「小倉百人一首1~50」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.21 素性法師

素性法師
※俗名は良岑玄利(よしみねはるとし)。父は僧正遍昭。

今来むといひしばかりに長月の
       有明の月を待ち出でつるかな

【歌の背景】恋する女性の立場に立って詠まれたもの。男のかりそめの言葉を頼りにして、もう来るか、もう来るかと秋の夜長を一晩中、待ち明かし、有明の月を見る結果になったというやるせない気持ちを詠んだもの。男性、それも僧が恋歌を作っている点に陰翳が感じられる。

【歌 意】「すぐ来ます」とあなたが言ったばかりに、私はその言葉を信じてもう来るか、もう来るかと待ちました。そのうちに長い九月の夜も明けて、肝心のあなたは来ないで、待ってもいない有明の月を見ることになってしまったことです。

【作者のプロフィル】父は僧正遍昭で、その在俗中に生まれた。素性は俗名を良岑玄利といった。由性法師は弟。初め清和天皇に仕え、右近衛将監であった。父の意志で出家し、その後上京の雲林院に住み、権律師に任ぜられ、また大和の石上寺の良因院の住持となった。彼がなくなったとき、紀貫之、凡河内躬恒らが哀悼歌を贈ったほど当時有名な歌人だった。

私説 小倉百人一首 No.22 文屋康秀

文屋康秀

吹くからに秋の草木をしをるれば
       むべ山風をあらしといふらむ

【歌の背景】この歌の作者については、文屋朝康(文屋康秀の子)の作とする説もある。山風をあらしということに対して、草木がしおれてしまう、つまり草木をあらすから、あらしというのだろうという理屈をつけた歌。言葉の遊びとしての面白みだけのもの。

【歌 意】風が吹くとすぐに秋の草木がしおれて枯れるので、なるほど山の風を(続けて書けば)“嵐”という文字の読みの通り“あらし”というのであろう。

【作者のプロフィル】「姓氏録」には、文屋の姓は天武天皇の皇女二品長親王の後なりとある。貞観2年(860)に刑部中判事となり、後、三河掾になり、元慶元年に山城大掾、同9年に縫殿介となった。六歌仙の一人。

私説 小倉百人一首 No.23 大江千里

大江千里

月みればちぢにものこそかなしけれ
       わが身一つの秋にはあらねど

【歌の背景】是貞親王の歌合せに詠んだもの。秋の月を見て人の心に宿る悲しみを嘆いている。秋を悲しいもの、感傷的なものと見る季節観の型に合わせて作られた歌。

【歌意】秋の月を見ると、あれこれ悲しいことが思い起こされる。秋は世の中のすべての人に来た秋だのに、なぜか自分だけに来た秋のような気がして。

【作者のプロフィル】平城天皇の皇子・阿保親王(在原業平の父)の曾孫にあたり、参議大江音人の第三子。父音人の時代、もとは大枝と書いていたが、大江氏を賜り臣籍に下った。父に似て漢学、文学に優れ、とくに和歌に巧みだった。生没年不詳。

私説 小倉百人一首 No.24 菅 家

菅 家
※菅原道真

このたびは幣もとりあへず手向山
       もみぢのにしき神のまにまに

【歌の背景】宇多天皇が退位後、昌泰元年(898)10月ちょうどもみぢの美しい季節、奈良の山荘へ行かれた。そこで、幣を奉るよりはと、もみぢの美しさを讃えて詠んだもの。
  このたびは「この度」と「この旅」の掛詞。「手向」は「たむける」と「手向山」の山との掛詞。大和国から山城国へ越す奈良山の峠をいう。
【歌意】手向山の神よ、今度の旅ではたむける幣も取る暇もなくここへやってきました。でも、この手向山は色とりどりの、一面の美しいもみぢです。とりあえずこのもみぢの錦を手向け致します。どうか御意のままにお納めください。
【作者のプロフィル】菅原道真。参議是善の第三子。幼少から文才を知られた。遣唐使の廃止を奏した。これに伴い250年にわたって続いてきた日本と唐との国交は途絶えることになる。
昌泰2年(899)左大臣藤原時平(29歳)、右大臣道真(55歳)となったころが、宮廷における彼の人生のピークで、これ以後は藤原氏との覇権競争に敗れ、転落の一途。延喜元年(901)時平一派は道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位に立てようとする陰謀を企てていると奏上。17歳の少年、醍醐天皇はそれを信じて道真の大宰府・権帥への左遷を勅裁してしまう。そこで道真は厚い信頼を受けていた宇多天皇に「ながれゆく 我はみくずとなりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」の歌を届け哀訴したが、法皇にもなす術はなく、道真の配流を止めることはできなかった。延喜3年(903)大宰府で悲嘆のうちに59歳でなくなった。
時平一派の讒言によって左遷された、その無念の思いは怨霊となって都の貴顕を襲ったといわれる。そこで、鎮魂の意を込めて天暦元年(947)京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。そして、それから1000年以上の時の中を生き続け、現在でも学問の神様として親しまれ、全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。また天暦4年本官を復され、太政大臣を追贈された。

私説 小倉百人一首 No.25 三条右大臣

三条右大臣
※藤原定方

名にし負わば逢坂山のさねかづら
       人に知られでくるよしもがな

【歌の背景】忍ぶ恋の思いを歌ったもの。「逢坂山」には「逢う」、「さねかづら」には「さ寝」が、「来る」には「繰る」が掛けてあり、歌の作り方としてはなかなか凝っている。

【歌 意】逢うて寝るという名を持つ逢坂山のさねかづらよ、その名前通り恋人に逢って寝るという力を備えているものなら、誰にも知られることなく蔓を手繰ってあなたのもとにたどり着き、逢って共寝する。そんなこっそりと逢う方法があればいいのだが。

【作者のプロフィル】藤原定方。正二位内大臣藤原高藤の二男。母は宮内大輔弘益のむすめ。醍醐天皇の延長2年正月右大臣に任じられ、従二位になった。京の三条に邸を構えていたので三条の右大臣といわれた。管弦の名手としても知られた。承平2年(932)8月、60歳(57歳とも)で没。

私説 小倉百人一首 No.26 貞信公

貞信公
※藤原忠平

小倉山峰のもみぢばこころあらば
       いまひとたびのみゆき待たなむ

【歌の背景】宇多上皇が大堰川に御幸されて、あまりよい景色なので醍醐天皇(宇多上皇の皇子)も一度行幸されればよいがといわれたので、藤原忠平がこのことを天皇に奏上しましょう-といって詠んだもの。

【歌 意】小倉山峰のもみぢ葉よ、お前の見事な美しさを上皇がめでられ、み子の醍醐天皇にもお見せになりたいといわれたぞ。もしお前にもののわかる心があるならば、天皇の行幸までもみぢ葉の美しさを保って待ってほしいものだ。

【作者のプロフィル】藤原忠平。藤原基経の第四男。母は弾正尹人康親王のむすめ。兄時平の後を継いで藤原氏全盛の基を磐石にした。醍醐天皇の昌泰14年に右大臣、朱雀天皇即位にあたり摂政、承平6年太政大臣、天慶4年関白となり、村上天皇の天暦3年(949)に70歳で没。法性寺に葬られ、貞信公とおくり名された。

私説 小倉百人一首 No.27 中納言兼輔

中納言兼輔
※藤原兼輔。

みかの原湧きてながるるいづみ川
       いつ見きとて恋しかるらむ

【歌の背景】みかの原は京都府相楽郡加茂町にあり、ダム建設以前は水量豊かな大河だった木津川を南に、北、東、西の三方を山に囲まれた要害の地で、かつて元明天皇の甕原離宮、聖武天皇の恭仁京があった、いわば古京の地。「湧きてながるる」から「出づ水」であって、それに地名(今の木津川)を掛けている。

【歌 意】かつてなんぴとかが甕をいくつも埋めた。そのおびただしい甕の口が泉となって水があふれるという甕の原。その湧き出て流れる泉川のように、いったいいつ見たからあの人がこんなに恋しいのだろうか。まだあの人とは会ったことはないのに。

【作者のプロフィル】勧修寺家の先祖良門の孫で、右中将利基の子。加茂川の堤の下の下粟田に住んでいたので堤中納言といわれた。寛平9年7月昇殿し、同10年正月讃岐掾に任ぜられ、延喜5年正月、従五位下、延長5年正月、従三位中納言、同8年12月、右衛門督を兼ね、承平3年(933)2月、57歳で没。

私説 小倉百人一首 No.28 源宗干朝臣

源宗干朝臣

山里は冬ぞさびしさまさりける
       人目も草もかれぬとおもへば

【歌の背景】冬の山里を詠んだもの。春、夏、秋は草木や花の彩りもあり、都から離れて一人でいても自然の慰めを楽しむこともできる。しかし、冬になると人の往来もなくなり、山野の姿も灰色に塗り込められ、いわば寂寥の世界となる。そんな冬の山里の寂しさを歌った。

【歌 意】山里はどの季節でも寂しいけれど、冬は殊更に寂しさを増す。春、夏、秋は草木や花、もみぢなどそれなりに愉しみもあり、人も行き来する。しかし、冬になると人の姿もだんだん少なくなり草木も枯れてしまうので。

【作者のプロフィル】光孝天皇第一皇子の一品式部卿是忠親王の子。一説に仁明天皇の御子本康親王の御子ともいう。寛平6年源姓を賜った。官途では恵まれず、没年に正四位下に進んだのみ。朱雀天皇の承平3年に右京大夫になった。天慶2年(939)に没。

私説 小倉百人一首 No.29 凡河内躬恒

凡河内躬恒
※父祖は不明。

心あてに折らばや折らむ初霜の
       置きまどはせるしら菊の花

【歌の背景】初霜が降りた晩秋の白菊の花を詠んだもの。正岡子規が『歌よみに与うる書』で酷評して以来、評価がた落ちの一首。

【歌 意】白菊を折ろうかと思うのだが、何とか見当をつけて折るほかない。思いがけず早い初霜が一面に降りて、その白さでどれが花だか霜だかわからなくなってしまった。

【作者のプロフィル】父祖は不明。家柄はよくなく、貧乏でもあったが、歌が上手だったので、寛平年間に甲斐少目となり醍醐天皇に召され、御所所に出仕し丹波権目、淡路権掾を経て、和泉大掾になり六位を授けられた。寛平・延喜の古今集時代に活躍したが、生没年ともわからない。「古今集」の撰者に加えられており、歌人としては他の撰者と同列にあったが、歌学者としては貫之に一歩譲っていた。

私説 小倉百人一首 No.30 壬生忠岑

壬生忠岑

有明のつれなく見えしわかれより
       あかつきばかり憂きものはなし

【歌の背景】当時の男女は、男が宵に女の家に行き、一夜を過ごして翌朝に帰ってくるというものだった。後朝(きぬぎぬ)の別れのとき、女がいかにも冷淡によそよそしくしていた。つらい思いで帰ろうとして暁の空を見ると、そこには有明の月が残っていたが、その光がいかにも白々しく、すげなく思われた。それ以来、暁になるとそのことが思い出されてたまらなくつらい気持ちになる。そんな気持ちを詠んだもの。

【歌 意】夜明けにまだ残っている有明月のように、私の思いはまだ残っているのに、あなたは前夜のことを忘れたかのように冷たかった。あれ以来、私にとって暁ほどつらいものはない。

【作者のプロフィル】安綱の子、忠見の父とされるが、壬生氏についてはよくわからない。古代の皇族の養育に関わった乳部(みぶ)に通じるのか?生没年についても不明。右衛門府生、御厨子所預などを経て、六位摂津権大目になった。身分は低かったが、躬恒と同様、和歌が上手だったので「古今集」の撰者になった。陽成・光孝・宇多・醍醐の四朝に仕えた。