「次代を拓いた中年女性の強さと魅力」カテゴリーアーカイブ

出雲阿国・・・歌舞伎の始祖 大スター兼プロデューサー

 出雲お国の出自は諸説あり、詳しくは分からない。出雲の生まれで、父は出雲大社に召し抱えられていた鍛冶職人。お国は大社の巫女だったともいわれている。歌舞伎の歴史をみると、1603年に出雲お国が京都の五条で舞台掛けしたのが始まりとされる-とある。お国は三百数十年前に亡くなったが、歌舞伎の始祖といえるのだ。

 安土・桃山時代から徳川の時代へ移るとき、出雲大社が勧進のため、お国たちを京へ上らせた。勧進とは寄付募集のことで、お国たちは神楽舞を舞ったりして人々の喜捨を仰いだ。このとき田舎からやってきたお国は、信長、秀吉らが天下を握った時代の、自由奔放で生き生きとした息吹きを感じ、神楽舞や能、幸若舞などが早晩、時代遅れになると判断。一足でも早く新しいものを始めたものが勝つと見極めをつけた。そして、さっさと勧進興行の一座を抜けてしまった。

出雲大社はカンカンになったが、お国は冷静に新しい企画に取り掛かった。彼女はまず女優だけの一座を結成した。「宝塚歌劇」を目にしているいまの私たちには何の新しさも感じられないが、当時としては画期的なことだった。何しろそれまでは演劇も舞いも男ばかり。女役も男がするものと決まっていたのを、彼女は逆手を使ったわけだ。囃し方や道化だけは男が務めるが、二枚目の男はお国をはじめ男装の女が演じた。たちまち好奇の目が集まり、お国一座は大人気を獲得したのだ。300年前のことだ。

お国歌舞伎の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、スター兼プロデューサーだったことだ。今日風に表現すれば、これまで誰もやったことのない新しい演劇、舞踊を考え出すという企画・製作から興行・広告まで、たった一人でやってのけたのだ。舞台も桃山風の小袖をしどけなくまとって、はだけた胸からはキリシタンの金の十字架をのぞかせて-といった、時代の先端をゆく大胆で斬新奇抜なものだったらしい。踊りや芝居も、エロチックな、かなりきわどいものだったようだ。
人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、お国は方々から引っ張りだこになった。諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。

お国がここまで人気を獲得した最大の要因は、彼女の芸能人としての根性だ。何事もお客様第一。飽きられないように、次から次へと新手を考え出した。その手掛かりとして、お国は強力なブレーンを獲得した。当時の一代の風流男、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)だ。山三郎はイケメンで、少年時代には蒲生氏郷の小姓で男色の相手として有名だったし、槍の名人でもあった。氏郷の死後、多額の遺産をもらって京で気ままな暮らしを始めた。こんな山三郎が、お国の一座のために巨額の金を出し後援しているというだけで、人気を博した。

また、お国は生半可なことではへこたれない、したたかさもみせた。頼みとする山三郎が旅先で、ある事件のために殺されてしまったのだ。彼の妹は、森美作守忠政という武士に嫁いでいたが、山三郎がその領地で森家の家臣と口論したのが災いのもとだった。山三郎の訃報がもたらされたとき、都中の人がお国一座はもうダメだろうと思った。ところが、お国はその直後、敢然と興行の幕を開けたのだ。しかも、驚くことに山三郎の死を題材にした狂言を上演したのだった。山三郎はお国の愛人、との噂もあった。普通なら恋人の死に泣き崩れるところを、二人の経緯を自作自演したのだから、都中の話題をさらった。まさに芸能人のど根性だ。大スターであり、歌舞伎役者・お国の真骨頂ともいえよう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「乾いたえくぼ」、有吉佐和子「日本史探訪/出雲阿国」

荻野 吟・・・封建的な因習が残っていた明治初期、近代の女医第一号に

 何事も人がやらないことを初めてやろうとするのは大変なことだ。偏見と戦わなければならないし、様々な妨害も乗り越えなければならない。近代の女医第一号となった荻野吟の場合も、女医になるまでの道のりは実に険しかった。

 彼女は嘉永4年(1851)、武蔵国大里郡泰村で生まれている。頭は良かったが、ごく普通の豪農の娘として育てられ、親が決めた結婚相手と普通の結婚をしている。16歳だった。そのまま何事もなければ、恐らく彼女は普通の主婦として平凡な一生を送っただろう。

 ところが、結婚後しばらくして夫から性病の一つ、淋病をうつされたことによって、その後の吟の一生はガラッと変わることになった。明治早々のまだ封建的な因習が色濃く残っていた頃のことだ。病気そのものを夫からうつされたにもかかわらず、彼女は実家に戻され、次いで離婚させられている。全く理不尽な話だが、吟は黙ってそれに従うしかなかった。

 吟の実家は素封家だったので、経済的に困るというようなことはなかった。東京の順天堂病院に入院、治療に専念することになった。淋病なので、診察のたびに男の医師たちに女性性器を調べられる。まだ10代だった彼女にとってその恥辱はいかばかりだったか。このときの恥辱が、彼女を女医へと駆り立てたといっていい。江戸時代から産婆がいるのだから、女の医者がいてもいいではないか、自分は産婦人科医になろう-というわけだ。

 新しい時代、明治時代だが、医師の世界にまでまだ新しい波は押し寄せていない頃のこと、彼女が考えるほどことは簡単ではなかった。まず明治6年(1873)、彼女が23歳のとき、東京へ出て国学者で漢方医でもある井上頼圀の門に入った。西洋医学ではなく、なぜ漢方医なのか?それはその頃、女医そのものが一人もおらず当然、女医養成のための学校などあり得るはずもなかったからだ。このことは彼女がこの後、甲府の内藤女塾の教師兼舎監に、そして明治8年(1875)開校された東京女子師範学校に入学していることでも分かる。“筋違い”で、遠回りだが、こうした方法しかなかったのだ。

 ただ、彼女はそこで猛勉強する。そして、明治12年(1879)首席で卒業した。首席卒業の吟の将来の希望が女医だと知った同校の永井久一郎教授から紹介された石黒陸軍医監の口添えで、好寿院という医学校への入学が許可された。とにかく、それまで男にしか入学を許さなかった医学校に入ることができたのだ。だが、初めての女子の入学だ。好奇の目で見られたし、露骨に「女が来るところではない」といわれ、毎日のように嫌がらせやいじめがあるなど、そこでの勉学生活は決して快適なものではなかった。しかし、彼女はへこたれず、見事卒業したのだ。

 しかし、まだ彼女の前に立ちはだかるハードルは高かった。医者になるには医術開業試験に通らなければならない。ところが前例がないからと、受験そのものが却下されてしまったのだ。そこで、過去の日本の歴史上に女医がいたかどうかを調べた。すると、古代律令制の時代にも女医がいたことを突き止めた。その結果、明治17年(1884)6月、内務省もようやく女性に対し、医師の道を拓くことになった。同年9月、初めて女子にも開放された医術開業試験の前期試験が行われ、荻野吟のほか、木村秀子、松浦さと子・岡田みす子の3人が受験した。合格したのは吟だけだった。翌18年3月、後期試験が行われ、吟はこれも見事に合格し、ここにわが国初の女医(西洋医)が誕生した。

 ちなみに、女医第二号は翌19年11月に後期試験を通った生沢クノで、その後、高橋瑞、本多詮などが続いている。明治21年(1888)までの女性合格者は14人を数えている。後、同じように男たちのいじめにあいながら苦労して女医になった吉岡弥生が、後進の育成のために東京女医学校を設立したのは、明治33年(1900)のことだった。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝 荻野ぎん」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、渡辺淳一「花埋み」

持統女帝 夫・天武天皇が目指した神格的天皇制を確立した女帝

 第四十一代の天皇。歴代の女帝の中には、“中継ぎ”的な人物も確かに存在する。しかし、持統女帝は夫・天武(第四十代天皇)の目指した神格的天皇制を確立するとともに、新しい時代の律令体制の整備を積極的に推進した本格的な天皇だった。

 天智天皇を父とし、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘を母として大化元年(645)に生誕。_野讃良(うののさらら)皇女という。13歳のとき叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。夫の大海人皇子のもとには姉・大田皇女や、異母妹の新田部皇女、大江皇女など4姉妹が嫁いでいた。ほかにも大海人のもとには十市皇女を産んだ額田王もいた。政略結婚が多い古代とはいえ異例のことだろう。

 彼女が実力を発揮するのは父の遺児、大友皇子と夫・大海人皇子が皇位を争った壬申の乱(672)に夫が勝利し、朱鳥元年(686)その夫・天武天皇も亡くなった後のこと。とはいえ、ここに至るまでにも彼女は並みの女性ではない、したたかさをみせている。天智10年(671)10月19日、病床の天智天皇の「後を頼む」という謀(はかりごと)に乗せられることなく、間一髪切り抜け、出家。剃髪し一介の僧となった大海人が近江大津京を発って吉野に向かった。このとき彼女にとっては、父を取るか夫を取るかという物凄いジレンマがあったはずだ。が、妃の筆頭として大海人について行く。

また母親として割り切った強さもみせる。実子・草壁皇子を皇位につけるため、亡き姉・大田皇女の子で、非凡で卓越した才能の持ち主だったライバル大津皇子を謀叛のかどで逮捕し、自害させる。ところが、持統3年(689)肝心の草壁皇子は28歳の若さで病死してしまう。並みの女性なら弱気になってしょげてしまうところだろう。が、ここでも彼女はこの苦境をバネに、一躍スポットを浴びる地位に躍り出る。持統4年1月、やむなく自分が即位し、持統天皇となったのだ。全く見事としか言いようがない。

持統天皇の容姿を記したものはなく、全く分からないが、当時の女性はひっそり部屋の奥深くで着物の中に埋もれていた平安朝の女性と違って、もっとたくましかった。「日本書紀」によれば、静かで落ち着いて、それでいて度胸のいい女性だったとある。節目節目での身の処し方をみると、確かにその通りだ。

持統8年(694)12月、4年の歳月をかけた新京が完成、遷都が行われた。これが藤原京だ。奈良平城宮に先駆ける、わが国最初の本格的な都城だった。また、持統天皇の事績として重要なものに律令体制の整備が挙げられよう。この律令体制を実質的に整備・推進したのが、この時期に宮廷の実力者として登場してきた藤原不比等だ。持統11年(697)、53歳の女帝はただ一人の孫、15歳の皇太子、軽皇子に皇位を譲って、自らは太上天皇となった。こうして藤原氏が律令体制の最大の実力者として着実に不動の地位を固めていくそのはじめと、女帝が太上天皇になって権力を振るおうとする時期がちょうど重なるのだ。天皇制の歴史から、日本の政治史の流れの両面からみて、この時期の持統女帝の存在には見落とせない重要な問題が含まれているといえよう。

 在位11年、その間は白鳳美術の盛期、柿本人麻呂などが活躍した時期で、持統自身「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山」など、いくつかの名歌を「万葉集」に残している。大宝2年(702)12月22日、58歳の生涯を閉じた。遺体は火葬にふされたが、これはわが国最初の天皇の火葬となった。
 
(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、同「天かける白日 小説大津皇子」、同「天風の彩王 藤原不比等」永井路子「美貌の大帝」、「日本史探訪3 律令体制と歌びとたち」(田辺聖子/上田正昭)、梅原猛「海人と天皇」

                   

清少納言・・・高い教養を身につけた、平安女流文学の至宝「枕草子」の作者

 日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者。生没年は965年頃~1025年頃。村上天皇の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者の一人、歌人・清原基輔の娘。清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみえることでも分かるように、清少納言は娘時代から漢学を学ぶなど、当時の女性として水準をはるかに超える教養を身につけていたようだ。

 10代後半に橘則光と結婚、天元5年(982)に長男・則長という子が生まれているが、まもなくその結婚を解消した。ただ当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されることになる。彼女の場合も恐らくそのようなものだったのではないか。正式離婚というわけではないが、彼女が漢学の素養など教養面で則光より優れていたことからくる性格上の破綻が原因だったとみられる。しかし、決して憎み合って別れたのではないことは「枕草子」に則光と親しく話を交わす場面がいくつも出てくることでも分かる。

 正暦4年(993)、一条天皇の中宮(後の皇后)定子のもとに出仕し、「清少納言」と呼ばれた。少納言といっても正式な官でないことはいうまでもない。定子の明るく、機知を尊ぶ気分は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持った清少納言にとって、その天才ぶりを発揮するにふさわしい舞台だった。

 出仕して2年後、定子の父、関白藤原道隆は死に、代わって道隆の弟、道長が最高権力者となり、道隆の子・内大臣伊周(これちか)および中納言隆家は道長と対立し、罪を着せられ流罪になる。やがて伊周、隆家は許されて都に戻るが、道隆一家にはもう昔日の勢いはない。不幸にも藤原道長の全盛時代だったのだ。したがって、宮廷内の様々なことが道長に連なる人脈、あるいは親・道長派の勢力が大手を振ってまかり通る時代で、それ以外の人たちは一歩下がって見守るほかなかったのだ。

 宮仕えは数年続いたが、仕えた定子の実家の没落と、後に乗り込んできた中宮彰子との確執などがあって、長保2年(1000)の定子の25歳の死で終止符を打つ。その後、藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は、その少し後に死んでしまったようだ。結局、彼女は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別と、結婚という点では恵まれなかった。
 清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、そしてわずか25歳という若さでの死まで、その一部始終を目の前に見ながら、「枕草子」でそのことには一切触れず、定子を賛美し続けた、そういう彼女の意地とゆかしさも好もしい。

 紫式部より4~7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を意識し、とくに『紫式部日記』の中で辛辣な清少納言批判の文章がみられるのと対照的だ。清少納言の晩年はかなり零落していたとの説があるが、明らかではない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、永井路子対談集「清少納言」(永井路子vs村井康彦)、梅原猛「百人一語」

津田梅子・・・維新直後、米国留学した、新しい時代の女子の全人教育の創始者

 明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団がアメリカに向けて出発したが、このとき59人の留学生一緒に横浜港を出帆している。この59人の留学生の中に、北海道開拓を目指して設立された開拓使が募集した5人の女子留学生も含まれていた。しかし、明治4年といえば、まだ一般庶民にアメリカのことは知られておらず、開拓使の募集に対しても、締切日までには一人の応募者もなかったという。そこで、再度募集し、ようやく次の5人が集まったというわけだ。

 東京府士族吉益正雄娘 亮子(15歳)
 静岡県士族永井久太郎娘 繁子(9歳)
 東京府士族津田仙弥娘 梅子(8歳)
 青森県士族山川与十郎妹 捨松(12歳)
 新潟県士族上田峻娘 悌子(15歳)

 ここで注目されるのは、彼女たちの父親および兄がいずれも士族で、幕臣ないし戊辰戦争のとき薩長を中心とした官軍に敵対した藩の藩士だったという点だ。外務省筋から強い勧めがあったのか。
 さて、海を渡った5人の少女は、それぞれアメリカの家庭にホームステイの形で預けられ学校に通ったが、年長の二人、吉益亮子と上田悌子は早々に健康を害し、途中で帰国してしまった。10年という予定の留学期間を全うしたのは残りの三人だった。ただ、彼女たちが帰国したときには開拓使そのものが廃止されて、北海道での女子教育を担うという、所期の目的そのものがなくなってしまっていた。結局、山川捨松は後、陸軍元帥となる大山巌と結婚し、永井繁子も海軍大将瓜生外吉と結婚した。純粋に教育畑を歩き続けたのは津田梅子ただ一人だった。

 梅子のホームステイ先はアメリカ東部ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅だった。彼女は足掛け12年間にわたって寄留し、ランメン夫妻は彼女を実の娘のようにかわいがったという。彼女はアーチャー・インスティチュートに在学し、10年目に帰国期限がきたとき、卒業まであと一年あったので、留学延長を申し出、結局帰国したのは明治15年(1882)のことだった。19歳になっていた。
梅子は8歳のときに渡米し、アメリカでは一切日本語をしゃべらない生活をしていたので、日本語を全く忘れてしまって、帰国後、しばらくの間は梅子の妹が通訳を務めていたというほどアメリカ人になりきってしまっていた-というエピソードがある。

 津田梅子は帰国してしばらくの間は英語教師をしていたが、明治22年(1899)、華族女学校教授在官のまま再びアメリカに渡り、ブリンマーカレッジに選科生として入り、生物学を専攻。その留学中、指導にあたったモーガン教授と共同研究を行った成果をまとめ、日本女性として初めての科学論文「蛙の卵の発生研究」を発表している。つまり、津田梅子は自然科学者として認められていたのだ。明治25年に帰国、華族女学校教授に復帰し、請われて同31年には女子高等師範学校の教授を兼ねている。ところが、同33年(1900)7月、37歳の梅子は両校の教授を突然辞めている。自分が考える新しい時代の、新しい女学校を創るためだった。

 その新しい学校は女子英学塾だ。学校といっても、塾生が10名という小さな塾だった。開校式が行われたのはその年の9月14日で、東京の麹町区一番町(東京都千代田区一番町)の借家でスタートした。アメリカ留学仲間の大山捨松が援助し、梅子が留学中キリスト教の洗礼を受けて聖公会に所属していたので、その関係者やアメリカ人の友人たちが無報酬で授業を手伝ってくれた。塾生たちはめきめきと力をつけ、その評判によってさらに塾生が集まり、同37年(1904)には専門学校に昇格した。

 ここでの教育のポイントの一つは英語教師の免状取得だが、もう一つはキリスト教精神による教育だった。語学力をつけるだけでなく、明治女学校の巌本善治や新渡戸稲造を招いて講演してもらったり、時事問答の時間を設けて、全人的な教育が試みられていたのだ。こうした個性を生かした教育を実践するためには、私立でなければ難しいと判断したのだ。

 女子英学塾創立後も彼女は何度か長い外国旅行をしている。アメリカの最新の情報を得るためだった。こうした無理がたたったのか、大正6年(1917)、病に倒れ、その後は遂に教壇に立つことはできなかった。そして、昭和4年(1929)8月、亡くなった。
 その後、昭和8年(1933)津田英学塾、同18年(1943)津田塾専門学校と改称。戦後、1948年、津田塾大学となり、今日に至っている。 
              
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

樋口一葉・・・近代以降で最初の職業女流作家

 今日ではごく当たり前の女流作家。しかし、明治初頭、どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会・環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。

一葉は、現在の東京都千代田区の長屋で男2人・女3人の5人兄妹の第五子、次女として誕生。父・樋口則義は、南町奉行配下の八丁堀同心だった。そんな士族の娘である誇りが彼女を支え、恐らく彼女を凛とした女性にしたのだ。

ただ父・則義は、本来は甲州(現在の山梨県)農民で、株を買って入り込んだのだ。父は妻あやめ(後、たき)とともに出奔同然に村を捨てて江戸に出た。下僕をしたり、旗本に中小姓として仕えたり、妻あやめは旗本屋敷の乳人奉公をしたりして蓄財をした。やがて、彼らは八丁堀同心浅井竹蔵の三十俵二人扶持の株を買って、樋口為之助と名乗った。あやめは「たき」と名を変えた。

しかし、そんなに簡単に株を買えるのか。司馬遼太郎氏は「株を買うのに二、三百両は要ったろうし、そんな金が武家奉公の蓄財でできるはずもない。借金したとすれば、樋口家の宿業(しゅくごう)ともいうべき貧乏は、これが原因だったに相違ない」と記している。

父は明治20年、一葉が16歳のとき警視庁を退職し、その翌年、事業を興そうとして失敗した。これが樋口家の借金をさらに増やすことになった。遂に明治22年、破産し、その年に父は病没した。
その結果、一葉は17歳の若さで戸主として一家を担う立場となり、生活に苦しみながら、わずか24年8カ月の生涯の中で、とくに亡くなるまでの1年2カ月の期間に作家として完全燃焼。森_外、幸田露伴はじめ明治の文壇から絶賛された「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など日本の近代文学史上に残る秀作を残し、肺結核で死去した。生没年は1872~1896年。一葉は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。

少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類を読み、7歳のときに曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1881年、上野元黒門町の私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まず退学した。これは彼女の母・多喜が女性に学業は不要だと考えていたからだという。

ただ、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。これを機に一葉は中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し歌、古典を学び、後に東京朝日新聞・小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学んだ。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。

一葉の処女小説は桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した『闇桜』。桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、一葉も次第に桃水に恋慕の感情を持つようになるが、二人の仲の醜聞が広まったため、桃水と別れる。二人とも独身だったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮が強かったためだ。この後、一葉はこれまでと全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、彼女の出世作となった。

ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い、自然主義文学に触れ合った一葉は、「文学界」で『雪の日』など複数作品を発表。1894年『大つごもり』を「文学界」に、翌年1月から『たけくらべ』を7回にわたって発表し、その合間に「太陽」に『ゆく春』、「文芸倶楽部」に『にごりえ』『十三夜』などを相次いで発表した。1896年、「文芸倶楽部」に『たけくらべ』が一括掲載されると、_外や露伴から絶賛を受け、一躍注目を浴びる存在となった。

一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、「樋口一葉」(ちくま日本文学全集)

平塚らいてう・・・日本の女性解放運動・婦人運動の指導者

 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
これは明治44年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌『青鞜』の創刊号に、平塚らいてう自身が書いた冒頭の有名な文章だ。

今日では青鞜社の結成は「女性たちの近代的自我の目覚め」と高く評価されるが、当時、世間は青鞜社に対し好意的な目で見ていたわけではない。近代になったといっても、家族制度は江戸時代までと全く同じ封建的なものだった。これまでと少し変わったことをすると、「女だてらに」「女だから」と世間の冷たい視線にさらされ、攻撃され批判を浴びる。そんな女性蔑視の、既成の家庭道徳なるものを、らいてうらは少しずつ打破しようとしていたのだ。

『青鞜』創刊号の表紙は、らいてうと日本女子大学在学中、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子(後に高村光太郎と結婚)が描いているほか、与謝野晶子(第七回で紹介)も歌を寄せている。この後、5年余り続く『青鞜』の主な執筆者をみると、田村俊子、福田英子(第五回で紹介)、岡本かの子、吉屋信子、野上弥生子、伊藤野枝、山川菊栄、山田わかなどかなり豪華なメンバーだった。

らいてうは大正3年(1914)、画学生で彼女より5歳年下の奥村博と同棲を始める。正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲だった。ここにも、らいてうの、既成の家庭道徳への挑戦があった。しかし、奥村博の発病、そして長男の誕生と家庭の重みから、編集を若い伊藤野枝に任せ、らいてうは第一線から身を退かざるを得なくなった。奥村との間にらいてうは2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

だが、らいてうが抜けてしまっては、やはり青鞜社は成り立たなかった。『青鞜』の1913年2月号に福田英子が寄せた「婦人問題の解決」という文章の中で「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりませう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁処分を受けたのだ。『青鞜』は大正5年、52号まで出したが、財政難で廃刊となり、青鞜社そのものも解体した。

しかし、らいてうはそのまま婦人運動から遠のいてしまったわけではなかった。大正8年(1919)、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、自宅を事務所として「新婦人協会」を発足させた。青鞜社がどちらかといえば上流婦人のサロン的文芸サークルの雰囲気があったのに対し、この協会は「婦人参政権」の獲得を目指すという社会運動としてスタートしたところに大きな特徴があった。
らいてうは昭和に入っても活動を続け、婦人消費組合運動を推進し、敗戦後は平和運動にも一定の役割を果たした。

平塚らいてうは東京府麹町区三番町で3人姉妹の3女として誕生。本名の平塚明(ひらつかはる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。生没年は1886~1971。父の定二郎は会計検査院の院長も務めたエリート官僚であり、彼女自身もお茶の水高等女学校、日本女子大学家政科を卒業。

ふつうならば、そのままいいところにお嫁に行くというのがお定まりのコースだったが、彼女が通っていた英語学校で、教師の森田米松と出会い、その後の人生が大きく変わった。二人は恋に堕ち、すでに妻子があった米松と悩みに悩んだ末、心中未遂事件を起こすことになった。当時の古い家庭道徳からすれば、妻子ある男に恋をし、心中に引きずり込んだのはけしからん、ということになる。既述の通り、彼女が後に青鞜社を組織し、女の自立を呼びかけるようになる原点は、ここにあったと思われる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

福田英子・・・明治から大正時代の婦人解放運動の先駆者

 福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11~12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。

 小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。

彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。

彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。

英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。

彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。

未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。

こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。

1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

紫式部・・・王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女

 紫式部は、この時代としては世界的にも稀有な王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女だ。「源氏物語」は現在、世界で20カ国を超える言語に翻訳され読まれている。その高い世界観や人間観察は、後世の文学にも大きな影響を与えたと思われる。

 本居宣長は『源氏物語』を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞したし、折口信夫はこれを怨霊およびそれへの鎮魂の小説と解した

 紫式部は越前守藤原為時の娘で、生没年は推定974~1014。22~23歳で山城守藤原宣孝と結婚。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るとき、後を追いかけそうな情を示したこと、家格、学識の高い立派な男性だったこともあって、20歳以上も年上の宣孝の愛を受け入れたといわれる。結婚して翌年、賢子が生まれ幸せなときを過ごし、どこにでもいるような平凡でかわいい若奥さんだった。

だが、その結婚生活は3年と続かなかった。夫の宣孝が死んで、運命が狂わされてしまう。それ以後、性格がガラッと変わって、物思いにふけり、他人を突き放すような女になってしまうのだ。若奥さんのときは、継子(ままこ)をわが子同様、よく面倒をみたりする優しい面もあったのに、この落差がすごい。

 夫の死後、一条帝の中宮彰子に召されて出仕した。この折の宮中内での見聞、体験を物語の中に散りばめたのが「源氏物語」の作品になったと思われるが、その高い世界観、鋭い人間観察、文明批評はその当時としては驚異的だ。

「源氏物語」は表からみれば光源氏の好色な生活を描いたものだが、裏からみれば源氏が愛した女たちへの六条御息所の怨霊の復讐と、それに対する源氏の側からの鎮魂を、物語を貫く黒い糸としていることは間違いない。

 源氏物語の哀切で美しい世界と正反対なのが「紫式部日記」。清少納言など同時代の女房たちへの底意地の悪い批評、自慢話、思わせぶりなど、ドロドロとした女性の心の内面がうかがえて興味深い。この時代の女性の心情や生活をきちんと理解するには、「源氏物語」と「紫式部日記」の両方を読み解くことが必要だ。

紫式部は教養深くて、おしとやかで、10年足らずで「源氏物語」のような傑作を書いた女性だけに、とても近寄り難いと思われる。だが半面、「紫式部日記」でホンネを吐露した格好で、かえって親近感を持たせている面があるかもしれない。

 「源氏物語」の世界観は、一口で言えば無常観だ。紫式部が無常観に取りつかれたのは、何といっても疫病の蔓延など当時の不安におののく社会情勢がその背景にある。それと最愛の夫をあっという間に失ったからではないかと考えられる。そういう周囲の変化が彼女の性格を変えさせたのだ。無常観は、当時のインテリの最先端の思想で、紫式部はそれを見事に文学に結晶させたのではないか。

(参考資料)永井路子対談集「紫式部」(永井路子vs清水好子)、清水好子「紫式部」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、梅原猛「百人一語」