「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平
 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。
 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。
 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。
 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。
 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。
 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。
 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。
これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。
少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像
 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。
 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。
 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。
 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。
 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。
 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。
 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。
景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

 

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり
 北条早雲の出自は不詳で諸説ある。生没年は1432~1519年。俗名伊勢新九郎、出家して法号を早雲庵宗瑞(そうずい)に改め頭を丸めた。妹が室に入っていた駿河・今川家の内紛を調停して興国寺城主となり、1491年に伊豆一国を、さらに1516年には相模一国を手中に収め後、北条氏が関東に覇を唱える基礎をつくった。
戦国大名のはしりといわれる。その実績と、箱根湯本にある小田原北条氏の菩提寺早雲寺に残されている、法体姿だが獲物を狙う鷹のような猛々しい覇気がみなぎっている画像の印象からは、早雲はただ戦いと権謀においてのみ傑出し、学問など眼中に置かなかった粗野な人物だったかのように感じられるが、果たしてどうだったのか? 
 実際の早雲は、無学どころか当時一流の教養人だった。早雲の前半生については不明の部分が多い。だが、少なくとも一時期、室町八代将軍・足利義政の弟義視に近侍したり、幕府の申次衆を務めていたことが確認されている。そうした地位に就くには、相当の学問教養がなければ叶わないことだ。また、彼は京都紫野の大徳寺に参禅、住持の春浦宗煕の会下に列したことがあるし、同じく大徳寺住持に任じた法兄の東渓宗牧から「天岳」の道号を与えられており、彼の禅修行は一時の気まぐれなどではなく、本格的なものだったとみられる。
 早雲が学問。修養を重視したことは、後に彼が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にもみてとれる。例えば、その第一二条に「少の隙(ひま)あらば、物の本を見、文字のある物を懐に入、常に人目を忍び見べし。寝ても覚めても手馴ざれば、文字忘るるなり。書こと又同事」とある。時間さえあれば読書・習字に励めという。これはまさに“学問の勧め”だ。第一五条では「歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし」という。この二条だけを抽出すると、修羅の世界を戦い抜いた戦国大名の第一号の座を実力で勝ち取った人物のものとは到底思えない。泰平の時代を生きた江戸の文人大名の趣と通じ合うところがあるほどだ
 こうした学問・修養に裏打ちされた思考の奥行きの深さは、大名の座に就いて後の早雲の施政、とくに民政において顕著に反映されている。小田原北条氏に仕えた三浦浄心が著した「北条五代記」に、早雲が伊豆国を攻めた際の、巧みな人心収攬のエピソードが紹介されている。
要旨はこうだ。風病が流行し、村里の家々にはほとんど例外なく数人の病人が臥せっていた。そこへ早雲が攻め込んでくると知って、足腰の立つ者は、親は子を捨て子は親を捨て、どこへともなく逃げてしまった-という。そこで早雲は医師に命じて良薬を調合させ、その薬と食事を配下の者に持たせて病人たちを見舞わせた。その結果、病人たちは皆助かり、その恩に報いるため山野に隠れ潜んでいる家族や縁者を探して説いて回った。その呼びかけに応じて見参した者に、早雲は所領なども安堵してやったことから、それが評判になり、その村里以外からも彼の徳を慕って出頭するものが相次いだので、彼がその地に7日間ほど滞在するうちに、全く武力を用いることがなかったにもかかわらず、周囲30里近辺はすべて早雲の味方になった-という。早雲の徳治政策が敵国の領民を魅了し、帰参者を続出させたというわけだ。
巧みな徳治政策で伊豆国の一円平定した早雲はさらに積極的な領民優遇策を打ち出した。それまで五公五民ないし六公四民だった税制を四公六民に改めるという、大幅な減税策を実施したのだ。当然、領民からは大歓迎を受けた、他国の領民からも大いに羨まれたという。

(参考資料)司馬遼太郎「箱根の坂」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖
 645年(皇極4年)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿暗殺事件の首謀者は誰だったのか。恐らくは20歳の中大兄皇子と32歳の中臣鎌足との見方が有力だ。半面、詳細は今日においても断定できない部分もある。しかし、この事件によって蘇我宗家の政権支配は崩壊、クーデターは成功した。入鹿を討たれた父・蝦夷は翌日、自害し蘇我氏宗家は壊滅した(乙巳の変)。
そして、新政府は入鹿暗殺のわずか2日後に樹立。中大兄皇子を皇太子とし、藤原鎌足(当時は中臣鎌足)を内臣(うちつおみ)とする大化の改新がスタートした。これまで無名に近かった中臣鎌足が、一躍時代の実力者として歴史の表舞台に躍り出たのだ。鎌足はこの後、中大兄皇子=天智天皇の腹心として活躍、日本に史上初の官僚機構を創っていく。
 元々は中臣氏の一族で、初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた。その後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。臨終に際して天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。出生地については「藤氏家伝」によると、大和国高市郡藤原(現在の橿原市)だが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。子供は長男の定慧(じょうえ、俗名は真人、644~665年)(僧侶=遣唐使として渡唐)、次男の不比等(659~720年)の二人が知られている。
 鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、あのマキャベリズムの聖書といわれる中国兵法の書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。鎌足は密かに蘇我氏打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近。また、蘇我氏一族の内部対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。乙巳の変の功績から内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。但し、内臣は寵臣・参謀の意味で、正式な官職ではない。
 鎌足は氏族連合から、天皇を中心とする中央集権体制に転換すべく、律令国家への第一歩として、それまでの各豪族の私有だった人民と土地を、すべて国有とする「公地公民制」、官僚制度の整備を目指す「冠位制」の制定を、朝廷の宰相として強力に推し進めた。鎌足の定めた「冠位制」は、それ以前の聖徳太子による「冠位十二階制」を改めたもので、「徳・仁・礼・信・義・智」といった、それまでの徳目を用いず、織・繍・錦などの冠の材質と、紫・青・黒という色彩によって区分された。
 鎌足は中大兄皇子と二人三脚で、断固とした姿勢で改革に取り組んでいた。そのため計画を阻む者は容赦なく滅ぼした。649年(大化5年)、入鹿暗殺の功労者、蘇我倉山田石川麻呂が讒訴を受けて自殺に追い込まれている。鎌足はかつての主君、孝徳天皇が中大兄皇子と仲違いすると、これを冷酷に切り捨てて、667年、近江大津京遷都を断行している。また、日本最初の国立学校=「庠序(しょうじょ)」を開設。家財を投じて神仏を保護したかとみれば、百済救援軍派遣の軍事的冒険を決断し、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗して、終戦処理に奔走しなければならなかった。
ところで、これだけ強力に諸施策を断行してきた鎌足だが、彼個人にとって悲しい事件がある。653年(白雉4年)、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に移ったこの年、鎌足の子、定慧が出家、入唐しているのだ。当時は次男の不比等はまだ生まれていないから、一人息子だ。しかも中臣家は神官の家柄、それにも増して当時、唐へ渡ることは大変な、命の危険を伴った。政治家として成功の道を行く鎌足が、どうしてこの大事な一人息子を出家させて唐へやったのか、極めて謎めいている。定慧は唐へ渡り、それからさらに百済へ行く。しかもその百済が滅んで、日本へ帰ってきている。ところが、この定慧は日本へ帰ってわずか3カ月、23歳の若さで毒殺されているのだ。
これには定慧の出自がからんでいる。史料によると、定慧の生年はおそらく皇極2年か3年。この年、孝徳天皇つまり軽皇子が自分の妃、阿倍小足媛を鎌足に与えているのだ。つまり定慧は軽皇子の子、あるいはその疑いのある人物だったということだ。となると、中大兄皇子と孝徳天皇の仲が決定的に冷え込んだとき、あるいは対立したとき、鎌足が孝徳天皇の子供であるという嫌疑を持たれている定慧を手許に置いておくことは、中大兄皇子の手前都合が悪かったのだ。そこで鎌足は因果を含めて唐へやったのではないか。だから、定慧は日本へ帰ってきてはいけない人物だったのだ。
668年(天智7年)、鎌足は「補佐役」として、宿願の中大兄皇子の即位(=天智天皇)を実現した。鎌足が没したのは、その翌年だ。享年56。律令制はすべてが鎌足によって、実行に移されてはいない。その多くが完成をみたのは、彼の次男、藤原不比等の代以降だった。だが、鎌足は律令制への道を開いた革命家だったといえよう。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、井沢元彦「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「日本史探訪/律令体制と歌びとたち」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男
 福井・越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のた
めの殖産興業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠
は「地球上にも、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政
治を行っている国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国の
ことだ。王道政治というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道
政治というのは、民に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定
義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君と
いわれた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有
能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であ
り、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席の
ポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに
共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八
郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。
 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのた
め、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の
藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつく
った。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出でき
ず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財
政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。
 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その
責任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富
まなければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として
①藩内で生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにする
②藩に物産総会所を設ける③藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この
時は、藩札をもって支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は
正貨とする-とした。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しか
し、藩が設けた物産総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進ん
でいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。
藩が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、
同時に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪
って、武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売
を始めたということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能
で、武士にあるまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところ
が、横井小楠の出現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘
されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売り
つけるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞
かない中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせてい
る。あんなやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは
日本以外ない。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本
のマネをするようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならな
い」と唱え続けた。
 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産
品に付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではな
い。商業を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府に
おける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネ
の全くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところ
だが、彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験
も見識もなかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握
るところとなった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの
仕事に専念した。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手
腕、経歴は断然傑出していた。
 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に
「議事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご
誓文」の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二
      「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」

 

 

藤原不比等 律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる

藤原不比等 律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる
 藤原不比等は律令国家の影の制定者で、後の藤原“摂関”政治体制の礎をつくった人だ。不比等には本人が遺したとされるインパクトのある言葉はない。また肖像もない。しかし、それは彼が生きた時代がそれを彼に強いたのであり、彼が明解かつ強固な意志を持っていたが故に、徹底して抑制の利いた官僚政治家の“顔”を貫き通した結果に他ならないのではないか。
具体的にいえば、彼は壬申の乱の勝者で後の天武・持統朝の敵、天智朝の実質的No.2藤原鎌足を父に持つが故に、その存在自体が危うく、決して目立ってはならない人間だったのだ。没年から逆算すると壬申の乱当時、彼は15歳。父親の名前が大きいだけに、いわば“戦争犯罪人の身内”として、その身を潜めるように乳母の山科(現在の京都)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)に養われていた。彼が官僚として少しずつ頭角を現してくるのは持統天皇の御代になってからだ。雌伏15年、彼は31歳のとき、刑部省の判事に任じられて、やっと歴史に顔を出す。
不比等は持統女帝の下で、真摯に勤勉に働く。野望を秘め、研ぎ澄まされた爪の片鱗さえも覗かせることなく、女帝の孫、軽皇子(後の文武天皇)の出現を辛抱強く待つ。やがて王座の激務に疲れた女帝が、位を文武に譲る。持統女帝53歳、文武15歳、不比等は働き盛りの40歳になっていた。
以来、彼は文武天皇の周囲に、娘・宮子を送り込んだほか、後に妻に迎える、文武天皇の乳母・県犬養三千代など人脈による包囲網を張り巡らし、実権を掌握していく。娘婿の文武天皇が持統女帝の死後数年後、25歳の若さで世を去って後、文武の母・阿閉皇女=元明天皇、そしてその娘氷高皇女=元正天皇と世は移っても、天皇家と法律のエキスパートとしての不比等との信頼関係は揺るがず、文武天皇の忘れ形見、首皇子、後の聖武天皇の成長を待った。
不比等は「律令国家」完成のための三つの事業を行っている。①「養老律令」の制定②平城京遷都(和銅3年・710)、そして③『日本書紀』の編集-さらにこれら三つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都(朱鳥9年・694)、そして『古事記』の編集にも彼は最重要人物として関わっている。
従来『日本書紀』編集の仕事は舎人親王の事績に数えられてきた。これは『続日本紀』の記事でそう結論づけられてきたのだ。しかし、皇族である舎人親王が一人で『日本書紀』を作ることは到底、不可能である。「大宝律令」は刑部親王(忍壁皇子)が総責任者となっている。
ただ『続日本紀』には「大宝律令」の制定に不比等が関わったことが明らかにされている。「大宝律令」および「養老律令」の撰定には当代の多くの知識人が動員されている。そして総責任者として名目的に親王が立ったと思われる。しかし、実質的な責任者は「大宝律令」も「養老律令」も不比等であったとの見方が近年有力になっている。『日本書紀』も、史書には不比等の名は出てこないが、その中心的役割を担ったのは彼だと思われるのだ。
また『続日本紀』によると、文武2年(698)8月の条に、藤原姓は不比等およびその子孫に限り、他の藤原氏はもとの「中臣」姓に戻れ-という意味の一文がある。これは政治の権力を不比等とその一族に集中させ、他の藤原氏を追い落とすという意味に解することができる。その結果、不比等の一族が宗教と政治の両方を支配できる、確固とした「藤原体制」を作ることができると考えたのではないか。政治による宗教、すなわち神祇の完全な掌握である。
 養老4年(720)、不比等は62歳の生涯を終えた。元正天皇は右大臣正二位だった故不比等に太政大臣、正一位を贈った。律令官制における最高位である。臣下では不比等をもってはじめとする。生前、不比等は太政大臣に任ぜられようとしたが固辞して受けなかった。この点、死ぬ間際まで「内臣(うちつおみ)」という皇太子・中大兄(後の天智天皇)の秘書の地位にとどまって、冠位を受けなかった父、藤原鎌足に似ている。
このため、不比等は即位した聖武天皇は見ていない。さらに望んでいた安宿媛(あすかひめ)の立后(=光明皇后の誕生)はその後のことだ。キングメーカーになれずに人生を終えたのは心残りだった違いないが、その後、彼の夢は100%叶えられた。そしてこれをきっかけに、天皇家と藤原氏の結びつきが長く続くことをみれば、彼こそ「藤原王朝」の創始者といえる。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、永井路子「美貌の大帝」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、日本史探訪/上山春平・角田文衛「律令制定と平城遷都の推進者 藤原不比等」

 

 
                             

渡辺崋山 画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決

渡辺崋山 画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決
 渡辺崋山(通称登)は三河国田原藩の家老を務める一方、国宝『鷹見泉石像』や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし、海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちとスタートした蘭学研究が、ときの幕府目付で幕府の儒者の林家の倅、鳥居耀蔵の憎しみをかい、天保10年(1839)の蘭学者弾圧の“蛮社の獄”に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて、切腹自殺した。
 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として寛政5年(1793)麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。
だが、家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。
 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。
 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。
 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。
ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、神坂次郎「男 この言葉」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、吉村昭「長英逃亡」、林武・杉浦明平「日本史探訪/国学と洋学 渡辺崋山」

直江兼続 120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将

直江兼続 120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将
 上杉家の領地は、関ケ原合戦が起こるまで会津を中心に120万石もあった。関ケ原以後は4分の1の30万石になってしまった。西軍には参加しなかったが、徳川に敵対行動を取ったからだ。主君上杉景勝にそのような態度を取らせたのは筆頭家老の直江山城守兼続だ。わかりやすくいえば、彼の失敗が90万石の減俸に相当したわけだ。当然、彼が責任を取って切腹することもあり得たし、景勝が切腹を申し付けてもおかしくはない。ところが、現実にはそういうことにはならなかった。
 残った30万石の領地は、家老の直江が景勝から貰っていた米沢領だ。景勝がこの米沢30万石に移封となり、兼続は景勝から5万石を賜ったが、4万石を諸士に分配、さらに5000石を小身の者たちに与え、自分のためには5000石を残しただけだったという。そして、石高が4分の1に減ったのだから藩士を減らして当たり前なのだが、上杉家は家臣に対し米沢についてくる者は一人も拒まぬことを決め、120万石時代の家臣を米沢30万石に迎え、堂々たる(?)貧乏藩米沢のスタートを切る。この時代「すべて私の責任です」と切腹する方がどれくらい楽か知れないのに、苦しい辛い道を選んで平然としていた直江兼続とはどのような人物だったのか。
 木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光がいた。直江兼続はこの樋口兼光の子孫で、直江家に入る前までの彼の名は樋口与六だ。樋口家は父の樋口兼豊の代にはかなり衰えていた。上杉謙信の家来に、能登の石動山城城主を務める直江実網という武将がいた。兼続が直江実綱の養子になったのは何年のことか分からないが、22歳の時に直江家を相続したのははっきりしている。天正9年(1581)のことだ、そして、翌年、兼続は山城守の称を許されている。まだ23歳の若さで家老クラスに昇ったわけだ。
というのも上杉謙信の養子となり後年、上杉家当主となる上杉景勝と、兼続は“ご学友”として直江実綱のもとで一緒に育った時期があるのだ。後年、二人の連携プレイが繰り広げられたのはこうした背景があるからだ。兼続は謙信にまもなく登用され、少年の身で参謀になるが、あまりにもスピードの速い栄進ぶりに家中では、「樋口与六は謙信公の稚児だ」との噂が立ったほど。
 直江兼続の名を一段と高めたのは織田信長亡きあと、天下人に昇りつめる豊臣秀吉だ。その過程で、柴田勝家を越前北ノ庄城に破り、次いで佐々成政を降伏させた後、上杉とは事を構えたくない秀吉が、当主上杉景勝の信用があって、非戦論の持ち主で、格好の交渉相手として白羽の矢を立てたのが直江兼続だ。この交渉の根回しをやったのは、兼続と同じ年齢の石田三成だ。
 翌年、上杉景勝は大軍を率いて上洛した。秀吉の関白就任祝賀が名目だが、つまり秀吉の覇権を公式に承認し、その下に屈することを表明するわけだ。兼続ももちろん同行するのだが、秀吉の兼続に対する態度はまるで大名に対するようだった。上杉と戦わずに済んだのはこの男のお蔭だという思いが強かったのだろう。景勝と兼続との信頼関係を十分に見抜いていたから、自分がどれだけ兼続を厚遇しても君臣の間にヒビの入るおそれもないと分かっていたからに違いない。
 慶長2年(1597)、上杉景勝は秀吉五大老の一人となり、その翌年、上杉家は会津120万石に移された。そして、このうち米沢30万石が直江兼続の所領になった。30万石の家老は空前絶後である。大名でも10万石以上となると、数えるほど少ない、そんな時代のことだ。上杉藩における兼続の存在の大きさ、重さの何よりの証だ。

(参考資料)藤沢周平「蜜謀」、童門冬二「北の王国 智将直江兼続」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」                             

雪舟 明で「首座」の称号を得、「日本の水墨画」を完成させる

雪舟 明で「首座」の称号を得、「日本の水墨画」を完成させる
 幼少時から絵を描くことが何よりも好きだった雪舟は、京都相国寺での絵画修業の後、中国・明に渡り、天童山景徳寺で中国の雄大さと水墨画の技法を学んだ。そして、時の憲宗皇帝をはじめ多くの高官、文人に感嘆と賞賛を受ける作品を描き上げる。その結果、禅宗の最高位の「首座」の称号を得た。帰国後、雪舟は中国で学んだ強靭な線と正確な構図法に加え、わが国の大和絵の手法を大胆に取り入れた、明とは異なる独自の「日本の水墨画」を完成させたのだ。
 雪舟は室町時代のほぼ中頃、応永27年(1420)、備中国窪屋郡三須村字赤浜(現・岡山県総社市)で生まれている。幼名は等楊といった。江戸期の『本朝画史』には、生家を小田氏と記されているが、生没年さえ異説が多く、父母の名も不詳だ。恐らく地侍、土豪の子だったのではないかと思われる。幼少の頃、赤浜から3里ほど山奥へ入った宝福寺に預けられたとの伝承がある。その後、成長し12~13歳で宝福寺の小僧となっていた雪舟は、すでに何よりも絵を描くことが好きで、経も読まず、朝から晩まで筆ばかり持って、一向に禅宗の修行に精を出さない。師僧はたびたびこれを戒めたが、彼は叱られても言うことを聞かなかったという。
 雪舟はその後、京都五山の一つ、相国寺に姿を現す。文安4年(1447)、高名な禅僧春林周藤が相国寺鹿苑院に入り、「僧録司」の位(官寺の総裁職)に就いたが、寺内の記録にこの頃、初めて雪舟が現れるのだ。彼の役職は、来客をもてなす茶坊主のようなものだったのではないかといわれる。彼は恐らく相国寺にあって絵画修行に邁進していたのだろう。当時の京都五山は、“五山文学”とも呼ばれるように、儒学勃興の機運があり、漢籍詩文の研究が活発な時代だった。禅画としてスタートした日本水墨画も例外ではない。
 禅画僧の如拙とその弟子・周文、あるいは秀文に代表される興隆期を迎えていた。如拙は宋の馬遠・夏珪・牧渓らの水墨画を学び、多くの弟子を育てている。そして、これら3名の禅画僧は相国寺にいたのだ。雪舟は文字通り、京都という中央画壇の中心地にいたわけだ。
 ところが、「僧録司」の春林周藤は、相国寺山内の塔頭寺院は、文人画家の書斎やアトリエと化し、禅宗僧の修行は行われていない-との思いを強くし、山内の大改革を志した。そのため、雪舟は次第に窮屈な、身動きの取れない境遇へ、心身ともに追い詰められていったものとみられる。そして、寛正6年(1465)頃、彼は唐突に相国寺から姿を消し、漂泊の旅に出、周防の山口へ入る。雪舟
45歳前後のことだ。
 守護大名・大内氏の本拠地である山口は、対明貿易を背景に、経済・文化の一大中心地として栄えていた。雪舟はここで「雲谷庵」というアトリエを構え、画筆三昧の生活を送りつつ、中国渡航の機会を待った。応仁元年(1467)、遣明使節の末端の雑役で、48歳の彼は正使の船に乗り込む。京都で起こった応仁の乱で、遣明使の内部が分裂。結局大内氏の船だけが明国を目指し、翌年寧波に船は到着。雪舟は一行とともに、宋五山の一つ、天童山景徳寺に登った。そして3年ほど滞在し、精力的に風俗を見、中国の雄大さと水墨画の技法を学び続ける。しかし、当時の明の画壇には北宋や元のころのような活力はなく師匠として仕えるべき画人は見い出せなかった。
 ただ、明にあって雪舟の描く絵画に、時の憲宗皇帝をはじめ、多くの高官・文人は感嘆と賞賛の声を挙げた。彼は天童山第一座の位をもらい、「首座」(禅僧の最高位)の称号を得、首都の礼部院の壁画を描く名誉まで手に入れている。しかも、その出来栄えはすばらしかった。
 文明元年(1469)に帰国した雪舟は応仁の乱の戦火を避け、山口の「雲谷庵」に腰を据え、明国でみた宏大で荒っぽい気候と風土、赤土や岩石の山々を絵画の中で整理し、その中からきめ細やかな日本の山川草木を、改めて認識するようになる。日本の自然に魅かれて、行雲流水の旅に出ている。そして文明18年、終生の代表作といわれる『山水長巻』が完成した。延々16㍍にわたって描かれたこの作品は、中国で学んだ強靭な線と正確な構図法に加え、わが国の大和絵の手法が大胆に取り入れられた水墨画古今の傑作だ。これに続き『秋冬山水』『慧可断臂図(えかだんぴのず)』『花鳥屏風』、そして遂に80歳を過ぎて『天橋立図』へと到達する。明国にはなく、日本にしかない風景を彼は描き出したのだった。享年は83歳とも88歳などの諸説があって、いまだに定まっていない。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

 

 

山田方谷 農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師

山田方谷 農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師
 最近ようやく注目を浴びるようになったが、山田方谷(やまだほうこく)の名を知る人はまだまだ少ないだろう。農民出身ながら徳川幕府最後のとき、首席老中を務めた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝静に代わって、家老として藩主の留守を守り抜き、藩政を代行した人だ。もっと知られているのが、明治維新直前の越後長岡藩を率いた河井継之助が学んだ藩政改革の師だ。
 岡山駅から鳥取県の米子に通ずる鉄道がある。伯備線という。この伯備線の備中高梁駅は山田方谷が活躍した最大の拠点だ。臥牛山と呼ばれる城山の山頂に松山城がある。麓に「牛麓舎」という塾の跡が残されているが、これが方谷の塾だ。このあたりには方谷林とか方谷橋など方谷の名がつけられた市民施設がたくさんある。それほど山田方谷は現在の高梁市民にとって誇れる存在なのだろう。伯備線でさらに20分ほど北へ向かうと「方谷」という駅に着く。この駅名も山田方谷の名を取ってつけられた。鉄道当局の強硬な反対に遭ったものの、最終的に住民たちの熱意が受け入れられ、全国のJRの駅の中でも珍しい人名が駅名となった第一号だった。
 山田方谷を登用した藩主板倉勝静は、もともと板倉家の人間ではない。板倉家の先祖は、京都所司代として有名な勝重であり、その子重宗である。勝静は桑名藩主松平定永の第八子で、天保13年(1842)に板倉家の当主勝職の養子となり、嘉永2年(1849)、27歳の時に藩主の座を継いだ。桑名の松平家は、「寛政の改革」を推進し、“白河楽翁”の号で有名な松平定信の子孫だ。こうした名家の血か、勝静は幕府の老中になることを熱望した。
 ただ、それには大きな障害を克服しなければならなかった。障害とは藩が極貧状態にあることだった。この頃、松山藩は窮乏のどん底にあり、藩の収入が雑税を含めて一切合財、換金しても5万両だというのに、その倍の10万両の借金を抱え込んでいた。これを解決しない限り、勝静の中央政界への進出は夢のまた夢だった。だが、勝静は山田方谷を登用することで、その夢を現実のものとした。全国政治に関わりたいという激烈な願望に突き動かされて、当時としては破天荒ともいえる方谷の登用をやってのけたことで、勝静は歴史に名を残すことができたのだ。
 方谷こと山田安五郎は文化2年(1805)、農業と製油業を営む山田五郎吉を父に、阿賀郡西方村に生まれた。家計は窮迫していたが、もとは武士だという家伝を誇りにしていた五郎吉は、苦しい中を息子の安五郎の教育に心をかけ、5歳の時、松山藩の北隣の新見藩儒丸山松隠のもとに入門させた。丸山塾で安五郎
はたちまち神童という評判をとり、6歳の時、新見藩主の面前で字を書いて見せたという。百姓の子が他藩主の前に出るなどということは異例中の異例のことだ。文政2年(1819)、15歳の時、父母を次々に亡くし、丸山塾での勉学を断念、西方村に帰り家業を継ぎ、鍬をふるい、製油業にも励んだ。17歳で結婚。
 家業に励みながらも、学問への願望はやみがたいものがあった。その方谷に運が拓ける。勝静が養子に入る前の松山藩が、方谷の学才を惜しんで、二人扶持を給してくれることになったのだ。一種の奨学金だ、藩校有終館での修学も許された。21歳の時のことだ。そして3度の京都への遊学、この過程で名字帯刀が許され、八人扶持を給される身となり、4度目は江戸へ遊学。当時の儒学の最高権威者であった江戸の佐藤一斎のもとでの2年余りの時間が、方谷をより大きくした。
方谷は佐久間象山と学問上のことで大激論し、互いに一歩も譲らなかったという。天保7年、帰藩した方谷は遂に藩校有終館の学頭となった。32歳だった。以来、城下に屋敷をもらい、私塾を開くことも許された。備中松山藩の藩儒としての方谷の地位は、これで不動のものとなった。
 嘉永2年(1849)、当主の養子で世子の勝静が襲封して新藩主となり、方谷を藩財政一切を任せるに等しい元締役兼吟味役として抜擢、登用する。身分制度の激しい当時のこと、百姓上がりの儒臣がいきなり藩政の中枢のポストに就くことには周囲の重臣たちの大反発があり、方谷自身もいったんは辞退した。しかし、方谷を使う以外に窮迫した藩財政を立て直す道はないとみた勝静の決意は固く、藩内の反対を抑え込んだことで、方谷も新藩主の期待に応えることを決心する。方谷45歳、勝静27歳のことだ。
 嘉永3年(1850)から備中松山藩の大改革が始まった。藩主から全権を委ねられて方谷は①自ら債権者が集中する大坂まで出向いて藩の内情を公開し、返済期限の5年ないし10年への変更、新しい借金はしない、借りた場合は必ず返済する②倹約(藩士の減俸、奢侈の禁止、宴会や贈答の禁止)③自分の家の出納を第三者に委任、家計を公開④撫育局を設置し殖産興業に務める-などを断行。
こうした一方で農兵制を敷いて「里正隊」を編成するなど軍制改革も行った。また、民間人のための学問所、教諭所を新設。貯倉を40カ所も設けて凶年に備えた。このほか、河川を活用して運送を便利にした。こうした諸施策が奏功、松山藩の方谷の改革は見事に成功した。この結果、藩主・勝静の中央政界への進出の夢実現の環境がようやく整ったわけだ。

(参考資料)童門冬二「山田方谷」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、司馬遼太郎「峠」