「中年悪女の系譜」カテゴリーアーカイブ

村山加寿江・・・井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動

村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。

加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。

加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。

これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

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淀君・・・息子秀頼への“教育ママ”ぶりと権勢欲が豊臣氏を滅ぼす

歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。

淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。

まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。

やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。

淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」