「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

松浦武四郎 全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

松浦武四郎  全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親
 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。
 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。
 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。
 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。
この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。
 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。
1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」、更級源蔵・船山 馨・吉田武三「日本史探訪/海を渡った日本人 松浦武四郎」

 

山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

 

高橋泥舟 鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

高橋泥舟  鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近
 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。
 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。
以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。
 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。
 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。
 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」

秋山真之・・・日露戦争でロシア艦隊を全滅させた天才・参謀

 明治37~38年(1904~1905)の日露戦争、日本の連合艦隊司令官は東郷平八郎、この海戦に完勝したことによって、アドミラル・トーゴーの名は世界中に喧伝され、イギリスの名将ネルソンと並んで東郷は海戦の歴史を語るうえで欠かすことのできない英雄になった。東郷は確かに傑出した提督だった。ただ、彼を司令長官に任命したのは海相山本権兵衛で、実際の作戦を立案指導したのは、一参謀だった秋山真之だった。

極言すれば司令長官が別人でも、その人が秋山に作戦を委ねていれば、ほぼ同じ結果を得たのではないだろうか。何故ならこの日本海海戦でロシア艦隊を全滅させ、日本海軍の損害は小さな水雷艇三隻のみという、奇跡的な圧勝をもたらしたのだから。昭和20年までの軍部の歴史の中で、これほどの先見性と洞察力を持った軍人は、秋山一人だった。

 秋山家は子だくさんで、男5人女1人に恵まれた。二男と四男は他家へ養子に行き、三男の好古は陸軍に入り、日露戦争のときは騎兵部隊の指揮官として大いに活躍した。海軍に入った真之は明治元年(1868)3月20日、松山藩士秋山久敬の五男として生まれ、大正7年(1918)2月に病死した。享年50歳。武士は明治維新後の廃藩置県で、いわば失業したようなものであり、秋山家も生活は苦しかった。

 陸軍士官学校に入って軍人となった好古が卒業後に任官し、15歳の真之を呼び寄せ、大学予備門に入れた。この学校は後の第一高等学校だ。つまり東京帝国大学へ入ろうとするものは、予備門に入ることが多かった。真之は松山以来の友達の正岡子規と一緒に下宿して予備門に通ったが、19歳のときに海軍兵学校を受験して、55人の合格者のうち15番目の成績で入校した。大学へ行くには学資が必要で、それを好古に負担させまいとしたのだ。軍隊の学校なら、衣食住の全部が支給されるし、少額でも給与がつく。真之は明治22年に海軍兵学校をトップで卒業した。入校したときは15番だったが、それ以外は毎学年、彼は常にトップだった。

 明治36年6月、秋山真之はアメリカ留学の辞令をもらい渡米する。学校での授業は退屈で、得るものは少ない。そこで彼は戦術の大家として知られたマハン提督を訪ね個人的にレッスンを受ける。この中で海戦だけでなく、陸戦も含め古今の実戦を詳しく調べ徹底的に研究することを教えられた。また海図に将棋の駒のような軍艦の模型を配置して行う兵棋演習で、実戦の疑似体験を積む方法があることを知った。さらに、アメリカとスペインがキューバの独立をめぐって戦争を始め、幸運にも秋山は観戦武官として従軍した。この戦争のあとイギリス出張を経て帰国し、海軍大学の教官になった。

 明治37年2月10日、ロシアに対し宣戦布告。秋山は東郷司令長官の下で作戦主任参謀だった。彼の上に参謀長がいるが、作戦の立案は彼に任されていた。旅順のロシア艦隊は戦力的には日本とほぼ対等だったが、本国のバルチック海に旅順艦隊と同程度の艦隊を持っていた。当面は旅順艦隊対連合艦隊の戦闘になるが、もしバルチック艦隊が極東へ回航してくれば、ロシアの戦力は日本の2倍ということになる。したがって、日本としては同等戦力のうちに旅順の敵艦隊を全滅させ、やがて到着するはずのバルチック艦隊に備えておく必要があった。それも、旅順艦隊とは損害ゼロで完勝することが求められた。

 味方が砲撃される機会を減らし、相手を砲撃する時間を増やす。このテーマに答えて考え出されたのが、山屋他人中佐の半円戦法だった。一列に進んでくる敵に対し、こちらは右へ半円形を描いて展開する。秋山はこの半円戦法を改良して「丁字」戦法を考え出した。丁の字、あるいはカタカナの「イ」の字でもよい。一列に進んでくる敵に対して、その進行方向を遮るように進むのだ。丁字戦法は敵の行く手を遮るから、双方が遠ざかるということはない。その代償として、味方の先頭艦が一列になった敵艦から集中砲火を浴びる危険があった。ただ、それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の各艦から、敵の旗艦に砲火を集中できる。ある意味で皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る戦法だった。

(参考資料)吉村昭「海の史劇」、生出寿「知将 秋山真之」、三好徹「明治に名参謀ありて」、加来耕三「日本補佐役列伝」                    

小林一茶・・・ “不幸の塊”52歳で初めて妻帯した忍従の俳人

 俳人・小林一茶は“不幸の塊”のような人物だった。3歳で実母に死に別れ、8歳のときやってきた継母にいじめ抜かれ、この母に子供が生まれてからは、ますます折り合いが悪くなった。そのため、15歳のとき江戸に奉公に出された。江戸では「わたり奉公」して食いつなぐ生活の連続で、暮らしが楽であるはずがない。父が病気になったので見舞いに帰郷するが、継母や義弟とはうまくゆかず、父の死後は遺産のことでゴタゴタし、この問題は長く尾を引いた。やっと遺産問題が決着し、一茶が故郷へ戻るのは50歳のときだ。妻を初めて迎えたのはその2年後、52歳のときのことだ。

生涯、一つの考え方にこだわって妻帯することなく過ごした英傑は少なくない。だが一茶の場合、そうではない。世間一般の親子揃っての、慎ましやかな暮らしさえできず、故郷でようやく落ち着いた暮らしができると思い、初めて妻を迎えたとき、世間的に表現すれば人生の大半を終わっていたということなのだ。

 小林一茶は信濃北部の北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生まれた。本名は小林弥太郎。生没年は1763(宝暦13)~1828年(文政10年)。3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えた。この継母に馴染めず、15歳のとき江戸へ奉公に出された。江戸では「わたり奉公」で食いつなぐ、苦難の生活を続けた。25歳のとき、二六庵小林竹阿に師事して、俳諧を学んだといわれる。ただ、この点については確かな史料は全くない。
 29歳のとき、故郷に帰り、翌年から36歳まで俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが、1カ月ほど後に父は死去。以後、遺産相続の件で、継母と12年間争った。この間、一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつ、遺産相続権を主張し続けた。

 50歳で再度、故郷に帰り、その2年後28歳の妻「きく」を娶り3男1女をもうけるが、悲しいことにいずれも幼くして亡くなっている。その妻「きく」も痛風がもとで、37歳の生涯を閉じている。2番目の妻、田中雪を迎えるが、老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうけた。ただ、「やた」は一茶の死後に生まれたもので、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。

 1827年(文政10年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活するようになり、同年その土蔵の中で、“不幸の塊”のような、65年の生涯を閉じた。
 一茶の俳諧俳文集『おらが春』は1819年(文化2年)、一茶が57歳のときの一年間、故郷での折々のできごとに寄せて詠んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものだ。『おらが春』は時系列に沿って書き記された日記ではなく、刊行を意図して構成されたものだ。さらに一茶自身、改訂や推敲を重ねたが、未刊のままに留まっていたものだ。表題の『おらが春』は白井一之が本文の第一話の中に出てくる「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)から採って名付けたものだ。一茶の代表的な句として、よく知られている

・我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやのないすずめ)
・名月を取ってくれろとなく子哉(めいげつを とってくれろとなくこかな)
などはこの作品の中に収められている。

(参考資料)藤沢周平「一茶」

大隈重信・・・政治的力量・人間的魅力を備えた実力派の政治家

 大隈重信は政治家と教育者の2つの顔を持っている。政治家としては大久保利通没後、参議筆頭となって殖産興業政策を推進、いわゆる大隈財政を展開し、第八代および第十七代内閣総理大臣を務めた。また彼は周知の通り、早稲田大学(当時の東京専門学校)の創設をはじめ終生、教育事業に力を尽くした。国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述など広く明治文明の推進者としての功績を持っている。大隈の生没年は1838(天保9)~1922年(大正11年)。

 大隈重信は肥前国・佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子(みいこ)夫妻の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は知行400石の砲術長を務める上士の家柄だった。大隈は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色の『葉隠』に基づく儒教教育を受けた。だが、これに反発し、1854年(安政元年)同志とともに藩校の改革を訴えた。1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮に転じた。のち1861年(文久元年)鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

 1865年(慶応元年)、佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣とともに教頭格となって指導にあたった。また、フルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受けた。そして、京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

薩長土肥、明治維新に功績があった4つの藩だ。このうち、薩摩と長州は武力討幕を打ち出し、そのための政治活動をした。だが、土佐と肥前は違う。土佐は、戊辰戦争が始まる直前まで徳川氏擁護で動いていたし、肥前藩は政治的な動きは全くしていなかった。その土佐と肥前が、薩長と並び称されるようになったのは、戊辰戦争になってからの役割が大きかったからだ。

明治政府が本格的な仕事を開始すると、土佐藩の比重はまたあやしくなってくるが、肥前は出身者個々人の政治的力量によって、新政権の中で次第に重きを成していった。ここに取り上げる大隈重信はじめ、江藤新平、副島種臣らはみな抜群の政治的力量の持ち主だ。とりわけ大隈重信は財政や外交手腕と政治的包容力とで、薩長出身者をも配下に抱え込むほどの一大勢力を形成した。

大隈がその存在感を発揮したのがキリスト教処分問題だった。彼はこの問題で、英公使パークスと堂々とわたり合い談判したのだ。パークスは41歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、パークスは倒幕派にかけた天下のバクチで勝ったうえに、列国に先んじて明治政府を承認した功労者だ。半面、このことを恩に着せて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車を押そうとするところがあった。ところが、フルベッキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食抜きで6時間もの大激論をやり抜いた。

このとき通訳を務めたシーボルトが、後に三条実美や岩倉具視に「パークスもきょうの談判には大いに愕いて、これまで日本で大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官に少し尊敬の気持ちを加えたようです」と語ったのだ。そこで、大隈の評価が高まり、その後抜擢され出世していったというわけだ。

また、「築地梁山泊」とも呼ばれた大隈邸には井上馨、五代友厚、山県有朋、中井弘、大江卓、土居通夫、山口尚芳、前田正名、古沢滋など、ひと癖もふた癖もある豪傑たちが集まっていた。木戸孝允や大久保利通なども、ここに集まる連中の動向を大いに気に病んでいたという。ともかく、これほど癖のある人物たちをも引き付けるだけの人間的魅力が、大隈にあったということだ。
 大隈は、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場を取り、次いで大久保利通の下で財政を担当しつつ秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 葉隠嫌い」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

折口信夫・・・「折口学」で、「あの世」を明らかにしようとした巨人

 折口信夫は「あの世」とは何か?を考え、明らかにしようとした異様な人物であり、巨人だった。彼は「折口信夫」の名で国文学、民俗学、宗教学の論文を書き、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で詩や歌や小説を書いた。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称される。芸能史、国文学を主な研究分野としてはいるものの、折口の研究領域は既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。したがって、折口の研究および思想を一つの学問体系とみなしたものが「折口学」なのだ。折口の生没年は1887(明治20)~1953年(昭和28年)。

 彼は書くものにより、折口信夫と釈迢空の二つを使い分けた。漠然と学問的な著述には折口を、文学上の創作には釈を用いた。だが、彼の仕事の二つの方面が明解に分かれているわけではなかった。この二つを区別し難いところに、彼の発想の特異さがあった。学問において、彼の詩人的な想像力が実証の方法の届かない隅にまで浸透して、不思議なまでにまざまざと古代的世界を再現してみせる。だから、その学問といえども、彼の豊かな想像力の産物に違いなかった。

 折口信夫は大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。生家は医者と生薬(きぐすり)、雑貨を売る商家を兼ねていた。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉らとともに、短歌創作に励んだ。1905年(明治38年)、天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。国学院では国学者、三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京。国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。歌人島木赤彦を知って「アララギ」に入会。また、民俗学者柳田国男を知って深い影響を受け、進むべき道を見い出した。

 折口は1919年(大正8年)、国学院大学講師となり、のち教授として終生、国学院の教職にあった。1920年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行。1921年「アララギ」を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行した。折口の古代研究はこの時期の採訪旅行によって開眼した。1923年、慶應義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤めた。

折口は1924年、前年亡くなった三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講。またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋らの短歌雑誌「日光」に同人として参加した。1926年、長野県、愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5年)とその翌年、東北地方各地を旅した。1932年、文学博士となった。1948年(昭和23年)、第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌年歌会始選者となった。

 「常世」「貴種流離譚」「宮廷歌人」など、折口によって初めて提唱され、定着した概念は多い。しかし、折口学において最も重要かつ広く知られる概念は「客人(まれびと)」と「依代(よりしろ)」だ。冒頭に述べた「あの世」とは何かを解き明かすため、折口は語っている。ただ、難解で非常に理解しにくい。梅原猛氏によると、「あの世」の人は依代を目印に天からこの地上に降りてくる。その依代は「まとい」であり、「のぼり」だった。「あの世」の人はどういう形で「この世」にやってくるのか。それは「まれびと」すなわち客人としてやってくる。「まれびと」は遠い遠い彼方の「あの世」からやってきて、「この世」の人に恩恵を与えて、また「あの世」へ帰っていく。「あの世」とは地下の黄泉(よみ)の国であり、あるいは海の彼方の「ニライカナイ」だった。

 そして梅原氏は、折口自身が少なくとも「まれびと」が乗り移る依代であり、「まれびと」の言葉を語る能力を持っていた人ではないか-としている。折口の小説「死者の書」の中に出てくる。主人公・大津皇子が殺されて二上山に葬られ、その肉体は腐っていくのに、その霊は目覚めて、“言葉”を語る。大津皇子の霊にとって、それは“声”だったが、普通の人には聞こえない。そういう普通の人には聞こえない、声でない言葉がいつまでも続いている-とある。

「死者の書」は奈良・当麻寺の曼陀羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説だ。大津皇子が死んで神となり、次いで仏となり、恋人・耳面刀自(みみものとじ)の生まれ変わりである中将姫を二上山へ呼び寄せ、死霊としての阿弥陀仏と生霊である中将姫との交わりによって、あの有名な「当麻曼陀羅(たいままんだら)」という芸術を生み出すという物語だ。難解だが、折口の異様さの一端が分かるのではないか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小島直記「逆境を愛する男たち」、「日本の詩歌/釈迢空」

安積艮斎・・・学派を超え自由な学風を貫き、多くの著名な門人を輩出

 安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。

艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
 安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。

 艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。

 1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。

 艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

 艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

 このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
 艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
 著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

(参考資料)

石田三成・・・外征めぐり豊臣政権下、No.2同士の抗争で千利休に勝利

 豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?

 石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。

三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。

 正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。

 尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。

利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。

 朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。

 秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。

(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」