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佐久間象山・・・幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。

佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。

 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 

 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。

 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。

 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。

 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。

 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。

彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

                             

真田幸村・・・天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。

 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。

 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。

 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。

 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。

 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。

 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。

 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。

豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。

男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。

 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

三条実美・・・維新政府の太政大臣、憲政内閣誕生後は内大臣を務めた名家

 三条実美(さんじょうさねとみ)は、藤原北家閑院流の嫡流で太政大臣まで昇任できた清華家の一つ、三条家という公家の中でも名家に生まれた。そして彼自身、明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。彼は岩倉具視とは正反対に、策を弄するなどということが一切できず、どこまでも素直であり、太政大臣になっても、自分のために政治を利用するなどということは決してなかった。
ちなみに、1879年(明治12年)、太政大臣・三条実美の月俸は800円、右大臣・岩倉具視の月俸は600円、巡査の月給は10円、米が一升7銭だった。やはり、太政大臣というのはそれだけの貴官しか就けない職責だったのだ。

当時の顕官の中には、飾り物として太政大臣の三条実美は役に立つなどと高言する者もいたが、彼は内外に眼がよく届き、それぞれ一城の主だった参議たちを宥め、首相としての職を果たした。民間に国会開設の声が盛んになると、1885年(明治18年)、自ら太政大臣の職を解いて、後継の首相を伊藤博文に任せ、初めて憲政内閣の誕生に努めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。
 三条実美(正式には三條實美)の父は贈右大臣・実万(さねつむ)、母は土佐藩主・山内豊策の娘、紀子。実美の妻は関白・鷹司輔煕の九女、治子。実美は「梨堂」と号した。生没年は1837(天保8)~1891年(明治24年)。

 実美は1854年(安政元年)、兄の公睦の早世により家を継いだ。幕府の大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」で処分された父、実万と同じく尊皇攘夷派の公家として1862年(文久2年)、勅使の一人として江戸へ赴き、徳川第十四代将軍家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知とともに、尊皇攘夷激派の公卿として幕政に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。

 ところが、思わぬ事態が起こった。1863年(文久3年)、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター、「八月十八日の政変」だ。これにより実美は朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った(七卿落ち)。その後、長州藩に匿われ、福岡藩に預けられ、さらに大宰府へ移送され3年間の幽閉生活を送った。失意の日々だった。

 しかし、時代はまだ実美の出番を用意していた。1867年(慶応3年)の王制復古で表舞台に復帰したのだ。彼は成立した新政府で議定(ぎじょう)となった。議定は明治政府発足後(1867年12月~)設けられた中央管制の三職(総裁、議定、参与)の一つで皇族や公家、藩主などから10人が任じられた。翌年には1868年1月に新設された総裁を補佐する副総裁に就任。戊辰戦争においては関東監察使として江戸に赴いた。そして、1869年(明治2年)には右大臣、1871年(明治4年)には7月から採用された太政官制のもとで遂に太政大臣となったのだ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」

平清盛・・・日本初の武家政権を開き、武士では初の太政大臣を務めた人物

 平清盛は平安時代、周知の通り日本で初めて武家政権を開いた人物だ。保元・平治の乱を経て、源氏との戦いに勝利した、清盛の率いる平家はその後、旭日昇天の勢いで勢力拡大していくことになる。清盛は8年間に、正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて、武士では初めて太政大臣となった。『源平盛衰記』によると、一門の栄達も重盛の内大臣をはじめ、公卿16名、殿上人30人余、その他の国司や衛府の武官は80人余にも達した。

 また、娘の徳子を高倉天皇の「中宮」として参内させ、皇子をもうけるや1歳3カ月の幼帝(=安徳天皇)を誕生させた。清盛は天皇の外祖父となり、朝廷内に閨閥を張り巡らせ、天下の権を掌中にした。まさに、“平氏にあらずんば人にあらず”(『平家物語』)といわれたほどの隆盛ぶりだったのだ。

 ただ、清盛は新しい世の中のしくみをつくり変えるまでの意欲を示し得ぬまま、旧来の王朝政治を踏襲しつつ、多少の“繕い”を施したにとどまった。そのため、本格的な武家社会の構築は、次代の鎌倉幕府・源頼朝に委ねられた。

 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として、伊勢産品(うぶすな、現在の三重県津市産品)で生まれた。生母は不明だが、祇園女御の妹という説が有力だ。母の死後、祇園女御の猶子になったといわれる。この祇園女御の庇護の下に育ったことから、清盛は一説には白河法王の落胤ともいわれる。清盛、浄海などに改名。別名・平大相国(たいらのだいしょうこく)、六波羅殿、福原殿、清盛入道などとも呼ばれた。清盛の生没年は1118(元永元)~1181年(治承5年)。

清盛の父、忠盛が死去し平氏の棟梁となったとき、清盛は36歳だった。時代はまさに大きな転換期を迎えていた。奈良朝から平安時代にかけて、日本は公地・公民の制度を政治の根幹としてきたが、長い泰平はいつしかこの基本をタテマエにすりかえてしまった。中央の貴族や大寺院・大神社などは、己れの特権を活かして、“荘園”という名目の私領をつくり、増やすことに熱中した。

そのため、中央での出世を諦めた官僚たちは、地方の役人として天下り、官権を利用して公民を使役し、原野を開墾したり、公地を詐取して、さらには婚姻政策で勢力を拡大。そうして得た領地(荘園)を、朝廷の権力外にある、勢力ある公卿や神社仏閣に寄進し、自らはその管理人となった。

 もちろん、このしくみは名目に過ぎない。寄進とはいえ、名義料的年貢を納入することで、国家の課税や課役を免れるのだから、その貯えは莫大なものになった。こうして全国に無数の在地地主(後の武士)が誕生した。その一方で、藤原氏の摂関政治に代わって、退位した天皇(上皇)が院庁を開き、“治天の君”と呼ばれ、朝廷の政治権力を掌握するシステム「院政」が生まれていた。

 平安時代末期、先の平治の乱では平氏に敗れたものの。東国武士団の頭領として源氏が登場、源義経など天才的な軍略家を輩出。配下の武将にも戦場で大活躍する多くの名将が出てくる。しかし、この清盛は戦場での名将とは言い難い。むしろ戦術を政略とからめて考察するタイプの武将だった。彼は終始、朝廷の機嫌を取り、次の後白河法皇による院政ではその保護を得て、前代未聞のスピードで昇進し、権力の座へかけ昇っていった。1167年に太政大臣となり、1171年に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、生まれた子を安徳天皇として即位させ「天皇の外戚」という立場を手に入れた。

 位人臣を極めた清盛は、平氏一門を高位高官に取り立てた。その結果、一門の知行国は30を超え、所有する荘園は500カ所以上に上った。また、父忠盛が関与を始めた「日宋貿易」を積極的に行い、莫大な富を手中に収めることに成功、平氏政権の財政を支えた。

 さらには平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、1179年(治承3年)の政変で法皇を幽閉して、幼帝・安徳天皇を擁し、清盛は政治の実権を握ることに成功する。だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けることになる。やがて、各地で源氏による平氏打倒の兵が挙がり、緊迫した情勢の中、平氏にとってあってはならない悲劇が起こる。総帥・清盛が熱病を発症、あっけなくその生涯を閉じたのだ。

大黒柱の清盛を失った平氏はその後、まさに坂道を転げ落ちるようにその勢いは衰え、清盛の死後、わずか4年後の1185年、壇の浦の戦いで敗れ滅亡した。清盛の存在があまりにも大きすぎたことと、彼が武家による新しい世の中のしくみや、統治システムを用意できないまま亡くなったためだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」、加来耕三「日本創始者列伝」、井沢元 彦「逆説の日本史・中世鳴動編」

沢庵宗彰・・・権力に与(くみ)せず、心の潔白を通した名僧

 沢庵宗彭(たくわん そうほう)は書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、多くの墨跡を残した江戸時代の臨済宗の名僧で、大徳寺の住持として知られている。とくに第三代将軍徳川家光が、この沢庵に深く帰依したといわれている。また、一般的に「沢庵漬け」の考案者といわれているが、これについては諸説あり、詳細は定かではない。沢庵の生没年は1573(天正元)~1646(正保2年)。

 沢庵宗彭は出石城主山名祐豊の重臣、秋庭綱典の次男として但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)で生まれた。諱は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。東海・碁翁などの号がある。沢庵が8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事、秀喜と改名した。1591年(天正19年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は大徳寺から春屋宗園の弟子、薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事することになった。

 1594年(文禄3年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出たが、堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)、沢庵の法号を得た。1607年(慶長12年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔頭徳禅寺に住むとともに、南宗寺にも住持した。1609年(慶長14年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵はわずか3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620年(元和6年)、郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。

 江戸幕府は寺院法度や禁中並公家諸法度で、寺社および、寺社と朝廷との関係を弱めるため、規制をかけた。1627年(寛永4年)、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、幕府は早速、法度違反と見做して勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り前住職の宗伯(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに反対運動を行った。

 僧籍にあるものといえども、幕府の政事に異を唱えた代償は大きかった。1629年(寛永6年)、幕府は沢庵を出羽国上山に、宗伯を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へそれぞれ流罪とした。上山藩主の土岐頼行は流されてきた名僧沢庵の、権力に与しない生き方と、心さえ潔白なら身の苦しみなど何でもない-とする姿に心を打たれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを「春雨庵」と名付けてこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。

 1632年(寛永9年)、第二代将軍徳川秀忠の死により、大赦令が出され、南光坊天海や柳生宗矩の尽力により紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵は1634年(寛永11年)、宗伯とともに大徳寺に戻った後、将軍家光が上洛した際、天海や柳生宗矩らの強い勧めを受けて、家光と謁見した。このころから家光は沢庵に深く帰依するようになった。そのため同年、郷里に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸へ下った。

沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することはできなかった。1639年(寛永16年)、家光は萬松山東海寺を創建し、沢庵を住職とした。家光は政事に関する相談も度々行ったが、これは家光による懐柔工作と考えられている。それは、逆に言えば、沢庵の影響力がいかに強かったかを物語っている。

 だいこんの漬物、いわゆる「沢庵漬け」は、この沢庵が考案したものといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを、沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、だいこんのたくわえ漬けを供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬けにあらず、たくわん漬けなり」と命名したと伝えられているが、風聞の域を出ない。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」

徳川家康・・・ケタ外れの忍耐強さと用心深さ・賢明さが天下人の要因

 徳川家康は周知の通り、江戸に幕府を開いた開祖だ。だが、3歳で母と生き別れ、6歳の幼さで人質として駿府へ送られた家康(当時は竹千代)。そして信長、秀吉の時代を耐え忍び、1600年(慶長5年)9月の「関ケ原の戦い」で勝利を収めるまでの苦難の道のりは、「長くて遠い道」だった。関ケ原後も即、徳川政権へ道が開かれたわけではなかった。通常、よく引き合いに出される織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ている。天下を取ったのは家康62歳のときのことだ。現代の62歳ではない。とても、尋常な生命力ではない。家康の生没年は1542(天文10)~1616年(元和2年)。

 関ケ原の戦いで家康が勝ったといっても、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の、筆頭であっても、地位はそのままだった。ところが、1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し、秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって、幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という、二つの政権が併存するという変則的な形となった。それでも大坂方には、家康が征夷大将軍になったのは当座のこと。秀頼様が成人した暁には、政権を戻すはず-という楽観論があった。

 ところが、その2年後、そんな大坂方の楽観論が無残に打ち砕かれる。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲ってしまったからだ。家康は、将軍職は徳川家が世襲すると内外に宣言したわけで、大坂方にはショックだった。

さらに追い打ちをかけるように家康は、天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越え、諸大名より一段上に立つための手を打つ。1606年(慶長11年)、家康は宮中に参内したとき、朝廷に対し「武家の官位は以後、家康の推挙なしには与えないように」と申し入れているのだ。すなわち直奏(大名家と朝廷との官位の直接取引)の禁止だ。戦国期のように、大名が金を積んで官位を買い取ることをできなくするとともに、大坂の秀頼が官位を左右することを防ぐためだ。これは、官位授与権の独占であり、このことによって、秀頼と家康の立場は完全に逆転したわけだ。

この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権の官僚・石田三成に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込む。秀吉が全国を統一してから、まだわずか25年後のことだった。周知の通り、徳川家15人の将軍による治世は265年を数えたことを思えば、極めて短命だったといわざるを得ない。

 また家康は、朝廷側にとって一言も弁明できない不祥事=朝廷の弱味を握ることで、対朝廷工作を有利に、主導権を持って進めることができたのだ。朝廷側の不祥事とは1609年(慶長14年)の宮中の「官女密通事件」だ。「宮中乱交事件」などともいわれているもので、後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで、やはり数人の中下級の青年公家たちとフリーセックスを楽しんでいたというものだ。この事件を家康は巧みに政治的に利用したのだ。

 この密通事件に対する家康の内意は、処罰は天皇の叡慮次第としたのに対し、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべし-との判断が下ったのだ。幕府や京都所司代が予想していなかった厳刑だ。古来、官女の密通事件は珍しいことではない。確かにこのときほど大掛かりな事件は未曾有のことだったが、処罰が斬罪にまでなった例はなかった。官位授与にあたって、強引な家康の申し入れを飲まざるを得ない、朝廷として弁解の余地がない不祥事を起こされたことに対する、天皇の怒りの激しさが窺われる。

 朝廷の劣勢は続き、この処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾数人に裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被ったわけだ。
 こうして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功。1615年、大名の力を抑える、巧妙な大名統制システムをつくり上げる前提となった武家諸法度に加え、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷の統制を図ったのだ。これは、天皇の行動まで規定した厳しいものだった。豊臣政権時代にはまず考えられなかったことだ。これによって、徳川の長期安定政権が実現されたといえよう。

 ここまで関ケ原の戦いに勝利した以後の家康の動きを見てきたが、そもそも戦国時代から安土・桃山(織豊政権)時代を経て、天下人・徳川家康が誕生するにあたって、家康のどのような点が優れていたのだろうか。
第一は忠誠無二で、最も良質な兵を持っていたことだ。戦国時代、最も良質な兵は武田氏の甲信兵と上杉氏の越後兵だが、家康の配下、三河兵も決してこれらに劣らず、あるいは優っていたとまでいわれる。

第二は家康の用心深い性格だ。幼いとき継母の父に裏切られ、長く他家の人質になっていたという悲しい経験がつくり上げたのだろう。彼は何度か、石橋を二度も三度も叩いて確実に安全であることを確かめてからでなければ渡らないことがあった。・それまで桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川勢が守っていた岡崎城に帰還したとき、主家の今川氏の許可なしには入城できないと、今川勢が引き揚げ、空き城になるまで待った・信長から同盟の申し込みがあったとき、・小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に帰服したときもそうだった。焦れた秀吉から、その妹と母とを人質に取ったうえで、やっと腰を上げて京へ赴き帰服したのだ。

 第三は、彼が真に勇気ある武将だったことだ。決断するまでは用心深く、臆病なくらいなのだが、いったん決心し戦場に臨むと、勇猛果敢に戦うのだ。その端的な例が「三方ヶ原の戦い」だ。京に上ることを決心した武田信玄が、家康の居城の近くを通ろうとしたとき、彼は一矢も射掛けないまま通したのでは、後世、徳川家は腰抜けと悪口をいわれるぞ-と配下に命じ、信玄に遮二無二、戦を仕掛けたのだ。結局、この戦いに彼の生涯に一度という惨敗を喫して、一命も危ういほどの目に遭うが、それでもこの戦いは、徳川家の武士の誇りと体面を保つ、彼の輝かしい戦歴の一つになった。
 第四は、家康が賢明さを持ち合わせた人物だったことだ。彼が小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍と対峙したときのことだ。秀吉軍約11万に対し、家康軍はわずか約1万8000だった。ところが、家康軍は局地戦では奇襲戦術で応じ、散々撃破したが、決して深追いせず、その後は素早く兵を引き揚げ、相手にならず、挑発にも決して乗ることはなかった。この合戦で実質上、天下人だった秀吉と休戦・講和に持ち込んだことが、その後どれほど家康を利したことか。

秀吉が終世、家康を憚ったのは主としてこのためだ。秀吉は合戦の場で、家康を破り、屈服させることができなかったことで、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道を閉ざされたわけだ。そして、家康のこの戦歴が後年、諸大名に対する無言の圧力となって効いてくるのだ。

合戦であの天下人となった太閤殿下(秀吉)に負けたことがなかった武将として、徳川家康は同列の武将から一歩抜きん出た存在として誰もが一目置かざるを得ない人物として、強烈に意識されクローズアップされるとともに、ついて従っていかざるを得ない状況がつくり出されることになるのだ

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」、司馬遼太郎「関ヶ原」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、今谷明「武家と天皇」

武田信玄・・・上杉謙信と武名を二分し、織田信長が恐れた武将

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第十九代当主で、戦国時代、越後の上杉謙信と武名を二分した名将だ。歴史に「…たら」「…れば」と仮定の話をしても仕方ないのは十分承知しているが、敢えて信玄があと10年健在だったら、歴史はかなり変わっていたのではないか-と考えざるを得ない。

果たして、織田信長の「天下布武」があったかどうか?そうなると、豊臣秀吉の天下は?とその後の歴史に?をつけてみたくなる。織田信長が、上杉謙信とともに最も恐れていた戦国大名、それが武田信玄だ。

信玄が人生の総決算として、戦国時代、とくに良質で屈強といわれた甲斐兵の大軍団を率い、満を持しての上洛の途上、病に倒れただけに、なおさらその可能性を膨らませてしまう。何しろ徳川家康は無謀な戦を仕掛け、惨敗して武田軍の強さに脅えているし、織田信長は初めから戦うことを放棄し、信玄の上洛を黙って見ているほかなかったのだから。

 武田信玄は甲斐国・躑躅ヶ崎館で第十八代当主・武田信虎の嫡男として生まれた。幼名は勝千代。諱は晴信。信玄は出家後の法名。信玄の生没年は1521(大永元)~1573年(元亀4年)。
 信玄は8歳のとき長禅寺という寺で手習いや学問を習った。上達が早く、一を聞いて十を知るというような利発な子供だった。玄恵法師が著したとされる『庭訓往来』を2、3日で内容をすべて学び取ってしまったといわれる。

 ただ、信玄が武田家の家督を継ぐまでには今日、信玄にとって理不尽で筆舌に尽くし難いほどの労苦が伝えられている。戦国武将の生い立ちをみると、本来、家督を継ぐはずの長子でありながら幼少期、様々な理由から意識的に疑問符を付けられ、その資格を剥奪され、廃嫡されかけた人物は少なくない。著名な例を挙げれば、織田信長がそうだし、伊達政宗もそうだった。ここに取り上げる武田信玄は、その極端な例といえる。

信玄の父、武田信虎は甲斐一国を統一したほど、戦(いくさ)上手だったが、最悪な性質で家来にも民にも忌み嫌われたと伝えられ、信玄を愛さなかった。信虎は弟の信繁を愛した。信玄にはことごとく辛く当たり、信玄が何かを言い返せば、言い返すほど叱責、罵倒の繰り返しとなった。信長の父、織田信秀や、政宗の父、伊達輝宗の場合は、まだ彼らを愛していた。それだけに救いがあったが、信玄の場合は救われようがなかった。

 このため、武田家の家臣団の動向もはっきりしていた。大部分の家臣が弟の信繁に傾き、信玄は子供の頃からバカにされていた。そこで信玄はそういう空気を察し、自ら“道化者”を装った。青少年時代の彼は、事あるごとに道化者の晴信として終始した。だから、武田家の家臣の多くは当然のことながら信繁に忠誠心がいった。

ところが、信玄にも忠臣がいた。甘利虎泰、板垣信方、飯富虎昌らだ。彼らは信玄の道化ぶりを信じなかった。むしろ、そういう道化者を自己演出している信玄の深慮ぶりに舌を巻いていた。そこで、彼らは陰となく日向となく信玄を支えた。

 やがて武田家臣団は、当主の信虎が能力の有無に関わりなく、私情の面で信玄を嫌っていると判断するようになった。その結果、家臣団の気持ちは信虎から離反、細心の注意と万全の準備をもって進められた、信玄による父、信虎の駿河追放は何の混乱もなく達成された。

 名実ともに甲斐国の国主となった信玄は隣国、信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と五回にわたる「川中島の合戦」を戦いつつ、信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有するまで、武田氏の領国を拡大した。

 信玄は戦争が上手だっただけでなく、政治的手腕も卓抜だった。彼は新しく占領した土地は、決して武士たちの行賞の対象にせず、自分の直轄領として民政に熟練した者を代官として治めさせた。そのため、新付の土地でも彼が生きていた間は決して離反しなかったという。晩年、上洛の途上に三河で病を発症し信濃で病没した。死因は労咳(肺結核)、肺炎、あるいは『甲陽軍艦』では胃がん、もしくは食道がんによる病死説が有力だ。

 江戸時代から近代にかけて『甲陽軍艦』に描かれた信玄の伝説的な人物像が広く浸透。“風林火山”の軍旗を用い、甲斐の虎または、彼が龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、謙信の好敵手としてのイメージが形成されたのだ。したがって、今日私たちが抱く信玄像には虚像の部分もあるのだろうが、信玄は立派な事績を残している。

 山梨県にはいまでも「信玄堤」と呼ばれる堤防がある。信玄は領国経営にも優れた力を発揮していた。治山、治水には「信玄工法」と呼ばれる技術を駆使した。甲州には釜無(かまなし)、御勅使(みだい)、荒川、笛吹などの暴れ川があって、しばしば氾濫した。信玄は国主になると、この暴れ川の鎮圧に乗り出したのだ。

 信玄の「座右の銘」がある。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」。この意味は、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる-というものだ。

 「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という言葉がある。これは良く知られている米沢藩主、上杉鷹山の言葉だ。だが、信玄はこれよりかなり前、鷹山とよく似た名言を残している。それは「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」だ。
 信玄の弟、信繁の分をわきまえた人物像にも少し触れておく。既述の通り、信繁は父に深い愛情を注がれて育ったが、それに乗らなかった。それが武田家を安泰にし、武田軍団を混乱させることなく、甲斐武田を戦国の雄たらしめたのだ。彼は学問が深く、有名な「武田信繁の家訓」九十九ヵ条を書いた。これは、元々信繁が自分の子供に宛てた戒めの書だが、実際には「信玄家法」あるいは「甲州法度」の下巻として扱われている。

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、童門冬二「武田信玄の人間学」、井上靖「風林火山」、新田次郎「武田信玄」、井沢元彦「逆説の日本史」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

徳川光圀・・・善政、数々の文化事業で評価高い半面、藩財政の重荷に

 徳川光圀は、徳川御三家の一つ、水戸藩二代藩主として善政を行い、30年の長きにわたりその座にあり、幕政にも影響力を持った時代もあったため、天下の副将軍、「水戸黄門」のモデルとして知られる。ただ、『大日本史』の修史事業に着手したことや、古典研究や文化財の保護など数々の文化事業を行ったことで、評価が高い半面、為政者としては膨大な資金を要する文化事業を行ったことで、光圀以降の代々の藩財政悪化の遠因をつくったと指摘する見方もある。徳川光圀の生没年は、1628(寛永5)~1701年(元禄13年)。

 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の十一男・十五女の第七子に生まれた。母は側室で、家臣谷重則の娘、久子。徳川家康の孫にあたる。諡号は「義公」、字は「子龍(しりゅう)」、号は「梅里」。三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀と改名した。

 1633年(寛永10年)、光圀は後に讃岐国高松藩主になる兄の頼重を超えて継嗣に決まった。名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に上り、当時の徳川三代将軍家光に拝謁。1636年(寛永13年)、9歳のとき将軍家光立ち会いの下、元服し家光の「光」の一字をもらい「光国」と名乗るようになった。1661年(寛文元年)父、頼房が亡くなり、34歳で第二代藩主の座に就いた。

 光圀は藩主として寺社改革や殉死の禁止、巨船「快風丸」の建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、民政にも力を入れ、勧農政策の実施、藩職制の整備、教育の振興などの善政も特筆される。殉死の禁止などは幕府に先駆けて行ったほか、藩士の規律、士風の高揚を図るなどの施策を講じた。とりわけ、五代将軍綱吉の時代には徳川一門の長老として幕政にも影響力を持った。

 光圀は藩主になる前、1657年(明暦3年)、江戸駒込の中屋敷の史局(後の彰考館)を置き、『大日本史』の編纂に着手したほか、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
 1690年(元禄元年)、家督を兄・頼重の子供の綱条(つなえだ)に譲った後、久慈郡新宿村(現在の常陸太田市)に西山荘を建てて隠居した。ただ、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持った。

 光圀は『大日本史』の編纂に必要な資料収集のため家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから、テレビ番組でお馴染みの「水戸黄門」の諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録がない。

 光圀は学者肌で好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本で最初にこの光圀が食べたとされるものも少なくない。ラーメンはじめ餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがそうだ。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍綱吉が制定した「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。鮭も好物でカマとハラスと皮をとくに好んだといわれる。吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

 晩年、光圀は子孫のために九カ条の訓戒『徳川光圀壁書』を残している。
一.苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
一.主人と親は無理(をいう)なるものと思え、下人は(頭の働きの)足らぬものと知るべし
一.掟に怯(お)じよ(法令を恐れよ)、火におじよ、分別がなきものにおじよ、恩をわする事なかれ
一.欲と色と酒をかたきと知るべし
一.朝寝をすべからず。咄の長座すべからず
一.(ものごとは)九分(どおりしてのけても)にたらず、十分はこぼるる
(やりすぎてもいけない)と知るべし
一.子ほど親を思え、子なきものは身にたくらべ(くらべ)て、ちかき手本と知るべし
一.小さき事は分別せよ、大なる事に驚くべからず(小さいと思える事でも、よく考えて処理せよ、大きな事であっても慌ててはならぬ)
一.(思慮)分別(する)は堪忍あるべし(堪忍に勝るものはない)と知るべし

(参考資料)尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三    
      郎「徳川吉宗とその時代」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

高野長英・・・鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。

翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。

長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。

当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。

長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。

しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。

天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。

というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。

その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。

長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学ぶ」、
      山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

竹本義太夫・・・人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。

 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。

 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。

 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。

 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。 
 
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。

 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津太夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」