「豪商列伝」カテゴリーアーカイブ

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

 中井源左衛門は、売薬から米商人に転じて成功し、巨富を得た。瀬田の唐橋の改修費に3000両を献金したのをはじめ、神社や公共事業に多額の寄付をした。滋賀県に生まれ、幼名を長一郎、やや長じて源三郎と改め、源左衛門となったのは店を持ってからのことだ。生没年は1716(享保1)~1805(文化2)年。

  中井源左衛門は「金持に成らむと思はば、酒宴遊興奢(おご)りを禁じ、長寿を心掛け、始末第一に商売を励むより外に仔細は候はず」(「金持商人一枚起請文」)と子孫に書き残している。著名な「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神は、他国への行商で財を成した近江商人の知恵だ。行商先や出店を開いた地域に配慮した経営でなければ、外来商人としての存続も、出店の定着もあり得なかったのだ。

 日野特産の日野椀をつくっていた中井家は、もともと佐々木源氏に仕えて船奉行をしていた家柄だったが、織田信長に佐々木の一党が滅ぼされた時、武士をやめて、塗椀業者になった。ところが孫の光武の代になったころ、家運が衰えて取引先が倒産した。そのため家屋敷も人手に渡り、源左衛門光武は日野椀の絵付け仕事に雇われて職人暮らしを続け、ようやく19歳になった。

 何とかして失った家や地所を回復したいと思った彼は相坂半兵衛という日野商人に連れられて、関東へ行商の旅に出た。1734(享保19)年のことだ。母の実家から日野の合薬60貫分(約15両)を借り受け、自己資金2両と、遺産3両を旅費として、創業の野心に燃えた19歳の青年は、東へ向かって旅立っていった。これを持ち下り商内といっている。

 神応丸、奇応丸、帰命丸、六味地黄丸など日野の合薬は各地で評判がよかった。一度目は失敗に終わったが、二回目は何とか損をせずに済んだ。以来一日として休むことなく、雨の日も雪の日も歩き続けて、1745(延享2)年になると、ようやく下野の越堀町に小さな店を持った。同年、郷里に家を建てて妻を迎えた。それが30歳の時で、2年後には775両1分の金を貯め込んでいた。2両の資本から始めて、よくも増やしたものだが、まだ千両には手が届かない。

 奥州街道に沿った大田原藩1万1000石の城下町・大田原に拠点をつくった彼は合薬だけでなく太物(木綿)も扱うようになって、上野の小泉村や結城の白河にも支店を設けた。1769(明和6)年、仙台に出店したころ、貯蓄は7468両2分に膨れ上がっていた。創業以来35年、ようやく長者番付の片隅に名前が載るようになった。

 木綿の採れない奥州に、関西の綿布を届け、さらに好まれる古手(古着)も運んでいった。そして奥州の生糸や紅花を買い付けて関西へ運んできた。これを産物廻しというが、現在の商社活動の原点は、この産物廻しにあった。さらに彼は奥州の生糸を大量に丹後の機業地へ売り捌こうというので”組合商内”を実行した。これは今でいう株式組織で、まず出資者を募った。中井源左衛門 出資 7500両、杉井九右衛門 出金 1000両、寺田善兵衛 出金 1000両、矢田新右衛門 出金 500両 合計1万両、これだけの資金を動かしての商内は滅多にあるものではない。しかし、奥州と丹後では距離が遠すぎるので中継基地をいくつかつくった。

 京都では川港のある伏見に店を置いた。京都市内に出店を置くと、京都の糸問屋仲間の妨害を受けやすいからだ。京・大坂の古着類を伏見に集め、綿、油、菜種などとともにこれを仙台に運んだ。そして仙台を拠点として奥州各地で売り捌いた。さらに豊富な資金を使って、奥州の生糸、青芋(う)、紅花、大豆、小豆、漆類を大量に買い集めて、関西へ荷をを引いてきた。こうして大量の生糸を丹後の機業地へ運び込んだばかりか、大商いをして、さらに商売を拡げていった。

  やがて、丹後店、伏見店を閉鎖して、京都に大型店を開いた。このころになると、金融業も営んで大名貸しにまで手を広げている。仙台に長男の二代目源三郎を派遣して支配人とし、京都店に三男を配し、本店は源左衛門自らが総轄していた江州店(ごうしゅうだな)といって、近江商人は各地の出店に店員を派遣するが、すべて当主の手元で読み書き算盤をみっちり仕込まれた同郷者に限られていた。番頭になると妻帯が許されるが、これもまた同郷人に限られていて、新婚の妻を近江に残して、夫は任地で商いに励むことになる。

 その代わり35歳ぐらいになると、別家して独立することができる。退職金が200両ほどもらえ、そのうえ積立金もあるので資金はたっぷりある。そこで郷里に田畑と家を買って小作人に耕作を任せて、旦那衆の仲間入りもできるとあって、悪事を働くような店員はほとんどいなかった。人一倍几帳面な性格の源左衛門は、各出店から届いた報告に基づいて、”店卸記”と”永代店卸勘定書”をきちんと記録して、一日も休むことなく業務に精励したという。商機とみると機敏に行動したが、決して人を騙したり、あくどい商いをしたことはなく、薄利で”牛の涎(よだれ)”のごとく、細く長く続く商いに徹した。

 その結果、1804(文化元)年、89歳の折、その資産は11万5375両1分になっていた。そして、翌年9月、90歳の天寿を全うした。数多い近江商人の中でも、彼ほど長寿を保ち巨富を積んだ者は他に例をみない。源左衛門の没後、二代目、三代目とよく初代の精神を守って業務に励んだので、中井家は近江商人を代表する名家となった。

 始末、才覚、算用、この三つは江戸期の商人の原理といっていい。才覚は今でいうアイデア、始末は無駄金を使わないこと、算用は経理で、すべて現代にも通用する商法の原理だ。近江商人は、無駄金は使わないが、道路や橋の建設にはよく金を出している。これはそうして交通が便利になれば、いずれ自分たちにも利益となると見越していたからだ。活きた金の出費は惜しまなかった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

 本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖といわれる。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主だったのだ。本間四郎三郎の生没年は1732(享保17)~1801年(寛政13年)。

 本間家の祖は寛永年間(1624~1644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花(べにばな)などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得た。そして、その利益で酒田周辺の土地を買い上げ、「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていった。

 本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことだ。彼は父の遺志を継いで酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常な事業ではなかった。黒松の苗木は植えても植えても、厳しい風害を受け飛来する砂に埋没し、幾年もの間、根付き育つことはなかった。そこで、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹き付ける砂嵐と、まさに格闘すること12年、ようやく延々30kmにも及ぶ防砂林の完成にこぎつけた。藩主は、それほどの難事業を成し遂げた四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取り立て小姓格となった。

 このほかにも、四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献している。1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に2万4000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救った。また、焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになった。そのうえ、幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせた。

 こうした四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかった。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸している。このほか彼は、酒田港口に私費で灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き、旅人の陥没を防ぐなど、病で職を辞するまで、36年にわたって公共のため激務に従事した。

 それだけに、庄内藩14万石・酒井家の財政は、酒田の大地主として名高い、この本間家を抜きにしては語れない。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものだった。当初は新顔の町人だった本間家だが、1710年(宝永7年)、300両を献金し、1737年(元文2年)、領内の豪商のトップとなった。その子、四郎三郎の代には、1800余俵収穫の田地から一挙に規模を広げ、1万3900余俵収穫高の田地を有するようになったのだ。四郎三郎のケタ外れの才覚がうかがわれ、彼が本間家にあっても中興の祖といわれるゆえんだ。

 1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられた。時代の流れとはいえ、事業を担った人の精神は変わってしまったのかどうか分からないが、名門・本間家の表舞台からの退場は惜しまれる。 

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

 白石正一郎は幕末、勢威を誇った下関の豪商で、当時のインテリだ。長州藩の志士はもちろんのこと、関門海峡を通過する志士らを分け隔てなく世話した、勤王党の志士らのシンパでもあった。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。まさに新時代を築き上げる人材を、経済面で支援したスポンサー的存在だった。1863年(文久3年)、高杉晋作が結成した「奇兵隊」にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられている。

 白石正一郎は長門国赤間関竹崎に回船問屋、小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。名は資風、通称は駒吉、熊之助。号は橘円。白石正一郎の生没年は1812(文化9)~1880年(明治13年)。小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などを扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝だったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富だった。

 正一郎は国学に深い関心を持ち、鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。43歳ころのことだ。そして重胤の門下生を通じ諸藩の志士とも親交が生まれた。薩摩藩の西郷隆盛も正一郎を訪ね親しくなり、小倉屋は1861年(文久元年)には薩摩藩の御用達となった。西郷は正一郎を「温和で清廉実直な人物」と書き記している。

正一郎は月照、平野国臣、真木和泉らとも親しく交流したが、それは尊皇攘夷の志に共感したためだ。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助したほか、土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。白石邸は、さながら志士たちに開かれた交流、集会の場だった。武士に限らず、公家も同様だった。都を追われた、明治天皇の叔父にあたる中山忠光や三条実美ら六卿もここに滞在した。六卿の一人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)は下関に到着後、病に倒れ、この白石邸で息を引き取っている。

 白石邸は歴史の舞台ともなっている。1863年(文久3年)、藩命により下関を訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸で「奇兵隊」が結成されたのだ。奇兵隊は結成以後、白石邸に寄宿していたが、すぐに隊員が増えて手狭になったため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ屯所を移した。奇兵隊結成と同時に、正一郎自身も弟の廉作とともに入隊した。正一郎は奇兵隊の陰の力となって、惜しげもなく資金面で志士たちを支えた。そのため、晩年には豪商の身代も傾いてしまったほど。白石家は正一郎も、その弟の廉作も、伝七も皆、志ある人だった。日本初期の社会主義者で、革命直後のロシアで踪跡不明になった大庭呵公(かこう、景秋)は弟・伝七の子だ。

 明治維新後は、赤間神宮の二代目となった。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男・真木菊四郎の墓が並んでいる。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

 島井宗室(しまいそうしつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した博多の豪商、茶人で、大友宗麟と結び、金融・貿易で巨富を築き上げた人物だ。島井宗室の生没年は1539(天文8)~1615年(元和元年)。名は茂勝。通称は徳太夫。号は白軒、別号は瑞雲庵、虚白軒。

 島井宗室は博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも貿易に乗り出し、日本でも指折りの財を成した。宗室は、さらにその財力を背景に、九州の諸大名とも交渉を持つようになった。1573年(天正元年)、当時の博多の領有者、大友宗麟との取引を開始。同じころ、堺の茶人兼豪商、千宗易(利休)や天王寺屋道叱らと懇意になった。宗室は大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、大友宗麟から様々な特権を得て、豪商としての地位を確立していった。

 大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して、堺の千利休ら茶人としての親交ルートから織田信長に接近。その庇護のもとに活動することを企図した。信長には贔屓にされたが、本能寺で明智光秀に討たれ、彼の思惑は頓挫するかにみえた。が、今度は豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多、さらには対馬に至る輸送・交通路を築き上げた。これにより宗室は南蛮・朝鮮などとの貿易で栄華を極めることになった。

 宗室は、秀吉の九州征伐にも随分頼りにされ協力した。このとき博多復興に尽力した功績によって、彼は免税の特典を受けている。天下統一後、秀吉が行った朝鮮出兵には彼の合理主義的感覚から「この戦争はそろばんに合わない」と判断。賛成しなかったため、秀吉の怒りを買って、蟄居を命じられた。さすがに宗室もその後は柔軟な対応に転じたのか、後に許されてからは五奉行の一人、石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方、明との和平の裏工作を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦後、博多が黒田氏の支配下に入ると、黒田長政の福岡城築城などに協力している。

 宗室が養嗣子に残した、遺訓17カ条は町人訓として知られている。

 当時の博多では多くの豪商がひしめいていたが、とくに島井宗室は神谷宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九とともに「博多の三傑」と称された。ただ、島井宗室と神谷宗湛は秀吉に取り立てられた商人で、大賀宗九は黒田氏に取り立てられた商人であり、少し事情や色合いが違う。島井宗室と神谷宗湛とは親族間にあたる。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人」

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

 竹川竹斎は、伊勢射和(いせいざわ)に拠点を持っていた由緒ある伊勢の豪商だ。竹斎は相当変わった人物で、国学、測量学、また農事や土木の方法まで学ぶなど、学問に造詣が深かった。しかも、学んだだけでなく竹斎はこれを地域で実行した。そして、何より驚かされるのは、竹斎は商人でありながら、幕末、「海防護国論」と題した意見書を提出。勝海舟と小栗上野介という幕府首脳部にあって、相対立する二人の実力者の政治顧問=黒幕的存在だったことだ。

 竹川竹斎は、伊勢国(現在の三重県)飯野郡射和村で父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。幼名は馬之助、元服(1823年)して新兵衛政肝と改め、隠居(1854年)して竹斎と号した。父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘。竹斎の生没年は1809(文化6)~1882年(明治15年)。

 竹川家は幕府御為替御用を務め、当時、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目だ。本拠は伊勢に置いてあったが、江戸で両替商を営む金融業だった。

 竹斎は国学を荒木田久守や竹村良臣(よしおみ)に学び、農事や土木の方法を、この方面の権威だった佐藤信淵(のぶひろ)に、そして天文地理の測量学を奥村喜三郎などに学んだ。また、多くの経世家や文化人と接し、知識を深めた。だが、彼が単に知識欲が旺盛だったわけではない。学んだことを地域で実行した。地域住民の多くを参加させ、近江の水利をはかるための灌漑工事を行った。もちろん、工事の費用は全部自分が出した。それによって、地域住民の意識を高めようとしたのだ。また、彼は当時1万巻といわれた蔵書、自分の持っている本を全部放出し、「射和文庫」をつくった。

 竹斎は「地域が富むためには、産業を興さなければならない。それには地域の特産品をつくって、他国に売り出すことだ」と唱えた。そのため、彼は「万古焼(ばんこやき)」を復活させた。「射和万古」と名付けた陶器を次々と生産させた。こうして、彼は伊勢射和の地域振興に尽くした。

 ただ、竹斎は地域だけではなく、幕末の日本全体を見ていた。ペリー来航後、当時の老中首座・阿部正弘は開明的な政治家で、情報公開と身分を問わず、様々な意見を求めるとの方針を打ち出し、国政参加への回路を開いた。これに応じて竹斎が提出した意見書が「海防護国論」だった。この意見書は、題名からくる印象とは違って、積極的な開国策だった。彼は後に、誰よりも先駆けて、日本に鉄道を敷設すべきだとか、北海道の開拓が急務だなどと唱えるが、学問の蓄積が彼の目を研ぎ澄まさせたのだ。

 竹斎の海防護国論にひどく感動したのが、勝海舟と大久保忠寛(一翁)だった。勝はとくに竹斎に惚れ込んでしまった。以後、勝は折に触れて様々な問題について、竹斎に相談し、アドバイスを受けたという。勝自身、明治になってから何でも自分ひとりで考え出したようなことを言っているため、一般的に、勝は相当な自信家のイメージが強いが、必ずしもそうではない。彼には、この竹川竹斎という政治顧問=黒幕がいたのだ。

 竹川竹斎は実は、海舟の青年時代からの支援者だった北海道の商人、渋田利右衛門が自分に万一のことがあったらといって、海舟に浜口梧陵、嘉納治右衛門(柔道・講道館の開祖、治五郎の親)らとともに紹介した人物の一人だ。このことは、海舟自身が『氷川清話』に書いていることだ。

 そして、驚くことに竹斎が黒幕的な役割を務めたのは、勝海舟に留まらなかった。竹斎は明治維新前後、勝と鋭く対立した勘定奉行・小栗上野介忠順の黒幕でもあったという。小栗は開明的な能吏だが、徳川幕府を立て直し、戦艦、武器・弾薬など軍備のうえからは、新政府軍とはまだ十分勝負になると判断。最後まで徹底抗戦を唱えていた。そのため小栗は、最終的に朝敵になることを怖れ、不戦=恭順派に傾いていた最後の将軍、徳川慶喜に嫌われて、江戸城内で職を罷免されてしまった人物だ。小栗上野介とは、新政府軍にとって、それほどに要注意人物だったのだ。竹斎は、そんな人物の政治顧問でもあった。

 竹斎が亡くなったとき、勝は墓前に「世のことを 望みなき身の心しりて友のすくなく成るぞわびしき」の句を捧げている。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話付 勝海舟伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」
 文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。
 本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。
ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
 本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
 全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。
またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。
巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
 銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。

(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛 獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史 銭屋丸難破」、邦光史郎「物語 海の日本史」

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 
 三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
 利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
 神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
 当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
 こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
 三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」