大阪のNEWS

大阪のNEWSダイジェスト
  • 「ルクア」売上高初日3億5000万円 目標上回る 2015年4月4日 「ルクア」売上高初日3億5000万円 目標上回る JR大阪駅北側の駅ビルに4月2日開業した商業施設「ルクア1100(イーレ)」を運営するJR西日本SC開発は3日、イーレと隣の専門店街「ルクア」を合わせた2日の売上高は約3億5000万円だったと発表した。1日平均で約2億1000万円とする目標を上回った。SC開発は両施設を合わせた「ルクアOSAKA」として、1年で売上高770億円を目指す。来館者数は約32万人で、目安としていた1日平均約19万人を大幅に上回った。1年目の来館者数は7000万人を目指している。
  • 15年度は「医療拠点形成プロジェクト」推進 大商 2015年4月3日 15年度は「医療拠点形成プロジェクト」推進  大商 大阪商工会議所は3月30日、「メディカル・ポリス形成プロジェクト」などの戦略事業の一層の推進を目指す2015年度の事業計画を決めた。新規事業では機能性表示食品届け出支援制度の整備などを盛り込んだ。大商の成長戦略「千客万来都市OSAKAプラン」第2期の中間年度として成果を念頭に取り組む。 機能性表示食品届け出支援制度の整備では、大阪府や日本健康栄養・食品協会と連携し、企業による消費者庁への届け出を支援する仕組みや相談窓口を設置する。このほか、ASEAN共同体(AEC)発足に向け、ASEANボーダーレスビジネス展開を支援する。
  • JR大阪駅北側「ルクアイーレ」開業 脱百貨店で再起 2015年4月3日 JR大阪駅北側「ルクアイーレ」開業  脱百貨店で再起 JR大阪駅北側のビルに入る商業施設「ルクア1100(イーレ)」(地上10階、地下2階、売り場面積3万3000平方㍍)が4月2日オープンし、隣接する「ルクア」と合わせて約32万人が来店しにぎわった。業績不振に陥った百貨店「JR大阪三越伊勢丹」を全面改装し、百貨店部分は面積を4割に縮小した。三越伊勢丹は既存の百貨店とは一線を画し、専門店との垣根をなくした”脱百貨店”戦略で再起を図る。
  • 関空の免税店エリア1.4倍に広がり全面オープン 2015年4月2日 関空の免税店エリア1.4倍に広がり全面オープン 関西国際空港の免税店エリアが3月31日、これまでの1.4倍の広さとなって全面開業した。急増している海外からの訪日観光客を取り込もうと1年前から75億円をかけて改装していた。2014年9月に一部開業し、今回31日に高級ブランドの「シャネル」などが開店して全面オープンした。 出国手続きの後に買い物ができる免税店エリアは、今回の改装で4600平方㍍から6400平方㍍に広がった。店舗の数は35から41に増えた。高級ブランドのほか日本酒や家電などのおみやげをそろえた店を増やした。関空にある店舗の売上高の合計は2013年度で約450億円。14年度には拡張部分の一部が開業したこともあり、600億円になる見込みだ。
  • 3月大阪主要百貨店 消費増税直前の前年比で軒並み減 2015年4月2日 3月大阪主要百貨店 消費増税直前の前年比では軒並み減 大阪の主要百貨店は4月1日、3月の売上高(速報値)を発表した。2014年3月に消費増税前の”駆け込み”需要があった反動で、高額商品の売り上げが減り、各店とも前年実績を大きく下回った。阪急梅田本店(大阪市北区)は前年同月比13.4%減。高島屋大阪店(同市中央区)も同23.3%減。大丸心斎橋店(同)は同18.2%減、梅田店(同市北区)は同16.5%減だった。「あべのハルカス」に入る近鉄百貨店本店(同市阿倍野区)は同約24%減、来店客数も11%減だった。近鉄本店は14年3月、ハルカスの全面開業と消費増税の駆け込みが重なり、13年3月比で倍増していたこともあり、反動が大きかった。 ただ、14年10月に対象品目が拡大された訪日外国人客向けの免税品販売は引き続き好調だった。阪急梅田本店の免税品売り上げは約4倍、高島屋大阪店も4倍となった。
  • USJ14年度入場者数は最多の1270万人 前年度比220万人増 2015年4月2日 USJ14年度入場者数は最多の1270万人 前年度比220万人増 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市此花区)は4月1日、2014年度の入場者数が1270万人と過去最高を更新したと発表した。これまでの最高は開業直後の01年度の1102万9000人。前年度比では220万人の大幅増だった。14年7月に映画「ハリー・ポッター」エリアがオープンして以来、単月の入場者数が9カ月連続で過去最高を記録。国内外からの集客に成功し、外国人客は前年度比6割増の80万人となった。 外国人客は台湾や香港などアジアが多かった。約450億円を投じたハリー・ポッターエリアが高い集客力を発揮したほか、仮装姿での来場が定着したハロウィンや、1月か開催中のアニメ「エヴァンゲリオン」や漫画「進撃の巨人」などをテーマにした期間限定イベントも好評だった。16年春には映画「ジュラシック・パーク」を題材にした屋外ジェットコースターの導入が決まっており、集客力維持のために積極投資を続ける方針を発表している。
  • 4/14から「大阪都構想」の住民説明会を開催 大阪市 2015年4月1日 4/14から「大阪都構想」の住民説明会を開催  大阪市 大阪市を廃止・再編する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が5月17日に行われるのを受け、大阪市民限定で協定書(制度設計案)の内容を説明する市の住民説明会の日程が決まった。4月14日から26日までの13日間、市内の32施設で計39回開く。 賛否の討論はなく、大阪府市大都市局の担当者らが説明し、橋下市長も市長の立場で話す。市民限定のため、免許証や保険証などで参加者の住所を確認し、先着順で満席になれば締め切る。中立性を巡って市長と野党が対立した協定書の広報紙も、野党の反発を押し切る形で市長が自身の意見を掲載し、13日から市内で全戸配布することが決まった。  
  • 大阪都構想、成長戦略巡り6党の国会議員が激論 2015年4月1日 大阪都構想、成長戦略巡り6党の国会議員が激論 4月3日告示の大阪府・市議選などを前に大阪市北区の市中央公会堂で3月31日夜、各党国会議員らによる公開討論会が開かれた。日本青年会議所近畿地区大阪ブロック協議会が主催。大阪市を廃止し、特別区に再編する大阪都構想や経済成長戦略などを巡り、激論が交わされた。自民、民主、維新、公明、共産、次世代の6党の代表が参加した。 都構想を巡る議論では、賛成派から「二重行政の無駄を根本から直すのは都構想しかない」(維新)の意見。一方、反対派からは「制度論をやっても景気はよくならない」(自民)「政令市を強くすることが大事で、地方分権の流れに逆行している」(民主)「(府と市)の病院などは住民の役に立っており二重行政ではない」(共産)など都構想に対して厳しい指摘が相次いだ。このほか、「大阪市内の行政区の再編には賛成だが、今の案には反対」(公明)の意見が出た。
  • 「国際未来医療拠点」具体化目指す 大商が15年度事業計画 2015年3月31日 「国際未来医療拠点」具体化目指す 大商が15年度事業計画 大阪商工会議所は3月30日、議員総会を開き、大阪都心への「国際未来医療拠点」形成などを柱とする2015年度事業計画を決定した。15年度は大阪活性化に向けた「千客万来都市OSAKAプラン」第2期(14~16年度)の2年目で、「メディカル・ポリス形成」など8プロジェクトの推進を継続する。新規事業として、先端医療機関などを大阪都心に集積し、世界最速での新薬・医療機器の承認・実用化を図る「国際未来医療拠点」の具体化を目指す。  
  • 新関西国際空港会社、伊丹ターミナルビル会社を合併 2015年3月31日 新関西国際空港会社、伊丹ターミナルビル会社を合併 新関西国際空港会社は3月30日、同社の完全子会社で、大阪(伊丹)空港のターミナルビルを運営する「大阪国際空港ターミナル」(OAT)を2016年1月ごろに吸収合併すると発表した。関西国際、大阪両空港の運営権売却に向けた環境整備が狙い。OATは消滅し、社員約100人は新関西国際空港会社に移る。
  • 大阪・船場で4/5カレーラリー開催 開業45周年創業祭 2015年3月30日 大阪・船場で4/5カレーラリー開催  開業45周年創業祭 大阪市中央区の船場センタービルで4月5日、スタンプを集めるとカレーの食材が当たる抽選会に参加できる「船場センタービル カレーラリー」が開かれる。参加無料。同ビルは中央大通りに面し、東横堀から堺筋、御堂筋をまたぐ東西1㌔に1~10号館が連結した商業ビル。 ラリーは午前10時スタート。各号館に設置されたスタンプ計10個を当日配布するシートに集め、1号館か10号館のゴールに持ち込むと先着1000人に「ハウスプライムバーモントカレー」をプレゼントする。カレーの材料(ジャガイモ、ニンジン、タマネギ)が当たる抽選会にも参加できる。大当たりなら牛肉もプレゼント。 同ビルは4月3~5日、開業45周年の大創業祭として、全館650店舗のセールを展開中。ほかにも、全国のふるさと物産販売などのイベントが予定されている。
  • リニア大阪開業「同時・早期に」首都圏でも87% 2015年3月29日 リニア大阪開業「同時・早期に」首都圏でも87% 大阪府、関西経済連合会、大阪商工会議所などでつくるリニア中央新幹線全線同時開業推進協議会は、首都圏と関西圏の会社員にリニアの利用意向を尋ねたインターネット調査の結果をまとめた。その結果。大阪までの同時開業か早期開業を望む人が関西圏で91%、首都圏でも87%に達した。2027年の東京~名古屋間の開業後に、東京~大阪を行き来する際、リニアと新幹線を乗り継ぐと答えたのはわずか12%、79%は主に新幹線を使うと答えた。調査は1~2月に実施され、関西圏940人、首都圏149人が回答した。
  • 都構想 賛否両派が演説、デモ 動き熱帯びる 2015年3月29日 都構想 賛否両派が演説、デモ 動き熱帯びる 大阪市を廃止・再編する「大阪都構想」の是非を問う住民投票が5月17日に実施されることが決まり、政党や市民団体の活動が熱を帯びてきた。4月3日に大阪府・市議選の告示を控えた3月28日、大阪市内では推進、反対両派がそれぞれの訴えを浸透させようと、デモ行進や街頭演説を行った。 大阪維新の会の橋下徹代表(大阪市長)と松井一郎幹事長(大阪府知事)はJR天王寺駅周辺で演説。一方、都構想に反対する市民団体「民意の声」(浅野秀弥代表)などの呼びかけで約1000人(主催者発表)が大阪市のメインストリート、御堂筋をデモ行進。自民、民主、共産の市議らも姿を見せた。
  • 大阪市に11の「総合区」自民党市議団が都構想に対案 2015年3月28日 大阪市に11の「総合区」自民党市議団が都構想に対案 大阪市議会の自民党市議団は3月27日、4月12日投開票の市議選で訴える政策集をまとめた。主旨は、現在の24行政区のうち11区について、区長の権限が拡充される「総合区」に格上げするというもので、これを都構想の対案とする。総合区の設置は改正地方自治法で可能になった。総合区長は議会の承認を得て市長が任命する特別職で、大きな制度変更なく、区の予算権や人事権などが拡充される。 自民党市議団では、市中心部の北区か中央区、人口が20万人規模の東淀川区か平野区から各1区を選んで、2016年4月を目標に先行的に総合区とし、検証しながら5~10年かけて11区に増やす方針。24区の統廃合が前提ではなく、総合区を中心とする20万~30万人のエリアで産業振興などに取り組み、効率的な行政運営を目指す。 同市議団は、大阪市を廃止・再編する大阪都構想には、ごくわずかのメリットしかなく、それに引き換えケタ違いのデメリットと負担増が見込まれ、大阪の成長戦略は描けない–と反対の姿勢を示している。
  • がん「BNCT」で”狙い撃ち”次世代がん療法 高槻に拠点 2015年3月28日 がん「BNCT」で”狙い撃ち”次世代がん療法  高槻に拠点 大阪医科大は3月26日、次世代のがん治療法とされる放射線治療の一種「ホウ素中性子捕捉療法(BNCT)」の拠点施設を、大阪府高槻市の同大学構内に設置すると発表した。開院は4年後の予定で、西日本初の拠点として京都大や大阪大などと連携して治療を進める。BNCTでは、がん細胞に取り込まれやすいホウ素薬剤を患者に点滴後、患部に中性子線を30~50分照射する。ホウ素と中性子の核反応で出る放射線ががん細胞だけをたたく仕組み。 計画では中性子線を発生させる陽子加速器や治療室2室を整備。ホウ素薬剤は大阪府立大を中心に開発を進める。総工費約45億円で、年間で最大約1800人の治療を見込む。人体への影響が小さい中性子線を利用するため、他の治療法より患者への負担が少ない。治療対象は脳腫瘍、舌がん、喉頭がん、悪性の皮膚がんなどが想定されている。
大阪の成り立ち
大阪(浪速)の始まりは生駒と上町台地に挟まれた低地

大阪は古代、浪速(なにわ、難波)と呼ばれていました。大阪湾を浪速(なみはや)の海といったことから名付けられたとも、魚(な)の庭(にわ)がつづまってナニワになったともいわれていますが、この浪速の地に仁徳天皇の高津の宮が造られました。
「古事記」や「日本書紀」によると、九州から瀬戸内海を通って浪速の地にたどり着いた神武天皇が、初めて上陸した場所は平潟(ひらかた、現在の枚方)でした。当時の浪速は、淀川の押し流す土砂によってでき上がったデルタ地帯で、現在の大阪城のある上町台地の西側、つまり丘の下はもう海岸地帯で、磯波が朝日・夕陽に照り映えていたことでしょう。
一方、生駒山地と上町台地の間は沼沢地帯で、浪速湾を遡ってきた船は、平潟にたどり着きました、当時の船は砂浜に乗り上げる形で停泊したもので、白い砂浜の続く平潟が停泊地として最適でした。現在の交野(かたの)や四条畷(しじょうなわて)、あるいは対岸の高槻(たかつき)は、呼びかければその声が届くような近さにありました。
大和盆地の諸水を集めて流れ出た大和川は、現在では大阪市と堺市の境界を成して大阪湾へ流れ込んでいますが、これは江戸時代、元禄年間に付け替えられたもので、古墳時代は現在でいう中河内に、石川と一緒になって注いでいました。そのため生駒山地と上町台地に挟まれた低地は、全くの沼沢地であり、大小の池とそれをつなぐ川と、湿地とから成っていました。今日の大阪の人々の暮らしのすべては、ここから始まりました。

早くから開けた南河内、文化の発展拠点に

生駒山地と上町台地に挟まれた地域、大阪地方では低い丘陵の多い南河内が早くから開けて、古市(ふるいち)や国分(こくぶ)のあたりは、生駒山系の麓にある枚岡(ひらおか)や恩智(おんぢ)などとともに、古代人の居住地となっていました。織物技術や陶器づくりが真っ先に伝えられたのもこの付近で、仁徳天皇陵をはじめとする巨大古墳が南河内に残されています。
応神、仁徳といった大王がこの地に都を営んだのは、この浪速が大陸交通の発着点だったからで、人とモノの集まるところに繁栄があるという原則は古代でも同じでした。大陸や九州から新技術を身に付けた人たちが移住してきて、河内王朝といわれる繁栄を築き上げました。

都が大和に遷って、浪速は歴史の片隅に

繁栄した河内王朝も、都が大和(奈良)・飛鳥へ遷(うつ)ってしまうと、浪速は歴史の表舞台から消え、忘れられた存在になっていきます。わずかに654年、皇位に就いた孝徳天皇が一時都を置きましたが、この天皇は、645年「乙巳(いっし)の変」という軍事クーデターで中臣鎌足らとともに、一大勢力を誇った蘇我本宗家を打倒、「大化改新」を断行した当時の最高実力者、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と対立。難波宮(なにわのみや)に一人取り残され、失意のうちに崩御しています。以来、難波はまた歴史の片隅に追いやられてしまいます。
時代は少し相前後しますが、この時期、難波の地が歴史に顔を出すのは、聖徳太子の創建に関わるという四天王寺と住吉大社ぐらいで、ともに上町台地にあって、この地を代表する顔になっていました。

秀吉の大坂城築城で人・モノが大坂に集中

中世になると、浪速・難波は大坂となりました。室町時代の末ごろ、本願寺の八代法主・蓮如上人が大坂の石山(現在、大阪城があるあたり)に別院を創建、それを石山御堂と呼びました。京都山城の本願寺が焼亡して後は、石山本願寺がいよいよ栄えて、多くの信徒を集めました。
織田信長は、自分に楯つくこの石山御堂を攻め、遂に焼き払ってしまいます。しかし、この石山の地は関東と西国を結ぶ中継地として便利なため、信長の没後、豊臣秀吉は本格的な築城を行っています。これが大坂城で、築城当時は、現在の天王寺付近まで出丸が張り出していたようで、天下第一の大きな城だったといわれています。天下人・秀吉はここを居城とし、大小名が邸を構えたので、人とモノが大坂に集中しました。
この織豊時代は、おびただしい金銀がこの大坂に集められました。伏見桃山時代の文化というと豪華絢爛の形容詞が付きもので、太閤秀吉の施政を反映して華やいだものが喜ばれました。

徳川政権の下で復興へ 多くの町人が移転流入

栄華を誇った豊臣氏も1614~15年の大坂冬・夏の陣に敗れて、天下は名実ともに徳川家康の手中に帰します。天下の名城・大坂城が焼け落ち、この廃墟の大坂へ乗り込んできたのが家康の外孫に当たる松平忠明で、彼は領国となった大坂の復興に力を尽くしました。かつて大坂城の三ノ丸だったところを市街地として、これも関ヶ原の戦い以来すっかり衰微していた京都・伏見の町から、商人や職人を移転させて、伏見町をつくらせました。
寛永11年7月、三代将軍・徳川家光は、徳川の勢威を誇示するため30万の大軍を率いて上洛します。この時、家光は大坂の地子(じし、不動産税)を免税としました。そのため、多くの町人が町ぐるみで八十余町も大坂へ引っ越してきたといわれます。この人たちは京町堀(大阪市西区)などに住みつきました。

大坂の町を取り囲む人工運河が商品流通の交通路に

市中にあった大小の寺院や墓地が、小橋(おばせ)村(天王寺区内)、東西高津村(天王寺区内)および天満村(北区)に集められました。徳川幕府の意図ははっきりしていました。この寺と墓地は、もし誰かが大坂城を攻めてきたら、寺院を砦に、墓地を防御陣地に使う予定で、1カ所に集められたものでした。
京町堀川や江戸堀川といった運河が掘られたのもこの時のことでした。今も大阪のミナミの中心になっている道頓堀は、慶長17年(1612年)に河内久宝寺村(八尾市)の住人、安井道頓が一族の協力を得て開削したもので、未完成のうちに大坂冬の陣が起こったため、道頓は不運にも大坂方の一員として奮戦のうえ戦死を遂げてしまいます。
そこで道頓の死後、従弟の九兵衛道卜(くへえどうぼく)が、道頓の遺志を継いで工事を続行、元和元年にようやく完成しました。大坂の町をぐるりと取り囲む形で掘られた人工運河は、やがて諸国から持ち込まれてくる商品を運ぶ舟の交通路として重宝がられることになりました。

天満・北・南の大坂三郷に編成替え 有力町人が治世に参加

初め北組、南組、伏見区と三分割されていた行政区域が、やがて統合され、さらに天満区が加わって、天満、北、南の三組に編成替えされて大坂三郷と称されるようになりました。大坂三郷には総年寄(そうどしより)、町年寄(まちとしより)、月行事(つきぎょうじ)、五人組といった諸行があって、それぞれ有力町人が任命されました。
新しく総年寄となったのは昔、元締衆(もとじめしゅう)といっていた大地主たちで、西横堀を開いた木屋七郎右衛門、薩摩堀を掘った薩摩屋仁兵衛、立売(いたち)堀や長堀を開いた宍喰屋(ししくいや)次郎右衛門といった開発町人たち21人をもって構成されていたと伝えられています。

町人主導の大坂復興の情熱が開発のエネルギーに

三郷に惣会所があるように、町ごとに町会所、町年寄、町代(ちょうだい)が置かれていました。町会所の下部組織は各町内に置かれた五人組で、これは浪人者やキリシタンを取り締まるために置かれた連帯責任の組織でした。町人たちの間に盛り上がった大坂復興の情熱は、そのまま開発のエネルギーとなって、運河を掘ったり、淀川の下流にあった島や砂州をつないで、新開地をつくり出しました。豪商、淀屋古庵、鳥羽屋彦七などがこうした開発の先頭に立っていました。寛永元年に川口の砂州を基に四貫島や九条島をつくったのは香西せき雲でした。
元々、大坂は淀川のデルタ地帯に発達した都市で、絶えず淀川の押し流す土砂に災(わざわ)いされました。上流で大雨が降ると、土砂の詰まった川は氾濫を起こしやすい。そこで、淀川の治水工事が、大坂発展にとって最大の難関でした。貞享(じょうきょう)元年、幕府に命じられて河村瑞賢が淀川下流の治水工事にあたったのもこのためでした。こうして大坂は整備され、諸国よりやってきた荷舟が安治川(あじがわ)口に集まって、出船千艘、入船千艘といわれるような繁栄がもたらされたのです。

天保年間には大名の125の蔵屋敷が大坂に

江戸八百八町に対して、大坂八百八橋といわれるほど橋が多いのは掘割が多いためです。そして諸国から、この大坂へ米をはじめ様々な集まってきました。そのため、各大名は大坂に蔵屋敷を置きました。明暦年間に25藩だったものが、元禄年間では95、天保年間には125の蔵屋敷が大坂に設けられていました。
その多くは土佐堀川や堂島川の川筋に集中していました。というのは、舟から物産を運び込みやすいようになっていたからでしょう。

商人の役割が飛躍的に向上 蔵元を兼ねる両替商が豪商に

蔵屋敷には、留守居(るすい)役を長とする蔵役人が駐在して、産物の出納、管理に当たっていました。後になると、この出納も町人に任せるようになって、これを蔵元(くらもと)と称し、また売上代金を預けておく者を掛屋(かけや)と呼んでいました。この掛屋は両替商が引き受ける場合が多く、同時に蔵元を兼ねるようになりました。
大坂へ入る米は年間約400万俵、そのうち300万俵は蔵米で、残りは商人の扱う米でした。両替商の中でも鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)などは、広島、岡山、加賀(金沢)、徳島、柳川の各藩の掛屋を兼ねたうえ、尾州、紀州両家の御用達を引き受けて、合計1万石の扶持米をもらっていました。もうこうなると、ちょっとした大名並みで毎年、正月になると各藩の蔵屋敷から留守居役や役人が、鴻池家へあいさつにやってきました。それでも当主に会えず、番頭に会うのが関の山だったといいます。

淀屋、鴻池など名立たる数多くの豪商が誕生

こうしてこの大坂に、有名、無名を問わず数多くの町人=商人が生まれ、やがて名立たる豪商が誕生していきました。現在の大阪とゆかりの深い豪商を挙げると、江戸時代初期の大坂で、浪花商人を代表する第一人者といわれ、淀屋橋の地名にもその名を残す淀屋常安はじめ鴻池新六、伊藤忠兵衛(現在の伊藤忠商事と丸紅の前身をつくった人物)、下村彦右衛門(百貨店・大丸の始祖)、高島屋飯田新七(百貨店・高島屋の始祖)、五代友厚(大阪財界の父)、広瀬宰平(住友財閥の基礎固めをした人物)、小林一三(阪急・東宝グループの創業者)、野村徳七(野村證券の創始者)など枚挙にいとまがありません。

町人・商人文化の代表者 西鶴と近松

今日の大阪の気風を形づくり、象徴するものとして、どうしても忘れてはならないのが、周知のとおり、井原西鶴と近松門左衛門です。

大名家の財政立て直しに尽力した山片幡桃

このほか、優れた経営コンサルタントでもあった江戸時代有数の学者の一人として山片幡桃(やまがたばんとう)という人物を挙げておきたいところです。彼は升屋小右衛門といいましたが、大坂の豪商・升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじってペンネームとしたのです。彼は仙台の伊達家のコンサルタントを引き受け、財政再建に尽力しています。その後、尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩からも可能な限り、藩財政の立て直し依頼を引き受け、財政再建に努力しています。

関西経済100年
関西が輝いていた大正期

明治期から起算すると今年は145年、大正期からだと100年目にあたります。大正期は大阪を中心とする関西が経済や産業、文化の面で繁栄した時代でもありました。小林一三による阪急沿線沿いの郊外都市の建設はじめ、宝塚に歌劇場をつくり、少女歌劇を始めたのも、豊中に運動場をつくり、高校野球の前身となる全国中等学校野球大会を始めたのも、大正時代でした。

5大私鉄が開業「民都」大阪を体現

大正時代の大阪では、阪急のほかにも南海、阪神、京阪、近鉄の5大私鉄が開業していました。これらの私鉄は、梅田や難波、上本町、天満橋といったターミナルを、大阪や天王寺など国有鉄道の駅とは別の場所に構えていました。私鉄のターミナル自体が、国有鉄道の駅に付随してつくられた東京の私鉄とは異なる「民都」大阪の思想を体現していたのです

関東大震災後、東京を抜き日本一の大都市に

1923年(大正12年)の関東大震災で東京市の人口は激減。その2年後、大阪市の市域拡張が実現。その結果、44町村が大阪市に編入され、人口は133万人から211万人へと急増し、東京市を抜いて日本一、世界でも6番目の大都市となりました。
東日本大震災をきっかけに首都・東京への一極集中が改めて課題として浮かび上がりました。いま、やはり期待されるのは関西の、そして何よりも大阪の復権でしょう。
そこで、経済・産業・文化の面で、大阪を中心に関西が輝いた時期を年表にまとめてみました。対象時期は明治初年度にさかのぼり、大正そして昭和50年代初めまでのおよそ100年とし、地盤沈下が指摘され、大阪はじめ関西が輝きを失っていた平成の御代を含め、最近の30年ぐらいをあえて外しました。

【関西経済のエポック】
年表を見る前に、エポックメーキングなできごとや、それにまつわる人物・企業などについて、ダイジェストでまとめておきます。
「天下の台所」が、明治新政府の政策で繁栄の”火”消える

明治維新から現代に至るまでの関西経済の歴史は、地盤沈下とそこからの脱出の繰り返しだったといえるでしょう。江戸時代、大阪は諸国の大名の蔵屋敷が軒を連ね、「天下の台所」として繁栄を誇っていました。しかし、明治新政府が打ち出した銀目停止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散などの措置により、大阪経済を支えてきた多くの名立たる大商人は倒産に追い込まれたり、次々に没落、大阪経済は一時、火の消えたような状況になりました。明治期の大阪経済はまさにゼロ、いやマイナスからのスタートでした。

関西経済の礎を築いた五代友厚

東の渋沢栄一と並ぶ明治初期財界の指導者、五代友厚(ごだいともあつ)は関西経済発展の礎を築いた人物です。五代は常に国益あるいは公益を考えました。明治期の日本経済の発展段階は①明治20年ごろまでの第一次企業勃興②日清戦争後の投資ブーム③日露戦争後の重化学工業を中心とした拡大-に分けられます。明治20年から末期までのGNP(国民総生産)は名目で5.8倍(実質82%増)の成長を遂げました。急速な工業化が成長をリードしたことはいうまでもなく、同じ時期に鉱工業生産は名目で8.5倍(実質3.9倍)になっています。

公益を考えた初代大商会頭・五代

大阪でも明治20年ごろまでに各種の企業が誕生、その後、鉄道など公益事業や各種工業が起こり、商工業都市へと脱皮していきます。五代がその基礎を築いたといっていいでしょう。それほどに、同じ薩摩藩出身ということもあって五代が明治の元勲・大久保利通と親しかったことなどを背景に、関西で新しい会社を興こす場合、五代は必ず発起人に名を連ねていました。ただ、こうした際、既述の通り、常に公益を考えた五代の処し方は、渋沢とは違っていたようです。五代は明治18年、49歳の若さで他界しますが、巨万の富を残した渋沢とは対照的に、五代は100万円もの借財を残したといわれています。大商初代会頭・五代のこんな姿勢や精神が結果的に彼の愛する大阪の発展につながったといえるでしょう。

紡績業で日本をリード、昭和2年全国一の工業府県に

大阪経済は大正期から昭和初期にかけて、大きく復権を果たします。”煙の都”といわれたように、日本をリードする”先進工業地域”へ脱皮したのです。この推進役となったのが紡績業でした。例えば、大阪府下の紡績業は明治25年に、全国綿糸出来高の90%を占め、これをテコに大阪の工業は同27年に職工数で全国の12.8%、工業会社資本金で34.2%のシェアを持つまでに成長しました。
その後、造船、車両、電気機器、化学工業なども相次いで台頭、工業都市・大阪は急成長を遂げます。その結果、大正元年、2億7600万円だった大阪の工業生産額は、大正8年に13億4000万円、昭和4年に16億3000万円へと膨張。工場数も大正3年の6535工場から昭和2年には7291工場に増え、大阪府は工業生産額、工場数、職工数などで名実ともに全国一の工業府県となったのです。まさに、大阪が光り輝いた時期でした。

昭和7年 工業生産額全国一の座を東京市に明け渡す

ところが、戦時色が強まるにつれて、政府や軍の主導により重化学工業化が進められると、軽工業中心で中小企業の比重の高い関西経済は相対的に地盤低下していきます。
例えば昭和5年、近畿の製造業の生産所得は全国の35%を占め、関東の30.5%を凌いでいましたが、同15年になると近畿25.2%に対し、関東38.2%とその地位は逆転します。昭和6年まで工業生産額で全国一の地位を確保していた大阪市も、同7年に東京市に首位の座を明け渡してしまいます。

戦後しばらく関東と拮抗、昭和31年に10%差つけられる

戦後もそうでした。初めこそ関東と肩を並べていますが、やがて地盤沈下し、失地回復に悪戦苦闘を繰り返すのです。朝鮮動乱(1950~52年)ブームに沸いた昭和26年の近畿の製造業の生産所得は、全国の25.2%を占め、関東の28.1%とほぼ匹敵していました。が、関東がその後、地位を上昇させていったのに対し、近畿は逆に低下させ、5年後の昭和31年には近畿23.3%に対し、関東は33.8%と10ポイントも水を開けられてしまいます。

貿易港としての役割低下、総合商社 本社機能が東京へ

関西経済の地盤低下を反映して、神戸、大阪両港が貿易に占めるシェアも次第に低下、戦前の最盛期には全国輸出入の60%のシェアを誇っていた両港ですが、昭和30年には輸出で52%、輸入で34%まで落ち込みます。その後も年々その地位は下がり、昭和43年には通関実績で輸出が33%、輸入が18%を占めるに過ぎなくなってしまいました。その結果、鉄鋼、機械などカネヘンに業務の重点を移した関西育ちの総合商社は、本社機能を次々と大阪から東京へ移すという、大阪にとって不名誉な動きも派生しました。関西経済の苦難の時期が続きます。

地盤沈下は返上するも「近畿は二割経済」の言葉が定着

地盤沈下は、高度成長が始まった昭和37、38年ごろから徐々に収まり、それまで口を開けば話題となった地盤沈下論もようやく鳴りをひそめていきます。鉄鋼、石油、化学など重化学工業や家電、合繊などを中心とした新しい内需型産業が育ってきたからだといわれたのですが、こうした新しい産業の台頭も結局、関西経済の飛躍にはつながりませんでした。その後も、近畿の主要経済指標は、全国の2割前後に張り付いた状態が続き、「近畿は二割経済」というありがたくない、というより不名誉な言葉が定着していくことになりました。

大阪の町工場から世界的大企業に雄飛

地域経済としてみた関西経済の歴史は、地盤沈下との闘いの歴史でした。しかし、個々の企業についてみれば、地域を越えて大きく雄飛しているのは紛れもない事実です。大阪の下町の町工場から、世界的な大企業に発展した「松下電器産業」(現パナソニック)がその代表的な例です。地方の平炉メーカーに過ぎなかった住友金属工業、川崎製鉄は”後発”の不利をはね返して、堂々たる高炉メーカーにのし上がりました。

旺盛な企業家精神で百年の大計に果敢に挑戦

戦後の高度成長を支えた大手商社のうち、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、日綿実業、兼松江商はいずれも関西系企業です。阪急、阪神、南海、近鉄、京阪の5社は関西に私鉄王国を築きました。流通革命の旗手となったダイエー、ジャスコは、間違いなく関西の経済的土壌の中から生まれ育った企業です。また、サントリー、ワコール、京都セラミック(現京セラ)、デサント、アシックス、美津濃、ワールド、日清食品といった業界をリードする中堅企業も続々と育ちました。
明治、大正、昭和の三代を通じて、関西の経営者の中に一貫して流れてきたのは、パイオニア精神でした。日本の将来に鋭い先見性を持ち、高い理想を掲げて彼らは百年の大計に果敢に挑戦しました。