「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

中島知久平・・・日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。

 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。

 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。

中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。

 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。

その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

鍋島閑叟・・・破綻した藩財政を立て直し、幕末の先進雄藩に育て上げる

 鍋島閑叟(直正)は幕末・維新にかけて肥前佐賀藩の藩主を務め、破綻した藩の財政改革、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。さらに独自に西洋の軍事技術の導入を図り、精錬方を設置し反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功したほか、蒸気機関・蒸気船までも完成させる先進雄藩となった。

ただ、同藩は薩摩・長州・土佐藩などと比べると、幕府あるいは他藩に対し、自己主張するような姿勢はほとんど取らず、自主・独立独歩の道を歩んだ。その意味で、鍋島閑叟は地味だが、肥前佐賀藩を薩摩・長州・土佐に伍する雄藩に育て上げた名君だった。閑叟の生没年は1815(文化11)~1871年(明治4年)。

 肥前佐賀藩の十代藩主・鍋島閑叟は、九代藩主・鍋島斉直の十七男として、江戸赤坂の溜池にあった鍋島家中屋敷で生まれた。幼名は貞丸。母は池田治道の娘。正室は十一代将軍徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正。維新後は直正と改名した。号は閑叟。

 幼少の貞丸に対し、家中では将来必ず名君になると信じた。それは、キツネに似た彼の容貌から発想したのではない。肥前鍋島家は一代交代で暗君と名君が出た。若殿の父・斉直は女好きの贅沢好みで藩財政を傾けたため、それまでの“法則”に従えば、この嬰児・貞丸は名君になるだろうとの期待を込めた思いからだ。

 1830年(天保元年)、父の隠居の後を受け、17歳で第十代藩主に襲封。藩主時代は将軍家斉の片諱をもらい、斉正と名乗っていた。当時の佐賀藩はフェートン号事件以来、長崎警備などの負担が重く、先代藩主の奢侈・贅沢や、天災による甚大な被害も加わって、藩の財政は破綻状態にあった。斉正は直ちに藩政改革に乗り出したが、前藩主とその取り巻きら保守勢力の抵抗から、改革は困難を極めた。

 だが、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。藩政の機構改革、政務の中枢に、出自にかかわらず有能な家臣たちを積極的に登用するなどの施策を講じたのだ。

 さらに、独自に西洋の軍事・科学技術を導入し、火器の自藩製造に成功。蒸気機関・蒸気船までも完成させるほど、その技術水準は高かった。それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている。

 また斉正は、幕府に先駆けて天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが、日本における天然痘の根絶につながったのだ。

(参考資料)司馬遼太郎「肥前の妖怪」、司馬遼太郎「アームストロング砲」

橋本左内・・・幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本彦也 長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、「安 政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、わずか26年で ある。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸、薩摩など雄藩と 朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない。にもかかわらず、 彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に受け て育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、12歳で藩 立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定されたコースだが、 その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の影響がはっきり表れ ている。15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど 傑出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と題す る手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と同じく士籍 に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の長男に生まれたこ とで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆いている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方洪庵が 種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関しても詳らかでない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達でいささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取り続けた。

彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。

 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。

 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。

 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。

その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。

 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」

福沢桃介・・・日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。

 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。

桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。

破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。

1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。

1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。

こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。

桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

北条泰時・・・日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定

 北条泰時は鎌倉幕府の第三代執権で、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定した人物だ。これによって、武家社会に求められた、鎌倉幕府のより統一的な新しい基本法典が完成したのだ。
 『御成敗式目』は北条泰時が独善的に決めたものではない。京都の法律家に依頼して、律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、彼自身がその内容を把握。そのうえで彼は『道理』(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながら、評定衆たちと案を練り、編集を進め、まとめあげたものだ。「名執権」といわれた泰時ならではの地道な作業だ。1232年(貞永元年)のことだ。

 では、なぜ泰時はこんな法の制定に乗り出したのか。それは、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり、抽象的指導理念が必要となったからだ。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していたのだ。

 この『御成敗式目』、はじめは『式条』『式目』と呼ばれていたが、徐々に変化し、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになった。完成にあたって泰時は、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

 多くの裁判で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うかと笑う人があるかも知れないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。

この『式目』は漢字も知らぬ、こうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ-と。

 北条泰時はこの「道理」という言葉が一番好きだった。『沙石集』という鎌倉時代の説話などによると、彼は、道理ほどおもしろいものはない、と言って、人が道理の話をすると、涙を流して喜んだという。「道理」という言葉には、かなり広い意味がある。人間の身につけるべき本来的な道徳から、守るべき法律、原則に至るまでを含んでいるとみていい。父、北条義時もくだけたエピソードが伝えられていない真面目人間だったようだが、その息子は父に輪をかけたキマジメ青年だった。

 北条泰時は鎌倉幕府第二代執権・北条義時の長男。生没年は1183(寿永2年)~1242年(仁治3年)。幼名は金剛、のち頼時、泰時、春時、観阿、別名は江間太郎。1194年(建久5年)、13歳で元服。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って頼時と名乗った。のち泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の1202年(建仁2年)に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年、嫡男時氏が生まれるが、のちに三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。1211年(建暦元年)、修理亮に補任。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子、次郎朝時だったが、朝時が鎌倉幕府第三代将軍・実朝の怒りを買って失脚したため、庶長子だった泰時が嫡男とされた。

 1213年(建暦3年)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。1218年(建保6年)には父から侍所の別当に任じられた。1219年(承久元年)には従五位上、駿河守に叙任、任官された。1221(承久3年)の「承久の乱」では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方にはともに大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。それ以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

長谷川平蔵・・・松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。

 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。

 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。

 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。

 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。

 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。

 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。

これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。

少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

福沢諭吉・・・「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。 
  
1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。
 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。
1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。
 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」

北条義時・・・若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。

頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。

 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。

 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。

結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。

 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。

 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

華岡青洲・・・通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医

 和歌山県那賀郡那賀町に華岡家発祥の地記念碑が建立されている。この小さな片田舎の村に、華岡青洲に診てもらうために、はるか江戸からも大勢の患者がやってきた。汽車も自動車もない時代に。だから相当の金持ちしか行っていない。そのために村に落ちたお金は大きい。華岡青洲のお陰で村は栄えたのだ。

 一介の村医者、華岡青洲は1804年(文化元年)、大和国宇智郡五條村(現在の奈良県五條市)の染物屋を営む利兵衛の母親、勘という60歳の女性に、乳がんの麻酔手術を、患者に痛みを感じさせずに行った最初の人として知られている。世界の医学に先駆けること42年。彼には近代医学の開き手、前人未到の外科領域の開拓者としての栄誉が与えられている。彼はこの偉業を独特の麻酔薬、通仙散(つうせんさん)の発明によって成し遂げた。この時、青洲46歳。全身麻酔下での外科手術の成功は、人々に大きな衝撃を与えた。当時、蘭方医の大御所だった杉田玄白は、30歳も若い青洲に教えを請う手紙を書いている。

 華岡青洲は華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目。生没年は1760(宝暦10年)~1835年(天保6年)。

 1782年(天明2年)、京都へ出て吉益南涯に古医方を3カ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科(オランダの医師カスパルが日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。この時、購入し読んだ医書でとくに心に残り影響を受けたのが永富嘯庵の「漫遊雑記」で、この中に乳がんの治療法の記述があり、後の伏線となった。

 青洲は1785年(天明5年)、帰郷して父・直道の後を継ぎ開業した。安心したのか父はまもなく64歳で死去。青洲は手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めた。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の花(チョウチンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成にこぎつけたが、人体実験を前にして行き詰まった。そこで、実母の於継と妻加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成した。

 青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行っている。彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。
 青洲は1802年(享和2年)、紀州藩主・徳川治寶に謁見して士分に列し帯刀を許された。1813年(文化10年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用された。ただし、青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。1819年(文政2年)「小普請御医師」に昇進し、1833年(天保4年)、「奥医師格」となった。

 青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が殺到した。彼は門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けた。そして数多くの医師を育て、弟子の中から本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜といった優れた外科医を輩出している。
(参考資料)有吉佐和子・榊原仟「日本史探訪/国学と洋学」

福地源一郎・・・江戸開城後の江戸で新聞を創刊したマスコミ人の草分け

 福地源一郎(桜痴)は江戸城開城後の江戸で「江湖(こうこ)新聞」を創刊。同紙で新政府を批判し、明治時代初の言論弾圧事件の被害者となった。また、東京日日新聞の主筆として活躍、後には社長まで務めるなど、近代ジャーナリストの“草分け”的存在だ。その人間像は徳富蘇峰の人生に大きな影響を与えたといわれる。ただ、ジャーナリストとしての後半生は「御用記者」として、体制べったりの姿勢を維持したことには、彼自身マスコミ人の草分けであっただけに、悔悟の念に苛まれたのではないだろうか。生没年は1841(天保12年)~1906年(明治39年)。

 福地源一郎は、長崎で医師、福地荀庵の息子として誕生。幼名は八十吉。号は桜痴。幼時は「神童」といわれ、数え年4歳で『三千経』『孝経』の素読を始めている。12歳で漢文「皇朝二十四孝」を書くという早熟を見込まれ、長崎のオランダ大通詞名村八右衛門の門下生になり、オランダ語を学ぶが、一年後にはもう通弁見習のポストを手に入れた。これが15~16歳のころのことだ。

福地が著した『新聞紙実歴』によれば、新聞なるものを知ったのは、このときだ。オランダ人は年々来航のたびに「風説書」というものを長崎奉行に提出する。海外事情の報告書で、これを大通詞の名村が和訳し、福地少年が筆記させられた。西洋諸国には新聞紙といって、毎日刊行して自国はむろん、外国のことを知らせる紙がある。カピタンは長崎・出島にいながら、それを呼んで重要なことだけを奉行所へ報告しているのだ-と名村は教えてくれ、そばにあったオランダの古新聞を与えてくれた。

福地には、自分にできぬことはないという自覚が固まり、他人がバカに見えて仕方がない。バカにしないまでも、あいつはバカだと思えば、つい顔に出、それが敵をつくる原因になる。1857年、海軍伝習所の軍艦頭取・矢田堀景蔵に従って江戸に出た。江戸で真っ先に覚えたのは吉原通いだった。有り金はたいて足りず、食い詰め、放浪したこともある。このときはさすがに閉口したようだが、結局懲りず、福地の吉原通いは一生続くのだ。後述するが「東京日日新聞」主筆時代が彼の絶頂期といえるが、朝出勤すると、論説原稿をさっと書き上げ、おもむろに腰を上げ吉原へ繰り込むといった調子だ。吉原通いの途中で新聞の仕事をしていくという方が表現としては正確だったようだ。

以後、2年ほど英国の学問や英語を森山栄之助の下で学んだ。そして外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事する。1861年、1865年には幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界を視察した。ロンドン、パリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せた。パリでは本来の通弁の仕事ではなく、国際法の勉強をするはずだったが、国際法以前の、ヨーロッパ各国通史を知らないし、公用語のフランス語を知らない。そんなわけでフランス語の初歩から学ぶことになった。率直にフランス語修得を喜び、帰国すると幕府は崩壊寸前、そして遂に幕府は倒れた。

 福地は江戸城開城後の1868年、江戸で「江湖新聞」を創刊した。彰義隊が上野で敗れた後、同紙に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、というが、幕府側が倒れて、薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と薩長の横暴を厳しく批判。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分。福地は逮捕されたが、木戸孝允のとりなしで無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件だ。静岡でほとぼりの冷めるのを待ち、また東京に出た。戯作と翻訳、そして吉原通いの日々だ。福地は吉原で酒は全く呑まないのだ。芸者を呼んでも三味線は弾かせず、おもしろくないと、3日も4日も待合で外国語の本を読んでいる-といった具合だ。

 1870年、大蔵省に入り翌年、岩倉使節団の一等書記官として各国を訪れた。帰国後の1871年、政府系の東京日日新聞に入社。主筆を務め、ジャーナリストとして筆名を上げ、部数を飛躍的に伸ばした1874年(明治7年)から、西南戦争の戦況報道を経て、1881年(明治14年)までが福地の全盛期だった。後には社長も務めた。また、東京府府会議長も務めて政界にも進出した。

 1889年(明治22年)に完成した東京の歌舞伎座は、福地が全面的な構想を描いたもので、座主のポストには福地が就くはずだった。しかし、それを維持するだけの金がなかったのだ。これは不幸だった。座主の椅子を手放してからは、単なる一作者として脚本を書いた。多芸多才人の数奇な人生だった。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、司馬遼太郎「峠」、小島直記「無冠の男」