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豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」

高橋泥舟・・・鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。

 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。

 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。

以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。

 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。

 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。

 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸無血開城」

道元・・・異国での修行研鑽で自己の信仰を決定した曹洞宗の開祖

 鎌倉新仏教の祖師と呼ばれる人々の中で、曹洞宗の開祖・道元は極めて異色の存在だった。鎌倉新仏教は末法の世が到来したという仏教の予言を信じ、その現実認識を大前提として生まれ、そして発展していった。ところが、道元は末法の到来を頑として認めず、いわば反時代的な信念のもとに、独自の骨太い思想、宗教の世界を構築してみせた。また、日本的仏教の伝統に絶望を表明して宋に渡り、異国での修行研鑽によって自己の信仰を決定したというのも、道元だけだ。栄西(臨済宗開祖)は道元に先立って入宋し、臨済禅をわが国に伝えたが、その信仰は日本天台宗の影響を抜け切れなかったし、法然(浄土宗開祖)や親鸞(浄土真宗開祖)、日蓮(日蓮宗開祖)らは海外渡航体験さえ持っていない。

 道元禅師は京都に生まれた。生没年は1200(正治2)~1253年(建長5年)。父は源通親(みちちか)、母は松殿基房の娘(三女の伊子=いし、と推定される)だ。この父母を持ったことが、後年の道元の厳しい姿勢の源だったのではないかと思われる。源通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。彼は平家が勢いを得はじめると、最初の妻を捨てて清盛の姪を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばした。そして平家が落ち目になると、二度目の妻を捨てて高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についた。節操もなく、恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。
道元の母は1183年(寿永2年)、源氏の中でもいち早く都に攻め上った木曽義仲が、後白河法皇の立て籠もる法住寺殿を焼き討ちした法住寺合戦の後で、その義仲によって不幸にも“掠奪”同様のありさまで妻にされた人だ。木曽山中に成人して、戦いしか知らなかった野生の武人、義仲はこの女性に溺れた。この前関白・松殿基房の娘は、一代の風雲児の心を狂わせ戦機を逸させたのだ。

この女性が義仲の死後、世人に疎まれていたのを、源通親が引き取って自分の妻とした。その間に生まれたのが道元禅師だ。父の通親は道元が3歳のとき、母は8歳のとき、それぞれ亡くなった。その後、道元は異母兄にあたる源通具(みちとも)に育てられた。そして13歳の年、道元は母方の叔父にあたる良顕法眼(りょうけんほうげん)を訪ねて出家の志を告げた。そして翌年、天台座主公円のもとで道元は出家したのだ。出家後の名は仏法房道元。つまり、道元という名は天台宗時代のもので、曹洞宗になっても天台宗時代の名を称し続けていたことになる。

 道元は日本仏教史上でも傑出して権門を忌避した人物だ。また性的な誘惑に対して身を持すること厳だった人だ。それは腐敗した政治家を父に持ち、性の犠牲者ともいうべき人を母に持った、生い立ちに原因があったものと推察される。両親の姿が道元の心に、癒されることのない深い傷となって、13歳という若さでの出家、そしてその後の特異な人生を彼に歩ませた大きな原因の一つだろう。
 天台教学を学ぶうちに、道元には一つの疑問が湧いてきた。それは天台宗の教えでは一切の衆生はもともと仏であると教えている。では仏であるはずの人間が、なぜ修行を積まなければならないのか-という点だ。彼はこの疑問を師や先輩たちにぶつけてみた。しかし、まともに答えられる人はいなかった。あるとき、園城寺の公胤を訪ねたとき「禅を学ぶ必要がある」といわれた。

そこで道元は1217年(建保5年)、京都の建仁寺に修行に入った。道元18歳のときのことだ。建仁寺の住持で栄西の高弟、明全(みょうぜん)について宋に渡ったのは1223年(貞応2年)のことだ。天童山景徳寺、阿育王山・天台山ほか、いろいろな寺を訪ねて禅を修行していくうちに、世俗権力との癒着の強い臨済禅に失望し始める。そして、最終的に再び天童山に戻ったところで、道元にとってその後の運命を変えた、生涯の師となる如浄(にょじょう)に出会い師事し、曹洞禅を学ぶことになったのだ。結局、道元は1227年(安貞元年)、28歳の年に帰国し、日本に曹洞禅をもたらした。こうして「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただひたすら坐禅を組むことによって、悟りを開くという曹洞禅が全国に広まることになったのだ。

 道元は密教とか天台とかいうようなものを持ち帰ったのではない。人間はみな仏という、徹底した悟りそのものになって帰ってきたのだ。「さとりの深化の過程」について道元は『正法眼蔵』弁道話巻の中で、こう言っている。原文は長く難解なので要約すると次のような内容だ。

「ある人が悟ると、周りにいる者がみんな浄化されて次々に悟る。これらの悟った人の働きに助けられて、その坐禅人はさらに仏としての修行を積むようになり、遂には周りの自然界まで仏の働きをあらわすようになる。しかも本人はそのことを知らない」
こんな生き方ができたらどんなに素晴らしいだろうか。
 主著『正法眼蔵』はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を浴びた。

(参考資料)百瀬明治「開祖物語」、紀野一義「名僧列伝」、懐奘編「正法眼蔵随聞記」、司馬遼太郎「街道をゆく・越前の諸道」

高松凌雲・・・戊辰戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置

 高松凌雲は戊辰戦争の最後の舞台、函館・五稜郭戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置した人物だ。その後、民間救護団体の前身といわれる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされている。生没年は1837(天保7年)~1916年(大正5年)。
 高松凌雲は現在の福岡県小郡市で庄屋の子として生まれた。名は権平、荘三郎。20歳のとき久留米藩家臣の川原家の養子となった。22歳で江戸にいる兄、古屋佐久左衛門を頼って上京。医師を志すようになる。まず蘭方医として有名だった石川桜所(おうしょ)の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。

その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた「適塾」に入塾し、緒方洪庵の指導を受けた。1861年(文久元年)のことだ。適塾の「姓名録」には580番目に高松凌雲の署名が残されている。凌雲はここで頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を操るまでになった。さらに幕府が開いた英学所で学び英語もマスターした。

 1865年(慶応元年)、凌雲の学才を知った一橋家が、彼を一橋家の専属医師として抜擢する、ほぼ時を同じくして一橋家出身の慶喜が第十五代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用されることとなった。凌雲はわずか1年数カ月の間に、無名の蘭学書生の境遇を脱し、幕藩体制下における医師の最高位昇りつめたわけだ。伊東玄朴や林洞海、松本良順らの錚々たる大家、それに恩師の石川桜所とも、いまや肩書き上、凌雲は同格だった。

 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に慶喜が弟の昭武を団長とする派遣団に随行していた凌雲は、パリ博終了後、留学生としてパリに残るよう言い渡された。資金は幕府負担。凌雲が留学先として選んだのがオテル・デュウ(神の家)という病院を兼ねた医学学校だ。彼はここで様々な最新医療に触れた。この病院は貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院だった。

 1年半にわたるパリ留学を終えて帰国した凌雲は、すでに幕府が崩壊し江戸城は薩長勢に明け渡され、主君・慶喜は水戸で謹慎中という状態に驚いた。彼はパリに留学させてくれた幕府への恩義に報いるため蝦夷地で幕臣の国をつくろうとして旧幕府軍の総帥・榎本武揚らに合流。函館戦争に医師として参加する。

 函館に入ると、凌雲は函館病院の院長に就任した。これは榎本の依頼だったが、「病院の運営には一切口出ししない」という条件を榎本につけたという。凌雲は2階建ての病棟を2棟新築することを決め、工事を急がせた。病院の内治にも意を用い、病院規則を定めて運営の組織化を図った。そして、医務心得、病者取り扱い、看護人心得などの細則を次々と制定し病院管理の近代化を推進した。戦時下、明治2年に落成した新築の病棟はわが国に出現した最初の本格的な洋式野戦病院とされている。
ここで凌雲は、戦傷者であれば敵味方を問わず公平に受け入れて、できる限りの治療を施した。これは当時としては全く異例のことといっていい。当然最初は敵方の兵士とともに治療されることに対して混乱・反発が生まれたが、凌雲はパリで学んだ「神の家」精神を胸に、毅然とした態度でこれを制した。この行動は日本で初めての万国赤十字の精神に通じるものであり、日本史において大きな出来事だった。函館戦争は圧倒的な官軍勢力の前に、ほどなく旧幕府軍の敗北で終結。

 その後、凌雲は東京へ戻って病院を開院。新政府での役職の誘いが多数きたが、それらをすべて断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選んだ。もし出仕すれば、相当の栄達が約束されていたはずなのに、あえて民医に徹したのは、一つには恩義のある幕府の悲運に準じるという意識を抱いていたからであり、また最後まで奥医師就任を渋り在野の生き方を望んだ適塾の緒方洪庵と同質の精神が脈打っていたからではないか。

洪庵の影響がもっとはっきりしているのは、東京都下貧民の救済医療組織、同愛社を組織したことだ。同愛社は官の補助をあてにしない医療福祉事業団の先駆けとなった。その意味で、医師凌雲にとって、適塾はまさしく出発点であり、心の故郷だったわけだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、百瀬明治「『適塾』の研究」

遠山景元・・・実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。

 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。

 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。

 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。

 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。

 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。

 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。

景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

直江兼続・・・120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将

 上杉家の領地は、関ケ原合戦が起こるまで会津を中心に120万石もあった。関ケ原以後は4分の1の30万石になってしまった。西軍には参加しなかったが、徳川に敵対行動を取ったからだ。主君上杉景勝にそのような態度を取らせたのは筆頭家老の直江山城守兼続だ。わかりやすくいえば、彼の失敗が90万石の減俸に相当したわけだ。当然、彼が責任を取って切腹することもあり得たし、景勝が切腹を申し付けてもおかしくはない。ところが、現実にはそういうことにはならなかった。

 残った30万石の領地は、家老の直江が景勝から貰っていた米沢領だ。景勝がこの米沢30万石に移封となり、兼続は景勝から5万石を賜ったが、4万石を諸士に分配、さらに5000石を小身の者たちに与え、自分のためには5000石を残しただけだったという。そして、石高が4分の1に減ったのだから藩士を減らして当たり前なのだが、上杉家は家臣に対し米沢についてくる者は一人も拒まぬことを決め、120万石時代の家臣を米沢30万石に迎え、堂々たる(?)貧乏藩米沢のスタートを切る。この時代「すべて私の責任です」と切腹する方がどれくらい楽か知れないのに、苦しい辛い道を選んで平然としていた直江兼続とはどのような人物だったのか。

 木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光がいた。直江兼続はこの樋口兼光の子孫で、直江家に入る前までの彼の名は樋口与六だ。樋口家は父の樋口兼豊の代にはかなり衰えていた。上杉謙信の家来に、能登の石動山城城主を務める直江実網という武将がいた。兼続が直江実綱の養子になったのは何年のことか分からないが、22歳の時に直江家を相続したのははっきりしている。天正9年(1581)のことだ、そして、翌年、兼続は山城守の称を許されている。まだ23歳の若さで家老クラスに昇ったわけだ。

というのも上杉謙信の養子となり後年、上杉家当主となる上杉景勝と、兼続は“ご学友”として直江実綱のもとで一緒に育った時期があるのだ。後年、二人の連携プレイが繰り広げられたのはこうした背景があるからだ。兼続は謙信にまもなく登用され、少年の身で参謀になるが、あまりにもスピードの速い栄進ぶりに家中では、「樋口与六は謙信公の稚児だ」との噂が立ったほど。

 直江兼続の名を一段と高めたのは織田信長亡きあと、天下人に昇りつめる豊臣秀吉だ。その過程で、柴田勝家を越前北ノ庄城に破り、次いで佐々成政を降伏させた後、上杉とは事を構えたくない秀吉が、当主上杉景勝の信用があって、非戦論の持ち主で、格好の交渉相手として白羽の矢を立てたのが直江兼続だ。この交渉の根回しをやったのは、兼続と同じ年齢の石田三成だ。

 翌年、上杉景勝は大軍を率いて上洛した。秀吉の関白就任祝賀が名目だが、つまり秀吉の覇権を公式に承認し、その下に屈することを表明するわけだ。兼続ももちろん同行するのだが、秀吉の兼続に対する態度はまるで大名に対するようだった。上杉と戦わずに済んだのはこの男のお蔭だという思いが強かったのだろう。景勝と兼続との信頼関係を十分に見抜いていたから、自分がどれだけ兼続を厚遇しても君臣の間にヒビの入るおそれもないと分かっていたからに違いない。

 慶長2年(1597)、上杉景勝は秀吉五大老の一人となり、その翌年、上杉家は会津120万石に移された。そして、このうち米沢30万石が直江兼続の所領になった。30万石の家老は空前絶後である。大名でも10万石以上となると、数えるほど少ない、そんな時代のことだ。上杉藩における兼続の存在の大きさ、重さの何よりの証だ。

(参考資料)藤沢周平「蜜謀」、童門冬二「北の王国 智将直江兼続」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」                             

西周・・・慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介

 西周(にしあまね)は、大政奉還前後の期間、第十五代将軍・徳川慶喜の政治顧問を務めた人物だ。また、わが国に西洋の諸文明を初めて総合的に紹介した人物の一人で、西洋哲学の翻訳・紹介など哲学の基礎を築くことに尽力。福沢諭吉とともに西洋語の「philosophy」を音訳でなく、翻訳語として、「哲学」という言葉を創った。このほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「帰納」「演繹」など、今日ではあたり前になっている多くの哲学、科学関係の言葉は西の考案した訳語だ。

 西周は石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医、西時義の長男として生まれた。父・西時義は、森鴎外の曽祖父・森高亮の次男で、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。年齢は30歳以上違う。周の生家の川向いには親戚、鴎外の生家がある。幼名は経太郎、明治維新後、周(あまね)と称した。幼時から漢学に親しみ、1841年(天保12年)藩校養老館で蘭学を学んだ。江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者。生没年は1829(文政12)~1897年(明治30年)。

 数え年20歳のとき、朱子学に専心することを命じられ、大坂、岡山に遊学した後、藩校の教官となった。1854年、ペリー来航により江戸に派遣され、時勢の急迫を感じ、翌年脱藩して洋学に専心。1857年(安政4年)には蕃書調所の教授手伝並となり、同僚の津田真道、加藤弘之などとともに哲学ほか西欧の学問を研究。1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んだ。このときフリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。

 1865年(慶応元年)に帰国した後、大政奉還前後においては、将軍徳川慶喜
の政治顧問を務め、1868年(慶応4年)、幕府の沼津兵学校初代校長に就任。1870年(明治3年)、明治政府の兵部省に入り、以後、文部省、宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭、軍人訓戒の起草に関係するなど、軍制の整備とその精神の確立に努めた。

 軍人勅諭、正確には『軍人に賜りたる勅諭』は、西周が起草し、井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にも分かるように、文章をやわらかくした。公布されたのは1882年(明治15年)だった。
 周は1873年(明治6年)、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに「明六社」を結成し、翌年から機関誌「明六雑誌」を発行。西洋哲学の翻訳・紹介に努めた。1890年(明治23年)、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。

 明治維新後の文化史を語るとき、西周は欠かすことのできない人物だが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。それは、周が福沢のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとったからだ。そのため、周を“御用学者”と見做して過小に評価されている側面があるのだ。哲学、科学に限らず様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は、再評価されてしかるべきと思われる。

 森鴎外は西周没後の1898年(明治31年)、正伝ともいうべき「西周伝」を書いている

(参考資料)司馬遼太郎「この国のかたち 四」

中江兆民・・・日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となっていたことで知られ、「東洋のルソー」と評される。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人。1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学ぶが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。

 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。

1866年(慶応2年)江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた兆民は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。

 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書「民約論」や「エミール」などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。「英国財産相続法」などの翻訳書を出版する。

 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。

 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、「政理叢書」という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著「民約論」の抄訳「民約訳解」をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年「三酔人経綸問答」を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の「東雲(しののめ)新聞」主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。

 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は世人から奇行とみられた。
 主な著書に随想集「一年有半」、兆民哲学を述べた書「続一年有半」などがある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

新渡戸稲造・・・国際連盟・事務次長を務めた国際派の硬骨漢

 新渡戸稲造は曾祖父以来、英才を輩出した新渡戸家の血を引く、高潔でかなり熱い硬骨漢だった。農学者で教育者であり、また国際連盟の事務次長を務めるなど国際的な舞台で活躍し、第二次世界大戦へ突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった人物だ。著書『Bushido The Soul of Japan』(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著といわれる。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。

 新渡戸稲造は、盛岡藩士で藩主・南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として、岩手県盛岡市で生まれた。新渡戸の生没年は1862(文久2)~1933年(昭和8年)。
 新渡戸は9歳で上京し、1873年(明治6年)、東京外国語学校英語科(後の東京英語学校、大学予備門)に入学した。数え年で13歳のときのことだ。その後、1877年(明治10年)、札幌農学校(後の北海道大学)に第二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士は去っていたが、そのスピリットはまだ色濃く残っていた。在学中に洗礼を受けキリスト教徒となった。この同期に内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らがいる。1881年(明治14年)札幌農学校卒業した。

 1883年(明治16年)、新渡戸は東京大学(後の東京帝国大学)入学するが、飽き足らず、「太平洋の架け橋」になりたいと考えるようになった。太平洋の架け橋とは、西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる-との意味だ。これは美しい理想で、口にはできても、実現するとなるとなかなか容易なことではない。

だが、新渡戸は翌年東京大学を退学し、その思いを実行に移す。私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。1884年(明治17年)のことだ。やがて、札幌農学校以来の旧来のキリスト教の信仰に確信を持てなくなっていた彼は、クェーカー派の集会に通い始め、正式に会員となり、彼らを通じて、後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。アメリカに留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、1887年(明治20年)にはドイツに渡り、ボン大学で農政、農業経済学を研究している。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となった。

 1901年(明治34年)、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年、第一高等学校校長となり、7年間在籍。1909年から東京帝国大学教授として植民政策を講義している。さらには1918年(大正7年)、東京女子大学学長となった。

 一方、「太平洋の架け橋」になりたいとの信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~26年)あるいは太平洋問題調査会理事長(1923~33年)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8年)、カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと、病を得て同年、同地で死去した。日本における農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士として著名だ。

 新渡戸は英語で『武士道(Bushido)』を書いた。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるのだが、彼はこの本を通して未開の野蛮国と見られていた日本にも“武士道”という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのだ。その結果、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。

 日本国内でも『武士道』が邦訳されて発売されると、たちまちベストセラーになった。それは、明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ。

 ただ、ここで表現されている「武士道」は江戸期までの「武士」の時代に、武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものを掴んだと信じたうえで、自己の「道徳性(モラリティ)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼(そしゃく)したうえで、これを「武士道」として構成したものだ。それは明治人の気骨の一面をよく掴んでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表している。
 主な著書に『農業本論』(1898年)、『武士道』(1900年)、『修養』(1911年)などがある。

(参考資料)

中江藤樹・・・身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。

 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。

 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。

 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。

 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した「翁問答」にある言葉を紹介しよう。

○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。

○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。

○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。まさに、“人間賛歌”の言葉だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」