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田中正造 ・・・「自ら善と信じ利と認むる点を、遂行し収拾する時に当たりては聊(い ささ)か奪ふべからざる精神を有す」

 田中正造は日本の近代化過程で起こった「公害」第一号の「足尾鉱毒事件」 の告発者として、天皇に直訴したことで広く知られているが、鉱毒垂れ流しに よって農地を汚染され、大きな被害を受けた農民救済に後半生を捧げた。冒頭 のこの言葉は1895年(明治28年)、当時55歳の田中正造が読売新聞に連載し た自叙伝『田中正造昔話』にある一説だ。

 彼は下野小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主の子として生まれた。 17歳の時、父の跡を継いで名主となり、まもなく主君六角家をめぐる騒動に巻 き込まれ、主君の権威を傘に着て私服を肥やす林三郎兵衛という悪党の退治に 全力を挙げ、入獄・追放などあらゆる苦難を経験した。この六角家の問題は、 結局「明治維新」により、正造らの勝利に帰したが、そのために正造は全財産 を失った。

また、正造は1870年(明治3年)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市に 下級官吏として赴いたが、そこで上司の木村新八郎殺害の嫌疑を受け、3年の 獄中生活を送った。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の 性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)、無罪釈放となった正造は郷里に帰るが、今度は自由民 権運動の影響を受け1880年(明治13年)栃木県県会議員となった。1882年(明 治15年)、立憲改進党が結党されると入党。福島県令・三島通庸が栃木県令を 兼ねて、住民の意向を無視して、大規模な土木工事を起こし強引に近代化を進 めようとしていた。これに対して正造は徹底的に抗戦しつつ、政府に上訴し、“悪 党”を追放しようとする作戦を取った。この「三島事件」は三島が異動によっ て栃木県を去ると解決。

正造は1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に初当選する。ここで直面したのが「足尾鉱毒事件」だった。これは今日的に表現すれば、国家発展を優先するのか?正義を貫くのか?の問題だった。すなわち明治政府が積極的に推進した富国強兵策の一環として、鉱業の開発は必須で、足尾銅山の開削は近代国家としての日本の発展には欠かせないものだった。しかし、この足尾銅山は多量の鉱毒を渡良瀬川に流すことになり、この鉱毒の垂れ流しで渡良瀬川下流の農地は汚染され、農民は大きな被害を受けた。

 正造は、農民を困苦に陥れて何が国家の発展か!と判断、「公害」を国家発展の必要悪と見る明治政府と戦ったのだ。正造は議員を辞職し、天皇に直訴したが、失敗。巧妙な政府の分断政策により孤立した下流の谷中村に、正造は敢えて移り住み、村に残った農民とともに抵抗し続けたが、1913年(大正2年)73歳で死亡した。そして4年後、谷中村は遊水池の中に消えた。この事件は長い間忘れられていたが、高度成長の過程で「公害」が大きな社会問題となってから、再び注目されるようになった。

(参考資料)城山三郎「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」、梅原猛「百人一語」
      奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「獅子吼」

田沼意次・・・ 「貯えなきは、事ある時の役に立たず」 進歩的政治家

武家社会においては、凡夫のトップに代わって毀誉褒貶を一身に浴びねばならない場合も少なくなかった。徳川九代将軍家重、十代将軍家治の二代に仕えた田沼主殿頭意次もその一人だ。唯一の庇護者であった将軍家治の死後、失脚した田沼意次に浴びせかけられたデマや中傷、ワイロ伝説は、彼の卓越した政治手腕に対する保守派門閥大名や旗本たちの嫉妬と憎悪によるものだ。

江戸時代を通じて、ワイロにまみれた代表的な“汚れた政治家”の一人に挙げられる田沼意次だが、近年の様々な角度からの研究で彼が執った、それまでの米経済を軸とする重農主義を、貨幣経済を軸とする重商主義に切り換えた大胆な経済政策を評価。偉大で進歩的な政治家の一人ともいわれるようになっている。

今回の田沼の言葉は唯ひとつ子孫のために残した家訓とも言うべき遺書にある処世信条で、財政問題について『勝手元不如意にて貯えなきは、一朝事ある時の役に立たず、御軍用に差し支え、武道を失い、領地頂戴の身の不面目、これに過ぐるものなし』とあるものだ。武士の収入は予定以上に増えることはない。凶作による収入減、不時の出費、それらが重なれば憂うべき結果を招くものだ。したがって、『常に心を用い、いささかの奢りなく、油断せず要心すべし』と格別の注意を与えている。
ワイロはいつの時代にもあった。例えば平安貴族は国司になるために権門の筋に莫大なワイロを贈って、その職を得るための猟官運動が盛んだった。中世では、国司になると任期中は莫大な富が得られ、都に戻ってからも生涯を安泰に暮らせたという。それは江戸時代も同様で全国(藩)でまかり通っていた。究極的な例を挙げると、あの清廉潔白をもって鳴った白河藩主・松平定信が、四位の官位の依頼に田沼邸を訪れているのだ。

では、そのワイロの額は?江戸時代、大老や老中職の場合はよくわからないが、長崎奉行職は2000両、目付職は1000両と相場が決まっていたといわれる。
猟官運動にこれほどのワイロが動いたのは、他の時代と比べるとやはり少し異常といわざるを得ない。しかし、それは幕府の創始者であった徳川家康の「権力の持てる譜代大名の給与は安く、権力の持てない外様大名の給与は多くする」という統治法にこそその温床があった。江戸城で老中その他の要職に就いた者の給与は、ほとんどが数万石であり、家重の小姓から異例の大出世を果たし大名にまで上った田沼自身にしても、遠江相良藩の6万石にすぎない。

“ワイロ”政治ともいわれた田沼のどこが特別で他と異なっていたのか?田沼は収賄を決して悪事だとは思っていなかった。彼自身が言っていることを意訳、換言すれば、「収賄は正当なもの。そして、それに報いるために請託をうけるのも当たり前」と言っている。現代の感覚でいえば呆れた話だが、徳川期の基準でいえばそれは異常ではなかったのだ。徳川時代における武士の収賄は構造的なものであって、田沼個人の私意に基づくものではないということだ。

だからこそ、そのことに何のうしろめたさも感じることなく、それまでタブーとされていた様々な諸施策を打ち出せたのだ。まず「米経済」にこだわらず、貨幣経済を進行させている連中=商人と手を組んだことだ。彼は「士農工商」の最も劣位に置かれ課税対象外の存在だった商人に、新しい税「運上」と「冥加金」を課した。次に本来的には鎖国の下だが、フカヒレ・イリコ・アワビ・コンブなどの海産物をはじめ地域産品の付加価値を高めて積極的に外国(中国・オランダ)と交易する施策を打ち出す。また漢方薬の国産化を図り、平賀源内に日本国内での薬草探しを命じている。

このほか、中国の本以外は読むことが禁じられていたが、田沼はオランダの本を読むことを許可した。これが杉田玄白や前野良沢らの翻訳本「解体新書」となる。これは彼の失脚によって実現しなかったが、下総(千葉県)の印旛沼と手賀沼の干拓、そして蝦夷開発(北海道に116万町歩の開拓、7万人移住の計画)、千島・樺太の開発にも関心を寄せた。広い視野からのこうした大構想は、当時の諸大名や旗本たちにはとても思いもつかぬ施策であったし、ただ妬ましさを覚えるだけだった。この鬱屈が失脚後の“田沼バッシング”を増幅させたわけだ。

(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」 神坂次郎「男 この言葉」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

徳川吉宗・・・ 「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」

 徳川幕府中興の祖、八代将軍吉宗が晩年、座右の銘として寝所の壁に貼り付けていたと伝えられる言葉を記す。

一、 苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。
一、 主と親は無理な(ことを言う)者と思え、下人(下級の使用人)は(考えが)足らぬ者と知るべし。
一、 掟に怖じよ、火に怖じよ、分別無き者に怖じよ、恩を忘れることなかれ。
一、 欲と色とを敵と知るべし。
一、 朝寝すべからず、話の長座すべからず。
一、 少なることも分別せよ、大(きな)事とて驚くべからず。
一、 九分は足らぬ、十分はこぼるると知るべし。
一、 分別は堪忍にあると知るべし。
                          (「享保世話」)

 これを見る限り決して難しいことを言っているわけではない。今日でも十分通用する、説得力のあることばかりだ。度量の大きな吉宗だったからこそできた、幕府政治の大改革を担った当時の心情が込められていると読むこともできる。将軍の座にあること30年。彼が断行した「享保の改革」(1716)は江戸時代で最もスケールの大きい、成功した改革だった。後年、松平定信の「寛政の改革」(1787)、水野忠邦の「天保の改革」(1841)がいずれも失敗しただけに、特筆されよう。

 吉宗は貞享元年(1684)、紀州徳川家の二代藩主・光貞の四男として生まれている。この年は後世、天下の悪法として伝えられた五代将軍綱吉の「生類憐みの令」が発せられた前年に当たる。吉宗の母はおゆりという城内奥の湯殿番の婢女であったが、彼はいくつもの幸運に恵まれ遂に八代将軍にまで上りつめた。

 その幸運のスタートが将軍綱吉のお声がかりで越前丹生(福井県北部)三万石の藩主の座についたこと。吉宗(当時は頼方)、14歳のことだ。2番目の幸運は三代藩主の長兄が死に、4カ月後に四代藩主の次兄も急死したこと。思いもかけない偶然が22歳の吉宗を一躍、紀州徳川家55万5000石の五代藩主の座に押し上げてしまった。まだ終わりではない。藩財政の再建に取り組み、成果を挙げた吉宗のもとに3番目の幸運が舞い込み、八代将軍になる。33歳のときのことだ。

この裏には、将軍家と尾張徳川家の不運が重なり合っていた。六代将軍家宣の子で、わずか5歳で七代将軍となった家継が8歳で死去し、次の将軍候補に推されていた御三家筆頭の尾張徳川家の吉通はすでに3年前25歳の若さで逝き、その子の五郎太も続いて死亡したからだ。こうして彼は普通ならまず望むべくもなかった栄光の座に就いたのだ。

将軍職に就いた吉宗は・上げ米の令・目安箱の設置・小石川養生所の設置・町火消しの制度を設け、民家の屋根を瓦葺きに・足高(役付手当)の制で人材登用・西欧の学問(蘭学)の奨励-など様々な施策を打ち出し、骨太の改革に取り組んだ。人事面では間部詮房・新井白石ら、六代将軍家宣以来、幕閣の枢要を占めてきた権力者=補佐役たちを排除した。また、普請奉行・大岡越前守忠相の江戸南町奉行への抜擢なども行った。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、加来耕三「日本補佐役列伝」

二宮尊徳 ・・・「多く稼いで、銭を少く遣うは富国の達道」

 この言葉は『二宮夜話』にあるもので、正確にはその一部だ。この件の全体を記すと、「多く稼いで、銭を少く遣い、多く薪を取って焚く事は少くする。是を富の大本、富国の達道という。然るに世の人是を吝嗇といい、又強欲という、是心得違いなり」だ。

 二宮金次郎、実名を尊徳(たかのり)、世間での名は“そんとく”。農政家としての尊徳が救った村は605カ町村、彼独自の仕法をもって根本から建て直したもの322カ村、一人の困窮民も借財もなく村を再生させたもの200カ村を超える。

 尊徳がユニークなのはその卓抜な金銭感覚だ。一枚の田から何石の米がとれるか、その米を換金すればいくらになるか。「米倉に米俵を積み上げ、何年持っていても米は増えぬ」。が、この米を売った金を巧みに運用すれば、二倍も三倍もの利息が稼げるのだ-と説く。「農民たち個々の零細な金でも、まとまれば大きくなる」。それを貸し付け、利に利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良し…と尊徳は、農民信用金庫への構想を熱っぽく語り続けてやまない。今から140年前のことだ。

 尊徳の仕法は「勤労」「分度」「推譲の精神」に徹することによって実行される。推譲の精神とは、「人間の勤労には欲がある。それが当然だ。欲があればあるほど、働き甲斐があり、また得られるものも多い」としながら、「しかし、得られたものを自分のためだけに使うのは、自奪というべきで、決して褒められたことではない。成果が得られたら、今度はそれを他人に譲るべきで、他人のために用立てるべきだ」ということだ。だから、推譲というのは、働いて得られた益を譲るということで、ただあるものを譲るということではない。尊徳の推譲の前提には、勤労ということがはっきり据えられている。勤労のない譲与など意味がないということだ。

 武家の家政の建て直しを乞われて、尊徳が行った独自の仕法を端的に表現したものが次の言葉だ。「推譲の道は百石の身代の者、五十石の暮しを立て、五十石を譲ると云。この推譲の法は我が教え第一の法にして則ち家産維持かつ漸次増殖の方法なり。家産を永遠に維持すべき道は、此外になし」(『二宮夜話』)。

 また、1000両の資金で1000両の商売をするのは危ないことだ。1000両の資本で800両の商売をしてこそ堅実な商売といえる。世間では100両の元手で200両の商売をするのを働きのある商人だとほめているが、とんでもない間違いだ-という。バブル経済のなかで狂奔していた虚業家たちはもとより、金融ベンチャー企業の事業家たちにとくに聞かせたい言葉だ。

 二宮金次郎は戦前、小学校の校庭にあの銅像、薪を背負い歩きながら本を読んでいる苦学少年といったイメージが強い。しかし、その実家は相模国栢山村(神奈川県小田原市栢山)の裕福な農家で、二町三反の地主でもあった。ところが、父の代でまたたく間に財産を減らし、酒匂川の氾濫で田畑は濁流にのみこまれ、後に残されたのは石河原だけだった。二宮家が貧乏のどん底に叩き込まれ、薪を背負った少年「二宮金次郎」が登場するのはこのころのことだ。14歳で父を、16歳で母を失った金次郎は母の実家に引き取られた弟二人と別れ、伯父のもとで働くことになった。これが苦学少年イメージの原点だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「小説 二宮金次郎」、神坂次
      郎「男 この言葉」、奈良本辰也「叛骨の士道」                              

藤原道長・・・「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

 これは天皇の后を三代続けてわが娘で独占した=“一家三后の栄”を実現した藤原道長が、自邸で開催された華やかな祝いの宴で、即興で詠んだといわれる有名な「望月の歌」だ。 幸せの絶頂期と思われるこの時期、53歳の道長はすでに当時の不治の病に冒されていたのだ。今日でいう「糖尿病」や心臓神経症などを患う身であった。さらに晩年には「白内障」と思われる病状にも襲われていた。

 奈良時代を代表する政治家が藤原鎌足-不比等の父子二人であったとすれば、平安時代を通しての第一人者は、その子孫、藤原道長だといっても異論はないだろう。ただ、その個性、あるいは人間性といった面ではかなりタイプが違う。新しい時代を自らの手で切り拓いていった前二者に比べ、平安朝の故実先例を尊ぶ時代の、道長の政治は受け身に終始した消極的な印象が強い。また、彼は身分の高い、年上の女性に好かれて出世の階段を昇った人でもあった。

 康保3年(966)、道長は後に摂政・関白となる藤原北家の主流、名門・藤原兼家の四男として生まれた。名門の出自だが、兄が三人(道隆・道兼・道綱)で、一族には他にも男子が多い。摂政・関白の独占は道長の後継者からで、この時点で尋常に考えれば、政権の座が道長に回ってくること自体、不可能なことだった。

 ところが長徳元年(995)、30歳の道長に将来を決定づける思いがけない異変が起こった。朝廷政治をあずかる公卿14人のうち、実に8人までが流行の麻疹にかかって、次々とこの世を去っていったのだ。この時、道長の兄三人も相次いで病死。政権を担う候補として、長兄で関白を務めていた道隆の子・伊周とともに、体力堅固な道長の存在がクローズアップされることとなる。道長は姉の詮子を後ろ楯として、伊周に打ち勝って右大臣の地位を得た。翌年7月左大臣となった道長は、一条-三条の二帝(66代、67代)の治世、あくまで最高行政官=左大臣としての地位を貫いていく。

 長保2年(1000)2月、道長は13歳になったばかりの長女・彰子を一条天皇の中宮として内裏へ送り込む。寛弘5年(1008)、彰子は待望の皇子・敦成親王を産む。3年後、一条帝が崩御し、三条帝が立つと、敦成親王は皇太子となった。道長はなお攻め手を緩めず、三条帝には次女の妍子を入内させる。孫の敦成親王を天皇とし、「みうち人」とすることで、権勢を名実ともに得ることが狙いだった。
三条帝との激しい攻防戦の末、遂に長和5年(1016)正月、三条帝は退位した。この時、孫で新帝となった後一条天皇(第68代)は9歳。道長は50歳となっていた。後一条天皇の即位から1年後、寛仁2年(1018)10月16日、道長の邸内で三番目の娘・威子が、天皇の「中宮」となったことを祝う宴が開催された。冒頭の歌はこの時のものだ。

道長は万寿4年(1027)12月、屋敷の隣に建立していた東大寺を凌ぐ規模の法成寺の阿弥陀堂の中で、その62年の生涯を閉じた。背中にできた腫れ物が悪化し、死ぬ直前までその痛さに苦しむ呻きの声が聞こえたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、永井路子「この世をば」

                             

正岡子規・・・ 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。

 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。

 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。

子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。

子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。

野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

松尾芭蕉・・・ 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ-と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動-だ。「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。
 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

三井高利・・・「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 

 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。

 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。

 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。

 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。

そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。

天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」

                             

吉田松陰・・・「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」

 これは安政6年(1859)10月27日、江戸・伝馬町の牢内で斬首された吉田松陰の“最期の言葉”辞世の句だ。もう一つある。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」だ。これは安政元年(1854)正月、米艦六隻を率いたペリーが、前年に続いて浦賀港に現れた時、この米艦に乗り込み嘆願書を渡し、密航を企て交渉しようとして失敗。自首して江戸の獄に下る時に詠んだものだ。両句とも「大和魂」で結ばれているように、日本という国の行く末を見つめた“憂国の心情”があふれている。

わずか30年の生涯を閉じた吉田松陰は、日本の教育者の中でもまれにみる魂のきれいな学者だった。彼が開いた松下村塾が輩出した数々の門人たちが、明治維新の立役者となったことは周知の通りだ。教育現場の荒廃が叫ばれる今日、彼の生き方と彼が遺したものの一端を見てみたい。

 松陰、吉田寅次郎は、1830年8月4日、長門国萩松本村護国山の麓、団子岩に生まれた。父は家禄26石、杉百合之助常道。母は児玉氏、名は滝。幼名を虎之助といい、杉家七人兄妹の二男だった。杉家から数百歩離れた所に父の弟、玉木文之進が居を構えていた。虎之助に対する基礎的な教育は、父以上に封建武士に特有な精神主義者のこの叔父に負うところが多かったようだ。松陰は父と同時に、この叔父の大きな影響を受けて成長した。

 松陰が養子に入った吉田家は、長州藩の山鹿流軍学師範を家職としていた。世襲制である。したがって、吉田家の当主が早く死んだ後は、幼い松陰がこの家職を引き継いだ。天保6年(1835)6歳の時のことだ。厳格な叔父の、年齢を無視した求道者的な教育を受け、早熟な彼は11歳のときにすでに藩主の前で講義を行っているほど。

 松下村塾は松陰が開いたものではない。叔父の玉木文之進が開いたのだ。やがて、この塾を叔父から引き継ぐ。松陰は藩に正式な手続きを取らないで、東北など日本各地を歩き回った。その罪に問われて牢に入れられた。牢から出た後も、今後は一切他国を出歩いてはならないと禁足処分となった。そうした制約を加えられて、門人を教えることを許されたのだ。

 八畳と十畳の二間しかないこの狭い塾から高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、寺島忠三郎、井上馨、山県有朋、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義、山尾庸三、赤根武人など、錚々たる人材が育っていった。また、驚くのは松陰がこの塾で若者たちを教えた期間がわずか2年にも満たないことだ。こんな短い期間に、あれだけ多くの英才が輩出したのだ。まさに奇跡といっていい。こんな指導者はどこにもいないだろう。

 松陰は死学ではなく、生きた学問を教え、「人を育てつつ、自分を育てる」ということを実行。そして、彼には私利私欲というものが全くなく、「人間は生まれた以上必ず死ぬ。だからこそ生きている間、国のため、人のためになるような生き方をしなければならない」と考えていた。弟子たちは松陰のそういうところに心を打たれ、敬慕の念を募らせたのだろう。

(参考資料)奈良本辰也「吉田松陰」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」