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右京大夫 私家集で二人の男性との恋を公表した文学者

 正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。

 右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。

 傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。

 彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。

それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 

源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
 現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

大浦 慶・・・亀山社中の面倒をみた女商人,前・後半生で明暗を分けた人生

 大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。

 文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。

 当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。

 3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。

 この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。

 維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。

 若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
 明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。

(参考資料)白石一郎「江戸人物伝 女丈夫大浦お慶の商才」

加賀千代女・・・芭蕉門下の各務支考に認められ全国に名が知れ渡る

 加賀千代女(かがのちよじょ)は、江戸時代中期の女流俳人だ。代表的な句の一つ、「朝顔に つるべ取られて もらい水」など、朝顔の句を多く詠んだことで知られている。
千代女の出身地の松任市(現在の白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。千代女の生没年は1703(元禄16)~1775年(安永4年)。

 加賀千代女は加賀国松任で、表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。号は草風。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭だったと推察される。白山市中町の聖興寺に遺品などを納めた遺芳館がある。

 千代女は幼いころから、一般の庶民にもかかわらず、俳諧を嗜んでいたという。石川郡誌によると、12歳のころには本吉町(現在の美川町)の町方肝煎を務めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられている。

17歳のころ諸国行脚をしていた人に、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が諸国行脚して、ちょうどここにきていると聞き、各務支考がいる宿を訪ねた。このことが、その後の彼女の生き方を決めることになる。

千代女はそこで、弟子にさせてくださいと頼むと「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。彼女は、俳句を夜通し詠み続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で、遂に各務支考に才能を認められた。そのことから、千代女の名を一気に全国に広めることになり、彼女は生涯にわたり句作に励むことになった。

 1720年(享保5年)、18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽、福岡弥八に嫁いだ。このとき「しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり」という句を残した。しかし20歳のとき、不運にも夫に死別し、松任の実家に戻った。
30歳のとき京都で中川乙由(なかがわおつゆう)に会った。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳のときに剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いた。1775年(安永4年)、73歳で没したが、そのとき「月も見て 我はこの世を かしく哉」の辞世の句を詠んでいる。
 生涯で1700余の句を残したといわれ、句集『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。代表的な句に

○朝顔に つるべ取られて もらい水
 (35歳のとき、「朝顔や」と詠み直されている)
○月も見て 我はこの世を かしく哉
○蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
○起きて見つ 寝て見つかやの 広さかな
などがある。

 千代女の郷里、白山市では今も俳句が盛んで、同市で開催される「全国俳句セミナー」や「千代女全国俳句大会」には日本中から多くの俳句愛好者が訪れる。

(参考資料)ホームページ「千代の里 俳句館(石川県白山市殿町)」ほか

元正天皇・・・独身で即位した初の女性天皇 中継ぎ以上の務めを全う

 第四十四代・元正天皇は日本の5人目の女帝だが、あまりにも“中継ぎ”の天皇が強調されて、最も知名度は低いかも知れない。だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、彼女には結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある。但し、父親は男系男子の皇族、草壁皇子のため、男系の血統は維持されている。元正天皇の生没年は680(天武天皇9)~748年(天平20年)。

 元正天皇の父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇。25歳の若さで亡くなった文武天皇(第四十二代天皇)の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
歴史に「たら」「れば」をいってみても仕方がないのだが、それを承知で敢えていわせてもらうなら、文武天皇があと15~20年健在だったら、後を継いだ母・元明天皇、そして姉・元正天皇、両天皇の時代は完全に存在しなかっただろう。文武天皇は25歳で亡くなっているから、あと20年生きていてもまだ45歳。だから、十分あり得る推論なのだ。

 ところが、氷高皇女は弟、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がまだ幼かったため、母・元明天皇から譲位を受け、即位し元正天皇となったのだ。皇室が求める「不改常典(ふかいのじょうてん)」の論理と藤原不比等らの政治的思惑とが相互に作用して、一見強引とも思える母から娘への皇位継承が円滑に行われたようだ。

 中継ぎの天皇といっても、この元正天皇は19年間の在任期間に、朝廷の中核的存在だった藤原不比等と折り合いをつけ、大過なく務めている。717年(養老元年)、藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始め、翌年編纂業務を完了している。720年(養老4年)に『日本書紀』が完成。また、この年に藤原不比等が亡くなっている。

そこで翌721年(養老5年)、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任され、長屋王政権を成立させている。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫だった。それだけに、元正天皇にとって心強い政権の誕生だった。それも、朝廷の中核、藤原不比等がなくなったからこそ、遂に実現したのだ。ちなみに、不比等亡き後、藤原氏の朝廷内の布陣は長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言、次男房前(ふささき)はまだ参議だった。

 豪族の土地所有を否定した律令制度の導入によって「公地公民制」へ転換、実現されるはずだったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しをみせ始めていた。723年(養老7年)制定された「三世一身法(さんぜいっしんほう)」がそれだ。これは田地不足を解消するため、新しい灌漑施設を伴う開墾地は3代、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代のみ私有を認める-というものだった。これによって開墾は進んだが、いずれは国に土地を返さなければならないため、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。

 724年(神亀元年)元正天皇は皇太子・首皇子(聖武天皇)に譲位し、上皇となった。中継ぎ天皇ならここで務めは終わるはずだった。ところが、元正上皇の場合、退位後、20年近くも経ってから、その役割を果たさなければならない時期が到来した。聖武天皇が病気勝ちで職務を行えなくなったこと、あるいは平城京から、恭仁京(くにきょう)、紫香楽京(しがらききょう)、難波京(なにわきょう)と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返すなど、情緒不安定だったためで、上皇は聖武天皇に代わり橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたとみられる。

(参考資料)永井路子「美貌の大帝」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」

川上貞奴・・・明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)~1946年(昭和21年)。

 川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。

 そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。

 日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。

 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。

 8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。

 福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。

(参考資料)小島直記「まかり通る」、小島直記「人材水脈」

建礼門院徳子・・・安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う

 建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。

 保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。

 清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。

 1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。

 その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。

 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。

(参考資料)対談集 永井路子vs 福田善之 

川島芳子・・・清朝皇族の血ひく、日中双方で人気の“男装の麗人”

 川島芳子(本名・愛新覚羅顯●<王偏に子、以下同>)は清朝の皇族・粛親王の第十四王女だが、日本人の養女となった。日本では“男装の麗人”としてマスコミに取り上げられ、新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。日本軍の工作員として諜報活動にも従事し、第一次上海事変を勃発させたともいわれたため、戦後まもなく中華民国政府によって「漢奸」として逮捕され、銃殺刑に処された。だが、処刑された遺体が実際に芳子だったのか、謎や疑問点も少なくない。そのため、日中双方での根強い人気を反映して、現在でも生存説が流布されている。

 川島芳子の字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。川島芳子の生没年は1907~1948年。愛新覚羅氏は満州(中国東北部)に存在した建州女真族の一部族名で、中国を統一し清朝を打ち立てた家系。アイシンとは彼らの言葉で「金」を意味する。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。清朝建国にあたってとくに功績の大きかった八家が他の皇族とは別格とされ、八大王家(のちに四家が加わり十二家に)と呼ばれた。川島芳子もこの八大王家の中から出た女性だ。

 中国で1911年、辛亥革命が起こり、1912年、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位。袁世凱を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が建国されたのに伴い、袁世凱の政敵でもあった粛親王が北京を脱出。日本の租借地だった関東州旅順に、家族とともに亡命した。旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯●も日本に養女にいく前の一時期をそこで過ごした。この際、一家亡命の橋渡し役を務めたのが、粛親王の顧問だった川島浪速だ。

粛親王が復辟運動のために、日本政府との交渉人として川島浪速を指定すると、川島の身分を補完し、両者の親密な関係を示す目的で、顯●は川島浪速の養女となり芳子という日本名が付けられた。
 1915年に来日した芳子は当初、東京・赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居に伴い、長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父、粛親王が死去し、葬儀参列のため長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。

 芳子は17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。断髪の原因は、山家亨少尉との恋愛問題とも、養父・浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。断髪した直後に女を捨てるという決意文書を認め、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとに取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像となり、昭和初期の大衆文化の中に形成される大きな要因となった。

 芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は、世間で高い関心を呼び、芳子のマネをして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を起こしていた。

 1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが、3年ほどで離婚した。その後、上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。だが、実際に諜報活動をしたのかどうか、その実態は謎に包まれている。

(参考資料)西沢教夫「上海に渡った女たち」、園本琴音「孤独の王女 川島芳子」

光明皇后・・・皇族以外で初めて皇后位に就いた女性

 光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。

 彼女の生没年は701~760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749~757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。

これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。

しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。

幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。

光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。

その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。

 (参考資料)梅原猛「海人と天皇」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子対談集「光明皇后」(永井路子vs竹内理三)

吉備内親王・・・冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃

 吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。

 吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。

 ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている-との密告があった。

そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。

 繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。

 ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか-との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、永井路子「美貌の大帝」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」

後深草院二条・・・「蜻蛉日記」と双璧の、「とはずがたり」を著す

 後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は後深草上皇に仕えた女房二条
のことで、彼女は鎌倉時代の中後期に五巻五冊からなる「とはずがたり」を著した。

 この作品は、誰に問われるでもなく、自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深 れている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれるとみる研究者もいる。1313年ごろまでに成立したとみられる。

 二条は出家するにあたり五部の大乗経を写経しようと決意、発願する。「華厳経」60巻、「大集経」26巻、「大品般若経」27巻、「涅槃経」36巻、「法華経」8巻など。有職故実書をみると、合計190巻、料紙4220枚となっており、これ全部を写経するとなると大変な作業だ。

 この写経、「とはずがたり」を綴り終わるまでには全部を書写しきれなかったようだが、様々な文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。不屈の意志で、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁を繰り返すというやり方だ。

例えば、「大品般若経」の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して、残りは熊野詣で写経。「華厳経」の残りは熱田神宮で書写して収め、「大集経」は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まり込んで書写するという具合だ。出家して尼になった二条が、まさに“女西行”になったような趣だ。

 ここで、二条が著した傑作「とはずがたり」のあらすじを紹介しておこう。第1巻は、二条が2歳のときに母を亡くし、4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に慕っている「雪の曙」がいるにもかかわらず、父とも慕ってきた後深草院の寵愛を受ける。後深草院の子を懐妊、ほどなく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。

 第2巻は二条が18歳になっている。粥杖騒動と贖い。後深草院の弟の亀山院から好意を示される。さらに御室・仁和寺門跡の阿闍梨「有明の月」に迫られ、契りを結ぶ。女樂で祖父の兵部卿・四条隆親と衝突。「近衛大殿」と心ならずも契る。

 第3巻では、有明の月の男児を産むが、他所へやる。有明の月が急死。有明の月の第二子を産み、今度は自らも世話をする。御所を退出する。
 第4巻はすでに尼になって、出家修行の旅に出ている場面から再開。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇に再会。伊勢へ。
 第5巻は45歳以降のこと。安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらに土佐の足摺岬。後深草法皇死去。

 登場人物のうち、「二条」は久我雅忠の娘、「雪の曙」は西園寺実兼、「有明の月」の阿闍梨は性助法親王、「近衛大殿」は鷹司兼平とみられる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」