「悪役列伝」カテゴリーアーカイブ

蘇我入鹿・・・聖徳太子一族を滅亡に追い込み、国政を壟断した最高実力者

「大化改新」の主役が中大兄皇子、そしてこれを補佐した中臣鎌足だとすれば、その敵役は蘇我氏、それも宗本家の蘇我蝦夷・入鹿の父子ということになる。また、もう少し時代をさかのぼると、聖徳太子の子、山背大兄王ら上宮王家一族24人を凄惨な自殺に追い込んで滅ぼし、当時の国政をほしいままにした悪役。それがここに取り上げた蘇我入鹿だ。

 蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子が築いた繁栄をベースに君臨。蘇我氏は大臣(おおおみ)として大和朝廷の実権を馬子、父・蝦夷に次いで三代にわたって掌握した。642年(皇極元年)、父に代わって国政を掌握した入鹿は翌年、父から独断で大臣を譲られ名実ともに大和朝廷の最高実力者となった。644年(皇極3年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き「上の宮門(みかど)」「谷の宮門(みかど)」とし、さらに自分の子女たちを皇子と呼ばせた。

しかし、専横を極めた蘇我氏は善玉の手で征伐されないと物語が成り立たない。入鹿は、彼が皇位に就けようと画策した古人大兄皇子の異母弟で、古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」のクーデターによって飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿で、皇極天皇に無罪を訴えるも、その御前であえなく止めを刺され、暗殺された。後日、父蝦夷も自決し、ここに馬子の時代から天皇家をも凌ぐ絶大な権力を持ち、栄華を誇った蘇我宗本家は滅んだ。

こうした部分だけみると、この入鹿という人物、権勢を背景にわがまま放題に振る舞う野心家で、“悪”の権化の印象を受けるが、果たしてそうなのか?入鹿は青少年期、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の学堂で学ぶ秀才だったと伝えられている。南淵請安は608年、遣隋使として派遣された小野妹子に従い、僧旻ら8名の留学生・留学僧の一人として留学。以来32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して640年、高向玄理らとともに帰国した。入鹿はその南淵請安から、新知識をかなり受け入れていた存在といえ、その学識レベルはやはり、単なるわがまま放題の悪役像と外れてくるのではないか。

また、この南淵請安の学堂には若き日の中臣連鎌子(後の鎌足)も出入りしていたというから皮肉だ。また、それだけに鎌足も入鹿の学識レベルを熟知。入鹿が権勢をバックにした、単なる野心家ではないとみて、綿密に打倒計画を練っていたのではないか。

「乙巳の変」決行に際して中大兄皇子、鎌足らは、日頃から注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優(わざひと)を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿の脇に身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し、素早く入鹿に斬りかかるよう伝えた。

ところが、子麻呂らはいざとなると怖じ気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、なかなか刺客が登場しないのに、たじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出て遂に入鹿に斬り付けた。

 皇極天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで、中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。この「乙巳の変」を機に、わが国では史上初めて譲位が断行され、皇極天皇から同天皇の弟、軽皇子へバトンタッチされ、孝徳天皇が誕生した。
(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

蘇我赤兄・・・近江朝で天智天皇に仕え、有間皇子を謀略にかけた人物

 645年(皇極4年)、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。古代史上最大のクライマックスともいえる蘇我入鹿暗殺事件だ。この事件の直後、入鹿の父・蝦夷も自決し、蘇我本宗家は滅亡した。しかし、ご承知の通り、これによって蘇我氏全体が滅んだわけではない。反対に、蘇我氏一族の中で、それまで本宗家の馬子直系による権力の独占に不満を持っていた一族は、出世そして繁栄の機会を得たものと、これを大歓迎した。蘇我氏の中で境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)の一族で、ここに取り上げる蘇我赤兄(そがのあかえ)がその一族の一人だ。

 蘇我赤兄は孝徳天皇の息子、有間皇子を孝徳天皇の死後、謀略にかけ、死に追い込んだ張本人として知られている。ただ、これについても確かに謀略にかけたのは赤兄だが、その指示を出していたのは中大兄皇子(後の天智天皇)との見方が有力だ。となると、少し事情は違ってくるが、史料が伝えるその人となりは、やはり悪人としかいえない、ずる賢さが漂っている。

 658年(斉明天皇の4年)、斉明天皇は中大兄皇子らとともに紀伊の牟婁温泉(むろのゆ、現在の和歌山県白浜温泉)に保養に出かけた。その留守中のことだった。留守官(るすのつかさ)として飛鳥の都に残っていた蘇我赤兄が、有間皇子邸を訪れた。そして、土木工事を中心とする公共事業の頻発で、この労役のために民が苦しんでいることを挙げて、斉明天皇-皇太子・中大兄皇子による政治を批判し、皇子に謀反を勧めたのだ。さらに、赤兄は自分の兄たち(石川麻呂、日向)が中大兄皇子に裏切られたことを持ち出して、中大兄を恨んでいることを語ったのだ。

 赤兄の巧みな芝居で、まだ19歳という若い有間皇子は実力者の赤兄が見方についたと早合点し、心を許しすっかり信用。赤兄に兵を挙げる意思があることを明かしてしまったのだ。そして、翌々日、皇子は自ら赤兄の家へ行き、謀反の密議をこらした。ところが、その夜半、赤兄は有間皇子の邸を囲み、牟婁温泉にいる天皇のもとに急使を走らせ、有間皇子の謀反を告げたのだ。皇子はまんまと赤兄の謀略にひっかかったわけだ。まったく、やり方が汚いとしかいいようがない。

 捕らえられた有間皇子は、牟婁に送られ、謀反の動機について中大兄皇子の厳しい尋問を受けた。それに対して有間皇子は、「天と赤兄と知る。われはもっぱらわからず(天と赤兄だけが知っていること。それがしは全く知らぬ)」と答えた。この「天」とは中大兄を指した言葉といわれ、このとき初めて有間皇子は自分を陥れた張本人が中大兄だったことを知り、いわば捨てぜりふを吐いたとみられる。この取り調べだけで、有間皇子は死刑と決まった。そして悲しいことに、その2日後、有間皇子は藤白坂(現在の和歌山県海南市)で縛り首となった。

 甘い言葉に乗せられた有間皇子に用心深さが足りなかったことは認めるが、やはり卑怯なのは赤兄だ。有間皇子も、軍備・軍勢を整えて、正々堂々戦って負けるのであれば納得できたろうが、罠にかけられた悔しさは筆舌に尽くし難いものだったろう。

 赤兄の生没年は不詳だ。『公卿補任』によると、天武天皇の元年(672年)8月配流、それに続いて「年五十一」と記されている。これが事実ならば、生年は推古天皇31年(623年)となる。父は蘇我倉麻呂で、兄に石川麻呂、日向(ひむか)、連子(むらじこ)、果安(はたやす)がいる。娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)は天智天皇の嬪となり、山辺皇女(大津皇子の妃)を産んだ。大○娘(おおぬのいらつめ)は天武天皇の夫人になり、穂積親王、紀皇女、田形皇女を産んだ。

 赤兄は671年、左大臣となり近江朝廷の最高位の臣下として天智天皇に仕えた。天智天皇の死後は近江朝廷の盟主、大友皇子を補佐。吉野に逃れて軍備を整えた大海人皇子軍との対決となった、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)では、赤兄は大友皇子とともに出陣した。最後の決戦となった瀬田の戦いで敗れて逃亡。翌日大友皇子が自殺し、赤兄はその翌日、捕らえられた。そして、その1カ月後、子孫とともに配流された。ただ、その配流先は不明だ。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、豊田有恒「大友皇子東下り」、永井路子「裸足の皇女」、遠山美都男「中大兄皇子」

平重衡・・・寺社勢力討伐へ、東大寺・興福寺焼き討ちの実行者

 平重衡は1181年(治承4年)、平氏の総帥・平清盛の命により東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き払った。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼き尽くし、多数の僧侶が焼死した。この「南都焼き討ち」は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒から“憎悪”の眼で見られ、ひどく憎まれた。滅びてはならないもの、また滅びるはずのないものと信じ切ってきた精神的支柱が、たった一晩の業火であっけなく無に還ってしまった驚きは、現代人の理解の範囲を、遥かに超えたものであったに違いない。

戦(いくさ)の中で寺が主戦場となった場合は別として、通常、戦のため寺が火災に遭うのは多くは類焼だ。ところが、この「南都焼き討ち」は寺社勢力に属する大衆(だいしゅ=僧兵)の討伐を目的としたもので、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の一つだ。

では、なぜ清盛は重衡に南都の代表的な寺の焼き討ちを命じたのか。それは、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺だった興福寺が、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成していた大衆と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃(たの)みとして、平氏政権に反抗し続けていたからだ。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の“威光”を天下に示す必要があったのだ。

とはいえ、当時の日本人は、僧兵どもの横暴や我欲を指弾しながらも、この鎮護国家の二大道場、東大寺・興福寺に伝統的な畏敬と信頼を保ち続けていた。それが消えた、という事実は彼らの胸を不安と絶望に塗りつぶしてしまった。この事件によって人々が強いられたのは、遂に動かし難い「末法の世」への確認だった。それは“恐怖”そのものだった。

平重衡は、そんな大それた悪行を実行した張本人にしては、年もまだ24歳にしかなっていない貴公子だった。平清盛の四男で、6歳で従五位下・尾張守に任じ、左馬頭に叙せられ、やがて正四位に進み左近衛権中将、続いて蔵人頭に補された。同じ年の5月、源三位頼政が以仁王を奉じ、全国の源氏に先駆けて打倒平家の兵を挙げたとき、重衡は甥の維盛とともに2万の兵力を率いて頼政を宇治に破ったが、合戦の経験といえばこれが生まれて初めての、いわば典型的な“公達”武者なのだ。

今度はその重衡に4万の大軍を与えて、南都攻略に向かわせた清盛の狙いは何だったのか。実は当時、源三位頼政の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源氏との富士川での戦いに平家は敗れ、清盛は都を福原から京都に戻さざるを得なくなり、平家一門にとってはまさに四面楚歌の状態にあったのだ。そこで、そんな局面打開策の一環として、南都攻略が企図されたわけだ。焼き討ちの挙に出るまで、清盛もぎりぎりまで衝突を避けようと腐心し、調停の使者をさしたてている。しかし、使者は髷のもとどりを切られたり、鎮撫の兵も斬られ、奈良僧兵たちがあざけり、挑発的行為に出るに及んで、清盛も怒り、決断したのだ。

そんな清盛の意を受けて、「僧徒たちは悪鬼、寺は悪鬼のこもる城だ。焼き滅ぼして何が悪かろう」。恐らく重衡はそんな思いだったに違いない。しかし、堂塔伽藍が一斉に華麗な炎をあげ始め、さらに大仏殿までが火焔に包まれ始めたとき、彼も青くなり、仏法に仇する“怨敵”の烙印を額に押されて、平然としていられるほど太い神経は持ち合わせていなかったろう。若い重衡には、この体験は残酷に過ぎたといえる。

この事件を契機に、好意的だった寺社勢力さえが離反し、平家の孤立化は決定的となった。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平家は負け続け、滅亡の道をたどった。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

鳥居耀蔵・・・洋学嫌いが高じて「蛮社の獄」をでっちあげた“妖怪”

 江戸時代末期の幕府重臣だった鳥居耀蔵は、一貫して洋学に反感を持ち、それが高じて洋学者に憎悪の目を向け、高野長英、渡辺崋山らの洋学者を大弾圧した「蛮社の獄」をでっちあげたとの見方すらある。多くの場合、悪役のレッテルを張られるケースが多いのだが、“妖怪”とも称された彼は世間から“悪役”の衣を着せられたのではなく、むしろ確乎たる悪人だったのではないか。

 鳥居耀蔵は大学頭・林述斎の次男として生まれた。名は忠耀(ただてる)。25歳のとき旗本、鳥居一学の養子となった。1837年(天保8年)、目付けとなった。この年はアメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて渡来するにあたり、渡辺崋山が「慎機論」を、高野長英が「夢物語」を著して、幕府の撃退方針を阻止しようとしたが、とくに崋山は時勢に遅れた鎖国体制の固守はかえって外国の侵略を招く恐れのあることを強調した。崋山に限らず、蛮社の人々は江戸湾が封鎖された場合、幕府のお膝元である江戸の物資がたちまち払底するだろうという恐れを共通して抱いていた。

 蛮社は、江戸の山の手に住む洋学者を中心として、新知識を交換するためにつくられた会合の名称で、「尚歯会」または「山の手派」ともいわれた。蛮社は「蛮学社中」の略だった。三河田原藩の家老・渡辺崋山を盟主とし、町医師・高野長英、岸和田藩医・小関三英らの蘭学者、勘定吟味役・川路聖謨(としあきら)、代官・江川太郎左衛門栄龍、代官・羽倉外記、内田弥太郎(高野長英門下)らの幕吏、薩摩藩士・小林専次郎、下総古河藩家老・鷹見忠常、農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)らを加えた、つまりは開明分子の一団だった。

 こうした時代背景の中で、老中・水野忠邦は「寛政の改革」以来の江戸湾防備体制をさらに強化する必要があると判断。1838年(天保9年)目付・鳥居耀蔵と、代官・江川栄龍に、浦賀など江戸湾の防備カ所の巡見を命じた。ところが、この命に鳥居耀蔵は過剰に反応。儒学を信奉していて異常なほどの洋学嫌いな彼は、日頃、強い反感を抱いていた蛮社の人々に報復する絶好の機会と捉え、近世洋学史上最大の弾圧といわれる“蛮社の獄”へとエスカレートさせていくのだ。

 鳥居耀蔵は小人目付・小笠原貢蔵に、老中・水野忠邦の内命と偽って蛮社の面々を探索するように命じた。それを、情報を提供した下級役人の花井虎一からの密訴という形で告発状をつくり、これを水野忠邦のもとへ提出した。この結果、政治を論じた「慎機論」「西洋事情」などの草稿が発見された渡辺崋山は、政治誹謗のかどで厳しい吟味を受け、藩に累が及ぶことを怖れた崋山は、自決している。高野長英も逃亡生活を送った後、自決。また代官・江川栄龍をも失脚に追い込んでいる。このような探索、吟味のやり方はすべて鳥居耀蔵の手によるものだった。

 水野忠邦がリーダーとなった「天保の改革」においても鳥居耀蔵は“活躍”する。彼は天保12年、策動して失脚させた矢部定謙(さだのり)に代わって南町奉行に栄転し、鳥居甲斐守忠耀となった。しかも、天保の改革が民衆から予想をはるかに上回る反発を受け、反対派の台頭が目覚しくなってくると、彼は直属の上司の水野忠邦を裏切り、反対派に機密書類を提供して寝返りを打った。

出処進退の潔さが強く求められた時代に、この往生際の悪さはどう表現したらいいのか。悪の典型といわれても仕方あるまい。
 この後、鳥居耀蔵は四国丸亀に25年もの長きにわたり幽閉され、奇跡的に生還。78年の人生を生き抜いた。まさに“妖怪”だ。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、松本清張・松島栄一「日本史探訪/開国か攘夷か」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、白石一郎「江戸人物伝」

天智天皇・・・謀略を駆使し、頂点に昇りつめた自己顕示欲に長けた策謀家

 天智天皇(当時は中大兄皇子)は、母・皇極帝の3年、「乙巳(いっし)の変」で中臣鎌足らと謀って、当時極めて大きな権勢を誇った蘇我氏(蝦夷・入鹿)を打倒、叔父・軽皇子を即位させ、孝徳天皇として立てて「大化改新」を断行。のち再び母を即位させ、自らは皇太子として政務を執った。こうしてみると、表面上はNo.2に甘んじる控えめな皇子を連想し勝ちだが、実はそうではない。様々な背景・理由があって即位することはなかったが、実権は彼が掌握していたのだ。有間皇子、蘇我倉山田石川麻呂、そして孝徳天皇など、彼にとって邪魔な存在はすべて謀略にかけ、追い込んで排除していく策謀家の側面が強い。

 天智天皇は父・田村皇子(後の舒明天皇)、母・舒明天皇の皇后、さらに後に即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇となる宝皇女との間に生まれた。名は葛城皇子、開別(ひらかすわけ)皇子。田村皇子即位後、蘇我馬子の娘を母とする古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子とともに、皇位継承資格者とみなされ中大兄皇子を称した。皇后には古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)を迎えた。父、古人大兄皇子は孝徳朝初期に吉野にあったが、謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺害された。その際、倭姫は幼少のため中大兄皇子に引き取られ、後に輿入れしたのだ。

 天智天皇をめぐる女性の数は多く、嬪(みめ)として遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)が嫁ぎ、さらに女官として色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、黒媛娘(くろめのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)らが後宮に入った。遠智娘との間には建皇子、大田皇女、○野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が生まれ、姪娘との間には御名部(みなべ)皇女や阿閉皇女(後の元明天皇)が、伊賀采女宅子娘との間には伊賀皇子(後の大友皇子=弘文天皇)が生まれた。

 中大兄皇子は、大化改新以前は隋に渡った南淵請安や僧旻(みん)から大陸、半島情勢を学び、高句麗や百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した

 冒頭で様々な事情から即位せず、皇太子として政務を執り続けたと述べたが、その最大ともいえる事情の一つが実妹、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)と、男女の関係にあったと伝えられることだ。これは由々しきことだ。古代社会では、同母でなければ兄弟姉妹での男女関係、あるいは婚姻に至るケースはよくあり、決して珍しくない。近親同士の男女関係、いや婚姻についても甥と叔母、叔父と姪のケースは極めて多いとさえいえる。

ところが、実父、実母同士の男女関係は、現代はもちろん、古代社会においても厳に認められておらず、タブーとなっていた。中大兄皇子(=天智天皇)はこのタブーを破って、長く間人皇女との男女関係にあったので、即位したくても即位できなかったのだ。それでもいっこうにひるむことなく、実権は握り続けたわけだ。中大兄皇子は誰も仕返しが怖くて、そのことを指摘し非難できないことをいいことに、やりたい放題だったのだ。それほど身勝手で、自分だけは別の存在だとばかりに振る舞う、まさに“専制君主”あるいは“悪魔”のような人物だった-といった方が的を射ているかも知れない。

天智天皇とは、こんな人物だったから側近はいつもピリピリし、表面上は絶対服従の姿勢を示しながらも、内心はうんざりして、周囲も辟易していたろう。同天皇の打ち出す朝鮮半島政策に対する危うさも加わって、新羅、高句麗からの渡来人・帰化人らが入り混じった形で、反対勢力がいつどのように動き出してもおかしくなかった。同天皇が進言に耳を貸す人物でないだけに、朝鮮半島政策の路線を修正・変更するには抹殺するしかなかったわけだ。

 天智天皇の死には謎が多い。歴代天皇の中で天智天皇の墓がないのだ。山科の草むらで同天皇の沓が見つかったが、『扶桑略記』には亡骸は遂に見つからなかったとある。何者かに襲われ殺害された可能性もあるのだ。それが、弟の大海人皇子に好意を寄せていた勢力の人物だったかも知れない。

(参考資料)遠山美都男「中大兄皇子」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「隠された帝」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」、梅原猛「百人一語」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」

徳川綱吉・・・知性派将軍も「生類憐みの令」を出したため“悪役”に

 徳川綱吉といえば、“犬公方”などとも呼ばれ、江戸時代を通じても天下の悪法「生類憐みの令」を出し、一般庶民を苦しめた人物だ。ただ、綱吉自身は大変学問好きだった将軍で、15人を数えた徳川歴代将軍の中でも上位に数えられ、決してバカではなかった。それが、跡継ぎができないことを憂い、母・桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで、この悪法を世に出し、まさに“悪役”のレッテルを張られてしまったのだ。綱吉の生没年は1646(正保3)~1709年(宝永6年)。

 徳川五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男。幼名は徳松。母は桂昌院(お玉)。綱吉の正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院。お手付きに牧野成貞の妻阿久里とその娘の安などがいたという俗説もある。

 綱吉は1651年(慶安4年)、父家光の死後、上野国(現在の群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1年)10万石加増され、館林藩藩主となった。そして、1680年(延宝8年)、兄の四代将軍家綱に継嗣がなかったことから、彼がその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同年40歳の若さで家綱が死去したため、幸運にも彼が将軍宣下を受けたものだ。

 1687年(貞享4年)、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」が制定された。この法令では綱吉が丙戌年生まれだったため、とくに犬が保護されたが、対象は犬のほか猫、鳥、魚類・貝類・虫類にまで及んだ。当初は生き物に対する殺生を慎めという意味があっただけの、いわば精神論的法令だった。しかし、一向に違反者が減らないため、遂には御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられることになった。そして1696年(元禄9年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることになったのだ。もう精神論ではなくなってしまった。その結果、一般民衆からは天下の悪法として受け止められ、幕府への不満が高まった。

 綱吉が当時、一般民衆の間で人気を落とした事件がもう一つある。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの後処理だ。映画、テレビ、講談などでもお馴染みの「忠臣蔵」だが、周知のとおり江戸城内・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ播州赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩の即日切腹と、同藩のお家断絶(取り潰し)だ。大名たるものが裁判や審議を全く受けることもなく、即日処刑されてしまったのだ。異例のことだった。

これに対し、吉良上野介は“お咎め”なし。通常は武家同士の揉め事は「喧嘩両成敗」が相場。この片手落ちの処分に当事者の赤穂藩関係者の“怒り”は当然だが、一般民衆も頭を傾げた。そして、“判官贔屓”にも似た心境になり、赤穂浪士による討ち入りで彼らが上野介の首級を挙げ、主君の恨みを晴らすという本懐を遂げたときは、心の中で拍手喝采したのだ。幕府の処断は間違っていると態度で示したわけだ。明らかに綱吉の判断ミスだ。

江戸時代は改革や事件の後処理など幕閣が判断し方向性を決め、将軍の裁可を仰ぐケースが多い。中にはほとんど筆頭老中や側用人に任せっきりであった将軍もいた。しかし、強烈なリーダーシップを発揮した将軍もいたのだ。将軍の権威が最高となったのが元禄時代だ。綱吉は専制独裁君主だった。勅使饗応の日に浅野長矩が刃傷事件起こしたことで、綱吉は激怒。その感情、憤りをそのまま処分に結び付け、独断で全く審議もせずに内匠頭を切腹させてしまったのだ。

 綱吉は戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。林信篤をしばしば召し出し、経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍だった。儒学を重んじる姿勢は新井白石、室鳩巣、荻生徂徠、雨森芳洲、山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなった。

また、綱吉は儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍として知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、大和国と河内国一帯の御陵計66陵を巨額な資金をかけて修復させている。このほか、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用へ道を開いている。荻原重秀もここから登用されているのだ。

 ざっと綱吉の事績を挙げてみたが、治世の前半は基本的には善政として「天和の治」と称えられている。「生類憐みの令」がなければ、恐らく彼は賢人、善政を行った将軍として名を残していたことだろう。

 とはいえ、綱吉の場合、女性にはだらしなかった。いや、彼は男色にも精を出した。きっかけは恐らく、綱吉にへつらう側用人・牧野成貞が美女を腰元にして近づけたことだったろう。これはよく知られた話だが、女の味を覚えた綱吉は牧野の妻を江戸城に呼びつけ、それきり自分の妾にした。さらには牧野の娘で、結婚したばかりの新妻に目をつけた。これは一晩か二晩で帰されたが、その夫は切腹してしまう。その新妻も翌年死ぬ。綱吉は男色にも精を出し、彼に愛玩された男女は実に100人を超えたといわれている。とても単なる“女好き”とかいうレベルではない。やはり常軌を逸した部分のある人物だったことは間違いない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、永井路子「歴史のヒロインたち 五代将軍綱吉の母・桂昌院」、白石一郎「江戸人物伝 大石内蔵助良雄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、小島直記「逆境を愛する男たち」

徳川慶喜・・・ 膨大な数の幕臣を見殺しにし、敵前逃亡した最後の将軍

 徳川慶喜といえば幕末、英明で知られた徳川十五代将軍だ。それだけに、このシリーズに加えることに違和感を持たれる人がいるかも知れない。しかし、最高司令官としての慶喜がきちんと対応していれば、幕府軍の官軍との戦いは、まだまだ互角以上の勝負が可能であった。にもかかわらず、彼は鳥羽・伏見の戦いに敗れると、敗兵を置き去りにして、こっそり大坂城を抜け出して海路、真っ先に江戸に戻ってしまった。

これはトップとして恥ずべき最大の汚点だ。「敵前逃亡」だ。慶喜は膨大な数の幕臣を、ある意味で見殺しにしてしまったのだ。組織のトップとしては、完全に“失格者”だったといわざるを得ない。トップにはトップの者として、その立場に合った、幕臣が納得する、ふさわしい引き際があったはずだ。

 徳川慶喜は、確かに徳川の歴代将軍の中では知性も教養も備え、幕政改革にも取り組む、最後まで可能性を探し続けた「徳川日本株式会社」(幕府)の“経営者”だった。慶喜がやろうとしたのは、単なる財政再建ではなく、“勢威”の回復にあった。つまり、将軍を核にした徳川幕府の勢威を昔日に戻そうとしたのだ。

そのため、彼は軍制、財政、組織の三改革を実施した。組織改革では老中以下の合議制を改め、「省」制を導入した。内務、外務、陸軍、海軍、財、農、商、土木、司法、教育、宗教などに分けた。また、横須賀造船所を建設した。

 そして、西南雄藩を中心とする反対勢力の伸長に対抗、彼は突然、ウルトラCの逆転戦法に出た。「大政奉還」だ。諸藩の有力者に対し、“ポスト徳川”の運営がお前たちにできるのか?やれるならやってみろ-との気持ちが強かったと思われる。つまり、彼は本気でトップの座を降りる気はなかったのだ。彼は“時代の空気”を読みそこなった。彼の目算では、討幕勢力は四百万石という徳川クラスの“大企業”経営の経験がない連中だけに、すぐに音を上げて投げ出してしまうだろうと、たかをくくっていたのだ。

 ところが、西南雄藩の連中は音を上げるどころか、十分やる気で、天皇を担ぎ出し「今後、日本の経営は天皇が行う」と宣言した。「王政復古」だ。この奇襲に慶喜も完全に足をすくわれた格好だ。そして、鳥羽・伏見の戦いでの敗戦で彼は、取り返しのつかない、決定的なミスを犯してしまった。側近のみを伴っての敵前逃亡だ。哀れなのは置き去りにされた、膨大な数の幕臣たちだ。

 歴史に「たら」「れば」は無意味ということを承知で、敢えて大坂城で一戦していれば、と考えてしまう。負けてもいい。負けたら江戸で一戦すべきだったのではないかと思う。大坂城では軍備も戦力もあった。江戸でも戦う人々はたくさんいたのだ。そうすれば佐幕派の諸藩や旗本ら幕府軍も結末はどうあれ納得できただろう。江戸の庶民もそうだ。

 しかし、慶喜は江戸に戻って後、ひたすら恭順の姿勢を取る。京都や大坂にいて幕政改革の陣頭指揮を執った、あのエネルギッシュでダイナミックなトップの面影は全くない。この落差がどうにも理解しにくいところだ。“朝敵”の汚名は何としても返上したい-の思いは確かにあったろうが、もうすこし、常識的に対応すれば、こんな追い込まれ方はしなかったのではないか。

 徳川慶喜の生没年は1837(天保8)~1913年(大正2年)。江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・水戸斉昭の七男として生まれた。幼名は七郎麻呂。斉昭の命で徹底した英才教育を受け、水戸弘道館で学んだ後、1847年(弘化4年)一橋家を継いで慶喜と改名した。内大臣。従一位勲一等公爵。

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
      奈良本辰也「歴史に学ぶ」、杉本苑子「残照」

藤原兼家・・・初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物

 藤原兼家は、藤原氏の中でも初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物だ。天皇の外戚となり、権謀術数の限りを尽くして地位を確立した藤原氏は、兼家の子、道長の時代に絶頂期を迎える。兼家は、その道長の全盛時代の礎をつくったのだ。兼家の生没年は929(延長7)~990年(永祚2年)。
 藤原兼家は藤原北家の流れ、藤原師輔の三男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長、道綱らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母がいる。

兼家は円融天皇のとき、長兄の伊尹(これただ)が早世すると、次兄兼通と摂関の地位をめぐって激しく対立した。兼家は次の関白を望んだが、結局敗れ、その地位は兼通に奪われてしまった。ここから兄弟による、ちょっと信じがたいほどの対立状態が続き、兼家にとって不遇の時代が続いた。関白となった兼通は兼家を憎み、ことごとく兼家の出世の邪魔をし、死に際には兼家を大納言から治部卿に降格させることまでやった。どうして?そこまでやるか?くらいの意地の悪さだ。

 なぜ、兄弟間のこんな陰湿な対立が生まれたのか?それは、ずばり弟の兼家が兄の兼通の官位を超えて出世してしまったからだ。967年(康保4年)、冷泉天皇の即位に伴い、兼家は兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌968年(安和元年)には兼通を超えて従三位に叙された。969年(安和2年)には参議を経ずに中納言となった。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし兼家は従三位に達し、さらに中納言就任直後までその職に留まった。

これは長兄伊尹が自己の政権基盤確立のため企図したもので、宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられる。そして、これが「安和の変」に兼家が関与していたとされる説の根拠とされている。その後、伊尹が摂政になると、兼家はさらに重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、972年(天禄3年)には兼家を正三位大納言に昇進させ、さらに右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位が兼通の上となり、このため兼通の兼家に対する恨みが増幅した形となったのだ。

 972年(天禄3年)伊尹が重病で辞表を提出すると、当然兼家は関白を望んだ。しかし兼通がこの事態を黙ってみているわけはなかった。そして兼通は「関白は宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じたのだ。孝心篤い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白とした。兼通の勝利だった。

 兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごすことになった。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王を産むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、兼家が次女の詮子を女御に入れようとすると、兼通はこれを妨害した。兼家の官位の昇進も止まってしまった。『栄華物語』によると、兼通は「できることなら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」とまで発言している。

 兼通の、兼家に対する憎しみは死を前に爆発する。きっかけは、兼通の勘違いだった。977年(貞元2年)、重体に陥った兼通が邸で臥せっていたとき、兼通の門前を通りかかった兼家の車が当然、見舞いにきたものと思っていたが、実はそうではなく、通り過ぎて禁裏へ行ってしまったことを激怒したのだった。そこで兼通は、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。兼通は最後の力を振り絞って、兼家にできる限りのダメージを与えることに執念を燃やしたのだ。そして満足したか、程なく兼通は死去した。

 兼家の出世にとって最大の“障害”だった兼通が亡くなったことで、あとは策略と処世術に長けた兼家自身が、外戚の立場を最大限に活かし、着実に階段を昇るだけだった。兼通の死後は右大臣に任じられ、次第に朝廷内での権勢を得ていった。そして、寛和2年6月には息子、道兼を使い策略によって花山天皇を出家させ、退位させた。そして娘が産んだ一条天皇の擁立に成功。986年、念願の摂政に就任した。その後、兼家の家系が摂政を独占することになった。

 ただ、兼通・兼家の兄弟の間に憎しみにも似た争いがあったように、勝者の兼家の息子・孫の世代でも争いは繰り返されている。中でも兼家の末っ子、道長と長兄道隆の子供(伊周ら)たちとの官位争いだ。両家一族挙げての対立は、ほとんど手加減なしの想像以上に激しいものだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条高時・・・田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った執権

 鎌倉幕府最後(第十四代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った。『太平記』『増鏡』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても、執権としての自覚に乏しく、酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。高時の生没年は1303(嘉元3)~1333(元弘3年/正慶2年)。

 杉本苑子氏は、北条氏は不思議な氏族だという。鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は十六代にわたる執権家、とくに得宗と呼ばれた宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策の限りを尽くした。その結果、後世の人々には陰険な氏族として毛嫌いされているほど。それにもかかわらず、執権を務めた人物一人ひとりの生き方は、権位にありながら、珍しいほど清潔だった-と杉本氏。ただ、これには例外があった。北条氏の執権を務めた中に一人、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した人物がいた。それがここに取り上げた十四代・北条高時だ。

 北条高時は第九代執権・北条貞時の三男として生まれた。成寿丸、高時、崇鑑と改名した。日輪寺(にちりんじ)殿と呼ばれた。1316年(正和5年)、14歳で執権となった。したがって、まだ執権としての器量にも欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。ただ、飾り物としての執権職に嫌気したか、彼は成長してからも真面目に職務に就くことは少なかったようだ。

 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に国税あるいは年貢として徴収し出す始末だった。公私混同も甚だしい。また、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうなるとめちゃくちゃだ。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上するので、当時、鎌倉に4000~5000匹の犬がいたという。月に12度も「犬合わせの日」が定められていたというから、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。この高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になったと伝えられている。

 1326年(正中3年)、病のため高時は24歳で執権職を辞して出家した。後継をめぐり高時の実子、邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こった。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任。赤橋守時が就任することで収拾した。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵。ここから事態は急展開。足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増していく。

 高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが、結局6000人もの死者を出し、鎌倉幕府は滅亡、高時は東勝寺で自刃した。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」、司馬遼太郎「街道をゆく26」、杉本苑子「決断のとき」

藤原信西・・・博覧強記で、信念に沿った行動が敵視され“悪役”に

 日本人は合理的に物事を考え処理していく人物をあまり好まない。そのため頭が切れ、眼識が鋭く、決断力に富み、毀誉褒貶を意に介さず、信念に沿って行動するタイプの人間はややもすると敵視され、“悪役”に仕立て上げられるケースが少なくない。当世無双の博覧強記といわれ、「諸道に達する才人」といわれたこの藤原信西などはその代表的な例かもしれない。信西の生没年は1106(嘉祥元)~1160年(平治元年)。

 藤原信西は平安末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名。俗名は藤原通憲(みちのり)。信西の家系は曽祖父藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父藤原季綱は大学頭だった。ところが1112年(天永3年)、父藤原実兼が蔵人所で急死したため、幼少の通憲は縁戚の高階経敏の養子となった。このことが後の彼の生き方を大きく左右することになった。

 通憲の願いは曽祖父、祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会のしくみでは、高階家の戸籍に入ってしまった通憲には、その時点で実範・季綱を世襲する資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていたのだ。これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。

 鳥羽上皇はこれを宥めようとして1143年(康治2年)、正五位下、翌年には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、さらに息子・俊憲に文章博士、大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年出家して「信西」と名乗った。
 鳥羽上皇は信西の才能に注目し『本朝世紀』の選者とした。これは官選の国史『六国史』の後を受けて、宇多帝の御宇から近衛帝までおよそ250年間にわたる宮廷内でのできごとを、外記・日記をはじめ諸家の記録を参照し、年代を追いつつ整理編纂したもので、史学史上、重要な文献となっている。

 『法曹類林』の述作も、地道な業績のひとつといえよう。明法家・司法学者らの意見、実施に適用された令法上の慣例などを、古書・古文献を丹念に渉猟して、事項別に分類・収集した法律書だ。全230巻におよぶ大部なものだから、当時の官界・学界に大いに活用されたばかりでなく、現在なお、平安朝時代の法例・法理を考察するうえで貴重視されている。

 また信西自身、自分の家系が朝廷内で出世の見込みが薄いことで、傍目にはとても皇位に就く可能性が低い鳥羽上皇の第四皇子、雅仁親王に目をつけた。ただ、それは決して自暴自棄になって選択したのではなかった。成算を見込んでのものだったのだ。そして、彼は政治状況や天皇家の内紛、人間関係などを冷静に観察、分析して、雅仁親王こそ天皇になれると見抜き、接近した。

 1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた雅仁親王がその見立て通り、後白河天皇として即位。信西はその信頼厚い権力者の地位を得た。1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御すると、その葬儀の準備を行い、「保元の乱」が起こると源義朝の献策を積極採用して、“夜襲”作戦を断行。後白河天皇方に勝利をもたらした。

 信西は乱後、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、新制七カ条を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど絶大な権力を振るった。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

 しかし、強引な政治の刷新は反発を招き、二条天皇が即位し後白河上皇の院政が始まると、当時、後白河の寵臣となっていた藤原信頼と対立。徐々に歯車が狂い始める。その一方で、保元の乱をきっかけに、さらに力を持った信西は源義朝が申し入れてきた婚姻関係を断り、平氏の娘と自分の息子で婚姻血縁関係を結んだ。このことは後に大きな禍根を残すことになった。源義朝は保元の乱の時の活躍を正当に評価されなかった不満と、信西に持ち込んだ婚姻関係を断られたことに怒り、信西と対立した勢力と結んで1159年(平治元年)、「平治の乱」を起こしたのだ。

 信西は源義朝・藤原信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で切腹した。だが、後に源光保によって地中から掘り起こされ、首を切り取られ都大路に晒されたという。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」