「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

山田方谷・・・農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師

 最近ようやく注目を浴びるようになったが、山田方谷(やまだほうこく)の名を知る人はまだまだ少ないだろう。農民出身ながら徳川幕府最後のとき、首席老中を務めた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝静に代わって、家老として藩主の留守を守り抜き、藩政を代行した人だ。もっと知られているのが、明治維新直前の越後長岡藩を率いた河井継之助が学んだ藩政改革の師だ。

 岡山駅から鳥取県の米子に通ずる鉄道がある。伯備線という。この伯備線の備中高梁駅は山田方谷が活躍した最大の拠点だ。臥牛山と呼ばれる城山の山頂に松山城がある。麓に「牛麓舎」という塾の跡が残されているが、これが方谷の塾だ。このあたりには方谷林とか方谷橋など方谷の名がつけられた市民施設がたくさんある。それほど山田方谷は現在の高梁市民にとって誇れる存在なのだろう。伯備線でさらに20分ほど北へ向かうと「方谷」という駅に着く。この駅名も山田方谷の名を取ってつけられた。鉄道当局の強硬な反対に遭ったものの、最終的に住民たちの熱意が受け入れられ、全国のJRの駅の中でも珍しい人名が駅名となった第一号だった。

 山田方谷を登用した藩主板倉勝静は、もともと板倉家の人間ではない。板倉家の先祖は、京都所司代として有名な勝重であり、その子重宗である。勝静は桑名藩主松平定永の第八子で、天保13年(1842)に板倉家の当主勝職の養子となり、嘉永2年(1849)、27歳の時に藩主の座を継いだ。桑名の松平家は、「寛政の改革」を推進し、“白河楽翁”の号で有名な松平定信の子孫だ。こうした名家の血か、勝静は幕府の老中になることを熱望した。

 ただ、それには大きな障害を克服しなければならなかった。障害とは藩が極貧状態にあることだった。この頃、松山藩は窮乏のどん底にあり、藩の収入が雑税を含めて一切合財、換金しても5万両だというのに、その倍の10万両の借金を抱え込んでいた。これを解決しない限り、勝静の中央政界への進出は夢のまた夢だった。だが、勝静は山田方谷を登用することで、その夢を現実のものとした。全国政治に関わりたいという激烈な願望に突き動かされて、当時としては破天荒ともいえる方谷の登用をやってのけたことで、勝静は歴史に名を残すことができたのだ。

 方谷こと山田安五郎は文化2年(1805)、農業と製油業を営む山田五郎吉を父に、阿賀郡西方村に生まれた。家計は窮迫していたが、もとは武士だという家伝を誇りにしていた五郎吉は、苦しい中を息子の安五郎の教育に心をかけ、5歳の時、松山藩の北隣の新見藩儒丸山松隠のもとに入門させた。丸山塾で安五郎 はたちまち神童という評判をとり、6歳の時、新見藩主の面前で字を書いて見せたという。百姓の子が他藩主の前に出るなどということは異例中の異例のことだ。文政2年(1819)、15歳の時、父母を次々に亡くし、丸山塾での勉学を断念、西方村に帰り家業を継ぎ、鍬をふるい、製油業にも励んだ。17歳で結婚。

 家業に励みながらも、学問への願望はやみがたいものがあった。その方谷に運が拓ける。勝静が養子に入る前の松山藩が、方谷の学才を惜しんで、二人扶持を給してくれることになったのだ。一種の奨学金だ、藩校有終館での修学も許された。21歳の時のことだ。そして3度の京都への遊学、この過程で名字帯刀が許され、八人扶持を給される身となり、4度目は江戸へ遊学。当時の儒学の最高権威者であった江戸の佐藤一斎のもとでの2年余りの時間が、方谷をより大きくした。

方谷は佐久間象山と学問上のことで大激論し、互いに一歩も譲らなかったという。天保7年、帰藩した方谷は遂に藩校有終館の学頭となった。32歳だった。以来、城下に屋敷をもらい、私塾を開くことも許された。備中松山藩の藩儒としての方谷の地位は、これで不動のものとなった。
 嘉永2年(1849)、当主の養子で世子の勝静が襲封して新藩主となり、方谷を藩財政一切を任せるに等しい元締役兼吟味役として抜擢、登用する。身分制度の激しい当時のこと、百姓上がりの儒臣がいきなり藩政の中枢のポストに就くことには周囲の重臣たちの大反発があり、方谷自身もいったんは辞退した。しかし、方谷を使う以外に窮迫した藩財政を立て直す道はないとみた勝静の決意は固く、藩内の反対を抑え込んだことで、方谷も新藩主の期待に応えることを決心する。方谷45歳、勝静27歳のことだ。
 嘉永3年(1850)から備中松山藩の大改革が始まった。藩主から全権を委ねられて方谷は・自ら債権者が集中する大坂まで出向いて藩の内情を公開し、返済期限の5年ないし10年への変更、新しい借金はしない、借りた場合は必ず返済する・倹約(藩士の減俸、奢侈の禁止、宴会や贈答の禁止)・自分の家の出納を第三者に委任、家計を公開・撫育局を設置し殖産興業に務める-などを断行。

こうした一方で農兵制を敷いて「里正隊」を編成するなど軍制改革も行った。また、民間人のための学問所、教諭所を新設。貯倉を40カ所も設けて凶年に備えた。このほか、河川を活用して運送を便利にした。こうした諸施策が奏功、松山藩の方谷の改革は見事に成功した。この結果、藩主・勝静の中央政界への進出の夢実現の環境がようやく整ったわけだ。

(参考資料)童門冬二「山田方谷」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」

矢部定謙・・・鳥居耀蔵の策謀に遭い、南町奉行を罷免された優れた幕臣

 矢部定謙(やべ・さだのり)は江戸時代・天保年間、庶民の間でも支持された南町奉行だったが、鳥居耀蔵の策謀に遭い、罷免され、失意のうちに悲惨な最期を遂げた。矢部は1841年(天保12年)南町奉行職を罷免された。在職期間はわずか8カ月だった。代わって南町奉行職に就任したのがその鳥居だった。そこで世間では今日風に表現すれば、大きなブーイングが起こった。

当時、江戸の巷で矢部と鳥居がどのように見られていたかを示す落首がある。「町々で お(惜)しがる奉行の 矢部にして どこが鳥居で 何がよふ蔵」。当時の矢部の声望と、鳥居の人気のなさがほぼ察せられる。このあと鳥居は南町奉行として、水野忠邦が推進した「天保の改革」の一翼を担い、徹底的な酷吏ぶりを発揮して、世間から妖怪(耀甲斐=甲斐守耀蔵を逆さにもじり、“ようかい”にかけたもの)と恐れられ、疎まれるようになるのだ。

 矢部定謙は、幕臣・矢部彦五郎定令の子として生まれた。名は父と同じ彦五郎と称した。持高300俵の身分から矢部は徒士頭(かちがしら)、御先手頭を務め、1828年(文政11年)火付盗賊改役となり、1500石を賜り、左近将監(さこんしょうげん)を名乗った。矢部の生没年は1789(寛政元)~1842年(天保13年)。

 矢部の出世は火付盗賊改役のとき、老中・大久保加賀守に命じられて、三之助という悪党を捕縛し、当時の町奉行所の悪弊を一掃したことに始まった。三之助は町奉行所の手付同心、神田造酒右衛門の手先で、武家屋敷へ中間や小者を送り込む人宿(ひとやど)を生業としていた。自分も中間部屋の頭として住み込み、旗本屋敷で賭場を開き、莫大なテラ銭を稼いで産を成したのだ。

 しかも三之助は頭のいい男で、常に火付盗賊改役の旗本屋敷に住み込み、そこで博打をやるので、絶対に捕吏に踏み込まれることがない。さらに見逃し賃として両町奉行の与力や両番所の定回りなどに付け届けをし、住み込んだ屋敷の旗本や用人にも同様のことをしていたから、誰に咎められることもなかった。こういう男が常々、まかり通るほど、当時の幕府の役人たちは内情が腐っていたのだ。とにかく、この三之助召し捕りがきっかけとなり、矢部は堺奉行に栄転し、駿河守に叙任された。

 矢部は1833年(天保4年)に大坂町奉行へ昇進、3年後の1836年(同7年)には役高3000石の御勘定奉行へと進み、順風満帆の出世街道を歩いた。矢部が大塩平八郎と知り合ったのは大坂町奉行の在職中で、当時、平八郎は大坂東町奉行所の与力を38歳の若さで退き、中斎と号し、陽明学に打ち込んでいた。矢部が西町奉行として赴任した頃は、大塩はすでに隠居していたが、彼は大塩の気骨、学殖を高く買い、しばしば招いて相談相手としていたようだ。要するに、矢部は大塩の人物を知り、男同士、肝胆相照らすものがあったのだ。

 矢部は天保8年、御勘定奉行の栄職から西ノ丸御留守居へと左遷された。これは、すべて彼の“硬骨”によるものだ。というのは前将軍・家斉が住んでいた西ノ丸が焼け、幕府の老中たちがこの大御所のため早速再建を企画したが、矢部が「(当時)凶作の後、諸国は困窮している。だから当面三ノ丸で過ごしてもらい、時を待って修理、再建すればいいのではないか。それが国を治める道ではないか(要旨)」と一人で、これに反対を唱えたため、前将軍の怒りを買ったのだ。一見、無謀とも思える発言をしてしまったのだ。

 しかし、実力派・矢部は2年後、願い出て小普請支配に転じる。そして、その2年目、彼は今度は南町奉行として見事に返り咲くのだ。前将軍の怒りを買って、左遷されてから4年目のことだ。ここでまた矢部は、北町奉行・遠山景元と協同して、水野忠邦が推進した「天保の改革」に対抗した。ただ、この復活は冒頭に述べたとおり、鳥居耀蔵の策謀により罷免され、わずか8カ月に終わった。1842年(天保13年)、預りとなった伊勢桑名藩で矢部は自ら絶食、死去した。没後、矢部の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨(かわじとしあきら)ら幕末期の官僚からは、矢部の非業の死を惜しまれることになった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、白石一郎「江戸人物伝」

山本常朝・・・江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。

『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。

 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。

 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。

 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。

 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。

 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。

 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

山脇東洋・・・日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人

 山脇東洋は江戸時代中期、日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人で、このときの日本最初の人体解剖記録が、当時の医学界に大きな衝撃と影響を与え、後の時代の前野良沢、杉田玄白らのオランダ医学書のより正確性の高い翻訳事業につながっていくのだ。その意味で、山脇東洋は日本の医学の近代化に大きく貢献した人物だ。東洋の生没年は1706(宝永2)~1762年(宝暦12年)。

 山脇東洋は丹波国亀山(現在の京都府)の医家清水玄安の子として生まれた。名は尚徳、字は玄飛または子樹、号は移山、後に東洋と称した。幼いころから学問に長じ、父の没後も医学の研修に専念していたが、その才の非凡さは早くも周囲の驚異の的となっていた。

東洋が22歳のとき、父の師であった京都の医官山脇玄修の眼にとまり、山脇家の養子に迎え入れられた。山脇家は由緒ある医学界の名門であり、玄修の父玄心は宮中の侍医となり法印の位にも昇ったほどの医家。養子に入ってから数年間は、養父玄修について医を学んだが、東洋にとって気ぜわしい歳月だった。

 1727年(享保12年)養父玄修が死去したため、東洋は山脇家の家督を継いだ。そして家督相続の御礼言上の目的で京都から遠く江戸へ赴き、第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことだ。翌年、法眼に任ぜられ、2年後には中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の当主であることに満足していなかった。

彼は一人の医家として、医学への知識追究に異常なほどの熱意を抱いていたのだ。そこで彼は当代随一の古医方の医家、後藤艮山(こんざん)に師事。後藤の医学に対する思想そのものともいえる実証精神を学んだ。その際立った業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王_(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻だ。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受けると私費で翻訳し、書物として刊行したのだ。東洋42歳のことだ。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。

 また、人体の内部構造についての五臓六腑説に疑いを持ち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていた川獺(かわうそ)を自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は人体の内部を見たいという願望を熱っぽく抱くようになっていた。

そんな東洋に1754年(宝暦4年)、夢想もしなかった幸運が訪れた。それは京都六角の獄で5人の罪人が斬首刑に処せられたことから発したものだった。当時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのだ。常識的にはそれは一蹴されるべきものであり、逆に厳しい咎めを受けかねないものだったが、所司代酒井忠用は深い理解を示して、それを許可した。その結果、東洋が長年願い続けながら到底不可能とあきらめていたことが実現することになった。

こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の内部構造を直接観察した。東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録だ。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。

東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、あの『ターヘル・アナトミア』という解剖書だ。突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのではないか。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝」

頼山陽・・・日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。
 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」

良寛・・・「遊」の世界で世間と闘い、簡単な言葉で仏法を説く

 「大愚(たいぐ)」-良寛は自らをこのように号して憚らなかった。自分は大いなる愚者だ、と。無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず庶民に信頼され、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢が様々な人々の共感を得た。良寛の生没年は1758(宝暦8)~1831年(天保2年)。

 良寛は越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)に四男三女の長子として生まれた。俗名は山本栄蔵、または文孝。号は大愚。父、山本左門泰雄はこの地の名主(橘屋)であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。当時は江戸時代後期、田沼意次の「賄賂政治」が繰り広げられようとしていた時期だった。佐渡で採掘される金の陸揚げ港だった出雲崎にも、そのような時代の波は押し寄せてきていた。生家は、幕府役人と結託した新興勢力に、その地位を脅かされつつあった。庶民は虐げられ、労役は厳しかった。

18歳で名主見習いとなった良寛は、その圧政に耐えられなかったのだろう。圧政の片棒を担ぐことができなかったのだろう。妻を離縁し、まもなく故郷の曹洞宗の光照寺で出家・剃髪。4年後に師・大忍国仙和尚に従って逃げるように出雲崎を出て、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に向かった。22歳のときのことだ。円通寺で良寛は国仙に可愛がられたが、34歳のとき、師の国仙がこの世を去ると、他の僧侶たちとの折り合いが悪くなり、円通寺を去った。 
  
恐らくまだ円通寺にいたときと思われるが、良寛は国仙和尚の末弟子、義提尼より和歌の影響を受けたといわれる。実は良寛は西行法師に憧れており、その足跡が伝えられる地を巡りながら、歌僧を目指していたと思われる。
円通寺を去った後の良寛の消息は分からない。そして、恐らく諸国を放浪した後、40歳ごろ帰郷。越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山(くにかみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、乙子神社境内の草庵、島崎村(現在の長岡市)にそれぞれ住んだ。

良寛は無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず、時には手毬をついて子供たちと戯れ、時には托鉢に出かけ、時には詩歌を書いて、後半生を送った。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示すことや、簡単な言葉(格言)で一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢は様々な人々の共感を得た。

良寛が生きた時代は激動の時代だった。彼が諸国を放浪していたときも、恐らくそのような緊迫した情勢が聞こえてきたかも知れない。また、身をもって国内の混乱状態を体験していたのかも知れない。しかし、史料として伝えられる良寛の人生からは、なぜかその激動は見えてこない。あくまでも静かな人生だった。それが、時代の波に振り回されることのない、名主の座と引き替えに良寛自身が選んだ、権力機構からドロップ・アウトした人間の人生だったのだ。

良寛は和歌のほか、狂歌、俳句、俗謡、漢詩などに巧みだった。そして、書の達人でもあった。良寛が創造した世界は、「遊」の世界だった。
子どもらと手まりつきつつこの里に 遊ぶ春日は暮れずともよし
良寛の歌だ。「遊」は良寛において世間と闘う武器だった。良寛の道号は既述した通り「大愚」。愚かというのは、世間の常識がないという意味。世間の物差しを忘れてしまっているのだ。良寛は世間の歪んだ物差しに対して、忘れることで対抗した。世間の歪んだ物差しを忘れて、良寛は子供たちと遊んでいたのだ。月と遊び、花と遊び、風と遊んで暮らした。それが良寛の禅だった。

良寛と遊んでいた子供たちは、やがて口減らしのために、商家や女郎屋に売られ、村から消えていく。いつの時代であっても、それが貧しい庶民の現実だ。それを宗教者・良寛はどうすることもできない。良寛にできることは、やがて売られていく子供たちと一緒に遊ぶことだけだった。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の辞世の句だと伝えられている。良寛は新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠っている。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

蓮如・・・本願寺教団「中興の祖」で稀代の宗教オルガナイザー

 日本における今日の浄土真宗隆盛の礎をつくり、浄土真宗の本願寺教団の「中興の祖」といわれる蓮如は、稀代の宗教オルガナイザーだった。蓮如の目的はただ一つ、いかに仏の道を深く踏み分けるかではなく、いかに信徒を増やすか-にあった。彼には資金も伝手(つて)もなかった。あるのは繁盛する同門の寺々の存在だった。宗祖・親鸞は教義を何よりも重視し、教団運営はもとより、教団をつくることにすら否定的な人物だった。ただ、弟子、孫弟子、またその宿り木弟子たちが大勢いて、彼らが皆“親鸞ブランド”をかざして繁盛寺を構えていた。繁盛の原因は、難解な教義を説く態度はきれいに棄て、「いかに簡単に目的の幸福を手に入れるか」に変えてしまったところにあった。

 こうした現状を見据え、蓮如はいかに本願寺教団の信徒を増やすかに焦点を絞り、その布教戦略を立案、実践していった。それは・“親鸞ブランド”を最大限に活用する・民衆の拝“権威”意識を巧みに利用する・教義より民衆の現世利益意識に応える・「御文」で宗祖・親鸞の教義を説き、布教を積極化する・世の“金取り寺”とは差別化、独自化路線を打ち出す・宗祖・親鸞が厳禁とした「講」をも奨励する-などだった。

 民衆は誰しも死後、極楽浄土へ行きたいと願っている。さしずめ民衆はトラベル会社に極楽行きの切符購入を頼むお客なのだ。とすれば、客にしてみれば相手の会社が、経営基盤がしっかりしているという証がほしい。そこで、切符代を高くして客を圧倒し権威付けることによって安心させるのだ。困ったことに、民衆は高いものの方が、質が高いとすぐ錯覚する。となると、肩書きのあるブランド品=親鸞ブランドが最大限に威力を発揮するというわけだ。

 寺はあの手この手で人を集める。集まる人々は、しかしすぐ死ぬわけではない。取られる献金に対して、何かの手ごたえが要る。最初は死の恐怖克服のためだった宗教が、現世利益的に変わっていってしまった。そこで蓮如は、一念して仏に帰依すれば、すなわちこのとき己が仏に成る-と説く。最後には、あなた自身が仏や親鸞聖人と同格ですよ-と目一杯、精神面をくすぐるのだ。
 また、蓮如は「御文」で親鸞の教えを分かりやすく説くことも積極的に実践した。献金競争をして後生を僧に任せるのではなく、あの清廉な親鸞の精神に戻り、自分自身が積極的に学ぼう-と説いたのだ。親鸞の思想の正統を、誰でも容易に身につけられる方法を考え出した。それが、この「御文」だった。

 蓮如は数々の御文の中で、すべての念仏者は死んで極楽浄土で永遠に生きられることを教えている。そして蓮如は、極楽往生までのこの世の生活を、どのように過ごしたらよいか、政治的・社会的・宗教的などあらゆる角度から説いている。また極楽往生と現世利益の願いは矛盾するものではなく、念仏一つで同時に叶えられることも力説しているのだ。本願寺教団は、御文の精神を守ることによって、蓮如の存命中はもちろん、没後今日まで大過なく繁栄の道を歩むことができたのだ。
こうして蓮如は参詣の人一人もなく、寂れていた本願寺を「極楽浄土のようだ」といわれるほどに発展させた。親鸞が残してくれた思想によって救われた御礼すなわち御恩報謝(ごおんほうしゃ)を、弥陀と親鸞に対して果たすために、全生涯を捧げ尽したのだ。

 蓮如は本願寺第七代目法主(ほっす)、存如の第一子として京都・東山大谷で生まれた。幼名は布袋丸、法名は蓮如。院号は信證院、諱は兼壽、諡号は慧燈大師。蓮如上人と尊称された。蓮如の生没年は1415(応永22)~1499年(明応8年)。

 蓮如は本来、父の跡を継いで本願寺の法主の座に就くことは望めない境遇だった。実母が本願寺に仕える下女だったためだ。そして、この実母は蓮如が6歳のとき身を引き、姿を消してしまう。したがって、蓮如の幼・少年時代は、父・存如の正妻である継母との心理的相克があり、そして第八代目法主になるまで、貧苦のどん底生活など筆舌に尽くし難い、43年間にわたる“忍従”体験がある。そんな体験によって培われた精神的なタフさが、蓮如のその後の長期にわたる粘り強い布教活動を可能にしたのだ。

 蓮如は長い部屋住み生活を経験しているだけに、腰が低い。他人の心の動きが読める。勧誘するには相手のどこを衝かなければならないか?を肌で感じるというわけだ。彼は布教の天才だった。
 蓮如は85年の生涯で如了、蓮祐、如勝、宗如(いずれも死別)、蓮能の5人の妻を娶り、合わせて27人(13男・14女)の子供に恵まれた。それだけに、子供の養育には苦労したが、その子供たちが成人して教団の統制に大いに役立った。

(参考資料)笠原一男「蓮如」、大谷晃一「蓮如」、五木寛之「蓮如」

渡辺崋山・・・画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決

 渡辺崋山(通称登)は三河国田原藩の家老を務める一方、国宝『鷹見泉石像』や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし、海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちとスタートした蘭学研究が、ときの幕府目付で幕府の儒者の林家の倅、鳥居耀蔵の憎しみをかい、天保10年(1839)の蘭学者弾圧の“蛮社の獄”に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて、切腹自殺した。

 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として寛政5年(1793)麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。

だが、家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。

 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。

 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。

 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。

ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、神坂次郎「男 この言葉」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、吉村昭「長英逃亡」