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空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

河井継之助・・・幕末の越後長岡藩執政となり、激烈な北越戦争を指導

 河井継之助は幕末、越後長岡藩の120石取りの藩士から、同藩の上席家老へ異例の出世を遂げ、“藩の舵取り”役となり藩政改革を断行した。そして、西南雄藩も目を見張るほどの近代武装を成し遂げ、新政府軍との戊辰戦争では長岡藩の軍事総督を務めた。当初、戊辰戦争では中立を唱えたが、新政府軍に受け入れられず、結局これと激戦。悲運の最期を遂げた。生没年は1827~1868年。

 河井継之助は長岡城下同心町で沙門良寛とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。字は秋義、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号した。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。18653年(嘉永6年)、江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に学び、次いで古賀茶渓(さけい)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山にも師事して海外の事情を学んだ。翌年、勘定方随役に抜擢されたが上司と合わず、まもなく辞し、再度、家を出た。

継之助は、1859年(安政6年)、備中松山藩(現在の岡山県)の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年帰国した。1865年(慶応1年)、外様吟味役、そして郡奉行、町奉行も兼務。さらに年寄役に累進。この前後、藩政の大改革を断行した。1868年(慶応4年)上席家老となり、当時の日本においては最新の銃器類を入手して防備を固め、軍事総督として戊辰戦争における“武装中立策”を推進した。

だが新政府軍がこれを認めないため、これと激戦を展開した。継之助は巧みな戦術で敵を惑わせ、いったんは敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還。しかし、圧倒的な敵の兵力には勝てず敗走、再度の落城で継之助率いる長岡軍は会津へ向かう。だが途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で彼は悲運の最期を遂げたのだ。

 河井継之助はいま見た通り、明治維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきものは残していない人物だ。しかし、維新史好きの人の間では、北越戦争が維新の内乱中、最も激烈な戦争だったこととともに、その激烈さを事実上一人で引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。

 継之助が藩政を担当した時には、皮肉にも京都で十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上してしまった後だった。このため慌しく藩政改革をした後、彼の能力は恐らく彼自身が年少のころ思ってもいなかった、戦争の指導に集中せざるを得なかった。ここで官軍に降伏すれば藩が保たれ、それによって彼の政治的理想を遂げることができたかも知れない。だが、継之助はそれを選ばず、ためらいもなく正義を選んだ。司馬遼太郎氏が「峠」のあとがきに記している言葉だ。

 河井継之助は徹底した実利主義者だった。物事の見方は鋭く、すぐに本質を見抜いた。また彼は大変な開明論者で幕末、士農工商制度の崩壊や、薩摩と長州らによって新政権が樹立されるであろうことを予測していたという。さらには度を超えた自信家で、本来なら継之助の家柄では家老などの上級職になれなかったが、彼は「ゆくゆくは自分が家老職になるしかない」と周囲に言い触らしていた。そして、その宣言通り長岡藩の命運を担い、その舵取りを務め“義”の戦いを展開し、潔く散った。

(参考資料)司馬遼太郎「峠」、奈良本辰也「不惜身命」

陸 羯南・・・“硬派”の新聞『日本』を主宰した明治の代表的言論人

 陸羯南(くがかつなん)は新聞『日本』の社主兼主筆を務めた明治時代の代表的言論人だ。『日本』は、陸羯南が刊行の辞で「新聞は政権を争う機関にもあらず、私利を射る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する…」と述べている通り、議論一点張り、ニュースも政治教育方面のものが主体で、三面記事は一切、掲載しなかった。振り仮名抜きの漢文体という“硬派”の新聞だ。印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真を初めて取り入れた、熱情あふれた紙面は青年の血を沸かし、神田の下宿屋では、この新聞を取るのを誇りとしたという。

 ただ、この『日本』は部数5000部(最大時2万部)と少なかったこと、また政治教育方面のニュースを大胆に斬るスタイルだったため、発行停止となることが極めて多く、経営は困難を極めた。ちなみに、黒田清隆内閣のときは3回・31日間、山県有朋内閣のときは2回・32日間、第一次松方正義内閣のときは2回・29日間、第二次伊藤博文内閣のときは実に22回・131日間、第二次松方正義内閣のときは1回・7日間の発行停止を食っているのだ。これでは経営難に陥るのも無理はない。しかし、陸羯南がやり遂げたことは「男子一生の仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。

 陸羯南は津軽・弘前藩藩医で近侍茶道役を務めた中田謙斎の長男として生まれた。本名は実(みのる)。「羯南」を生涯の号とした。妻てつとの間に一男七女をもうけた。漢学者の鈴木虎雄は娘婿。陸の生没年は1857(安政4)~1907年(明治40年)。

 陸(現実にはこのころは「中田」姓)は15歳ごろから工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後、漢学、英学両方の教えを受けた郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となった。そこで上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し、退学した。このとき共に退学した同窓生に原敬、福本日南、加藤拓川、国分青涯らがいる。このころ、親戚の陸家を再興し、これまでの中田から「陸」姓となった。これには徴兵逃れの措置という説と、唐の詩人・陸宣公に倣ったという説がある。

 青森新聞社などを経て北海道に渡った後、再度上京し、フランス語が堪能だったことから、太政官文書局書記局員となった。ここで井上毅、高橋健三らと知り合った。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となった。また、このときフランスの保守主義者ジョゼフ・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官した。

 陸は徳富蘇峰とともに明治中期を代表する言論人だが、徳富の発言がほとんど社会の全般にわたったのに対し、陸の評論は政論中心だった。ただ政論中心といっても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなく、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は、国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんだ。

 陸は1888年(明治21年)『東京電報』という月刊新聞を創刊、翌年『日本』と改題、社長兼主筆として活躍した。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑、正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムの先駆けとなった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

鑑真・・・日本で初めて授戒を行い、戒律制度を伝えた律宗の開祖

 鑑真は、朝廷からの「伝戒の師」としての招請を受け、数々の苦難を超えて、6回目の渡海で来日した、唐代、江南第一の大師と称された人物で、日本における律宗の開祖だ。天皇をはじめ多くの人々に日本で初めて正式な授戒を行い、日本の仏教界に正式に戒律制度を伝えた人でもある。鑑真の生没年は688(持統天皇2)~763年(天平宝字7年)。

 鑑真は中国・唐代の揚州江陽県に生まれた。俗姓は淳于。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、道岸、弘景について律宗・天台宗を学んだ。713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。律宗とは仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている高僧。

鑑真は揚州の大明寺の住職だった742年(天平元年)、第九次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。しかし周知の通り、その実現は容易なものではなかった。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗。次第に視力を失うことになったが、753年(天平勝宝5年)、6回目にして鑑真が乗り込んだ、帰りの遣唐使船が薩摩・坊津に漂着、遂に日本の地を踏んだ。鑑真66歳のことだ。以後、76歳までの10年間のうち、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇はじめ多くの人々に授戒を行った。

 仏教では新たに僧となる者は戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

 しかし、奈良時代に入ると戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。こうした時代背景の下、栄叡と普照は授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れたのだ。
 栄叡と普照から強い要請を受けた鑑真は弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで、鑑真自らが渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人が随行することになったのだった。

 こうして来日した鑑真は753年(天平勝宝5年)、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。そして754年(天平勝宝6年)、鑑真は平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することになった。同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇から僧尼まで430余名に菩薩戒を授けた。これが日本で行われた最初の登壇授戒である。併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により鑑真は大和上に任じられ、政治に捉われる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を与えられる配慮が成された。759年(天平宝字3年)、鑑真に新田部親王の旧邸宅跡(現在の奈良市五条町)が与えられ、ここに彼は「唐律招提」(とうりつしょうだい、後の唐招提寺)と名付けられた、戒律を学ぶ人たちのための修行道場を建てた。 
 
 同寺には戒壇は設置されたが、あくまでも鑑真和上の私寺であって、当初は経蔵、宝蔵などがあるだけだった。そのため、金堂は763年(天平宝字7年)の鑑真の死後、弟子の一人だった如宝(にょほう)の長年にわたる勧進活動により、781年(天応1年)以降、完成したといわれる。これにより現在は、この「唐招提寺」が奈良時代建立の金堂、講堂として“天平の息吹”を伝える貴重な伽藍となっている。2001年(平成13年)1月から始まった平成の大修理事業で解体され、地震対策として耐震性も強化、一新された金堂の工事が終了、09年11月1日、落慶法要が行われた。

 鑑真は戒律のほか、彫刻や薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院もつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだ。
 師・鑑真の死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆造=だっかつかんしつづくり 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法、両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。国宝の「唐招提寺鑑真像」がそれだが、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船(おおみのみふね)により、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
(参考資料)永井路子「氷輪」、井上靖「天平の甍」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」古寺を巡る「唐招提寺」

楠木正成・・・天才的な策略家で後醍醐天皇の作戦参謀として勤皇を貫く

 もう10年以上も前のことだが、NHKが歴史のテレビ番組に「建武新政敗れ 悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけ、正成を祀っている湊川神社(神戸市)が抗議するという事件があった。確かにタイトルに「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったという印象を受ける。これに対してNHKは「悪党は悪い連中という意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」と説明した。実際にこれは正しいのだが、歴史上の「悪党」という言葉は、現代の国民的常識となっていないから、早合点すると、楠木正成は悪人だったのだと思い込む人がいないとも限らない。

 楠木正成は謎の人物だ。楠木氏は伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保(たちばなのとうやす)の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作とみられる。河内には楠木姓の由来となるような地名はない。つまり、先祖が分からず、家系が分からず、身分も定かでない。本拠地がどこだったのかについても諸説あり、確かなことは分からない。

にもかかわらず、戦前の日本人にとって楠木正成ほど有名な歴史上の人物はいなかった。日本一の大忠臣「大楠公」として、大日本帝国臣民が模範としなければならない第一の人物として、歴史教育の中で徹底的に叩き込まれたからだ。そのため、戦後は神功皇后などとともに歴史の教科書から真っ先に抹殺されることになった。

 伝えられる正成の出生地は河内国石川郡赤阪村(現在の大阪府河内郡千早赤阪村)。生年に関しての明確な史料は存在せず、正成の前半生はほとんど不明だ。様々な歴史家による研究にもかかわらず、正成の確かな実像を捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年に過ぎない。

正成は1331年(元弘元年)、臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」と呼ばれる豪族だったと考えられている。このとき、すでに官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物たちと接触を持っていたと思われる。この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。

後醍醐天皇と正成を結びつけたのは伊賀兼光、あるいは真言密教の僧、文観と思われる。正成は後醍醐天皇が隠岐に流罪となっている間にも、大和国吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦している。正成は少数で大軍を破るという、天才的な策略家だった。1333年(元弘3年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。

 後醍醐天皇の建武新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となった。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、足利尊氏が離反して後、実質上、後醍醐天皇の作戦参謀として新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤皇を貫いたことは特筆される。ただ、中国の諸葛孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮しながら、正成には最後まで実力に応じた地位が与えられなかった。このことが、実態としては「補佐役」でありながら、戦局を左右する様々な進言が、簡単に退けられ、最終的に敗死の悲劇につながった。

 1336年(建武3年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に、新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが受け容れられず、次善の策として、いったん天皇の京都からの撤退を進言するが、これも却下される。ここで後醍醐天皇を見限ってもなんら批判、非難されることはないはずだ。

 ところが、正成はそれでも陣営にとどまったのだ。そんな絶望的な状況下で、しかも意に染まぬ新田義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)に臨んだのだ。朝廷側の主力となるべきは新田軍だった。だが、新田軍は戦いが始まってすぐに総崩れとなり、戦場に残される形となった正成のわずか700余騎が足利直義軍と戦い敗れて、正成は弟の楠木正季とともに自決したとされている。

 南朝寄りの「太平記」では正成の事績は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書「梅松論」でさえも正成に同情的な書き方をされている。この理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な正成に一目置いていたためとみられる。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「『軍師』の研究」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、永井路子「続 悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源信・・・ 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧

 源信は平安時代中期、『往生要集』を書いて、浄土教の発展の基礎をつくった僧として有名だが、天台僧として『一乗要訣』という天台の中心教義「一切衆生皆成仏」の理論の完成者だった。周知の通り、彼は一条天皇から僧都の位を賜り、「恵心僧都」と尊称された。だが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。

 源信は大和国(現在の奈良県北葛城郡当麻)で生まれた。父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。950年(天暦4年)、信仰心の篤い母の影響で9歳のとき、荒廃した比叡山を再構築した中興の祖、慈慧大師良源(元三大師)に師事し、顕教、密教の奥儀を学んだ。そして、955年(天暦9年)出家、得度した。

956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。

源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。

観想念仏は浄土三部経の『観無量寿経』に説かれている方法で、阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することによって、念仏を行うというものだ。現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。これは貴族の好みと一致した。観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。

1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。道長は死に際して、法成寺の本堂に床を敷き、本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。これほど源信が勧めた観想念仏は貴族たちを虜にしたのだ。

こうした事績が認められて源信は権少僧都となった。しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退した。また比叡山の腐敗体質にも失望して、名刹を離れて、横川の恵心院へ隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んだ。臨終にあたって、源信も阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。

源信の浄土信仰の影響は法然、親鸞にも受け継がれている。源信は、浄土真宗では七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」「源信大師」と尊称される。親鸞は『高僧和讃』において七高僧を挙げており、うち2人は日本人だ。ちなみに七高僧とは龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然だ。
源信を境に、阿弥陀如来来迎図や浄土曼荼羅・仏像彫刻などの仏教芸術の最盛期を迎えることになるのだ。

 紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、この源信をモデルにしているとされる。
 このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

木戸孝允・・・“逃げの小五郎”時代を経て明治新政府の長州の代表者に

 木戸孝允は周知のとおり、西郷隆盛、大久保利通と並び称せられた「明治維新の三傑」の一人だ。確かに明治新政府における彼らの働きは群を抜いたものだった。薩・長・土・肥というが、これらの藩にはじめから統一した見解があったのではない。肥前は鍋島閑叟の態度にみられるように、完全に中立の態勢を取っていたし、土佐も山内容堂などは討幕に反対だった。坂本龍馬、中岡慎太郎ら家臣の一部が脱藩して、討幕に参加したまでのことだ。これに引き替え薩摩と長州は曲折があった後、連合し、新政府の推進力となった。この二藩が支えと成らなかったら、新政府は雲散霧消していただろう。木戸孝允の生没年は1833(天保4)~1877年(明治10年)。

 新政府で政局の中枢を握る者が、薩・長の二藩から出るのはまず妥当なことだった。長州を代表するのがこの木戸孝允だった。薩摩には西郷、大久保があるが、長州は木戸のみだった。長州藩に人材が少なかったのではない。維新後でいえば大村益次郎、もっと時代をさかのぼれば周布政之助、長井雅樂、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの人材があったが、1869年(明治2年)京都の旅宿で刺客に襲われて死んだ大村はじめ、すでにすべて亡くなっていたのだ。

 木戸孝允の比重は高まるのみだった。彼は1849年(嘉永2年)、吉田松陰の門弟となり、その後江戸に出て、志士たちの集まる斎藤弥九郎道場の師範代を務め、水戸や土佐の藩士たちとの交渉もあったほか、全国的な顔の広さを持っていた。それに江川英龍に洋式砲術を学び、蘭学を学び、西洋事情にも詳しく、名実ともに長州藩を代表し、新政府の方向付けにはなくてはならぬ人材だった。

 その木戸、以前の名で桂小五郎は剣の道でも一流を極めながら、自ら刀を抜いて勝負を争ったことは一度もなかった。用心深い彼は、常にそうした争いの場所を避けて通ったのだ。1863年(文久3年)八・一八の政変のあとの京都は、会津藩の見廻組や、新選組などが探索の目を光らせ、志士にとっては実に物騒な場所だった。木戸は絶えず住所を変えながら、警戒の目をかいくぐって働いた。だから、彼には“逃げの小五郎”というようなあだ名さえ付いていた。池田屋騒動のとき、蛤御門の戦い(禁門の変)のときもそうだった。

 木戸は開明的だったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほど、明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。

 長門国萩呉服町(現在の山口県萩市)で萩藩医、和田昌景の長男として生まれた。7歳のとき、桂家の末期養子となり長州藩の武士の身分と秩禄を得た。「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」だ。小五郎、貫治、準一郎は通称。「小五郎」は生家、和田家の由緒ある祖先の名前。「木戸」姓は第二次長・幕戦争前、1866年(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、司馬遼太郎「幕末 逃げの小五郎」、南条範夫「幾松という女」

幸徳秋水・・・田中正造の依頼で天皇への直訴状を代筆、冤罪で死刑に

 幸徳秋水は周知の通り、大逆事件で死刑になった。明治時代、政府に対し徹底的に批判した人物は、幸徳秋水の師、中江兆民をはじめ、田中正造など数多い。しかし、その死の多くは病死だ。ところが、幸徳秋水の死は死刑だ。絞首刑に処せられた。明治国家は幸徳秋水の存在を許さなかったのだ。それほどに幸徳秋水は徹底した反逆者だったのか。

 幸徳秋水は1871年(明治4年)、高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれ、1911年(明治44年)刑死した。幸徳家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家だった。本名は幸徳伝次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたものだ。生地の中村は、土佐の中では例外的に板垣退助の自由党よりも、大隈重信系改進党の力が強かったところだ。幼少の頃から神童といわれ、中学校に進んだ幸徳は、自由党熱にうかされた少年に育っていった。

幸徳が勉強を続けるために東京に出たのは1887年(明治20年)、17歳のときのことだ。林有造の書生となるが、保安条例によって東京を追放されて高知に帰った。1888年(明治21年)、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を発行していた中江兆民の学僕となり、大きな影響を受ける。ここで幸徳は初めてフランス流民権論を身につけることができた。やがて発布される大日本帝国憲法が真の人民の権利という見地からみると、全くお粗末なものであることを教えられたのも、兆民の同憲法に対する冷評によってだった。

1891年(明治24年)、再度上京し国民英学会を卒業した幸徳は、兆民の世話で『自由新聞』に入社して、経済的にどうにか一本立ちできるようになる。「秋水」という号はこのとき兆民が幸徳に譲ったものだ。秋水と名乗るようになった幸徳は、『広島新聞』『中央新聞』で論説を書いた後、1892年(明治25年)、黒岩涙香の『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社した。自信家の幸徳秋水は、存分に筆を振るう条件を与えてもらえないと、いつも不満で、勤め先を変えてしまうのだ。

黒岩涙香はスキャンダルに喰いついて離さず、『萬朝報』に徹底的に書きまくる。とりわけ政界上層部の名士たちが狙われ、庶民は大臣たちの私行暴露に拍手を送り、『萬朝報』の売れ行きはどんどん伸びていた。しかし、スキャンダルだけで売るのは限界がある。少しは理論的な筋を通さなければいけないと思っていたところへ、兆民の弟子として理論と文章力とを兼ね備えた秋水が現われた。黒岩にとっては大歓迎だし、秋水にとっては思う存分書かせてもらえるというわけだ。

 秋水が社会主義のグループと接触するのは、『萬朝報』に書くようになったお陰だ。秋水は早速「社会腐敗の原因及び其政治」という論文を載せ始めた。するとすぐに片山潜と村井知至の連名で、社会主義研究会に参加しないかという誘いのハガキがきた。秋水は喜んで入会し、毎月の例会に欠かさず出席、翌年には「現今の政治社会と社会主義」という報告を行うほどの積極的な会員となった。足尾鉱毒事件を告発した田中正造との出会いもこの頃だった。『萬朝報』は、農民を救えという論陣を張り続けた。

 衆議院議員を辞職し、天皇に直訴しようと決意した田中正造が、直訴状の代筆を秋水に頼みにきたのは、1901年(明治34年)の12月だった。なぜ秋水だったのかといえば、秋水の名文家としての名はこの頃すでに高く、とりわけ兆民の依頼で書いた「自由党を祭る文」は有名だったからだ。また、現実問題として田中が執筆を依頼した者たちが、後難を恐れて尻込みしたという側面もあった。そうした中、秋水だけが断らず書いたといわれる。

 秋水は日露戦争開戦時に社会主義新聞、週間『平民新聞』を創刊して、反戦の論陣を張った。のちクロポトキンなどの影響で無政府主義思想に傾倒。1910年(明治43年)、明治天皇暗殺計画の首謀者として権力によってでっち上げられ(大逆事件)、翌1911年(明治44年)、無実の罪(冤罪)のまま処刑された。代表的著作に『社会主義神髄』がある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「無冠の男」

紀貫之・・・ 『古今和歌集』の「仮名序」を執筆した歌人の第一人者

 紀貫之は、官人としては意外に知られていないが、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わり、恵まれず、不遇をかこった。だが、歌人としては極めて華やかな存在で、初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂にあたり、仮名による序文「仮名序」を執筆、当時、名実ともに第一人者となった。紀貫之の生年は866年(貞観8年)もしくは872年(貞観14年)などの説があり定かではない。没年は945年(天慶9年)。

 紀貫之は、紀望行の子、下野守・紀本道の孫として生まれた。幼名は阿古久曽(あこくそ)。紀友則は従兄弟にあたる。幼くして父を失ったためか、官職には恵まれなかった。宮中で位記(位階を授与する際の辞令)などを書く内記(中務省所属の官職)の職などを経て40歳半ばでようやく従五位下となり、以後、930年(延長8年)に土佐守に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭、従五位上に終わった。

 だが対照的に、貫之は歌人としては華やかな存在だった。892年(寛平4年)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目立つ存在ではなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。907年(延喜7年)の宇多法皇の大井川御幸は9題9首の歌を序文に献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠した。この間、藤原兼輔・定方の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めた。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇はすでに崩御されていたため、帰京後、序を付して手元にとどめた。

 貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したもので、日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

 貫之の最大の功績は漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある-といわれる。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。この歌の歌意は、「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。貫之の歌の中ではとくに有名な一首だ。

(参考資料)大岡信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「小倉百人一首」

児玉源太郎・・・格下げの参謀次長を引き受け、対露戦争に賭けた名参謀

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月、周防徳山藩廻役80石取りの児玉半九郎の長男として生まれた。徳山藩は萩の毛利本家の支藩で、そこでの80石という禄高は中級士族だ。幼名は百合若、のちに健、元服し源太郎と改名した。

しかし、そこまでの児玉は辛酸をなめ尽した。父親の半九郎が藩の重役に憎まれて謹慎を言い渡され、児玉が5歳の時、病死した。児玉家は半九郎の死後2年経ってから長女ヒサに養子巌之丞を迎え、名を次郎彦と改名して家督を継がせた。次郎彦は藩の助教を務めたが、元治元年(1864)京都・池田屋の変、禁門の変などを経て、尊攘派だった次郎彦は自宅前で保守派に斬殺された。児玉12歳の時のことだ。この後、児玉家は藩からわずか1人半の扶持しか与えられない身となり一家5人が親戚の家を転々とする、食うや食わずの極貧生活を送るはめになる。ただ、このローティーン時代の苦難が児玉の精神形成に大きく影響したことは間違いない。

 慶応元年(1865)7月、徳山藩の政情が一変した。本藩で高杉晋作が決起し佐幕派が一掃され、支藩の俗論党が退陣。藩政の主導権が次郎彦の属していた尊攘派の手に移り、13歳の児玉が次郎彦の跡目相続人として中小姓に取り立てられ、新知25石を賜ることになったのだ。異例の人事だった。

 児玉は明治4年8月に少尉、9月に中尉となり、熊本鎮台創設のとき大尉になった。すごいスピード昇進だが、もちろん長州出身だったからだ。以後、児玉は順調に出世した。

 明治16年、児玉は大佐に昇進し、参謀本部に入った。同18年、陸軍はドイツ陸軍からメッケル少佐を招き、近代的な戦略戦術はもとより、陸軍の軍制に至るまで教えを受けた。児玉は明治19年に陸軍大学の幹事になってから、メッケルの講義を聴き、メッケルとともに参謀旅行に同道した。参謀旅行とは机上の講義ばかりでは実戦の役に立たないと考えるメッケルが発案したもので、例えば関ケ原へ行き、東西両軍の配置などを想定し、実戦に即して、戦術を研究するやり方だ。

メッケルは、近代戦は新兵器や火力の優劣などの科学的要因と兵站能力が大きくモノをいうことは確かだが、その他に兵員の精神力という計算できないものが重要であり、参謀の想像力も精神力と同様、大切だと説いた。仮に前方に敵軍の布陣している山があるとする。参謀には目に見えない山の背後がどういう地形か、それを想像できる能力が必要だというのだ。参謀旅行に同道した陸軍大学の学生が残した記録によると、メッケルは「将来、日本の陸軍は陸軍の児玉か児玉の陸軍かというようになろう」というほどに、児玉の才能を高く評価していたという。

 児玉は後の旅順攻略戦の時、メッケルのこの時の教えを見事に実践する。彼は満州軍総参謀長として、強行しては失敗を重ね5万9000余名の死傷者を出した、乃木希典が軍司令官を務める第三軍を見るべくやってきた。乃木の司令部は最前線から遠かった。ロシア軍の砲弾の絶対に届かない安全なところにあった。そして、参謀たちは司令部を一歩も出ようとせず、最前線の状況を知ろうともしないで、死の突撃で部下を死なせたくない大隊長や中隊長が、強攻策に再考を求めると、「命が惜しいのか」と臆病者扱いしていた。この参謀たちは陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリートだったが、あくまでも机上の作戦家でしかなかったのだ。

 日露戦争が始まったとき、メッケルはすでにドイツに帰国していたが、彼はクロパトキンがロシア軍の最高指揮官になったのを知ると「児玉が勝つ」と予言した。クロパトキンは欧州各国にも名将として知られていたが、児玉は知られていなかった。しかし、児玉は下級兵士の心が分かるリーダーであり、クロパトキンはそれが分からないリーダーであることをメッケルは知っていた。メッケルにしてみれば、児玉が勝って当たり前なのだった。

 明治38年、満州での陸戦を勝利に導いた児玉は、密かに日本に戻り伊藤博文らの重臣や桂太郎首相、小村寿太郎外相らに、講和交渉を開始して一日も早くまとめるように忠告した。これは満州軍総参謀長の権限外の行為だが、日本軍がこれ以上の大規模な戦闘に耐えられないことを承知していたからだ。児玉としては、陸軍のことだけを考えればいい参謀から脱却し、いわば日本の運命を考える参謀にならざるを得なかったのだ。しかし彼は、日本国の名参謀になる前に、1年後の明治39年7月に脳出血で急死した。54歳だった。その後、神奈川県江の島に児玉神社が有志によって建立された。

(参考資料)古川薫「天辺の椅子」、三好徹「明治に名参謀ありて」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「志に生きた先師たち」