「中年悪女の系譜」カテゴリーアーカイブ

藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?

藤原薬子 平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?

 藤原薬子は平城(へいぜい)天皇が皇太子(安殿親王)のとき、長女を皇太子に仕えさせるため、付き添いとして宮中に上がったところ、母の薬子も皇太子の目にとまり、愛を受けるようになってしまう。彼女は中納言藤原縄主との間に三男二女と5人の子を産んでいたのにだ。相当、魅力にあふれた、すばらしい中年女性だったのだろう。

 最初は父で時の桓武天皇の怒りに触れ、薬子は宮中から追放される。ところが、延暦25年(806)3月、桓武天皇が崩御すると宮廷の女官の資格を取ったうえで再び宮中に復帰、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任する。 安殿親王は延暦25年(806)5月即位し、年号を大同と改め平城天皇となった。その翌日、平城天皇の12歳年少の同母弟、賀美能親王を皇太子に立てた。平城朝がスタートすると、薬子は天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いに出る。薬子の兄の藤原仲成までもが勝手な行動に出て、大いに周囲のひんしゅくを買った。薬子が天皇の寵愛を一身に集めているのをよいことに、仲成は伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。

 平城天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに取り組んだ。また官司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。この間、天皇は何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして大同4年(809)4月、皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、平城旧京へ隠棲した。

 ところが、嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へと向かい、いまだ30代という若さも手伝って国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさま。当然のことながら、側近の薬子や仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、遂に平城上皇に重祚するよう促した。   上皇方の動向を苦々しく思っていた朝廷も、当初は摩擦を避けるため薬子らの横暴にじっと耐えてきたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に立ち至った。

 強気の上皇方は大同4年11月、平城京に宮殿を新たに造営しようとした。そして翌5年、上皇から平城京への遷都を促されるに及んで、遂に嵯峨天皇の朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。朝廷は仲成を捕縛するとともに、正三位の薬子の官位を剥奪した。事態の急変に慌てた上皇は東国への脱出を試みたが、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の軍勢によって行く手を阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は毒を仰いで自殺して果て、仲成も射殺された。

 この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子だった平城天皇の第三皇子、高岳(たかおか)親王は廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、上皇の系統と悪しき側近政治はここに絶たれた。

 藤原薬子が本当に悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、ドラマチックな彼女の真の人生を書き残したものがなく、本当のところは分からない。

(参考資料)永井路子対談集「藤原薬子」(永井路子vs池田弥三郎)、北山茂夫「日本の歴史4/平安京」、杉本苑子「檀林皇后私譜」                   

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も
 徳川家康の正室、築山殿は今川義元の姪だが、その血筋からか様々な、興味深い伝説を残している。意のままにならない苛立たしさや、夫・家康との意識のずれも加わって、わが子・嫡男信康可愛さのあまりか、正常な神経ではとても考えられない“暴挙”に出ている。そして、そのことがわが子ともども、身の破滅を招くことになった。築山殿の生没年は1542(天文11)~1579年(天正7年)。
 夫の徳川家康の幼年~青年時代が人質生活だっただけに、解放後の家康の出世ぶりが、築山殿の婚姻後の人生に大きな影響を与えた。そこで、築山殿に関係する歴史の流れをざっと見ておこう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで伯父の今川義元が織田信長にまさかの敗戦を喫し、松平元康(後の徳川家康)は晴れて岡崎に帰還する。
1562年(永禄5年)、築山殿の父・関口義広(今川義元の一族)は元康が信長側についた咎めを受け、今川氏真の怒りを買い正室とともに自害。築山殿は今川義元の妹の夫で、上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と於大の方(家康の母)の次男源三郎との人質交換により、駿府城から子供たちと家康の根拠地の岡崎に移った。しかし、於大の方の命令により岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。1567年(永禄10年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。しかし、築山殿はいぜんとして城外に住まわされたままだった。1570年(元亀元年)、ようやく築山殿は岡崎城に移った。
 1579年(天正7年)、徳姫は後に「信長十二ヶ条」に記されることとなる、築山殿の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。これにより信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとされる。家康の命令により、野中重政によって築山殿は小藪村で殺害された。信康は二俣城で切腹した。
 築山殿の名は瀬名姫。別名を鶴姫。父は今川義元の一族、関口義広(関口親永との説もある)。母は今川義元の妹にあたる。また、室町幕府の重鎮、今川貞世の血を引く。1557年(弘治3年)、今川氏の人質だった徳川家康(当時の松平元康)と結婚。駿河御前とも呼ばれた。1559年(永禄2年)嫡男・信康、1560年(永禄3年)亀姫をそれぞれ産んだ。
 今日残されている築山殿の伝説は、およそ次のようなものだ。
①夫の徳川家康と別居状態にあった築山殿は、唐人の鍼医・減敬と内通した。
②その減敬は実は武田の間者で、築山殿を篭絡し、彼女を武田方へ内通させた。
③減敬の誘いに乗った築山殿は、わが子・信康可愛さに武田方への内通を確約し、信康の同意を得ることなく、勝手に信康を大将に謀反の計画を進めた。
④築山殿は嫉妬深い女だった。彼女の侍女おまんが家康の目に留まって、手がつき身籠った。このことを知った彼女はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置した。
⑤信康の正室、徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿とすれば、仇のかたわれと思った。そこで嫁の徳姫に辛くあたり、調伏の呪詛を行った。
こうしてみると、いずれも悪女のなせるところと思わざるを得ない。しかし、築山殿は本当にこんな悪女だったのか。後世、徳川幕府が始祖、家康を神聖化するあまり、家康の長男殺害というショッキングでスキャンダラスな事件の要因を築山殿に押し付け、スケープゴートに仕立て上げたためではないのか。
いずれにしても、年上で、恐ろしく嫉妬深くて気の強い、この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など妻にするものではない。もう懲り懲りだ。その教訓、いやトラウマに近いものが家康にあったかも知れない。何しろ、築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出身なのだ。天下の徳川家康の女性観を決定づけた女性、築山殿とはそんな人物だった。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、井沢元彦「暗鬼」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

 

阿野廉子・・・わが子を後醍醐天皇の後継ぎにするために画策?

 阿野廉子は最も後醍醐天皇の寵愛を受け、3人の皇子を産んでいる。そして、この中で誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出しし、画策したと伝えられている。実際はどうだったのか。

 ところで、後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中では比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれた子が皇子17人、皇女15人になる。子を産まなかった女性はカウントされていないので、実際に性的関係を持った女性は何人に及んだのかは分からない。

 「太平記」の表現から推察すると、やはり20人の女性の中でも後醍醐のご指名ナンバーワンは阿野廉子だった。廉子は阿野公廉の娘だった。生年は正安3年(1301)説、乾元元年(1302)説、応長元年(1311)説など諸説あるが、後に後醍醐の子供たちを産んだ年齢から考えると、応長元年説は成り立たず、正安3年か乾元元年かのどちらかかと思われる。

 彼女の運命が大きく変わることになったのは、文保2年(1318)8月の、中宮禧子の入内だ。このとき、廉子が禧子について上臈として宮中に入ることになった。正安3年誕生説をとれば18歳、乾元元年説をとれば17歳のことだ。「太平記」の表現がそのままだとすれば、彼女はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになったのだろう。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子、恒良親王を産み、嘉暦元年(1326)に成良親王、同3年(1328)には義良親王を産んでいる。したがって、このころの後醍醐の寵愛を一人占めしていた観がある。

 ただ、廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だったのではないかと思われる。だからこそ、後醍醐が隠岐へ流されるときも、彼女を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行ったのではなかろうか。

 後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると、・尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良-の各親王だ。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに、中宮禧子の子はいなかった。ただ、護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって、実際の軍事行動のかなりの部分を担っており、現実に一時的にではあるが、征夷大将軍にも補任されているのだ。ある意味では後醍醐の後継者の最短距離にあったといってもいい。

 ところが、建武元年(1334)正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良ではなく、廉子の長子、恒良だった。つまり、後醍醐は実力ナンバーワンで実績のある護良ではなく、まだ10歳か11歳になったばかりの恒良を後継者として指名したのだ。そして、廉子の産んだ二人目の子、成良は鎌倉に下り、三人目の子、義良は奥州に下った。つまり、廉子が後醍醐と相談のうえか、廉子の独断かは別にしても、将来考えられる3つのコースに、それぞれ後醍醐との子を送り込んだ。つまり、恒良を後醍醐直系、成良を足利尊氏路線、義良を護良親王・北畠親房路線として、最終的にどのコースが勝っても、後醍醐と廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせる戦略だった-とする見方がある。

 才気煥発な廉子がそのくらいの画策をしたことは十分考えられる。また、護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであろう護良を除こうと考え、同じく護良を除こうと考えていた足利尊氏と目的が一致。尊氏と組んで、尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報が廉子にあり、それを聞いた後醍醐が護良を捕えた-とする「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、似た素地はあったのではないだろうか。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

春日局・・・逆賊のアバタ娘が離婚後、徳川三代将軍家光の乳母になる

 春日局といえば、徳川三代将軍家光の乳母となり、将軍の後継ぎ問題を円滑に進めるために、江戸城の“大奥”をつくり、半面、清楚な「賢婦人」のイメージを抱く。だが、彼女は現実にはひどいアバタ面で、壮烈なヤキモチ焼きで、勝ち気でしたたかな女性だった。

 春日局の本名はお福。夫の稲葉正成と先妻(死亡)の間に2人の子供がいるところへ後妻として嫁いだ。彼女の父は明智光秀の家臣で、山崎の合戦で討ち死にしている。つまり逆賊の家で世間の目が冷たく、経済的にも苦しかったからだ。しかも彼女自身、天然痘を患ってひどいアバタ面だったという。

 結婚したお福にとって我慢できなかったのは、夫が女中に次々と手をつけることだった。そんな思いが爆発するときがくる。お福が3人目の子を産んで一月ほど経ったある日、勝ち気な彼女は夫の寵愛を受けている女中の一人をいきなり殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりません」と宣言して、彼女は子供を置き去りにして家を飛び出してしまう。

 この気性の強さがお福の運命を切り開く。夫の側室を殺して家を飛び出した彼女は、そのまま京へ上る。そして町の辻に立てられた高札を目にしたことが、その後の彼女の生涯を決定した。「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」とある。子供を産んだばかりのお福は、まさに有資格者だった。

早速、申し出ると即座に採用決定。お福は新しい生活の第一歩を踏み出す。彼女は竹千代を熱愛した。報われなかった夫への愛の代わりに、狂おしいまでの愛情を竹千代に注ぎ込む。あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、遂に生涯薬を飲まなかったといわれるほどだ。

 家光への溺愛、そして独占欲の表れは、まず竹千代と弟・国松の将軍三代目の跡目相続をめぐっての、駿府に隠居している大御所・家康への直訴だ。ここで「長子相続」をタテに竹千代の跡目相続を勝ち取る。次いで、竹千代が元服して家光と名乗り、やがて父秀忠の後を継いで三代将軍になった後、お福は家光にとって危険と思われるものを用心深く周りから取り除いていく。かつての国松=忠長の存在だ。いつ周りから担がれて将軍職乗っ取りを図るかも知れないと、口実をもうけて忠長に詰め腹を切らせてしまった。

 表向きには、お福はこの事件とは全く関わりがないようにみえる。しかし、鎌倉の東慶寺に残る棟札には忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてあるという。こうしてみると、長い間、忠長を憎み続けてきた彼女が、終戦処理をしたとみられる。

 家光にはホモの趣味があって、初めは女にあまり興味を示さなかった。そこでお福は、伊勢の慶光院院主の尼僧を近づけて、巧みに女性開眼させた。普通の女性には見向きもしない家光だったが、頭を丸めた尼僧という異形の女性には少なからず興味をそそられたということらしい。これをきっかけに、家光はがぜん女性への関心を示し始め、無事に後継ぎも生まれた。

 お福のスゴ腕は朝廷に向けても発揮された。将軍秀忠時代、彼女は上洛して後水尾天皇に拝謁している。「春日局」はそのとき朝廷からもらった名前だ。この拝謁には下心があった。お福はその席で帝に「そろそろ、ご退位を…」とほのめかしたという。

このとき後水尾天皇の妃は秀忠の娘和子で、帝との間に姫宮をもうけていた。その姫宮へご譲位を!というのが幕府の魂胆で、お福はその特命全権大使だったのだ。恐るべし、夫も子供も捨てて、第二の人生に懸けた中年女のしたたかさだ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

桂昌院(徳川五代将軍綱吉の母)・・・悪法“生類憐みの令”生みの親

 桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラだが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。

 彼女の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るようになるのは少し込み入った事情がある。それは、京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。

江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになったのだ。

 腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかったろう。そういう意味では彼女には幸運が続く。

というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずだった。ところが、ツキのあるときはどこまでもうまくいくもので、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなる幸運。兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたというわけ。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。

 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。

 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。

 通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。
(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子対談集「五代将軍綱吉の母・桂昌院」(永井路子vs杉本苑子)

孝謙女帝・・・道鏡を異例の皇位に就けようとした未婚の女帝

 女性の身で二度も皇位に就いた孝謙女帝は、日本史上稀にみる栄光に包まれた女性だが、反面、史上最悪の黒い噂がつきまとっている。周知の通り、僧道鏡の献身的な奉仕ぶりに感じ入り、恋に堕ちた女帝が前代未聞の、皇族でもない道鏡を皇位に就けようと画策(?)したことだ。

 孝謙女帝は推古天皇や持統天皇などそれまで存在した女帝たちとは異なり、初めから皇位継承者として、女性では史上初の皇太子になり、やがて即位した。ただ、これにはわけがある。たった一人の弟で皇太子だった基王が早死にしたので、父の聖武天皇と別の妃の間に生まれた皇子に皇位を奪われないように、光明皇后の実家、藤原氏一族が暗躍。苦肉の策で、強引にかつ大急ぎで皇太子に立てられたのだ。阿倍内親王20歳のことだ。このプリンセスが女帝の座に就いたときは32歳、東大寺の大仏開眼には主役として晴れの盛儀に臨席している。

 聖武天皇が亡くなると、女帝の周りはにわかに慌しく黒い渦が巻き起こってくる。まず皇太子交代事件がそれだ。聖武天皇はその死にあたって、未婚で後継ぎのいない娘、孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族の一人を皇太子にせよと遺言した。ところが、この道祖王が聖武天皇の喪中に、宮中の女官と密通したことが発覚。これに憤慨、激怒した未婚の女帝は早速皇太子をやめさせてしまった。代わりに別系の皇族、大炊王(おおいのおう)を立てた。

このとき女帝の片腕として活躍したのが当時の実力者、藤原仲麻呂だ。彼は光明皇后の甥だから、女帝には従兄にあたる。ただ、仲麻呂の献身には魂胆=野心があった。皇太子に選んだ大炊王は、実は仲麻呂の家に住んでいたのだ。早死にした彼の長男の妻の再婚の相手で、いわば女婿といったところだ。ともあれ女帝と仲麻呂=恵美押勝の間は至極和やかだった。

だが、女帝が皇太子、大炊王に皇位を譲り、彼が即位し淳仁天皇となったあたりから心のズレが表面化。天皇に密着して思いのままに腕を振るい始めた仲麻呂の態度を見て、女帝は仲麻呂が自分を愛しているのではなく、権力を愛していたのだと気付く。そのうえ、頼りにしていた母の光明皇后が亡くなったことも、女帝の孤独感を深めた。そのせいか、女帝はまもなく病気になる。このとき、病気を治すまじない僧として呼ばれるのが道鏡だ。

道鏡は自分の呪術のすべてを尽くして女帝の治療に専心する。その甲斐あって女帝は健康を取り戻す。そして、その献身的な奉仕ぶりが女帝の心を深く捉えることになる。彼には仲麻呂のような野心がない。心底からの献身として映る。仲麻呂に裏切られた後だけに女帝の心は急速に道鏡に傾き、恋に堕ちる。

道鏡は一般には妖僧といわれ、彼自身が天皇になろうとしたとの非難がある。しかし、彼はそのころでは珍しくサンスクリット(梵文)も読めた、大変な勉強家だった。また、皇位に就けようと積極的に動き、画策したのは彼自身ではなく、女帝の方だったようだ。道鏡への処遇で淳仁天皇に非難された女帝は、反乱を起こした仲麻呂=恵美押勝を滅ぼし、また淳仁帝を廃し、皇位に返り咲く。称徳天皇だ。

女帝は道鏡を大臣禅師として国政に参与させ、後には法王の称号を与える。そして、政略的な理由で女性皇太子となって以来、遂に結婚の機会を与えられなかった人の、最初にして最後の愛の燃焼ともいえる道鏡への寵愛は、道鏡を皇位に就けようとする強い意志となって表れたのではないだろうか。九州の宇佐八幡にお告げを聞きに行った和気清麻呂のもたらした「ノー」により、結局は実現しなかったが、そこにみられる四十女の恥も外聞もないひたむきさは涙ぐましいほどだ。

ただ、「日本霊異記」などが生々しい艶聞として伝えているように、公人としての称徳天皇が、道鏡と密着して政治を壟断(ろうだん)したことはつとに知られるところであり、批判のそしりは免れない。ここに悪女として紹介した所以だ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

丹後局・・・夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性

 丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?
 結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。

 治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。

 以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。

 後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。

 いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。

 それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。

 歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。 (参考資料)永井路子対談集「丹後局」(永井路子vs上横手雅敬)    

日野富子・・・将軍義政の失政に拍車をかけた日本史上稀にみる“悪妻”

室町幕府八代将軍、足利義政は無責任と優柔不断さで「応仁の乱」(応仁元年=1467~文明9年=1477)を引き起こしたことは衆知の通り。飢饉のために都に餓死者があふれる中、あちこち物見遊山にでかけ、為政者の責任は放棄して、連夜の酒宴を催すなど数々の失政にまみれた人物だ。そして、この失政・悪政に拍車をかけたのが、義政の正夫人(御台所)日野富子だ。日本史上稀にみる“悪妻”と呼ばれ最も「カネ」にも汚い女といわれた。

 冨子は、足利将軍家の夫人を代々送り出している裏松日野家の出身だ。したがって、血筋からすれば後世の彼女に対する悪評は決してふさわしいものではなく、人生の歯車が大きく狂ったのは夫・義政にその大半の責任があるといっていい。

義政は、内大臣日野政光の娘でまだ16歳の冨子を妻に迎えた。結婚後、冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだまだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、早々と弟・義視を口説き還俗させて後継者とし引退の準備を整えた。そして「万一、これから冨子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。出家させる」という確約もした。そのために幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これほど用意周到に準備したのは、義政自身が早く政界から引退したくて仕方がなかったのだ。ただただ為政者の責任を放棄し、気楽な立場で遊んで暮らしたかったからだ。決して年を取ったからでも、体を悪くしたからでもない。

 ところが、この決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟が後継者に決まって1年も経たないうちに、冨子は懐妊し翌年男子を産む。これが義尚だ。当然、冨子はわが子・義尚を跡継ぎにと夫・義政に迫ることになる。そこで、義政はどう動いたか。現代流に表現すれば“問題先送り”し、どちらにも決められず、将軍の座にとどまり続けたのだ。優柔不断そのものだ。その結果、細川勝元が後見する義視派と、冨子が山名宗全を味方に引き入れた義尚派との間で争いとなり、これが応仁の乱の導火線となった。

 都を荒廃させたこの大乱の前後を通じて義政は全く政治を省みなかったため、冨子はこれ以後、異常なほど「カネ」に執着するようになる。兄・勝光とともに政治に口を出すばかりでなく、内裏の修理だとか、関所の通行税だと称してはカネを集め、そのカネを諸大名に貸して利殖を図った。

とくに信じられないのは、東軍側の冨子が敵方、西軍の武将、畠山義就に戦費を融通していることだ。息子義尚を将軍にしたいがために、戦争まで引き起こしてしまったというのに、敵方の武将にカネを貸して戦乱を助長しているのだ。諸大名が戦費に困っているなら、融資などやめればいいのだ。それで戦争は終結に向かうはずだ。

冨子は1474年、義政と別居。その後義尚を指揮下に政治を行う。そして1489年、25歳の若さで義尚が死に、翌年義政を失った冨子は、慣例的に尼になる。普通ならここで念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずなのだが、彼女は全く違う。世の無常を感じるどころか、次の将軍義稙(よしたね)にまで口出しするのだ。義稙は義視の子だ。権勢に対する執念の深さはいままでの歴史上の女性にはみられないものだ。応仁の乱を機に幕府の実際の生命は絶えたような状況だったが、それでもなお、その座を捨てきれない。エネルギッシュな行動力を持った女性だったといえよう。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史8 中世混沌編」、永井路子対談集「日野富子」(永井路子vs永原慶二)、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

北条政子・・・愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす

北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。

政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。

夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。

そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。

母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。

一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない-との見方が有力だ。

こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。

(参考資料)永井路子「北条政子」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

道綱の母・・・当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム

 『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧(ともやす)の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935~995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、摂政・藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。

 彼女自身語っている。現代風に意訳すると「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と。

 道綱の母は、ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴いている。しかし、暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。それにしても、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。

 今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。

 天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。それは、ひとえに両家の格の違いによるものだった。

 『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領-中級官吏だから、願ってもない縁談だった。

 それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか-と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?-という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。

 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。

 『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。

 これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子らの母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を手駒に使って、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを理解して、黙々と夫の後についていくタイプだった。したがって、家庭内に波風は立たず、子供らは存分に、それぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。

 だが時姫は、夫が独走態勢に入り、これから頂点(=摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして、時姫の他界から10年後、勝者の満足をかみ締めながら、兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなるわけで、三人の中では最も長生きしたことになる。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「私家版 かげろふ日記」