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坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に
 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。
 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。
 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。
出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。
 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。
 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

近松門左衛門 竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

近松門左衛門 竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家
 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)
 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。
 「近松門左衛門」のペンネームの由来は三井寺の別院、近松寺(ごんしょうじ)にしばらく身を寄せていたからと思われる。この近松寺での経験がよほど気に入ったのではないか。もっともこのとき、彼は僧だったのか、俗人だったのかよく分からない。
 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。
 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。
近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。
1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。
 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、「この国のかたち 三」

華岡青洲 通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医

華岡青洲 通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医
 和歌山県那賀郡那賀町に華岡家発祥の地記念碑が建立されている。この小さな片田舎の村に、華岡青洲に診てもらうために、はるか江戸からも大勢の患者がやってきた。汽車も自動車もない時代に。だから相当の金持ちしか行っていない。そのために村に落ちたお金は大きい。華岡青洲のお陰で村は栄えたのだ。
 一介の村医者、華岡青洲は1804年(文化元年)、大和国宇智郡五條村(現在の奈良県五條市)の染物屋を営む利兵衛の母親、勘という60歳の女性に、乳がんの麻酔手術を、患者に痛みを感じさせずに行った最初の人として知られている。世界の医学に先駆けること42年。彼には近代医学の開き手、前人未到の外科領域の開拓者としての栄誉が与えられている。彼はこの偉業を独特の麻酔薬、通仙散(つうせんさん)の発明によって成し遂げた。この時、青洲46歳。全身麻酔下での外科手術の成功は、人々に大きな衝撃を与えた。当時、蘭方医の大御所だった杉田玄白は、30歳も若い青洲に教えを請う手紙を書いている。
 華岡青洲は華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目。生没年は1760(宝暦10年)~1835年(天保6年)。
 1782年(天明2年)、京都へ出て吉益南涯に古医方を3カ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科(オランダの医師カスパルが日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。この時、購入し読んだ医書でとくに心に残り影響を受けたのが永富嘯庵の「漫遊雑記」で、この中に乳がんの治療法の記述があり、後の伏線となった。
 青洲は1785年(天明5年)、帰郷して父・直道の後を継ぎ開業した。安心したのか父はまもなく64歳で死去。青洲は手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めた。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の花(チョウチンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成にこぎつけたが、人体実験を前にして行き詰まった。そこで、実母の於継と妻加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成した。
 青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行っている。彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。
 青洲は1802年(享和2年)、紀州藩主・徳川治寶に謁見して士分に列し帯刀を許された。1813年(文化10年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用された。ただし、青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。1819年(文政2年)「小普請御医師」に昇進し、1833年(天保4年)、「奥医師格」となった。
 青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が殺到した。彼は門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けた。そして数多くの医師を育て、弟子の中から本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜といった優れた外科医を輩出している。
 全国2000を超える寺の過去帳をもとに、青洲の手術を受けた乳がん患者全152人のうち33人の死亡日を明らかにした調査がある。手術後の生存期間は最短8日、最長41年で平均2~3年だった。医療関係者によると、当時の多くの患者の女性は進行乳がんだったはずで、青洲の手術がいかにレベルの高いものだったかが分かるという。

(参考資料)有吉佐和子・榊原仟「日本史探訪/国学と洋学」、有吉佐和子「華岡青洲の妻」

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に
 平清盛の妻、時子はごく普通の女だった。その彼女が一門の棟梁となる清盛に嫁いだがゆえに、本人の意思とは関係なく、好むと好まざるとに関わらず、権謀渦巻く政治の世界に投げ込まれ、激動の時代を生き、様々な体験を積んでしたたかな女になっていった。
 時子は当時、公家社会で一般的だった妻訪い婚ではなく、徐々に行われるようになった嫁入り婚で嫁いできた。そこで、夫の周辺に女の影が見えるたびに嫉妬の炎を燃やす平凡な女性で、夫の浮気に関わりなく妻の座が安定していることに困惑し、ふさぎ込んだりすることもある。
後年、従三位という女として高い地位にも就いた時子だが、精神的には現代の女性とも相通ずるものが流れている女性だったのだ。
 保元・平治の乱を経て平家の勢力が台頭、清盛は8年の間に正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣となった。また清盛は時子を二条天皇の乳母とし、時子の妹滋子を後白河天皇のもとに上げる。そして後白河と滋子(建春門院)との間に生まれた皇子が即位して高倉天皇となり、そのもとに清盛は娘の徳子を入内させる。
やがて徳子は後の安徳天皇を出産。思惑通り外祖父となった清盛は、年来の夢を懸けた海の王宮、福原への遷都を決行。新都を構えた平家一門は隆盛の絶頂期を迎えた。
 しかし、それは転落の序章でもあった。東国では源頼朝の武士団が日増しに勢力を拡大。高倉帝の病状悪化で福原から半年で還都。やがて高倉帝に続いて清盛が急死。清盛亡き後、平家の総帥となった宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし最悪の道を選択してしまう。
その結果、源氏に追われた平家一門は西国流転の途をたどる。京から福原へ。屋島へ、そして壇ノ浦へと移った平家は東国武士団の組織力の前に敗退を重ねていく。
 ここで、平家一門の運命は時子の双肩にかかる。帯同する、建礼門院となった娘の徳子に安徳帝を守る判断力がなかったことも、彼女をしたたかな女にしたことだろう。時子は、清盛が築いたこの時代をともに生きた自分とその子供たちは、それぞれの運命を分け持って生きてきた。
そして、その最後の幕を引くのは自分しかいない-と判断。母親の建礼門院(徳子)を措いて、祖母の時子が8歳の安徳帝を抱き、三種の神器とともに瀬戸内の海に身を投げ生涯を閉じる。鮮烈な最期だ。その時子の辞世がこれだ。
 いまぞ知るみもすそ川の流れには 波の下にも都ありとは
海の底にも都があってほしい-という彼女の切実な願望が込められている。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」

 

 

 

 

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子
 静御前は源義経の妾。ただ、この当時は妻妾の区別がつけられないので、妻が何人もいて、静はその一人と考えた方が的を射ている。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代初期の女性。白拍子、磯禅師の娘で、彼女も白拍子。鎌倉時代の事跡を書き綴った「吾妻鏡」によれば、京都で人気抜群の白拍子と、平家を壇ノ浦に追討した凱旋将軍・義経との恋だった。年齢は静が10代後半、義経は20代後半のことだ。
ただ、二人が幸福だったのは極めて短い間だった。義経が、後白河法皇から勝手に任官を受けたことなどから、兄頼朝の不興を買って謀反人扱いされたことによって急転直下、悲劇の主人公になってしまう。京都を追われ、都落ちした義経らとともに西国へ向かうが、女人禁制の大峰に入れず、義経と別れて京都へ帰る途中、捕らえられる。
そして、いまや謀反人となった義経探索の参考人として鎌倉に送られる。このとき彼女は義経の子を身ごもっていた。
 鎌倉に着いた静御前は源頼朝・北条政子夫妻に強要され、鶴岡八幡宮で舞を舞う。そのとき彼女は次のように詠った。
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
“しづのをだまき”とは麻糸を真ん中が空洞になるようにくるくる巻いたものをいう。しづのおだまきをいくらくるくる巻いても、昔は戻ってこない。どこかへ行ってしまった義経様が恋しい-という意味だ。
もう一句ある。
 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山(静御前が義経と別れた場所)の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい-という意味。
 静御前のひたむきな(あるいはなりふり構わぬ)義経への恋慕の表明にとくに政子は胸を打たれ、激怒する頼朝に助命を請い、静は何とか許される。そして、頼朝は生まれてくる子が女なら助けるが男なら殺すと命じる。不運にも、このとき生まれた赤ん坊が男だったため、そのまま由比ヶ浜に流されて殺されてしまった。これらのことを含めて考えると、「しづやしづ…」には静の深い哀切の情が満ちている。
『吾妻鏡』では、静御前の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
 この後、静御前は許されて京へ帰る。ただ、『吾妻鏡』では静御前が京都に旅立った後、いっさい登場しない。このあとどこへ行って、何をしたか、ようとして行方知れず。それだけに、哀れでいとおしさも一層深まる。

(参考資料)永井路子対談集「静御前」(永井路子vs安田元久)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毛利元就 地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる

毛利元就 地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる
 戦国時代、数多いた武将の中で、「間諜」を用いてかなりの成果を挙げた人物がいる。東の武田信玄、西の毛利元就だ。ただ、同質の武将でありながら、信玄の暗さ、陰湿さが、なぜか元就からは伝わってこない。元就は大内義隆の「補佐役」を、ほぼ30年の長きにわたって忠実に務めている。このまま大内氏の隆盛が続き、磐石の体制が維持されていれば、よもや元就とて「補佐役」の分限を越えることはなかったろう。
 毛利元就は安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。1511年(永正8年)、元服し、毛利元就を名乗る。室町時代後期から戦国時代にかけて、安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く策略家として名高い。家系は大江広元の四男、毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。家紋は一文字三星紋。生没年は1497(明応6年)~1571年(元亀2年)。
 1542年(天文11年)、大内氏は、宿敵・尼子氏の根拠地、月山城を一気に攻め落とすべく、大動員令を発した。ところが、大内勢は尼子方の鉄壁の防戦に阻まれると同時に、大軍ゆえに兵站線の維持が困難となり、まさかの苦戦。そこで、機を見るに敏な小豪族は、今が功名の機会とばかりに、一斉に尼子方へ寝返って大内勢に襲いかかった。この大敗戦を機に大内義隆は以後、軍事に手を染めることがなくなり、学問・遊芸の世界へ入り浸ってしまう。その結果、尼子を勢いづかせ、周辺諸国の石見や安芸の国人たちを、大内氏から離反させることにつながった。
 こうした事態をみて「補佐役」元就は明白に方向転換を決断する。そして、もう一人の補佐役、陶隆房とも、主君の義隆とも同様、距離を置き始める。
 陶隆房は補佐役として主君、義隆に繰り返し諫言するが、人変わりした主君は全く耳を貸さない。そこで、隆房は遂に「補佐役」の分限を越えた。義隆を廃して大内家を立て直すことを決意。家中の心ある重臣と一気にことを運んだ。元就にも使者を送って、賛同を取り付けている。当初は義隆を隠居させ、幼い義尊(よりひろ)を立てる計画だったともいうが、隆房は途中でこの二人を亡き者にし、大友義鎮(よししげ・宗麟)の弟・八郎晴英(後の義長)を主君に迎えることに予定を変更。1551年(天文20年)義隆は隆房の叛乱軍によってこの世を去った。元就は隆房と袂を分かつことになった。
 元就は地縁・血縁を巧みに駆使した婚姻政策-間諜によって、軍事力・国力の拡大・強化を図ってきた。この総仕上げとしてまず1544年(天文13年)、三男の隆景に小早川氏を継承させた。1546年(天文15年) 元就は家督を長子の隆元に譲る。元就54歳、隆元24歳のことだ。そして、元就は次男・元春の吉川氏相続による、婚姻関係のネットワークの拡大・強化に取り組む。強引さと緻密さを併せ持った元就が策略を駆使、安芸国人の一方の雄であった小早川、吉川両氏をその支配下に置くことに成功する。この体制は「毛利両川(りょうせん)」として、以後の毛利氏を支え、発展させていく基となった。
 1555年(弘治元年)、厳島の戦いで陶晴賢(陶隆房から改名)と対決した際の戦力は、敵の動員兵力2万余に対し、元就方は小早川、吉川両氏の兵力を加えても4000~5000にすぎなかった。正攻法ではとても勝ち目はなかったのだ。「補佐役」が内応しているかの如くみせる、いわゆる「間諜」による離反、切り崩しと、奇襲作戦などにより、4~5倍もの兵力を誇る相手に勝利を収めた。元就の中国地方における地盤確立は、この戦いの勝利によって、その第一歩を大きく踏み出した。その後も「間諜」によって近隣を併呑、遂に尼子氏を滅ぼし、1571年(元亀2年)、75歳でこの世を去った。そのときは中国10カ国の太守となっていた。
 毛利元就といえば“三本の矢”の話がある。一本の矢は簡単に折れるが、三本を一度に折ろうとしても折れない。だから、三人が心を合わせて兄弟仲良くしていけば、治めていける-というあれだ。しかし、元就が真に伝えたかったことはもっと現実的でドライなものだったようだ。彼が三人の息子に与えた「教訓状」が残っていて、これによると、「当家は皆の恨みを買っている。当家のためを思っている人間など一人もいないと思え。私も随分、人を殺してきた。だから子孫は特別、人に憎まれるだろう」などとある。だから、お前たち三人は心を一つにして切り抜けていかなければやっていけない、というわけだ。したがって、「教訓状」は凄まじい人間不信の書なのだ。「人間は信じられない」、これが元就の人生哲学だった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

豊臣秀長 人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

豊臣秀長 人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす
 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。
 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。
 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。
秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。
 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180㌔を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。
 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。
 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。
 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

 

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平
 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。
 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。
 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。
 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。
 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。
 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。
 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。
これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。
少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像
 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。
 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。
 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。
 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。
 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。
 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。
 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。
景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

 

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり
 北条早雲の出自は不詳で諸説ある。生没年は1432~1519年。俗名伊勢新九郎、出家して法号を早雲庵宗瑞(そうずい)に改め頭を丸めた。妹が室に入っていた駿河・今川家の内紛を調停して興国寺城主となり、1491年に伊豆一国を、さらに1516年には相模一国を手中に収め後、北条氏が関東に覇を唱える基礎をつくった。
戦国大名のはしりといわれる。その実績と、箱根湯本にある小田原北条氏の菩提寺早雲寺に残されている、法体姿だが獲物を狙う鷹のような猛々しい覇気がみなぎっている画像の印象からは、早雲はただ戦いと権謀においてのみ傑出し、学問など眼中に置かなかった粗野な人物だったかのように感じられるが、果たしてどうだったのか? 
 実際の早雲は、無学どころか当時一流の教養人だった。早雲の前半生については不明の部分が多い。だが、少なくとも一時期、室町八代将軍・足利義政の弟義視に近侍したり、幕府の申次衆を務めていたことが確認されている。そうした地位に就くには、相当の学問教養がなければ叶わないことだ。また、彼は京都紫野の大徳寺に参禅、住持の春浦宗煕の会下に列したことがあるし、同じく大徳寺住持に任じた法兄の東渓宗牧から「天岳」の道号を与えられており、彼の禅修行は一時の気まぐれなどではなく、本格的なものだったとみられる。
 早雲が学問。修養を重視したことは、後に彼が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にもみてとれる。例えば、その第一二条に「少の隙(ひま)あらば、物の本を見、文字のある物を懐に入、常に人目を忍び見べし。寝ても覚めても手馴ざれば、文字忘るるなり。書こと又同事」とある。時間さえあれば読書・習字に励めという。これはまさに“学問の勧め”だ。第一五条では「歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし」という。この二条だけを抽出すると、修羅の世界を戦い抜いた戦国大名の第一号の座を実力で勝ち取った人物のものとは到底思えない。泰平の時代を生きた江戸の文人大名の趣と通じ合うところがあるほどだ
 こうした学問・修養に裏打ちされた思考の奥行きの深さは、大名の座に就いて後の早雲の施政、とくに民政において顕著に反映されている。小田原北条氏に仕えた三浦浄心が著した「北条五代記」に、早雲が伊豆国を攻めた際の、巧みな人心収攬のエピソードが紹介されている。
要旨はこうだ。風病が流行し、村里の家々にはほとんど例外なく数人の病人が臥せっていた。そこへ早雲が攻め込んでくると知って、足腰の立つ者は、親は子を捨て子は親を捨て、どこへともなく逃げてしまった-という。そこで早雲は医師に命じて良薬を調合させ、その薬と食事を配下の者に持たせて病人たちを見舞わせた。その結果、病人たちは皆助かり、その恩に報いるため山野に隠れ潜んでいる家族や縁者を探して説いて回った。その呼びかけに応じて見参した者に、早雲は所領なども安堵してやったことから、それが評判になり、その村里以外からも彼の徳を慕って出頭するものが相次いだので、彼がその地に7日間ほど滞在するうちに、全く武力を用いることがなかったにもかかわらず、周囲30里近辺はすべて早雲の味方になった-という。早雲の徳治政策が敵国の領民を魅了し、帰参者を続出させたというわけだ。
巧みな徳治政策で伊豆国の一円平定した早雲はさらに積極的な領民優遇策を打ち出した。それまで五公五民ないし六公四民だった税制を四公六民に改めるという、大幅な減税策を実施したのだ。当然、領民からは大歓迎を受けた、他国の領民からも大いに羨まれたという。

(参考資料)司馬遼太郎「箱根の坂」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」