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中江兆民・・・日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となっていたことで知られ、「東洋のルソー」と評される。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人。1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学ぶが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。

 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。

1866年(慶応2年)江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた兆民は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。

 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書「民約論」や「エミール」などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。「英国財産相続法」などの翻訳書を出版する。

 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。

 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、「政理叢書」という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著「民約論」の抄訳「民約訳解」をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年「三酔人経綸問答」を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の「東雲(しののめ)新聞」主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。

 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は世人から奇行とみられた。
 主な著書に随想集「一年有半」、兆民哲学を述べた書「続一年有半」などがある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

新渡戸稲造・・・国際連盟・事務次長を務めた国際派の硬骨漢

 新渡戸稲造は曾祖父以来、英才を輩出した新渡戸家の血を引く、高潔でかなり熱い硬骨漢だった。農学者で教育者であり、また国際連盟の事務次長を務めるなど国際的な舞台で活躍し、第二次世界大戦へ突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった人物だ。著書『Bushido The Soul of Japan』(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著といわれる。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。

 新渡戸稲造は、盛岡藩士で藩主・南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として、岩手県盛岡市で生まれた。新渡戸の生没年は1862(文久2)~1933年(昭和8年)。
 新渡戸は9歳で上京し、1873年(明治6年)、東京外国語学校英語科(後の東京英語学校、大学予備門)に入学した。数え年で13歳のときのことだ。その後、1877年(明治10年)、札幌農学校(後の北海道大学)に第二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士は去っていたが、そのスピリットはまだ色濃く残っていた。在学中に洗礼を受けキリスト教徒となった。この同期に内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らがいる。1881年(明治14年)札幌農学校卒業した。

 1883年(明治16年)、新渡戸は東京大学(後の東京帝国大学)入学するが、飽き足らず、「太平洋の架け橋」になりたいと考えるようになった。太平洋の架け橋とは、西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる-との意味だ。これは美しい理想で、口にはできても、実現するとなるとなかなか容易なことではない。

だが、新渡戸は翌年東京大学を退学し、その思いを実行に移す。私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。1884年(明治17年)のことだ。やがて、札幌農学校以来の旧来のキリスト教の信仰に確信を持てなくなっていた彼は、クェーカー派の集会に通い始め、正式に会員となり、彼らを通じて、後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。アメリカに留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、1887年(明治20年)にはドイツに渡り、ボン大学で農政、農業経済学を研究している。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となった。

 1901年(明治34年)、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年、第一高等学校校長となり、7年間在籍。1909年から東京帝国大学教授として植民政策を講義している。さらには1918年(大正7年)、東京女子大学学長となった。

 一方、「太平洋の架け橋」になりたいとの信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~26年)あるいは太平洋問題調査会理事長(1923~33年)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8年)、カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと、病を得て同年、同地で死去した。日本における農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士として著名だ。

 新渡戸は英語で『武士道(Bushido)』を書いた。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるのだが、彼はこの本を通して未開の野蛮国と見られていた日本にも“武士道”という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのだ。その結果、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。

 日本国内でも『武士道』が邦訳されて発売されると、たちまちベストセラーになった。それは、明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ。

 ただ、ここで表現されている「武士道」は江戸期までの「武士」の時代に、武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものを掴んだと信じたうえで、自己の「道徳性(モラリティ)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼(そしゃく)したうえで、これを「武士道」として構成したものだ。それは明治人の気骨の一面をよく掴んでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表している。
 主な著書に『農業本論』(1898年)、『武士道』(1900年)、『修養』(1911年)などがある。

(参考資料)

中江藤樹・・・身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。

 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。

 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。

 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。

 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した「翁問答」にある言葉を紹介しよう。

○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。

○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。

○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。まさに、“人間賛歌”の言葉だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」

中島知久平・・・日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。

 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。

 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。

中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。

 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。

その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

鍋島閑叟・・・破綻した藩財政を立て直し、幕末の先進雄藩に育て上げる

 鍋島閑叟(直正)は幕末・維新にかけて肥前佐賀藩の藩主を務め、破綻した藩の財政改革、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。さらに独自に西洋の軍事技術の導入を図り、精錬方を設置し反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功したほか、蒸気機関・蒸気船までも完成させる先進雄藩となった。

ただ、同藩は薩摩・長州・土佐藩などと比べると、幕府あるいは他藩に対し、自己主張するような姿勢はほとんど取らず、自主・独立独歩の道を歩んだ。その意味で、鍋島閑叟は地味だが、肥前佐賀藩を薩摩・長州・土佐に伍する雄藩に育て上げた名君だった。閑叟の生没年は1815(文化11)~1871年(明治4年)。

 肥前佐賀藩の十代藩主・鍋島閑叟は、九代藩主・鍋島斉直の十七男として、江戸赤坂の溜池にあった鍋島家中屋敷で生まれた。幼名は貞丸。母は池田治道の娘。正室は十一代将軍徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正。維新後は直正と改名した。号は閑叟。

 幼少の貞丸に対し、家中では将来必ず名君になると信じた。それは、キツネに似た彼の容貌から発想したのではない。肥前鍋島家は一代交代で暗君と名君が出た。若殿の父・斉直は女好きの贅沢好みで藩財政を傾けたため、それまでの“法則”に従えば、この嬰児・貞丸は名君になるだろうとの期待を込めた思いからだ。

 1830年(天保元年)、父の隠居の後を受け、17歳で第十代藩主に襲封。藩主時代は将軍家斉の片諱をもらい、斉正と名乗っていた。当時の佐賀藩はフェートン号事件以来、長崎警備などの負担が重く、先代藩主の奢侈・贅沢や、天災による甚大な被害も加わって、藩の財政は破綻状態にあった。斉正は直ちに藩政改革に乗り出したが、前藩主とその取り巻きら保守勢力の抵抗から、改革は困難を極めた。

 だが、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。藩政の機構改革、政務の中枢に、出自にかかわらず有能な家臣たちを積極的に登用するなどの施策を講じたのだ。

 さらに、独自に西洋の軍事・科学技術を導入し、火器の自藩製造に成功。蒸気機関・蒸気船までも完成させるほど、その技術水準は高かった。それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている。

 また斉正は、幕府に先駆けて天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが、日本における天然痘の根絶につながったのだ。

(参考資料)司馬遼太郎「肥前の妖怪」、司馬遼太郎「アームストロング砲」

橋本左内・・・幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本彦也 長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、「安 政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、わずか26年で ある。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸、薩摩など雄藩と 朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない。にもかかわらず、 彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に受け て育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、12歳で藩 立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定されたコースだが、 その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の影響がはっきり表れ ている。15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど 傑出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と題す る手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と同じく士籍 に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の長男に生まれたこ とで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆いている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方洪庵が 種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関しても詳らかでない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達でいささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取り続けた。

彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。

 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。

 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。

 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。

その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。

 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」

福沢桃介・・・日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。

 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。

桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。

破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。

1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。

1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。

こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。

桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

北条泰時・・・日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定

 北条泰時は鎌倉幕府の第三代執権で、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定した人物だ。これによって、武家社会に求められた、鎌倉幕府のより統一的な新しい基本法典が完成したのだ。
 『御成敗式目』は北条泰時が独善的に決めたものではない。京都の法律家に依頼して、律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、彼自身がその内容を把握。そのうえで彼は『道理』(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながら、評定衆たちと案を練り、編集を進め、まとめあげたものだ。「名執権」といわれた泰時ならではの地道な作業だ。1232年(貞永元年)のことだ。

 では、なぜ泰時はこんな法の制定に乗り出したのか。それは、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり、抽象的指導理念が必要となったからだ。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していたのだ。

 この『御成敗式目』、はじめは『式条』『式目』と呼ばれていたが、徐々に変化し、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになった。完成にあたって泰時は、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

 多くの裁判で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うかと笑う人があるかも知れないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。

この『式目』は漢字も知らぬ、こうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ-と。

 北条泰時はこの「道理」という言葉が一番好きだった。『沙石集』という鎌倉時代の説話などによると、彼は、道理ほどおもしろいものはない、と言って、人が道理の話をすると、涙を流して喜んだという。「道理」という言葉には、かなり広い意味がある。人間の身につけるべき本来的な道徳から、守るべき法律、原則に至るまでを含んでいるとみていい。父、北条義時もくだけたエピソードが伝えられていない真面目人間だったようだが、その息子は父に輪をかけたキマジメ青年だった。

 北条泰時は鎌倉幕府第二代執権・北条義時の長男。生没年は1183(寿永2年)~1242年(仁治3年)。幼名は金剛、のち頼時、泰時、春時、観阿、別名は江間太郎。1194年(建久5年)、13歳で元服。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って頼時と名乗った。のち泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の1202年(建仁2年)に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年、嫡男時氏が生まれるが、のちに三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。1211年(建暦元年)、修理亮に補任。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子、次郎朝時だったが、朝時が鎌倉幕府第三代将軍・実朝の怒りを買って失脚したため、庶長子だった泰時が嫡男とされた。

 1213年(建暦3年)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。1218年(建保6年)には父から侍所の別当に任じられた。1219年(承久元年)には従五位上、駿河守に叙任、任官された。1221(承久3年)の「承久の乱」では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方にはともに大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。それ以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

長谷川平蔵・・・松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。

 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。

 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。

 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。

 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。

 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。

 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。

これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。

少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

福沢諭吉・・・「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。 
  
1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。
 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。
1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。
 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」