「歴史を彩ったヒロイン」カテゴリーアーカイブ

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に
 平清盛の妻、時子はごく普通の女だった。その彼女が一門の棟梁となる清盛に嫁いだがゆえに、本人の意思とは関係なく、好むと好まざるとに関わらず、権謀渦巻く政治の世界に投げ込まれ、激動の時代を生き、様々な体験を積んでしたたかな女になっていった。
 時子は当時、公家社会で一般的だった妻訪い婚ではなく、徐々に行われるようになった嫁入り婚で嫁いできた。そこで、夫の周辺に女の影が見えるたびに嫉妬の炎を燃やす平凡な女性で、夫の浮気に関わりなく妻の座が安定していることに困惑し、ふさぎ込んだりすることもある。
後年、従三位という女として高い地位にも就いた時子だが、精神的には現代の女性とも相通ずるものが流れている女性だったのだ。
 保元・平治の乱を経て平家の勢力が台頭、清盛は8年の間に正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣となった。また清盛は時子を二条天皇の乳母とし、時子の妹滋子を後白河天皇のもとに上げる。そして後白河と滋子(建春門院)との間に生まれた皇子が即位して高倉天皇となり、そのもとに清盛は娘の徳子を入内させる。
やがて徳子は後の安徳天皇を出産。思惑通り外祖父となった清盛は、年来の夢を懸けた海の王宮、福原への遷都を決行。新都を構えた平家一門は隆盛の絶頂期を迎えた。
 しかし、それは転落の序章でもあった。東国では源頼朝の武士団が日増しに勢力を拡大。高倉帝の病状悪化で福原から半年で還都。やがて高倉帝に続いて清盛が急死。清盛亡き後、平家の総帥となった宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし最悪の道を選択してしまう。
その結果、源氏に追われた平家一門は西国流転の途をたどる。京から福原へ。屋島へ、そして壇ノ浦へと移った平家は東国武士団の組織力の前に敗退を重ねていく。
 ここで、平家一門の運命は時子の双肩にかかる。帯同する、建礼門院となった娘の徳子に安徳帝を守る判断力がなかったことも、彼女をしたたかな女にしたことだろう。時子は、清盛が築いたこの時代をともに生きた自分とその子供たちは、それぞれの運命を分け持って生きてきた。
そして、その最後の幕を引くのは自分しかいない-と判断。母親の建礼門院(徳子)を措いて、祖母の時子が8歳の安徳帝を抱き、三種の神器とともに瀬戸内の海に身を投げ生涯を閉じる。鮮烈な最期だ。その時子の辞世がこれだ。
 いまぞ知るみもすそ川の流れには 波の下にも都ありとは
海の底にも都があってほしい-という彼女の切実な願望が込められている。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」

 

 

 

 

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子
 静御前は源義経の妾。ただ、この当時は妻妾の区別がつけられないので、妻が何人もいて、静はその一人と考えた方が的を射ている。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代初期の女性。白拍子、磯禅師の娘で、彼女も白拍子。鎌倉時代の事跡を書き綴った「吾妻鏡」によれば、京都で人気抜群の白拍子と、平家を壇ノ浦に追討した凱旋将軍・義経との恋だった。年齢は静が10代後半、義経は20代後半のことだ。
ただ、二人が幸福だったのは極めて短い間だった。義経が、後白河法皇から勝手に任官を受けたことなどから、兄頼朝の不興を買って謀反人扱いされたことによって急転直下、悲劇の主人公になってしまう。京都を追われ、都落ちした義経らとともに西国へ向かうが、女人禁制の大峰に入れず、義経と別れて京都へ帰る途中、捕らえられる。
そして、いまや謀反人となった義経探索の参考人として鎌倉に送られる。このとき彼女は義経の子を身ごもっていた。
 鎌倉に着いた静御前は源頼朝・北条政子夫妻に強要され、鶴岡八幡宮で舞を舞う。そのとき彼女は次のように詠った。
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
“しづのをだまき”とは麻糸を真ん中が空洞になるようにくるくる巻いたものをいう。しづのおだまきをいくらくるくる巻いても、昔は戻ってこない。どこかへ行ってしまった義経様が恋しい-という意味だ。
もう一句ある。
 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山(静御前が義経と別れた場所)の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい-という意味。
 静御前のひたむきな(あるいはなりふり構わぬ)義経への恋慕の表明にとくに政子は胸を打たれ、激怒する頼朝に助命を請い、静は何とか許される。そして、頼朝は生まれてくる子が女なら助けるが男なら殺すと命じる。不運にも、このとき生まれた赤ん坊が男だったため、そのまま由比ヶ浜に流されて殺されてしまった。これらのことを含めて考えると、「しづやしづ…」には静の深い哀切の情が満ちている。
『吾妻鏡』では、静御前の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
 この後、静御前は許されて京へ帰る。ただ、『吾妻鏡』では静御前が京都に旅立った後、いっさい登場しない。このあとどこへ行って、何をしたか、ようとして行方知れず。それだけに、哀れでいとおしさも一層深まる。

(参考資料)永井路子対談集「静御前」(永井路子vs安田元久)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

県犬養橘三千代・・・藤原不比等を支えた後宮の実力者

 県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。生年は定かではない。665年(天智4年)ごろ?か。没年は733年(天平5年)。

三千代は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
 697年(持統11年)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位、文武天皇となった。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そして美努王が大宰帥として筑紫に赴任したこの頃、三千代は美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(後の光明皇后)を産んだ。

707年(慶雲4年)、不運にも25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼。即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、「橘宿禰」の氏称を賜与した。したがって、三千代は橘氏の実質上の祖というわけだ。715年に三千代は尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。

 不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。

 不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
 三千代は721年(養老5年)、正三位に叙せられ、同年の元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5ねん)死去。死後、同年従一位、760年(天平宝字4年)正一位と大夫人の称号を贈られた。
 持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の徳川三代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切った春日局のような後宮の実力者だったのだろう。

(参考資料)黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、神一行「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」、梅原猛「海人と天皇」

大奥大年寄・絵島・・・江戸城内の幕閣の権力争いのスケープゴートに

 江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか?

 今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。

 だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか?

 結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。

 事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと-などだ。

 相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。

(参考資料)杉本苑子「絵島疑獄」、平岩弓枝「絵島の恋」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、安部龍太郎「血の日本史」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

小野小町・・・六歌仙の一人で平安前期を代表する女流歌人

 小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ~901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。

 「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。

 小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。

 この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。
 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

などの歌はよく知られているところだ。
 生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養等がある。

米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものだ。

(参考資料)井沢元彦「歴史不思議物語」、井沢元彦「逆説の日本史」

幾松・・・幕末、桂小五郎を庇護し、体を張って支えた木戸孝允の妻

 幾松(いくまつ)は芸妓時代の名で、明治維新後、木戸孝允の妻となり「木戸松子」となった。幾松は文久年間以降、京都にあって桂小五郎が命の危険に晒されていた、最も困難な時代の彼を庇護し、文字通り体を張って必死に支え続けた。新選組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。幾松の生没年は1843(天保14)~1886年(明治19年)。

 幾松は京都三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓として知られ、桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。幼少時の名は計(かず)もしくは計子(かずこ)。幾松=木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説あり、定かではない。父は若狭小浜藩士、木崎(生咲)市兵衛(きざきいちべい)、母は三方郡神子浦の医師、細川益庵(ほそかわえきあん)の娘、末子。兄弟姉妹に関しても諸説あるが、磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)あり、計は長女と思われる。

 嘉永元年ごろ、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、市兵衛もその際、職を辞し行方知れずとなった。母の末子は、男子は親戚に預け、計と里を連れ実家細川家を頼るが、5年後に京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り、ともに藩邸で暮らすことになった。市兵衛は生咲と改名していた。細川家に残されていた計は、魚行商人の助けにより独りで京へ向かい父母の元に無事たどり着き、一家四人で京都市中に借り住まいを始めた。しかし、まもなく市兵衛が病に伏し生活苦のため、計は口減らしに公家九条家諸太夫の次男、難波恒次郎のところに養女に出された。

 恒次郎は定職も持たず放蕩三昧で三本木の芸妓幾松を落籍して妻としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底をつくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松を名乗らせた。
 嘉永7年、ペリー来航以来、尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇志士たちが京に集まり、盛んに遊里を使うようになっていた。御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂小五郎もいた。そのころ幾松は笛と舞の名手で、美しく頭もいい名妓として評判になっており、桂と出会ったころにはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と武力で奪い取ったという話もある。
二人の出会いは文久元年または2年ごろといわれる。幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが、長州の伊藤博文の働きがあったようだ。このとき幾松20歳、桂は30歳だった。木屋町御池上る-に一戸を構え、桂の隠れ家としても使い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集に努めた。幾松のこうした同志的活動と内助の功があって、桂の長州藩におけるポジションも優位なものになっていったともいえよう。

 桂小五郎は長州藩主毛利敬親の命により、木戸貫治と改名し、その後、木戸準一、さらに維新後、孝允となった。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後、木戸が明治政府の要人となるために明治2年、東京に移り住んだ。

(参考資料)南条範夫「幾松という女」、司馬遼太郎「幕末」

恵信尼・・・苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠の妻

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻。越後の豪族、三善氏の出。寿永元年(1182)誕生。建仁元年(1201)、親鸞との結婚生活に入る。確実な文献・記録はないが、残されている恵信尼の手紙などからみると、越後のような交通不便で文化の低いところでは不可能なほど高い教養を身につけていたのは、越後に九条家の荘園があって、それを管理していたのが三善氏という関係から考えて、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、その結婚生活は苦難の連続だったと想像される。親鸞はおのれを語らなかった人で、史料は極めて少ない。その死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまでは恵信尼はもちろん、親鸞の存在さえ長い間、疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。

 親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが京都か越後か?ここでは流罪以前の京都説を取ったが、不詳だ。承元元年(1207)親鸞は越後の国府に流罪とされる。恵信尼は越後で一子をもうけ以後、流罪がとけた親鸞とともに、建保2年(1214)常陸国に移住、さらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をはじめ、印信、明信、道性、覚信尼、小黒女房、高野禅尼の四男三女の七人までは確認されているが、それ以外にもいたという説もある。親鸞が寺を持たない主義だったから、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏で使用人が逃げ出すほどの生活だった。

 最後に許されて京に戻ってからも、食えなくて何人かの子供が越後に移り、続いて恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後・国府に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地の管理などの問題もあるからではなかったか。ただ越後に帰ってからも、着るものもろくになかったようだ。

とはいえ、恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもない。京にいる覚信尼から着物を送ってもらって大変喜んで、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない、とてもかわいい女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。そのうえ健康で、最後の子供を産んだのは42~43歳というバイタリティーのある人だったのだ。

 悲しみを誘うのは食べていけなくて、京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったという点だ。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な、心に響きわたるような文面だ。

 恵信尼は晩年14~15年を越後で過ごし、親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、かくしゃくとした女性だった。

(参考資料)永井路子対談集「恵信尼」(永井路子vs丹羽文雄)、早島鏡正「親鸞入門」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
              

お龍 日本で最初の新婚旅行をした坂本龍馬の妻

 坂本龍馬の妻、お龍は、正確には楢崎龍(ならさきりょう)といい、この時代の女性としては珍しいくらい自由奔放な性格だった。そんな女性を気に入り坂本龍馬は妻とした。二人は薩摩藩の重臣、小松帯刀の誘いで、薩摩藩の温泉に湯治を兼ねて旅行を楽しんでおり、これが日本で最初の新婚旅行だったといわれている。お龍の生没年は1841(天保12)~1906年(明治39年)。

 お龍は京都の町医師の楢崎将作の長女として生まれた。一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。父の将作は青蓮院の侍医で、漢学を貫名海屋に学び、梁川星厳らの同門だった。また頼三樹三郎や池内大学らとも親密で、お龍が幼いときから行き来があり、彼女自身にも勤皇の思想が備わっていたと思われる。そんな父だっただけに、不幸なことに井伊直弼による安政の大獄に連座して捕らえられ、獄死している。

このため、お龍と母、そして幼い弟妹は生活に困窮。長女のお龍は家族を養うため旅館、扇岩で働いた。しかし、まもなく旅館を辞めて天誅組残党の賄いとなった。その後、天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった

 このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することになった。1866年(慶応2年)、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる。

その直後に、中岡慎太郎の仲人、西郷隆盛の媒酌で二人は結婚し、小松帯刀の誘いで新婚旅行を楽しんだというわけだ。
 1867年(慶応3年)、夫の龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、お龍は下関の豪商・伊藤助太夫のもとにいたため、難を逃れた。龍馬の死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、1868年(慶応4年)にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄せたが、まもなくそこを立ち去る。このとき龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係のない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

 その後、お龍は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また西郷隆盛や海援隊士を頼り東京に出たりした。転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人、西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬、松兵衛いずれの夫との間にも子供はなかった。

 ただお龍は、信じ難いことだが、これだけ思いの深かった龍馬が何をしていたのか、ほとんど知らなかったという。龍馬は無条件に大好きだが、彼の業績には全く興味がなかったのだ。すべてを知るのは、明治政府から伝えられたときだったという。細かいことに捉われない、こんな女性だったからこそ、龍馬は気に入ったのだろうが、ここまでいくと同じときを過ごした男(龍馬)の立場からみると、少し寂しい思いがするのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「竜馬が行く」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

和泉式部・・・為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人

 和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。

 和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。

 『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。

その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。

 一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。

 『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。

 和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 1008~1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

 1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

(参考資料)鳥越碧「後朝(きぬぎぬ)-和泉式部日記抄」、梅原猛「百人一語」

お市の方・・・二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母

 戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。

また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
 お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。

18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。

 さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
 越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。

戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。

 ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。

(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)、司馬遼太郎「巧名が辻」