「歴史を彩ったヒロイン」カテゴリーアーカイブ

吉備内親王・・・冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃

 吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。

 吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。

 ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている-との密告があった。

そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。

 繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。

 ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか-との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、永井路子「美貌の大帝」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」

後深草院二条・・・「蜻蛉日記」と双璧の、「とはずがたり」を著す

 後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は後深草上皇に仕えた女房二条
のことで、彼女は鎌倉時代の中後期に五巻五冊からなる「とはずがたり」を著した。

 この作品は、誰に問われるでもなく、自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深 れている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれるとみる研究者もいる。1313年ごろまでに成立したとみられる。

 二条は出家するにあたり五部の大乗経を写経しようと決意、発願する。「華厳経」60巻、「大集経」26巻、「大品般若経」27巻、「涅槃経」36巻、「法華経」8巻など。有職故実書をみると、合計190巻、料紙4220枚となっており、これ全部を写経するとなると大変な作業だ。

 この写経、「とはずがたり」を綴り終わるまでには全部を書写しきれなかったようだが、様々な文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。不屈の意志で、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁を繰り返すというやり方だ。

例えば、「大品般若経」の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して、残りは熊野詣で写経。「華厳経」の残りは熱田神宮で書写して収め、「大集経」は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まり込んで書写するという具合だ。出家して尼になった二条が、まさに“女西行”になったような趣だ。

 ここで、二条が著した傑作「とはずがたり」のあらすじを紹介しておこう。第1巻は、二条が2歳のときに母を亡くし、4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に慕っている「雪の曙」がいるにもかかわらず、父とも慕ってきた後深草院の寵愛を受ける。後深草院の子を懐妊、ほどなく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。

 第2巻は二条が18歳になっている。粥杖騒動と贖い。後深草院の弟の亀山院から好意を示される。さらに御室・仁和寺門跡の阿闍梨「有明の月」に迫られ、契りを結ぶ。女樂で祖父の兵部卿・四条隆親と衝突。「近衛大殿」と心ならずも契る。

 第3巻では、有明の月の男児を産むが、他所へやる。有明の月が急死。有明の月の第二子を産み、今度は自らも世話をする。御所を退出する。
 第4巻はすでに尼になって、出家修行の旅に出ている場面から再開。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇に再会。伊勢へ。
 第5巻は45歳以降のこと。安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらに土佐の足摺岬。後深草法皇死去。

 登場人物のうち、「二条」は久我雅忠の娘、「雪の曙」は西園寺実兼、「有明の月」の阿闍梨は性助法親王、「近衛大殿」は鷹司兼平とみられる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

楠本いね・・・シーボルトの娘で、明治の日本最初の西洋女医

 楠本いねは、日本に医術開業試験制度が導入される前、1859年(安政6年)長崎西坂の刑場でオランダ医師ポンペによって行われた罪囚の死体解剖に立ち会った46人の医師のうちただ一人の女医師だった。また、1870年(明治3年)東京築地一番町で産科医を開業した日本最初の西洋女医だった。だが、いねは周知の通り、長崎オランダ商館医、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘だっただけに、当時の世間の眼は冷たく、いわれのない差別も受け育った。いねの生没年は1827(文政10)~1903年(明治36年。)

 日本人で初めて女性で西洋医学を学んだ産科医・楠本いねは母瀧(お滝)とドイツ人医師シーボルトの間に生まれた。母の瀧は商家の娘だったが、当時長崎・出島へ入ることができたのは遊女だけだったので、「其扇(そのぎ)」と名乗り、遊女を装って出島に出入りしていてシーボルトと恋に堕ち、結婚したとする説、もともと長崎の遊郭、丸山の遊女、「其扇」としか記されていない史料もあり定かではない。いねの出生地は長崎で、出島で生まれ出島で居を持ったという。「楠本」は母、楠本瀧の姓。

 シーボルトは1828年(文政11年)、いねが2歳のときスパイ容疑で国外追放された。そこで瀧はやむなく俵屋時次郎という商人と結婚し、いねが14歳のときシーボルトの弟子で宇和島藩開業医、二宮敬作に娘を預けた。いねは外科の医術を二宮に学び、18歳になると備前岡山の石井宗謙のもとで産科医の学問、技術を学んだ。石井には妻子があったが、彼はいねに娘高子(たか)を産ませている。

 また、いねは村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からオランダ軍医ポンペから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任、ボードウィンに学んだ。後年、大村益次郎が襲撃され、重傷を負った際には、ボードウィンの治療のもと彼女は大村を看護し、その最期を看取っている。

 1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって追放処分が取り消され、いねは1859年(安政6年)再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学んだ。シーボルトは長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘いねと交流し、日本研究を続けた。1861年、シーボルトは幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

 いねはドイツ人と日本人という当時では稀な混血児ということで、特別な眼で見られ差別を受けながらも、宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で、東京築地一番町で産科医を開業した後、宮内省御用掛となり、明治天皇の女官、権典侍・葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。

 その後、日本にもようやく医術開業試験制度が導入された。ただ、これはいねにとっては不幸なことだった。というのは、女性には受験資格がなかったからだ。すでに産科医として実績を積んできているのに、この制度がスタートしたことで、理不尽にもいねはその埒外に置かれることになってしまったのだ。勝気な性格で、負けず嫌いだったいねにとってはたまらないことだったろう。そのため、いねは断腸の思いで東京の医院を閉鎖、長崎に帰郷する。

1884年(明治17年)、医術開業試験制度の門戸が女性にも開かれるが、いねにとっては遅すぎた。すでに57歳になっていたため、合格の望みは薄いと判断し、以後は産婆として開業した。62歳のとき、娘(石井宗謙との間にできた高子)一家と同居のために、長崎の産院も閉鎖し再上京。医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話になり、余生を送った。いねは生涯独身だったが、1903年、食中毒のため東京麻布で亡くなった。

(参考資料)司馬遼太郎「花神」、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「日本医科伝」、杉本苑子「埠頭の風」

斉明天皇・・・土木工事が好きだった、史上初の譲位と重祚を行った女帝

 少子化時代の現代では出産以前に、結婚相手を見つけることすら自然にではなく、“婚活”に励む人たちがいる。こうしたことを考え合わせれば、古代社会は男女の仲も、恋愛も、現代社会よりもっと奔放で、さばけていたのではないだろうか。そんな事例が少なくないのだ。ただ、それが皇族、とりわけ女帝となると、さらに驚きだ。むろん、それは政略結婚に違いないのだが…。史上初の、譲位(第三十六代孝徳天皇へ)と重祚を行った斉明天皇は、そんな稀有なケースの女性だ。

 第三十五代とされる皇極天皇(在位642~645年)が重祚して、第三十七代斉明天皇(在位655~661年)と謚(おくりな)された。諱は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は吉備姫王(きびのひめのおおきみ)。第三十六代孝徳天皇の同母姉。

彼女は、最初に用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢(あや)皇子を産み、その後、田村皇子(後の第三十四代舒明天皇)との間に葛城皇子(後の第三十八代天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第四十代天武天皇)を産んだ。つまり、再婚して皇后となり、後に天皇となる2人の皇子を産んだわけだ。

 斉明天皇は女帝ながら、一般的なイメージとは異なり、各地の土木工事を推進した。また東北の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送るなど、蝦夷征伐も積極的に行ったことは特筆される。水工に溝を掘らせ、水路は香具山の西から石上山にまで及んだ。舟200隻に石を積み、流れにしたがって下り、宮の東側の山にその石を積み上げて垣を築いた。渠(みぞ)の工事に動員された人夫は3万人を超え、垣の工事にも7万余の人夫が使役された。2000年に奈良・飛鳥の地から亀石形の流水施設を含む宮廷施設などが発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。

対外政策では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、斉明天皇、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子らは百済救援のため九州へ赴いた。大宰府から奥へ入った朝倉の地に、「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という仮宮を建造し、斉明天皇が指揮にあたった。女帝ながら、したたかで男勝りな性格が顔をのぞかせる。だが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退。また、朝倉神社の木を勝手に伐採して宮の造営に充てたことから、雷神が怒り建物は崩壊した。宮殿の中にも鬼火が出現し、多くの人々が病に倒れた。そして遂に天皇自身もこの朝倉宮で崩御した。

 「大化の改新」の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。この2年前、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅亡に追い込むなど政治の実権を握っていた蘇我入鹿暗殺という古代史上最大のクライマックスともいえる、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。645年(皇極4年)のことだ。大化の改新の幕開きとなるこの事件の、実質上の首謀者は明らかに中臣鎌足(後の藤原鎌足)だ。鎌足31歳、中大兄皇子19歳のときだ。この年齢差から判断すれば鎌足が首謀者だろう。

ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。また、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったともいわれる。だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

坂本乙女・・・龍馬を育て力づけ励まし続けた、文武両道の女丈夫

 坂本乙女は坂本龍馬の三番目の姉で、幼いときに病気で母をなくした龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術など様々なことを教え、後の龍馬を育てた女丈夫だ。坂本乙女の生没年は1832(天保3)~1879年(明治12年)。

 坂本乙女は豪商・才谷屋の分家の、土佐藩郷士、坂本八平と幸の三女だ。城下でも屈指の富豪だから、乙女は家事などは手伝わず、気ままに遊芸を習うことができた。17、18歳のころは義太夫では玄人はだしの腕になり寄席を買い切って高座に上ったこともある。三味線、一弦琴、謡曲、舞踊、琵琶歌まで習い、そのいずれもが素人離れしていた。

 とくに自慢は剣術と馬術で土佐藩の恒例行事の正月の「乗初(のりぞめ)」式に女ながらも藩に無断で出場し、栗毛の肥馬に乗り男袴をはき、十尺の薙刀(なぎなた)を振り回して人を驚かせた。このほか弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったといわれる。

乙女は、身長五尺八寸(約174cm)・体重三十貫(約112kg)という当時はもちろん、現代的にみてもかなり大柄な女性だった。そのため力が強く、米俵を二表らくらくと両手に提げて歩くことができた。城下では「坂本のお仁王さま」と異名された。それだけに1846年、病弱だった母親、幸が亡くなった後、乙女は龍馬の母親代わりを務めた。龍馬に書道・和歌・剣術などを教え、当時龍馬が患っていた夜尿症を治したともいわれている。

それほど諸芸に堪能な彼女が、炊事と裁縫だけはできなかった。ただ彼女の場合、できないというより、その種の仕事を嘲弄していたふしさえあった。龍馬の盟友だった武市半平太の夫人は富子といい、小柄で温和で貞淑という点では典型的な武家家庭の主婦だった。乙女はこの富子に「あなたも家事以外のことで夢中になってみてはいかがですか。例えば薙刀や馬術などに」と、女仕事からの謀反を勧めている。

 乙女は晩婚で1856年、兄の友人の典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赫太郎・菊栄)をもうけた。岡上は長崎で蘭学を修めた人物だったが、身長が五尺そこそこしかなかった。そして、10年余の結婚生活の後、乙女は岡上と話し合い、二人の子供を置いて坂本家に戻った。家風の相違や夫の暴力、浮気などが原因で、姑の経済観念と、乙女の大らか過ぎる家計のやりくりとが合わないといったことも、その理由だったらしい。1867年のことだ。ただ、その後も息子や娘が坂本家に遊びにきているところをみれば、乙女はごくさわやかに、この離婚問題を処理していたと思われる。

 坂本家に戻った乙女はその後、龍馬の良き理解者として、龍馬が国事に奔走するのを力づけ相談に乗ったり、励ましたという。乙女は自分も国事に尽くそうと上洛を望み、龍馬の迎えの便りを待っていたが、頼みの龍馬が暗殺され、志を果たせなかったという話がある。

 ただ、龍馬の妻、おりょうとは不仲だったようだ。これは、乙女に対するおりょうの接し方にも問題があったのかも知れないが、しっくり行っていなかったことは確かだ。龍馬が京都で暗殺された後、おりょうは坂本家の乙女のもとに身を寄せたのだが、程なくしてここを去り、身寄りのないおりょうは各地を放浪したという経緯がある。

 晩年は独と改名し、養嗣子の坂本直寛とともに暮らした。1879年、コレラが流行した際、感染を恐れて野菜を食べなかったためか、壊血病に罹り死去した。享年48。

(参考資料)司馬遼太郎「歴史の中の日本」

天璋院篤姫・・・勝海舟とともに江戸無血開城の際の幕府側の立役者

 徳川家康が江戸幕府を開いて以来260年余、威光を誇った徳川政権が、その終焉を迎えたとき、江戸城開城をめぐって華麗なドラマが繰り広げられた。主役を演じたのは周知の通り、勝海舟と西郷隆盛だが、その舞台の陰にはこの天璋院篤姫の活躍があった。

東征大総督府参謀の西郷に江戸城総攻撃中止、戦争の回避、慶喜の助命、徳川宗家の存続-を決断させたものは何だったのか?この点については今もなお謎が多いのだが、近年西郷の譲歩を引き出した要因として、西郷に宛てた天璋院の切々たる嘆願書ではないかとの見方がクローズアップされている。

長い手紙だが、願いの筋は「徳川家の安堵」という一点に絞られている。自分は御父上(島津斉彬)の深い思慮によって徳川家に輿入れしたが、「嫁したからには、生命ある限り徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいて他にいません」と、天璋院は繰り返し西郷の心情に訴えかけている。

慶喜のことについても、「当人(慶喜)はどのように天罰を仰せ付けられてもしようのないこと」と突き放しながら、それでも慶喜本人が大罪を悔いて恭順している今、徳川宗家存続を許すことこそが、西郷自身の武徳や仁心にとってもこの上ないことと主張、西郷に大いなる義の心を求めているのだ。

東征軍が江戸城へ刻々と迫る中、天璋院の瀬戸際でのこの懸命の努力が、江戸無血開城という形で実現、新旧の国家権力の交代劇につながった。

天璋院篤姫は1835年(天保6年)、鹿児島城下の今和泉島津家に生まれ、一(かつ)と名付けられた今和泉家は島津本家の一門、石高1万3800余と小藩並みだ。実父の忠剛(ただたけ)は島津斉宣の子で、斉彬の叔父にあたる。したがって、斉彬と篤姫はいとこ同士だった。島津本家当主斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛忠煕の娘として1856年(安政3年)、徳川13代将軍家定の正室に、そして大奥の御台所となった。これ以降、彼女は生涯を通して再び故郷の鹿児島に戻ることはなかった。

1858年(安政5年)、夫の将軍家定が急死し、これに続き父斉彬までも亡くなってしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9カ月だった。家定の死により篤姫は落飾、天璋院と号した。その後は和宮に代わり、大御台所として江戸開城に至るまで大奥を統率した。

名を東京と改められた明治時代。天璋院は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家には頼らず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。大奥とは違った、自由気ままで庶民的な生活を楽しみ、旧幕臣の勝海舟や静寛院宮(和宮)ともたびたび会っていた。また、田安亀之助(徳川宗家16代・徳川家達)を教育し、海外に留学させるなどしていた。ペリー提督が持ってきたといわれるミシンを、日本人として初めて使ったのも天璋院といわれている。1883年(明治16年)、脳出血で48年の生涯を閉じた。死後、新政府から剥奪されていた官位、従三位を再び贈られた。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」、「新説 戦乱の日本史 江戸城無血開城」
     宮尾登美子「天璋院篤姫」

檀林皇后・・・橘氏出身で唯一の皇后、仁明天皇、淳和天皇の皇后の生母

 檀林(だんりん)皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、もともと嵯峨天皇の十指にも余る妃の一人に過ぎなかった。ところが、皇后の桓武天皇の皇女の高津内親王が早く逝去したことで、彼女の運命が大きく変わることになった。姻戚の藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は、冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后。橘氏出身としては最初で最後の皇后となった。嵯峨天皇薨去の後、京都嵯峨野に檀林寺というわが国最初の禅院を営んだので、その寺名にちなみ檀林皇后と呼ばれた。

 橘嘉智子(たちばなのかちこ)は橘奈良麻呂の孫、橘清友の娘。母は贈正一位田口氏。生没年は786年(延暦5年)~850年(嘉祥3年)。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)ほか二男五女をもうけた。嵯峨上皇の崩御後も太皇太后として隠然たる勢力を持ち、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために「承和の変」も深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母の娘の正子内親王は、嘉智子を深く恨んだといわれる。

 彼女の父の橘清友は橘諸兄の孫という歴とした血筋だ。諸兄は敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄、初め、葛城王と称したが、臣籍に降って橘の家を興こした。藤原四兄弟が相次いで死亡した後、左大臣として国政にあたり、花の天平時代を築いた。その子、奈良麻呂は藤原仲麻呂(恵美押勝)を除かんとして破れ獄死したが、橘氏は藤原氏と並び称せられる家柄だった。橘逸勢は嘉智子のいとこ。

 嘉智子は稀に見る美人だった。奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものといわれているが、一説では嘉智子=檀林皇后をモデルにしたものともいう。嘉智子は、朝廷に対する罪人との烙印を押された祖父・奈良麻呂の汚名返上と繁栄を願う、橘氏一族の期待の星だったのだ。それだけに、嘉智子の人生は輝かしい栄華の一方で、周辺を巻き込みつつ、血塗られた政略に満ちあふれたものでもあった。

檀林寺は現在の野々宮から天竜寺に及ぶ一帯を占めた広大な寺院だったというが、消失してしまい現在、嵯峨野の祇王寺に近い東側に再建されている。昭和40年代の初めに造られたもので、新しいものだが檀林皇后時代の遺物がよく保存されている。

 奈良朝から中世へかけて天皇家の権威の下に、その門流が繁栄を極めた名族として「源平藤橘」が挙げられる。源氏、平氏はかなり後の平安時代後期に登場する氏族。藤橘の藤は周知の通り、南家、北家、式家、京家の四家に分かれて勢力を競い合った藤原氏であり、橘は檀林皇后すなわち嘉智子の出自の橘氏だ。橘氏は周知の通り藤原氏北家と結び、奈良時代末期から平安時代前期をリードして、人臣その位を極めるエリートとなった。

(参考資料)杉本苑子「檀林皇后私譜」

山内一豊の妻・千代・・・へそくりで名馬を買い入れた内助の功で有名

 戦国末期の武将で、信長・秀吉・家康に仕え、後の土佐二十四万石の大名となった山内一豊(1546~1605)の妻。近江の若宮家の出といわれるが、確かなことは分からない。千代の生没年は1556年(弘治2年)~1617年(元和3年)。出生地には諸説あり定かではないが、郡上市八幡町と米原市近江町の二つが有力だ。千代は良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、彼女の「内助の功」に関する逸話は周知の通り。へそくりで奥州の名馬を買い、馬揃えで織田信長の目にとまった話が有名だ。

 浪人生活の一豊と貧乏の中で結婚し、その日の糧にも事欠く生活を送っていたとき、一人の馬喰が見事な馬を売りにきた。一豊が大層欲しがるのをみて、千代は“夫の一大事の折に用いよ”と嫁ぐときに育ての親からもらった十両を、鏡筐の底から出して夫に差し出し、その奥州の名馬を買い入れた。

翌年、馬揃えの式で信長の目にとまり、馬を買い入れた経緯を聞き「あっぱれなる女房を持って一豊は天下一の果報者ぞ」と褒められた。その後、一豊はその馬にまたがり、様々な戦場をかけめぐって勇猛振りを発揮したという。ただ、残念ながらこの逸話を証明する史料は何もない。

 一豊は信長、秀吉と仕え、秀吉に掛川(静岡)五万石をもらい、大名になる。さらに関ケ原では徳川につき、家康から抜擢を受けて土佐をもらった。一豊というと、奥方の千代が偉くて様々な逸話があるが、作り話が多い。いずれにしても「奥方のおかげ」は幕末までいわれたようだ。頼山陽に千代の才覚をうたった詩があって、これが知れわたって、伝説が文学になって一層広まったとみられる。

 では、一豊は千代の力なしには出世できないような人だったのか?確かなことは分からないが、人間の器量が割合大きく「いいたいやつには言わせておけ」とあまり気にとめなかっただけなのではないか。一豊自身、関ケ原の時、掛川の城を家康に「おたくでお使いください」と明け渡した。家康は後で「あそこで山内殿がああいってくれたから、みんなが右へならえしてくれた」と一豊を褒めた。そして、それが土佐二十四万石につながったのだ。

一豊は決してボンクラではなかった。物事はよくできるが、千代の方が頭がよく、カンがよく、世間の見える女だったので、亭主の仕事に口を出したということのようだ。そして、それが幸運にもすべて適切だったというわけだ。

 一豊は土佐入国から5年、1605年(慶長10年)61歳で亡くなった。夫の死後、妻千代は出家し、見性院(けんしょういん)となり一豊の冥福を祈りつつ、念仏三昧の穏やかな生活を送るはずだった。ところが、彼女は一豊の存命時代と同様、その政治・外交力などで山内家を助け、京都で61歳で没した。
 
(参考資料)司馬遼太郎「巧名が辻」、対談集 永井路子vs司馬遼太郎

天秀尼・・・豊臣秀頼の子で、駆け込み寺の守護女神

 天秀尼(=奈阿姫、なあひめ)といっても馴染みがない人がほとんどだろう。実は淀君の孫娘、豊臣秀頼の娘だ。ただ、母は有名な正室、千姫ではない。側室の小石の方(こいわのかた、成田五兵衛の娘)だ。名は千代姫ともいった。出家後の名が天秀尼(てんしゅうに)。兄の豊臣国松とは異腹。千姫とは義理の親子だったが、仲がよかったとされる。この天秀尼、三百数十年前、かよわい女性の身で、救いを求めてきた何人かの女性の命を助けた、女神のような存在だったのだ。 生没年は1609年(慶長14年)~1645年(正保2年)。

 奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。1612年(慶長17年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。1615年(元和元年)、大坂夏の陣での豊臣方の敗北は彼女を、いわば戦災孤児へ突き落とした。兄の国松は斬殺されたが、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入った。

もともとこの寺は格式の高い尼寺で、代々、毛並みのいい女性が住持になる習わしで、罪を犯した人やその家族をかくまう、いわば治外法権的な権力を持っていた。身分は高いが戦犯の娘で、しかも孤児となった彼女には、極めてふさわしい住み家だったといえよう。

 天秀尼が東慶寺に入ったのは8歳のとき。後に師の跡を継ぎ、その20世住職となる。彼女が30歳前後のとき、後世に彼女の名が残る事件が起こった。会津若松40余万石の城主、加藤明成と家老の堀主水の妻子が救いを求めて転がり込んできたのだ。夫の主水が主君と意見が合わず、一族ともども会津を出奔したという。主水は主君の非を幕府に訴えるつもりだったが、それより早く、怒った明成が追ってきたので、兄弟揃ってとりあえず高野山に逃げ込んだ。ところが高野山は女人禁制。そこで何卒、私どもだけ、この寺におかくまいください-と主水の妻は訴え、天秀尼の法衣にすがりついた。

 ただ、当時は「主君に忠」が憲法第一条の時代だ。いかに主水の言い分が正しくても、主君に背くのは憲法違反の重罪だ。高野山も昔から罪人をかくまう治外法権的な特権を持っていたのだが、徳川の全国統一によって次第に力が薄れ、このときは明成の脅しに遭うと、あえなく腰砕けになって、遂に主水兄弟を引き渡してしまう。勝ち誇った明成は彼らを斬殺、今度は東慶寺に妻子を引き渡せと言ってきた。ここで天秀尼は、徳川の忠君憲法と、明成の強情の前に厳しい選択を迫られることになった。堀主水の妻子を助けるか助けぬか-。

 天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるのをご存知ないのですか-と悩んだ末に遂に堀主水の妻子をかくまう道を選んだ。そして、明成の非を養母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えた。無礼者明成をつぶすか、この寺をつぶすか、二つに一つでございます-と。捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収、代わりに1万石を与えて家名だけを継がせることにした。千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事に勝ったのだ。天下の高野山が守りきれなかった憲法違反者の妻子の命を女の細腕で守り通したのだ。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、夫や姑に虐待されても自分の方から離婚を申し立てられなかった当時の女性にとって、長く救いの場所になったのだ。
彼女の死去により、豊臣秀吉の直系は断絶した。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」

中西君尾・・・勤皇・佐幕派を問わず様々な人物とつながりを持った芸妓

 幕末、京都祇園の芸者だった中西君尾(なかにしきみお)は、高杉晋作を介して、井上聞多、品川弥二郎など多くの長州藩士とつながりを持ち、彼らの心を癒した。とくに井上聞多の命を救った贈り物の逸話は知られているが、桂小五郎と幾松のように、君尾と井上は結ばれることはなく、結果的に君男は祇園で多くの勤皇の志士のために手助けをすることになる。君尾の生没年は1843(天保14)~1918年(大正7年).

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれた。本名はきみ。19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となった。主に縄手大和橋の御茶屋『魚品(うおしな)』で後の明治時代に元老となる井上聞多(後の井上馨)と出会い、親密な間柄となった。元治元年、井上が長州藩内で敵対する俗論党に、山口・湯田温泉で襲われ、虫の息の彼が止めの刃を胸に受けたとき、懐の鐘に切っ先があたり死を免れた話が残っている。これは、これより数年前井上がロンドンに向かうときに、井上が自分の小柄と交換した君尾の鐘で、彼がずっと肌身離さず持っていたものだったという。

 君尾は芸妓という立場上、当然ともいえるが勤皇・佐幕派を問わず、実に様々な人物とつながりを持った。彼女はまず長州の寺島忠三郎に頼まれ、スパイとして志士弾圧の急先鋒だった島田左近の“思われもの”になったこともあるといわれ、この後、島田は天誅第1号として斬殺されている。
 近藤勇も祇園の『一力』の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるなら、あなたのものになりましょう」といい、近藤は「我々は会津に従う。(だから、お前の)言葉には従えぬ。無礼は許せ」と酒を一気に呑み干し、席を立ったという話が残されている。

 また、鴨川の川座敷で桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人らと酒を酌み交わしかえる途中、新選組隊士に壬生の屯所に引き立てられ拷問にかけられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など肝心なことは口を割らなかった。そのため、近藤は「新選組は無茶な殺生はしない」と駕籠を呼んで送り返してやったという。まだある。君尾はまた追われていた中村半次郎(後の桐野利秋)を匿ったり、会津藩士に踏み込まれた勤皇の青年を裏から逃がしたり、多くの志士たちを救っている。

 長州の品川弥二郎もその一人だ。君尾は弥二郎と恋仲になった。慶応4年に東征軍が進発のときに歌った「宮さん、宮さん~」のトンヤレ節は品川の作詞といわれる。また曲をつけたのは君尾だとされている。君尾は品川の子供を宿し、その子、巴は祇園の役員になった。
 明治時代になっても、君尾はずっと祇園の芸妓を通した。そして維新で高官となった、かつての志士たちと昔語りをするのを楽しみにしていたという。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」