
います。それだけに、彼が意図した当時のそうした社会規範の下では、必ず
しも正論は正論として通りません。

人間的器量で吉宗に劣った宗春
 また、宗春の人間的“器”も吉宗と比較すると、小さかったようです。吉
宗は、どんな時にも絶対に顔色を変えて部下を叱りつけるようなことはしな
かったといいます。その点、宗春は自分の意を迎えて協力するものはどんど
ん登用しましたが、そうでないものは排除してしまいました。これが名古屋
城内に混乱をもたらしたようです。家臣団に十分説明し、理解、納得させる
努力を怠ったというわけです。
その結果、「お家大事」の家臣団の中で、将軍吉宗に“喧嘩”を売るよう
な言動を続ける藩主に不信感を招き、尾張藩内においても宗春は浮き上が
り、孤立化していったのです。不器用な生き方が惜しまれます。

 

 

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」
 1873年(明治6年)、8月17日の正院で、参議・西郷隆盛を隣国朝鮮へ使節
として派遣することが決定しました。岩倉具視ら政府首脳が欧米視察に出か
けている留守の間の「留守政府」で決められたことでしたが、ここから征韓
論争が始まったのです。

朝鮮への使節派遣決定を”ウルトラC”の奇策で覆した岩倉
 明治新政府の首脳には、薩摩藩・長州藩の出身者が主要ポストに就いてい
ましたが、公家出身者では三条実美(さねとみ)の太政大臣、岩倉具視の右
大臣の二人が双璧でした。そして、この三条実美太政大臣、岩倉具視右大臣
のとき、「明治6年政変」が起きているのです。
岩倉らの帰国後、改めて開かれた10月14~15日の正院でも西郷らを派遣す
ることが決められました。このとき、西郷らの派遣論に反対したのが岩倉
と大久保利通らでした。とくに大久保は「時期尚早」として反対論を唱え
ましたが、結果的には敗れました。
 ところが、ここから岩倉の巻き返しの“ウルトラC”が始まるのです。岩
倉と大久保は太政大臣の三条実美に辞表をたたきつけたのです。公家には似
つかわしくないほどの策士といわれた岩倉とは全く違い、三条実美は本質的
にはできる限り対立を避け、混乱を回避したい、実直な公家です。岩倉、大
久保の辞表提出という“奇策”のショックで、精神錯乱に陥った三条は卒倒
してしまったのです。

大久保と組み、太政大臣・三条実美の性格を読んだ計算ずくの勝利
三条が卒倒するところまで計算していたかどうか分かりませんが、岩倉は
「自分らが身を引くといえば、動揺した三条がショックで政務を投げ出す
のではないか」と読んでいたのではないでしょうか。ともかく、三条が倒
れた以上、明治天皇は三条に代わる誰かを太政大臣にしなければなりませ
ん。そうしなければ政界の混乱は収まらないと考えました。そのとき、裏
から大久保が手を回していたといわれています。その結果、天皇から太政
大臣代理の指名を受けたのが岩倉だったのです。
 太政大臣代理となった岩倉は、正院の決定を天皇に奏上しました。そのと
き、「派遣に決定しましたが、私は反対です」と自分の考えを述べているの
です。そこで、“飾りもの”でしかない天皇は、本来尊重すべき正院の決定
を無視し、「すべて岩倉の意見通りにせよ」という勅書を出してしまったと
いうわけです。
 すべて、太政大臣・三条実美の性格を読み切ったうえでの、岩倉の計算ず
くの作戦勝ちでした。本当なら、もはや打つ手なしの状態からの“起死回生
の”逆転勝ちでした。